toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

点描ポーランドの風景/ワルシャワ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)(第二部)(2/2)

toxandoria2010-11-11



【プロローグ画像】「王宮広場、ショパンの生家」辺りの風景


王宮広場の遠望


・・・この画像はウイキメディアより


ショパンの生家(2010.7.20、撮影)





・・・ワルシャワから西へ50kmの小さな町、ジェラゾヴァ・ヴォラにフレデリック・ショパン(1810 -1849)が生まれた家があり、今は博物館となっている(上掲以外の生家の画像は下記◆を参照乞う)。


◆点描ポーランドの風景/ワルシャワ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)(第一部)(1/2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101103


聖ロフ教会(2010.7.20、撮影)











・・・この「ジェラゾヴァ・ヴォラから北へ約10kmのブロフフ村には、ショパンの両親が1806年に結婚式を挙げ、その4年後にショパンが洗礼を受けたといわれる、16世紀創建のゴシック・ルネサンス折衷様式の教会がある(一枚目の画像はhttp://www.polskiekrajobrazy.pl/Galerie/71:Mazowsze/3802:Brochow_kosciol_obronny.html、二枚目はウイキメディアより)


・・・全ヨーロッパの約3割のコウノトリポーランドに飛来して冬期を過ごすとされており、聖ロフ教会の近隣でもコウノトリの家族が数多く観察された。


【プロローグ動画】 Chopin -Valentina Igoshina - Nocturne in C Minor


【画像】ワルシャワの位置図



ワルシャワ史の概要)


ワルシャワを中心とする地域は、中世初期以降のポーランドの首都としての歴史は浅い。それはこの地域一帯がポーランドで最初の統一王朝とされるピヤスト朝時代(960‐1386)にもポーランド王国の外側に位置し、ビヤスト朝・傍系のマゾフシェ公の支配下にあったためだ。15世紀初めマゾフシェ公がここに居城を移してワルシャワはマゾフシェ公国の首都となった。


他方、ヤギエウォ朝の「ポーランドリトアニア連合王国(1386‐1572)」が成立すると、東西南北の交通の要所を占めるワルシャワの重要性が高まりマゾフシェ公国はしだいに「ポーランドリトアニア連合国王国」に吸収され、1526年にワルシャワもその一部となり、ジグムント3世の遷都で1611年にワルシャワは王国の首都となった。因みに、ワルシャワの位置を現在の移動距離(陸路)で測るとパリ〜モスクワ間(約2.4千キロ)のちょうど中間地点(各1200km)、ベルリン迄600kmになる。


17世紀はペストの大流行(1625)と、いわゆる「大洪水時代」(1648年のコサック反乱〜スウェーデンポーランド侵入〜ロシア・ポーランド戦争〜1667年の同戦争・終結までの長い動乱期)の戦乱と占領でワルシャワは荒廃し、人口も減少した。


この結果、しだいに商業・手工業が衰退し、もともとワルシャワの伝統であった大シュラフタ(マグナート)の邸宅都市としての性格が一層強まった。やがて、経済的な意味での都市活力の回復の兆しがみえ始めるのは、漸く18世紀の後半頃からで、商業、銀行業、手工業(織物・武器・馬車・皮革・醸造・陶器など)が活発となる。


小・中シュラフタらが流入し、萌芽的なブルジョアジー階層が見られるようになり、更に知識層が形成されるとともにワルシャワの人口が増え始めた。ポーランド分割(第一次・1772)の危機に直面してからは、ワルシャワなどの諸都市で啓蒙精神に基づく「国政改革運動」が興り、市民の政治意識が大いに高揚した(ポーランド分割・第二回(1793)の2年前に制定された1791年5月3日憲法など/下の注記を参照乞う)。


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<注記>ポーランド・リトアニア共和国5月3日憲法


・・・欧州で成立した初めての近代的「成文憲法」で1791年5月3日にセイムで貴族共和制における政治的欠点を取り除くこと、つまりシュラフタ層と中間ブルジョア市民層における平等主義の実現と対国王の授権規範(成文憲法)で民主的な立憲君主制を実現することを目的に採択された。この憲法は、中間市民層とシュラフタとを政治的に平等と定め、農民を政府の庇護下に位置づけて農奴制による農民負担の軽減を図った。また、議会におけるリベルム・ウェト(自由拒否権)も廃止された。


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ポーランド分割・第二次(1793)後の1794年には、クラクフで蜂起したコシチューシコ(ベラルーシシュラフタ出身の軍人)軍がワルシャワを支配したこともあり(プロイセン・ロシア連合軍に対するコシチューシコ蜂起が全国へ展開)、ワルシャワは最も急進的なポーランドジャコバン派の拠点となり、18世紀末のワルシャワは恰もフランス革命(1789)が飛火した観を呈した。


ポーランド分割・第三次(1795)後のプロイセン支配時代(1795‐1806)のワルシャワは一地方都市化して衰退したが、ナポレオン・ボナパルト支配下の「ワルシャワ公国」では、その首都 (1806‐15) として活気を取り戻した。更に、ナポレオン敗退後のロシア領ポーランド王国(1815‐1918/厳密には1815-30はウイーン体制下のポーランド立憲王国)の時代の約100年間は、その主都として飛躍的に発展する。


二度にわたる「対ロシア国民蜂起」(1830‐31年の11月蜂起、1863‐64年の1月蜂起)はいずれもワルシャワが主舞台となったが、都市としてのワルシャワの発展に致命的影響は与えなかった。1830年の「11月蜂起」前の15年間は経済的に特に活気に満ちた時期で、大劇場、ポーランド銀行など多くの記念碑的建造物が創建され、ワルシャワ大学もこの時代に創立された。


19世紀中葉には金属工業が興り、ワルシャワの産業は、更に鉄道の重要分岐点としての役割も加わり、再び活気を呈することになった。こうした力強い発展傾向は「一月蜂起」とその挫折によっても中断されることはなく、ワルシャワを中心とするポーランド産業革命はむしろ加速した。そして、「第一次世界大戦」前夜まで爆発的な人口増加が続き、市域の拡張も続いた。やがて、そのような動向の中から産業ブルジョアジーと労働者階級が誕生し、ワルシャワは1890年代頃から近代的な政党活動と社会主義運動の中心地となる。


他方、この頃からのワルシャワは、いわゆる「ポジティビズム運動」の中心地としてポーランド人の「シュラフタ的な中間層の思想生活」に大きな影響を与え、支配国側からのロシア化政策の圧力にもかかわらず、活発なポーランド語によるポーランド伝統の学芸、出版活動を維持して、国外の列強によって分割されたポーランド(民族と国家)の精神的首都の役割を担うようになった(下の注記を参照乞う)。


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<注記>ポーランド人の「シュラフタ的な中間層の思想生活」と19世紀後半の「ポジティビズム運動」について


シュラフタ的な中間層の思想生活」は、ポーランド伝統のシュラフタ民主主義に根差すブルジョアジー中間層の社会指導層としての規範的な精神(積極的な生活態度)のことを指す。また、「ポジティビズム運動」は、このシュラフタ民主主義に根差すと考えられ、19世紀後半〜20世紀初頭のポーランドで興った一種の社会改革運動のことを指す。


また、これは研究者らにより異なる見解も存在する問題ではあるが、その「ポジティビズム運動」は1980年代のポーランドワレサを指導者として拡がった、反「共産主義一党独裁政権」運動(覇権国ソ連影響下の自由な組合活動が認められていない中で成立)であった「連帯」(独立自主管理労働組合)の運動にも繋がるものがあるとされる。


なお、「シュラフタ的な中間層の思想生活」が現代ポーランドでも生かされているという論点についての詳細は、以下の『本論-1:戦略的に個人の名誉と誇りを守るポーランド型自由原理が現代日本へ問いかけるもの』で詳述する。


一般にポジティビズム(positivism)と言えば実証主義のことだが、19世紀半ば頃にポーランドで興ったポジティビズムは、それとは異なる。「一月蜂起」後のロシア領ポーランド王国で1870年代に起こった、この運動の命名は、運動を興した当事者たちが、自らの発言の正当性を実証主義哲学で根拠づけたところからくるものだ。


その運動は、ワルシャワ大学の卒業生を中心に展開されたが、彼らは日常的な生産労働や地道な社会問題の解決を軽視する旧世代のロマン主義的な考え方を批判することから始められた。彼ら若い世代の知識層は、<武装蜂起>こそが国家独立に至る最短距離だとする旧世代の考え方は却って弾圧と、それによる社会・経済の荒廃を招き結果的に「真のポーランド国家としての独立実現」と「ロシア植民地的な文化からの脱出」が遅れると考えた。


彼らは、日常的な生産労働と貯蓄に励み、生産・商業活動を実行することで一人ひとりのポーランド人が中間層(ブルジョアジー)になるべく努力すること、また貧困、反ユダヤ主義、売春などの深刻な社会問題を一つひとつ解決する現実的な地道な努力こそが、結果的にポーランド社会全体を富ませ健全化することになり、やがては真の独立の実現とポーランド伝統文化の復興に結びつくと主張した。このような考え方は、プラトンの「賢人(哲人)政治」に近いものであったと見なすことができるであろう。


やがて、このような「ポジティビズム運動」の<ある意味で非現実的な姿勢=高度な倫理政治的意識と現実生活主義の折衷>を批判する運動が新しく登場して、それは実際に庶民レベルでは実現が不可能だと批判された(<注>現実認識の振幅は視点の位置しだいなので、この批判問題は現代日本の混迷にも繋がる重要な論点)。例えばそれは、「プロレタリアート党」の結成に始まる社会主義運動と「ポーランド同盟」の結成による国粋的ナショナリズム運動であった。いずれせよ、これら諸運動の主な指導者がシュラフタ出身か、あるいはシュラフタ精神に影響を受けた知識人と中間層以上の人々であったことに注目すべきである。


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<注記>


◆『第一次世界大戦〜第二共和国誕生(ポーランド国家の復活)〜ナチス・ドイツ支配(第二次世界大戦)〜解放・ポーランド人民共和国ソ連支配下の時代)〜現代』については、他の記事および後述する『1−2 現代ポーランドにも生きる、戦略的に個人の名誉と誇りを守るシュラフタの伝統』と重複するので省略する。


◆なお、ナチス・ドイツ支配(第二次世界大戦)〜解放までのプロセスで起こった『ワルシャワ・ゲットー蜂起』と『ワルシャワ蜂起』の詳細については、下記の記事★を参照乞う。


★点描ポーランドの風景/ワルシャワ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)(第一部)(1/2)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101103


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今のワルシャワ北部にある「旧市街」(1611年のワルシャワ遷都より前に作られた歴史的市街地)と、その北隣りの「新市街」(1611年のワルシャワ遷都以後に作られた歴史的市街地)は、第二次世界大戦による大破壊の姿からワルシャワ市民の手によって壁のヒビ一本に至るまで忠実に再現されたものだ。なお、1596年に古都クラクフからワルシャワへ首都機能が移され、1611年からワルシャワポーランドの正式な首都となった。


この旧市街、新市街、クラクフ郊外通り、新世界通り、およびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含む「ワルシャワ歴史地区」は、1980年にユネスコ世界遺産に登録されている(この画像はウイキメディアより)。現在のワルシャワは人口170万人ほどの近代的都市であるが、旧市街については当時の街並みが再現されている。


【画像】ワルシャワの風景


旧市街の風景(2010.7.20、撮影)




・・・ワルシャワの中心部を流れるヴィスワ川の西岸にある直径500mほどのほぼ円形の市街地。


旧市街のシンボルとされるシレナ(人魚)像(2010.7.20、撮影)




・・・伝説では、ヴィスワ川に住む美しい歌声の人魚を村人らがとらえたが、一人の心優しい若者が彼女を川へ逃がしたところ、それ以来ワルシャワに希望の歌声が聴こえるようになったとされる。


バルバカン(2010.7.20、撮影)




・・・16世紀に造られた旧市街の西側を丸く囲む赤レンガの城壁で、当時は旧市街全体を囲んでいたが、第二次大戦で破壊され、戦後にその一部が復元されたもので約300mほどの長さがある。


ラジヴィウ宮殿(2010.7.20、撮影)



・・・王宮広場とワルシャワ大学のほぼ中間にある。元は大シュラフタ、ラジヴィウ家の館だったが、1765年に館の一部が劇場として開放されポーランドで初めてのオペラが上演され、ショパンもここで初めてのピアノ演奏会を開いたとされる。が、今はポーランド大統領の官邸となっている。


聖十字架教会(2010.7.20、撮影)









・・・16世紀に小さな木造の教会として建てられ、後に現在のようなるルネッサンス様式の建物になった。ショパンが1849年にパリで死去後、望郷の思いで残した遺言で彼の心臓がここに埋葬された。第二次大戦でドイツ軍に破壊され心臓も持ち去られたが、戦後再建され心臓はショパンの命日に教会へ戻った。


キュリー夫人生家(博物館)・・・この画像はhttp://moro-q.sakura.ne.jp/blog/2006/10/04_32.htmlより



・・・ノーベル賞を2度受賞したことでも知られるキュリー夫人は1867年に、ここで誕生している。今はキュリー夫人関係の博物館となっている。


旧王宮(2010.7.20、撮影)






・・・1596年にクラクフからワルシャワへ仮遷都した(正式には1611年〜)ジグムント3世が建てた初期バロック様式の建造物(イタリア建築家の設計)である。訪れたときは、ちょうどクラクフからやってきたレオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂を抱く貴婦人』の展示が行われていた。


・・・歴代ポーランド王の居城として使われてきたが、「ティルジットの和約」(1807)で「ワルシャワ公国」の君主となったザクセン王アウグストの支配下で建物が更に整備された。現在は王宮美術(博物)館(公式URL⇒http://www.zamek-krolewski.pl/)として使われている。


王宮広場のジグムント3世像(2010.7.20、撮影)



ワルシャワ大学


・・・この画像はウイキメディアより


・・・ロシア支配下の時代、1816年に改革派貴族ポトツキ、啓蒙思想家スタシツらの努力で王立大学として創立されたが、民族主義的な学生組織の中心となり「11月蜂起」(1830‐31)後に閉鎖された。


・・・1862年に「ワルシャワ中央学校」として再開され、いわゆる「ワルシャワ・ポジティビズム」の形成に重要な役割を演じて「ポジティビズム運動」の中心地となった。


・・・1869年には、ロシア化政策の一環として「ロシア帝国大学」に改組されるが、第1次大戦中の1915年にポーランドの大学として再開された。


・・・ポーランドが1918年に独立した後は、ポーランドの中心的な大学となる。ナチス・ドイツ占領期間中(1939‐45)は閉鎖されたが、非合法の教育活動を行った。



・・・第二次大戦戦後に再建され、1956年の非スターリン化運動に際しては学生新聞「ポ・プロストゥ(直言)」が急進派知識人の機関紙の役割を果たした。


・・・1968年のワルシャワ大学の学生デモが契機となって「三月事件」(対ソ連反体制運動)が起こり、政府側の弾圧措置(特にユダヤ系知識人への弾圧)を招いた。が、同大学の学生らは1980‐81年の「連帯」運動にも敏感な反応を示して学制改革に大きな役割を演じた。


・・・現在は、20学部・学生数約2万人の規模で、クラクフ大学とポーランドで1、2位の水準を競うヨーロッパで屈指の大学となっている。


ヴィラヌフ宮殿・・・この画像はウイキメディアより



・・・オスマン帝国軍にウイーンが包囲されたときにポーランド軍を率いて敵を打ち破ったことで知られるヤン・ソビエスキ3世(位1674−96)が建てた夏の離宮で、ヴェルサイユ宮殿を模したバロック建築である。


・・・また、ヤン・ソビエスキ3世は近隣諸国の侵略に伴う大内戦状態の「大洪水」(詳細、後述)で荒廃した「ポーランド・リトアニア共和国」の立て直しに22年の治世を捧げた王としても名高く、その治世は没落期の共和国にとり最後の輝かしい時代となった。


ワジェンキ(水上の)公園辺りの風景(2010.7.20、撮影)








・・・1764年に即位したポーランド最後の王、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(位1764−1795)が約30年の時間をかけて造園した公園で、このなかにワジェンキ(水上の)宮殿がある。


ワルシャワの風景、ア・ラ・カルト(2010.7.20、撮影)




































(本 論)


1 戦略的に個人の名誉と誇りを守るポーランド型自由原理が現代日本へ問いかけるもの


1−1 ポーランドの歴史から一貫して教えられること


ポーランドの歴史から一貫して教えられるのは、個人と、その対極にある国家との非常に過酷な緊張関係が存在してきたということである。言い換えれば、それは「私」と「公」との間の<歴史時間的スパンの苛烈な鬩ぎ合いの継続>がポーランド史の特徴であるということだ。


20世紀において「ポーランド国家」が成立していたのは僅か33年間(両大戦間期21年、1989年以降11年)のみで、同じく19世紀は驚くなかれ同0年(その全てが外国列強の占領による三分割期)、18世紀は同71年間(1772年の一次分割以前)だけである。


つまり大国であった「ポーランドリトアニア連合王国(1385〜1569)〜同連合共和国(1569〜1771(95)/両者とも多言語・多民族共存時代)」を除くポーランド人の歴史では、<個人>と<国家>の立場(関係)が殆ど<国家⇔国民>という形で一致しないことが多く、両者の関係では常に厳しい意識的選択が求められ続けてきたことになる。


このため、それ故にこそ、ポーランド人の歴史においては「統一権力の象徴である国家」と「戦略的に個人の名誉と誇りを守るという意味での自由意志」が<全く対等な関係>を持続できたということにもなり、このことは世界史的に見ても、欧州史としても、稀だというより非常にユニークである。


より厳密に言えば、それは、国家が消滅すること自体は歴史的に珍しいことではないが、<ポーランドとしての一定の国家観念を共有する個の集団=シュラフタ層の人々>が、その何度も消え去った<先進民主主義を実現した理想の祖国>を長大な歴史時間の中で同時観念的にシッカリ持続させ、しかも最終的に見事にそれを<現実の民主主義国家として>復活させたというユニークさである。


その歴史的に長大な時間のなかで、<ポーランドとしての一定の国家観念を共有する個の集団=シュラフタ層の人々>に強靭な持続力を与えたのは、他でもないポーランドに特有な「戦略的に個人の名誉と誇りを守りとおすという意味での自由の尊重=ポーランド型自由原理」の意志であった。


そして、このポーランドに特有な「戦略的に個人の名誉と誇りを守るという意味での自由意志=ポーランド型自由原理」の現実的な制度化の第一歩が1652年のセイム議会で成立した「リベルム・ウェト(自由拒否権)」であった。それ故に、これ以降のセイムでは一人の議員が反対すれば、審議自体が停止することとなったのである。


一般的な意味では、この「リベルム・ウェト」が、それ以降のセイムを機能不全に陥らせ、それがポーランド国家の存亡を左右したという現実も全く否定はできないかも知れぬ。しかし、この完全合意の国家運営が当時の不安定な多民族国家の崩壊を防いだという事実も見逃すことはできない。しかも、この「自由拒否権」は、現代の国連安全保障理事会における常任理事国の拒否権として生かされている民主主義の一つの知恵のあり方でもある。


なお、米国の公共経済学者ジェームズ・M・ブキャナン(新自由主義の立場から小さな政府を提唱)は、この「自由拒否権」が象徴する非常に慎重きわまりない民主主義の伝統を踏襲するポーランドの議会制民主主義(当然、それは最終的に『大きな政府』と釣り合うはず←ブキャナンの指摘)は、必然的に民主主義の赤字を大きくして非効率なので、同じ<自由原理>でも、それは現代アメリカのリバタリアニズム的自由原理とは異質で、後者の自由原理の方が正解だとシュラフタ民主主義を批判している。


ところで、既に触れたことだが、やがてプロイセンオーストリア・ロシアの3国による第一次ポーランド分割(1772)が行われた後の1791年(第二次分割は1793年)に、“ヨーロッパで最初の成文憲法”とされる「5月3日憲法」が制定され、そこで多数決制が導入されたため、この「自由拒否権」は廃止された。


そして、この「1791年5月3日憲法」こそがポーランドに特有な「戦略的に個人の名誉と誇りを守るという意味での自由意志=ポーランド型の自由原理」の現実的制度化の第二歩であった、といえるはずだ。しかも、この欧州初の憲法であるポーランド5月3日憲法」は仏革命(1789)と啓蒙思想の影響を受けて国王とマグナート・シュラフタ(大貴族)の権利制限(上位権力に対する授権規範性)、資産制限はあるものの氏素性(生まれ)に依らぬ参政権、国権最高機関としての国会、地方主権国民主権などを定めた非常に先進的かつ画期的なものであった。


しかしながら、現代における理想の民主主義を先取りしたともいえる「1791年5月3日憲法」が誕生して「ポーランドリトアニア連合共和国」が本格的な立憲君主制への改革に乗り出した僅か2年後の1793年1月23日に、プロイセンとロシアによる「第二次ポーランド分割」が行われたのであった。


この列強諸国による二度目の蛮行にもかかわらず、戦略的に個人の名誉と誇りを守る<ポーランド型自由原理>を強烈に意識したシュラフタ層を中心とするポーランド・エリートらによる国家の独立回復と本格的な民主主義政権を樹立しようとする意志は高まるばかりで、1794年には愛国者コシチュシュコのクラクフ蜂起(対プロイセン・ロシア連合軍)が起こったのである。


1−2 現代ポーランドにも生きる、戦略的に個人の名誉と誇りを守るシュラフタの伝統


ポーランドシュラフタは欧州諸国の貴族制とは似て非なる身分制である。そのシュラフタには「マグナート・シュラフタと「と呼ばれる土地等の大資産を所有する階層から「裸のシュラフタ」と呼ばれる殆ど無資産で農業に直接従事するシュラフタまで、その資産規模については多様なヴァリエーションがあり、大シュラフタたる「マグナート」が西欧諸国の貴族にほぼ匹敵するとされる。


シュラフタ身分の最大の特徴は、カジミエシュ3世(位1333〜70)による国内統一が終わる14世紀中頃から始まるセイム(ポーランド伝統の身分制議会)で一人一票の全く平等な投票権を資産の有無を問わずに持つ(資産格差があるにも拘わらず大〜小シュラフタの間で平等な権利の共有意識が存在した)という点だ。無論、一気に現代民主主義並みに「普通選挙権(庶民層も含めて資産・収入の大小、性別、年齢等の制限を解除する)」の実現と迄はゆかず先ずシュラフタ層内での一人一票であり、「1791年5月3日憲法」でも未だに<有産ブルジョアジー>止まりの一人一票ではあったが・・・。


ともかくも、ポーランドの国内統一が成る14世紀中頃から始まった、このセイムにおいて全シュラフタが直接選挙で国王を選ぶ「自由国王選挙制度」が、“ヤギエウオ朝で男系が断絶しヴァロワ家のヘンリク・ヴァレズィ(後のフランス王アンリ3世)が異国のフランス貴族の中から選ばれた1573年(実に英国清教徒革命の69年前!)に始まった”という、その歴史的に非常にユニークで先進的な事実に先ず注目すべきなのだ。


つまり、真に驚くべきことだが、これは、英国の「権利の章典(1688)」より100年以上前の16世紀末のポーランドで「権利の章典」に匹敵する「立法・行政・司法および課税」と「軍の規模決定と開戦手続」の議会承認制(後者は軍罰法と呼ぶ)という<王権に対する現代の民主憲法的意味での授権規範>が既に制度化されていたことを意味するからだ。


のみならず、更にヘンリク・ヴァレズィ王と議会の間では「ヘンリク条項」と呼ばれる“普遍的”という意味で真に“現代憲法的な協約”が結ばれ「信教自由の原則、国王に対するシュラフタと貴族(マグナート・シュラフタ)の抵抗権」などが明文化され、いわゆる「シュラフタ民主主義」の基本が、既にこの時点で確立していたのである。


しかし、かくの如く先進的でユニークな「シュラフタ民主主義」も1795年の「第三次ポーランド分割」で完全消滅したかに見える。従って、三度におよぶ<ポーランド分割なる列強諸国による国際犯罪>の目的が、この<非常に先進的な民主主義を潰すこと>にあったとする歴史解釈(考え方)も一概には否定できないことになる。


しかも、第一次世界大戦が終わり成立した「第二共和国憲法」(1918/国家元首:ユゼフ・ピウスツキ)下でポーランドが復活するとともに<シュラフタ身分制>は同憲法で完全廃止されたにも拘わらず、その完全消滅から200年以上の時間を経た現代ポーランドの各重要エポック(共産党独裁から自由主義への体制転換、EU加盟などのとき/詳しくは下の<注記>を参照乞う)に<ポーランド社会の指導的精神文化>として立派に復活していたのであった。それは具体的にどのようなことを意味するのか?


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<注記>現代ポーランドにおける重要エポックの概観


・・・「社会主義体制崩壊→円卓会議→自由選挙実施→共産党独裁政権崩壊→非共産党政権誕生→急激自由化政策と財政改革(格差拡大)→中道左派へ回帰(社会的弱者への配慮)→中道政権へ回帰→EU加盟と現代民主主義確立→現在に続く欧州でトップクラスの経済成長を確保」の各重要エポックで機能したものこそが“現代的意味” で国民主権へ十分に配慮したシュラフタ民主主義の伝統だ。別に言えば、それは一部特権階層の民主主義であったシュラフタ民主主義そのものが観念同時レベルで今も進化しつつあるということだ(ポーランドの欧州におけるトップクラスの経済成長等の実績については右を参照⇒★点描ポーランドの風景/ポズナン編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/201)。


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たしかに、シュラフタ身分制は1918年の「第二共和制ポーランド国家の復活」とともに憲法上で完全廃止された。しかし、ポーランド国家が全く消え去った約100年間とされる19世紀を挟む前後にほぼ重なる18世紀後半〜20世紀初頭にかけてのポーランド人社会(国家としての形は殆ど存在しなかった時代)において、実は、シュラフタ層からその他の多様な職業層へ向かう人的遷移を伴う社会階層の変質(社会的地位⇒社会階層への再編成)が起こっていたのである。我われは、この事実と併せて、シュラフタ層の全ポーランド語人口に占める比率が10〜12%ほどの可也の大きさであることも想起しなければならない(下図◆を参照乞う)


【画像】◆田口雅弘:19世紀ポーランドにおける社会階層の成立、http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/kansai/tag2002.htmより『図1』を転載



つまり、国家が消滅していた19世紀を挟む約100〜150年間のポーランド人社会では、それ以前のポーランド国家における事実上の指導層(しかも欧州で最も先進的な民主主義意識に基づく議会制民主主義を実現していた)であるシュラフタたちが大土地所有者、政治家、キャリア官僚、企業家、自由業、知識人、都市ブルジョアジー、手工業者、工業労働者、農場経営者、自作農、農業労働者など、ありと凡ゆる現代的な職業・社会階層へ遷移していたのである。


因みに、16〜18世紀頃のシュラフタ層が全ポーランド人口に占める割合は、「ポーランドリトアニア連合王国(1385〜1569/多言語共存の時代)〜「同連合共和国(1569〜1795/同前)」で7%程度、これをポーランド語人口に限れば、10〜12%程度になるという推計が一般的である。対使用言語人口比で10%程度は決して小さな数字ではない。例えば、ほぼ同時代のフランス貴族の対全人口比が2〜3%程度であることからすれば全ポーランドに対するシュラフタの役割と影響力はかなり大きなものであることが理解できる。


そのシュラフタの伝統は、例えば、「ポーランド社会主義政策」が行き詰った時に政府と反体制勢力らの関係打開の対話の場として約2ヶ月にわたり実施された「円卓会議」で、ポーランドが実質的に「共産党一党独裁から新たな二院制議会と大統領制へ向かう移行期」において、そして「自由主義経済へ移行する転換プロセス」で、あるいは又「EU(欧州連合)への加盟プロセス」などの肝要なエポックの場面で隠然たるリーダーシップを発揮して、幾度となく緊急事態を凌いだのであった。


また、少し歴史を遡れば、18世紀後半に支配層身分であったシュラフタの中で「ポーランド国民」の自覚と意志(一種のナショナリズム)が強化されたときのことだが、「第一次ポーランド分割」(1772)の直後に「国民教育委員会」が創設され、意識的に<ポーランド語を教育言語とする学校改革>が行われるようになったことは余り日本では知られていない。この動きは寛容文化政策を採ったハプスブルクオーストリア支配下クラクフから始まりワルシャワ(ここでは主に地下活動化したが)まで拡がっている。


そして、ドイツ語やロシア語を押しつけたプロイセン・ドイツやロシアが領有した地域では、ポーランド語教育の学校が密かに地下活動として実行されたことが知られている。ただ、オーストリアが領有したクラクフが中心のポーランド南西部では言語・文化について寛容政策が採られたためポーランド語による教育とポーランド伝統文化がウイーン(ハプスブルク)文化と融合してむしろ深化・成熟した。そして、この成熟したクラクフ文化がポーランド文化の近世と現代を結ぶ中継地点となったことも記憶に留めるべきである(関連で下記★を参照乞う/画像はクラクフ・チャルトリスキ美術館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチ『白貂(てん)を抱く貴婦人』)


★点描ポーランドの風景/クラクフ編(1)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100731
★点描ポーランドの風景/クラクフ編(2)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100803
★点描ポーランドの風景/クラクフ編(3)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100806
★点描ポーランドの風景/クラクフ編(Appendix)、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100811


また、このようにポーランド文化を保守する動きには、国家づくりの主柱(国民主権地方分権、弱者救済)を支える必須条件として<教育・文化の最重視>を勧めたフランスの啓蒙思想家J.J.ルソーの影響もあったとされる。ともかくも、シュラフタら指導層の人々が、たとえ国家が消えてもポーランド語を教育言語とする学校教育が続く限りポーランド国家は必ず復活可能だという信念を観念同時的に共有していたことは間違いがない。その意味でシュラフタ民主主義の伝統はポーランド文化を継承する強い意志と誇りの共有の賜物であったということができる。


1−3 ドイツとポーランドにおける『公』と『私』のあり方の共通点


ところで、「戦略的に個人の名誉と誇りを守るポーランド型自由原理が現代へ問いかけるもの」の冒頭で述べた「公」と「私」の相克の問題は(無論、それはポーランドとは別の意味でのことなのだが…)ドイツにも存在する。そして、それは大戦後のドイツが、歴史的に連続するドイツ国家たる『公』の立場に立ちつつ、非人道的なホロコーストなどのナチスによる犯罪を個々のドイツ国民へ夫々の分に応じて配分した責任範囲で処罰したことを意味する。


なぜなら、歴史的に連続するドイツ国家(公)の司法(具体的にはワイマール憲法下のドイツ国家の司法)がナチス犯罪を理由に「公」たるドイツ自身(オールドイツ、つまりドイツの全国民)を有罪・極刑で裁くことは出来ないからだ。それ故に自殺者以外の生存ナチス幹部やナチス党、SS隊、軍等の要職にあった個人は国家権力を不法行使した無法分子として、純然たる「私」(犯罪を犯した個々のドイツ国民)の資格で「公」(ワイマール共和国(民主)憲法下におけるドイツ国家の司法)によって徹底処罰されたのだ。



このような意味で、契機となった歴史次元がドイツとポーランドでは全く異なるものの、両国にはかくの如く厳しく苛烈なまでに「公」と「私」を峻別しつつ、<国家>と主権者たる<国民>のあり方について理解するという次元での共通点(=先ず、ドイツとポーランドで夫々の全国民が共通観念共有するという前提)があるからこそ、両国間で「持続的歴史教科書対話」(参照⇒http://www.polinfojp.com/kansai/pdrcznk.htmなどの良好な外交関係が復活できたという現実があるのだ。


言い換えれば、その原因と結果が全く異なるものとはいいながら、ドイツでもポーランドと同様に(特に第二次世界大戦ナチス犯罪の処罰問題についてだが)非常に苛烈な「公」と「私」の相克が存在したのである。これこそがドイツとポーランドにおける「過去の克服」の大きな特徴である。翻れば、我が日本において、連続する国家意志(「公」、より厳密に言えば民主主義を志向するという日本国家の意識)が示す<責任ある意志>としての戦争犯罪処罰がなされていないことが、「私」たる日本国民一人ひとりの<戦争犯罪違法意識の薄弱さ>という現況を齎してしまったといっても過言ではない。


このため、例えば、今回の米中間選挙で「共和党」躍進のブースターとなった<ティーパーティー運動(∞→ポピュリズム・無政府型自由原理主義)>と<オバマリベラリズム(∞→欧州型社会民主主義)>のいずれが“より世界戦争へ接近するものであるか”を理解できる主要メディアと日本国民が僅少という現代日本の恐るべきほど悲惨な現実が生まれている。


2 未だに「公と私の相克」が不在ゆえに米型・ポーランド型、二つの自由原理の違いが理解できぬ日本の悲惨


あのアレクシス・ド・トクヴィル(1805-1859/仏の政治思想家)が冷静に観察し、その危機的未来を予見したとおり米国は徹底した自由原理主義の国であり、特に、ここ約10年来の「第一次小泉政権」以降の(厳密に言えば、昭和57年(1982)の「第一次中曽根政権」以降の)日本が、大きく米国型の自由原理主義リバタリアニズムに基づく市場原理主義)へ舵を切ってきたことは周知のとおりだ。



そして、米国は本質的にリベラリズムよりは自然的リバタリアニズム個人主義無政府主義に限りなく近い『小さな政府』志向)へ限りなく近づきつつある。そして、そのことは今回の米中間選挙オバマに一撃を喰らわせたティーパーティー旋風が見事に象徴している。因みに、自然的リバタリアニズムの基底には<自我・権力・資本の三原理が渾然一体化して暴走する一種のカルト的酩酊感の如き病理>が潜在するようだ。それは、本質的な意味で常にアメリカが主戦・好戦国家であり続けることの証左でもある。


2009年1月に就任したオバマ大統領の“チェンジ”(リベラリズム)が今回の中間選挙で“ティーパーティー旋風”に敗北したということは、見方しだいではあろうが、このような意味でのアメリカの本質である自然的リバタリアニズムへ重心が傾いたことを意味する。そして、この先のアメリカが更にどの方向へ向かうのか、それがどれだけの振幅と度重なる揺り戻しで蛇行し続けるかは未知数である。ただ、少なくともいえるのは、金融市場原理主義に関わる革命的なほどドラスティックな動き等(米国・日本らがポーランド型自由原理に気づくかどうか?他・・・)が大きな方向性を決めることになるだろう、ということだ。


また、一つ考えられるのは、リバタリアニズムのなかから、「仕掛型戦争の拡大、没落中間層の更なる拡大、貧富差と弱者層の更なる拡大」などの非常に多大な人的犠牲と大いなる人的能力の無駄(人的・人材的資源の浪費)という大迂回路を経由した挙げくにして、漸く「必要悪」としての政府の最低限の介入を認める「最小国家主義」(右派リバタリアニズムの一種)か、あるいは「ポーランド型自由原理」を(再)発見することになるのではないか、ということだ。


ここで、我われはポーランド分割時代の19世紀末〜20世紀初頭のポーランド人社会のエリート層で興った、あの「ポジティビズム(positivism)」を想起すべきかも知れない。


これは、まさにプラトン流の「賢人(哲人)政治」を連想させるものであったが、既に見たとおり、この考え方の背景にあるのは「シュラフタ民主主義の伝統」であり、更にその根底には<ポーランド人の歴史においては「統一権力の象徴である国家」と「戦略的に個人の名誉と誇りを守るという意味での自由意志」が全く対等な関係を持続してきたという苛烈な現実がある>ということであった。


また、このプラトン流「賢人(哲人)政治」(≒シュラフタ民主主義)が西欧の社会民主主義を基盤とする<社会下の経済の考え方>に近いものである(というより、西欧の政治文化はヨーロッパの心臓たるポーランドから無意識のうちに、かなり豊富な養分を吸い取ってきたともいえる)ことは論ずるまでもないであろう。


別にいえば、これは「私」と「公」との間の<歴史時間的スパンの苛烈な鬩ぎ合い>がポーランド史の特徴であるということでもあった。そして、その「私」と「公」との間の<歴史時間的スパンの苛烈な鬩ぎ合い>こそが、その歴史的に長大な時間のなかで、一定の<個の集団=シュラフタ層(中間層・賢人層・エリート層・開明層・倫理意識層)の人々>に対して「理想の民主主義国家を復活・持続させようとする持続的で強靭な意志=シュラフタ型のノブレス・オブリージュ意識」を与えたのであった。


ところで、今回の中間選挙オバマ大統領に痛烈な一撃を与えたのは“ティーパーティ”であるが、その名の起こりである「ボストン茶会事件」(1773)は、そもそも当時の宗主国・英国が長期化した米植民地戦争の過重な戦費負担を米植民地側住民へ輸入関税の形で押しつけたことへの抵抗であり、ここにも形を変えた「公」(宗主国)と「私」(米植民地住民)の間の苛烈な相克が存在したのだ。


無論、その後の米国史と経済社会の流れはリバタリアニズムアイン・ランドの客観主義哲学などに毒されつつポピュリズム衆愚政治)への道を辿ってきた訳だが、漸く、ティーパーティーがオバマのチェンジを現実的に否定した挙げくに、しかも今後予想される多大な人的犠牲と壮大な人的・人材的浪費という迂遠な道を経由して、漸く、<ポーランド型自由原理>の意味が分りかける方向へ向くかも知れぬという微妙な歴史へ踏む込みつつあるかに見える。


然るに、我が日本では、このような意味での「賢人(哲人)政治」方向への中枢を担うべきエリート層の代表たる主要な記者クラブ・メディアは相も変わらず「小沢の政治とカネ」という実効権力側がでっち上げた虚構のプロパガンダ的ニュースバリューの追っかけに終始し、肝心の菅民主党政権は、尖閣ビデオ問題の“あたふた”とTPPを初めとする米型自由原理主義の外圧に煽られるばかりで日本の未来を先導する経済的・人材的パワーを根こそぎ浪費し尽くした<憔悴・腎虚のブザマ政権>と化しつつある。


また、本来であれば、民主主義国家・日本における三権分立の一角で「公」と「私」の相克の公正なる審判者となるべき「司法」(法務省・裁判所・検察)が「司法権力」自身の余りにも阿漕で狡猾な<人間的欲望にかかわる諸問題(証拠改竄、検察&裁判所裏ガネ問題など)>で<大信用崩壊のリーマン型ショック状態>の蟻地獄に嵌りつつある。


<関連参考ツイッター情報>


hanachancause 2010.11.09 23:23
検事総長←これこそ仕分けしたら? 税金で「麻布に800坪の大豪邸」暮らし『週刊現代、11/20号』


hanachancause 2010.11.09 23:17
hatatomoko続き 事務次官18人・外局長官級34人計52人。検察庁の同額年収は59+82=141人、裁判所185+251=436人。各府省8.3%、検察庁22.4%、裁判所69.3%。各府省局長61人の年収は約1,900万で同額年収は検察庁166人、裁判所290人。ここまで高給の必要なし。


hanachancause 2010.11.09 23:19
司法が法律違反? RT @penate3: @leonardo1498 @yurikalin @cinamochan @rolling_bean @hanachancause @hanayuu みんな1800万円の上限以上だ。


hanachancause 2010.11.09 23:18
RT @yurikalin: 国民から財産と人生を搾取する為だけの巨悪組織!国民を食い物にする敵!怒RT @leonardo1498司法官僚は高級官僚の巣窟cinamochan@rolling_bean@hana@hanayuu' target='_blank'>http://bit.ly/cKka53@cinamochan@rolling_bean@hana@hanayuu


hanachancause 2010.11.09 23:16
RT @leonardo1498: 1200人が「小沢復活コール」のデモ、日刊ゲンダイ http://t.co/IgRmDrA :@niftynews @yurikalin @cinamochan @rolling_bean @hanachancause @hanayuu


hanachancause 2010.11.09 23:15
驚愕の現実! RT @leonardo1498: 司法官僚は高級官僚の巣窟。事務次官級長官級年収2,100万以上577人。国民の税金で冤罪作yurikalin@cinamochan@rolling_bean@hana' target='_blank'>http://bit.ly/cKka53@yurikalin@cinamochan@rolling_bean@hana @hanayuu


hanachancause 2010.11.09 18:49
leonardo1498高級官僚の巣窟。@hatatomoko:ポスト・現代、検察官高給記事。事務次官級年収約2,300万の検事正・高検次席等59人、外局の長官級年収約2,100万の最高検検事・検事正等82人。裁判所は、次官級の判事185人、外局長官級の判事251人。裁判所と検察庁霞が関最高権力者


これら由々しき諸問題の根本は<日本社会にポーランド型ないしはドイツ型という意味での「公と私の厳しい相克」の観念が欠落している>ことにあると考えることができよう。すでに見たとおり、ドイツ・ポーランドの両国には歴史時間的な意味での次元の違いはあっても、ポーランド・ドイツのいずれもが自らの国の歴史のなかで「公と私の関係について苛烈なまで思考を深めた結果として、自らの国家の存亡を自律的に決定してきた>という本物の<国家経営パワーの伝統>を持っている。


ところで、このまま筆を置けば観念的話題に終始したことになるので、共産党一党独裁体制が崩壊して自由化した後の<ポーランド経済の現況>に少しだけ触れておく(以下は下記◆で書いた内容からの一部転載である)


◆日本が学ぶべき、解放&EU加盟で“貧農国・欧州の片田舎”の偏見を払拭した現代ポーランド人の冷静な歴史観国民主権意識、少数意見尊重(解放後、一貫して好調な現代ポーランド経済の核心にあるモノとは何か?)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100901


毎年6月上旬にポズナンで開催される国際産業見本市(Innovations-Technologies-Machines ITM Poland)は、2004年のEU加盟以降、その開催規模が年々拡大している。そして、このことは近年におけるポーランド経済の好調と無関係ではない。


つまり、1990年の解放(共産主義から自由主義経済へ体制転換する)以前に民間企業がポーランドGDPに占める割合は僅か7%で残りの93%は国有企業であったが、それから約20年を経て、今漸くその民間比率が70%程度に達したところだ(情報源、http://www.jetro.go.jp/jfile/report/05000492/05000492_002_BUP_0.pdf)。


これは東欧諸国のなかで最も遅い達成率であるが、その間、シュラフタ民主主義の伝統たる少数意見を尊重するコンセンサス重視型のポーランドの政治状況は外部から観察する限りでは一進一退で殆ど停滞し続けているように見えた。


にもかかわらず、世界不況に見舞われた2009年の経済成長率1.2%は、ポーランド欧州連合EU)の中で唯一成長を達成した国であることを明確に示し、同国の1人当たりGDP国内総生産)も2009年の「EU平均の50%相当額」から56%レベルへ拡大しており、これは過去最高の伸びとなった。


経済協力開発機構OECD)の発表でも、経済成長率は大方の予想をはるかに上回る1.8%と判明し、ポーランドは2009年の欧州連合EU) 加盟国でプラス成長率を達成した唯一の国となった。OECD加盟国でポーランドの他にプラス成長を達成したのは韓国 (0.2%)とオーストラリア(1.3%)の2カ国のみで、2009年のポーランドOECD加盟国の中で最高の成長率を見せた。


また、ポーランド国立銀行中央銀行)は、世界金融危機リーマンショック)前の非常に早い時期(2001年頃)において既に深刻なバブル崩壊(世界的金融パニック)の到来を察知・予想しており、既にその頃からポーランド国立銀行市中銀行に対し様々な貸し出し規制策を導入してきたことが知られている。


更に、物価下落から生じる購買力拡大を調整した1人当たりGDPで見ても、今のポーランドは欧州で6番目に大きな経済規模を誇る国となっている。そのうえ、ポーランド経済の明るい要素として、もう一つ挙げておくならば、それは国民の間で起業(ベンチャー)精神が旺盛になっており、それが益々活発化していること、そしてベンチャー企業に対する国の支援体制が非常に充実していることだ。


実は、このように凡そ解放後20年目にあたる今のポーランド経済が好調であることの深奥には、大方の“悲観的な予想”に反した「ポーランド農業問題の好転」という事実があるのを見逃すべきではないだろう。


我々は、旧共産党政権時代の、あるいは第二共和国時代(20世紀初頭)の、あるいは更に遡りポーランド分割時代(18〜19世紀頃)の“貧農国・欧州の片田舎ポーランド”というドグマを今や払拭すべきなのだ(この類のドグマに囚われた“最も悲観的予想”の実例には下記★がある)。


★森本暢:ポーランドの農業問題/EU加盟に向けての課題、http://www.polinfojp.com/kansai/moriki1.htm


現代の日本人の多くは、“理念追求と客観性の保全”そして“本来の責務である相互批判・検証の義務”まで放棄して“サルのマスタベーション(エンドレスの自画自賛マッチポンプ常習犯)”状態と化した主要テレビ・新聞等の“ヤラセ型マスゴミ”に日々に洗脳され、悪意に満ちた“プロパガンダ放射能”で日々に脳ミソが被爆し続けている。そして、日本における「国民の一般意志」はポーランドと対照的にひたすら流動化し、多次元感覚が劣化(衆愚化・ミクロ化・平準化=地べたを這うアリの如く、その視覚は二次元化)するばかりである。


かくの如く、今や東アジア辺境(極東)の“閉鎖的で貧相な片田舎”と化しつつある我が日本は、“かつて貧農国・欧州の片田舎と揶揄された”時代から現在に至るまでの「ポーランドの政治・経済・言語・文化の並々ならぬ過酷と苦闘の歴史」を真正面から凝視し、それを他山の石とすべき時なのだ。まして、ポーランドは未だに“ド貧農国で欧州の肥やし臭い片田舎だ”との時代錯誤観念にドップリ浸かる向きは、その眼球を覆う暗いドグマの薄皮をひんむき、縮れた剛毛が覆い尽くすドス黒い穴の奥から巨大なドグマの耳垢をかっぽじり出すべきだ。


いよいよ2011年7月には、ポーランドがEU議長国(任期6ヶ月の輪番制)になる予定で、ポーランド日刊紙「ガゼタ・ヴィボルチャ(Dziennik Gazeta Prawna)」によれば、ポーランド外務省は、EU議長国になるにあたり、1.1億ユーロを費やすとされる。が、EU盟主国の筆頭格であるドイツ・フランス両国はシュラフタ精神の伝統を引き継ぐポーランド指導層の人材的貢献にこそ期待をかけていることが伝えられている(関連参照⇒http://www.bashotsu.jp/299/)。


ともかくも、このような訳で、現代のポーランドは、米国型とは異なる、もう一つの自由原理のあり方、つまり<ポーランド型自由原理(中間エリート層が詭弁政治型ならぬ賢人(哲人)政治型の自由を徹底的に追求する方向)>が可能であることを歴史経験的に学び、国家そのものを持続させるエネルギーにまでそれを高め、かつ具体化(政策化)することに成功しつつあるといえる。


しかも、そのことの気づきと全国民をその方向へリードする意志と高い倫理観をポーランド(およびEU欧州連合)の盟主国であるドイツ)のエリート層が、それぞれ観念同時的に共有していることが窺われる。これに比べれば、我が国におけるエリート中のエリートである司法官僚らが根っこから腐敗・堕落していることは真に致命的で悲惨だ。無論、その悲惨(巨額の無駄な税負担、中間層と雇用の大崩壊、超貧富差拡大、超低賃金層の拡大、健全な資本主義発展可能性の阻害etc)を背負わされているのは我われ一般国民であるが・・・。


(エピローグ)


堕落しきって眼が曇り、地べたを這いずるアリのごとく、人が生きる三次元空間が見えなくなった司法官僚・記者クラブメディアら日本のエリート層へ贈るコトバ、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101107より転載


◆秋の風景、そして記憶のエコノミーについての断章=『人間の政治・経済学の可能性を零れ落ちる秋の錦繍美の豊かさのなかに感じる・・・』


・・・(前、略)・・・もちろん私たちはあらゆる出来事を記憶することはできない。pan>


そこには不可避的に「記憶のエコノミー」が働かざるをえない。


この「記憶のエコノミー」は、現実のエコノミー(市場原理)と同様に、きわめて残酷な側面をあわせもつ。


ある種の有効性の原理、ほかでもない、その出来事をいっそう忠実に記憶してゆくうえでの有効性という原理のもとで、零れ落ちてゆくもの(弱者ら)、あるいは意図的に排除されてゆくものが無数にあるのだが、我われは、その零れ落ちてゆく錦繍の美にこそ癒される(救われる)のではないか・・・。


・・・後、略・・・表題および末尾の一行以外は、[笠原一人・寺田匡宏=編:記憶表現論(昭和堂)]より部分転載>


Caruso - Lucio Dalla & Luciano Pavarotti