toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

TV・新聞・端末等「俗物教養」が騙る無目的な「知の切断」でリバタリアン・ゾンビ化する日本国民

toxandoria2010-11-30



【スーベニール動画&画像】Les Feuilles Mortes_Yves Montand à l´Olympia







【プロローグ】いまこそ《ハムレットと亡霊の対話》が復権すべき時だ


いまルネ・デカルト(1596-1650)の「我想う、ゆえに我あり(Je pense, donc je suis/ Ich denke, also bin ich /cogito ergo sum)」を確たる前提とし、それを無謬なる合理的視座とする基盤そのものが大きく揺らぎ始めている。自我の範囲で世界が完結し得ると見なす傲慢な近代理性主義を原点とする透視図法的な社会経済と政治意識についての設計主義が、その根本から疑われているのだ(ルネ・デカルトの画像はウイキメディアより)。


それは、合理的設計主義の発想下における<政府の大小論>などは“同じ穴の狢(無意味な議論)”であることが最早バレバレであるうえに、米国型自由原理主義、つまりミルトン・フリードマン仕立ての米国型自由原理主義ネオリベ戦争・災害資本主義/その典型がチリ・ピノチェト軍事政権下で成功が謳われた“チリの奇跡”の欺瞞/参照⇒
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20100730/1280494314)が、実は格差拡大主義の邪悪なホンネを隠蔽した食わせ物(リバタリアニズムランディアン・カルト、ティーパーティーらの暴走)であることが明らかとなってきたからだ(ランディアン・カルトについては下記★を参照乞う)。


ランディアンカルト感染症への警戒の勧め、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090824


この《ハムレットと亡霊の対話》が崩壊させられた状況(つまりルネ・デカルトの「我想う、ゆえに我あり」を確たる前提としてきた我われ自身の危うくも悲惨な姿)は、現代社会における次の如き我われ普通人の日常生活における所作に現れている。そして、そこに見られる我われ自身の精神環境の崩壊シンドローム(知の断片化)傾向は日々に強まるばかりのようだ。


・・・まるでデカルト先生風に、人は有史いらい“絶対孤独”であるべきとでも言いたげな表情で、本来は束帯装束にこそ似合う笏型の「携帯」をシッカリと手に握り締め、その小さな端末(画面)をジッと凝視しつつセカセカ歩きまわり、ひとたび座するや否やTVかパソコンにしがみつき虚像or電脳空間でインテリジェンス(一定のスピリトウス的な目的と結びついた情報)ならぬ拡散した無数の<知の断片>を日がな一日追い求め、又は詐欺的or作為的な虚像のパロールに溺れ、そして時には“すわ尖閣諸島で、朝鮮半島で有事勃発!”との超フェティシュ・インフォメーション(断片化したノイズ情報⇒そのクラスタ(塊)がトリビアな俗物教養)に条件反射し、かつ、うろたえ、時にはモグラ叩きの発火に嵌る・・・。


<注記>


(1)誤解なきよう前もって断っておくが、toxandoriaは携帯・ネット等の利用意義を全否定している訳ではなく、それが目的に沿う利用か否か常に意識することが肝要とする立場である。


(2 )リバタリアンリバタリアニズムを信奉する人のこと。リバタリアニズムについては当記事の中で説明する。


(関連参考情報)


「飲まず読まず、ネット」な日常=睡眠、読書は減り、ネット増―シチズン調査 - 時事通信
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_investigation2_so__20101127_15/story/101127jijiX971/
・・・


以下は、河合祥一郎編『幽霊学入門』-新書館-(p4-5)より部分引用・転載・・・


人は自分を超えたところにある<何か>と繋がり、呼応するときに大きな力を発揮する。インスピレーション(inspiration)を得るというのも息を吸う(inspirate)ことで自分の中に<霊(スピリトウス)>を呼び込む謂いにほかならない。・・・途中、略・・・だから、ちっぽけな<近代的自我>を超えるスピリトウス(霊なるもの、時空を超えた自然環境的・精神環境的・文化的な堆積と深淵)に思いを馳せてみよう。霊について考えることは、私たち自身がこれからどのようなスピリットで生きていくべきかのヒントとなろう。ハムレットが亡霊と対話することで“生きるとは何か”を考えたように、人は霊(スピリトウス)と向き合って初めて己の生き方を知ることができるのではなかろうか。


ともかくも、それはデカルトが、敢えて「それ(エス/das es)」の存在を無視して、確固たる「我(自我)」を捏造した節があるからだ。そして、デカルトが無視した「それ(エス/das es)」とは、比喩的に言うならば、広義の外部経済の如きetwas、我われ自身も気づかぬ無意識の世界、更には広範な自然・社会・文化環境の全てに結びつく無意識の深い海と言えるだろう。


実は、この設計主義の祖とされるデカルトの「我(自我)」に「それ(エス/das es)」が絶えず影のように付き纏うことを明確に指摘したのは18世紀ドイツにおける実験科学者の嚆矢とされるG.C.リヒテンベルク(1742−99/リヒテンベルク図形の発見等で知られる/ゲッティンゲン大学に入学し、1769年に物理学の員外教授、その6年後には教授となり亡くなるまで同大学に在職した)であった(画像『ゲッティンゲンの市場にあるリヒテンベルクの像』はウイキメディアより)。


その「エス(das es)」についての理解は、ポスト・リヒテンベルクで二派に分かれ、<リヒテンベルク→フィヒテ→(シェリング)→ビスマルクヒトラー→(リバタリアニズム)=前意識の系譜>と、<リヒテンベルク→フォイエルバッハニーチェフロイト=無意識の系譜>の二つの流れが存在することが、漸く、理解されつつあるようだ(以上、G.C.リヒテンベルクによるエスの発見と、(das es)の二派発生についての出典は、互盛央著『エスの系譜』-講談社-より)。


だから、我われは、この新たなスピリトウス的な意味での知見から『自由』について更に深く考えるべき時代に入ったのではないか。それは、近代啓蒙思想の類稀なる貴重な落とし子とも言える『自由』が、その『自由』の大劇場である筈の自然と社会そのものから限りなく逸脱しつつ傲慢化し、今や余りにも異様なほど天空高く舞い上がりつつあるように見えるからだ(この論点の詳細については下記◆を参照乞う)。


◆何もしたくない閣総理大臣コト、菅直人首相へ贈るパロールhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101118


<注記>(シェリング)、(リバタリアニズム)の丸括弧表記について


(1)「エス(das es)」の前意識の系譜<・・・フィヒテ→(シェリング)→ビスマルク・・・>で、シェリングに(   )が付いているのは、プロイセン王国フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とビスマルクによってシェリングが“都合よく誤解(曲解?)され、利用された節がある”ことを意味する。なお、その具体的内容については後述する。


(2)同じく、この系譜の<・・・ヒトラー→(リバタリアニズム)>の部分で、リバタリアニズムに(   )が付いているのは、これは一般の定説(常識?)とはやや異なるかも知れぬが、下●のような理解が可能であることを意味する。


●米国型自由原理主義の御本尊とも見なされるリバタリアニズムだが、その定義の領域は非常に広範で「極左〜極右までのレンジ(Range)」が視野に入ってしまうため、その本質については様々な議論が行われている。例えば、その典型例にフリードリヒ・ハイエクリバタリアンか正統保守主義者かという議論がある。


●そこで、最もその核心となるべき部分に注目すると、それは「徹底した自己責任」と「超過激な自由」(この場合の自由は国家が与えるものではないという意味で“消極的自由”という逆説表現が使われる)の極致としての「市場原理主義」ということになる。


●それ故に、超格差の発生とその帰結としての「超富裕層を頂点とする階層固定化」が必然であり、貧困層に嵌る人々の不利益と不幸は自己責任の冷厳なる帰結だとして当然視する。


●結局、これは公正資本主義の如き国家による設計の結果ではないというものの、結果的に「超富裕層を頂点とする階層の固定化」という非情で冷酷な社会構造が必然的にもたらされるという意味で、矢張り、リバタリアニズムが<事実上の設計主義>であることに変わりはない。


●というより、“消極的自由”という表現で中庸な価値観風を装いつつ、まったく敗者復活が不可能な弱肉強食のプロセスを経たうえで絶対に避けることができない「超富裕層を頂点とする階層固定化構造」を導くと言う意味では、甚だタチ(質)の悪い偽装的・詐欺的で、かつ非人道的なエゴイズム(自我=Je / Ich)丸出しの超利己的な「超設計主義」に他ならないと言うことになる。


●このような観点から見たリバタリアニズムは、例えば「ポーランド型自由原理」(一般国民に対し責任を負うべき中間エリート層には、必然的に戦争型の暴力性(ファスケス)を潜ませる覇権的大政治権力に対し民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意味での徹底した自由があるとの立場に立ちつつ節度ある市場経済(資本主義)を肯定する考え方/ポーリッシュ・モデラティズム(moderatism)とも呼ぶ)の対極にある。


1 デカルトの自我(Je/Ich)に隷属する前意識の系譜


三十年戦争を終わらせたウエストファリア条約(1648)が、ローマカトリック教会と政治権力(絶対王権)を分離し<社会契約>説が確立するが、その契約上に推戴される王権(議員内閣制における王権)は、それでもなお超越的神の権威(虚構の権威づけ)を求め続けていた。それは、今なお「八紘一宇美しい国」なるものを信奉・希求する勢力が日に陰に跋扈する我が国においても、未だに言えることだ。


フランス革命ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序再建と領土配分を目的としたウイーン会議(1814-15)が創設したドイツ連邦諸国では封建領主の支配が続くが、社会改革で先行する当時のフランスでは「七月革命」での王政復古を経て<資本主義マネーの製造器>たるブルジョアジーの“我らこそ国家主権者なり”という民主意識(王権に対峙する『我』意識)が次第に高揚していた。


この流れの中で市民主体(国民主権)の民主主義による国家統治の要求が高まり、「パリ・二月革命」(1648)は全欧州で<民主主義を求める革命(ウイーン・ベルリンなどの三月革命)>へと拡大した。が、この流れ自体に遅れていたドイツでは、18世紀末頃から、統一国家樹立を急ぐ動向が加速してきた。


ところで、J.G.フィヒテ(1762 -1814)が『ドイツ国民へ告ぐ』(Reden an die Deutsche Nation)の講演を行った(1808)のは、丁度、その「ナポレオン戦争」(1803-1815)のプロセスでの劣勢による屈辱感が漂う(1807年のテルジット条約で領土が半減し、ナポレオンの意志によるポーランドワルシャワ大公国が成立した時に当る)ベルリン科学アカデミーに於いてであった(J.G.フィヒテの画像はウイキメディアより)。


そこで、フィヒテは「最もドイツ的な存在はドイツ人の最初の文化的流出(Abfluss)である言語、つまりドイツ語」だと言明した。そして、これは「我(自我=Ich)」に関する、それ以前からのフィヒテの諸考察の必然的帰結であり「起源的人間論」とも呼ばれる考え方だ。現代の視座からすれば、このような帰結は詭弁または虚構論理の結果に過ぎないと思われるのだが、その後、これがデカルトの「我想う=cogito、Je pense、Ich denke」に対応する、現代的で重要な論理としてドイツ民族主義を煽ることになる。


プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、前期哲学(消極哲学/存在とは何かが課題の時期)から後期哲学(積極哲学/存在の様態とは何かが課題の時期)へと変容する大きな射程のシェリング哲学を誤解した可能性があるが、フリードリヒ・シェリング(1775−1854)が、ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)への防波堤の役割を期待されベルリン大学へ招聘されたのは1841年で、シェリングが69歳の時であった(フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の画像はウイキメディアより)。


ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)は、歴史を多様で合理的な因果可能性の一つに過ぎないと見る極めて客観的な立場で、この先進的な考え方はその後の「普仏戦争」(1870-71)の勝利に湧くプロイセン王国の一般的歴史解釈(プロイセンがフランスに勝利したのはプロイセン(ドイツ・ゲルマン)文化の対仏優秀性の証と見なす)に対する厳しい批判の立場を先取りするものであった。


シェリング哲学の前・後期を分ける名著『人間的自由の本質(1809)』(この本の詳細については後述)を読めば、矢張りフリードリヒ・ヴィルヘルム4世による都合のよい(シェリングの「我=Ich」には自己自身を完璧な自由意志だと見なす特徴がある点についての)シェリング解釈では?と感じられるが、それはともかくも、シェリング哲学はプロイセン王国にとって好都合なフィヒテ流の“我想う故の正統な王権(Ich denke, weil wir eine legitime Souveränität sind.)”の根拠とされた(シェリングの画像はウイキメディアより)。


フィヒテの「最もドイツ的な存在がドイツ人の最初の文化的流出(Abfluss)である言語、つまりドイツ語」だという言説は、その“最もドイツ的な存在”の部分が殆どデカルトの「我=Je/Ich」に重なると見なせるが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が誤解した(と思われる)、このシェリング哲学の文化的流出(Abfluss)についての言説は、いわば後にフロイトが名付けた「前意識」((Je/Ich)との結び付きが、無意識より強いと考えられる)を意味する、「それ(エス/das es)」の一部分に相当する概念だと言うこともできるだろう。

いずれにせよ、ビスマルク(1815 -1898)は、シェリングによって「ドイツ的なものと同一視された前意識」たる「それ(エス/das es)」を政治的な意味で見事に利用することになる。1848年の<三月革命(フランスの二月革命がウイーン、ベルリン、ドイツ諸邦各他へ伝播した)>の後に、ヴィルヘルム1世の下で首相になったビスマルクが「普仏戦争」(1870-71)の勝利と「ドイツ(第二)帝国」の成立(1871)を実現したことは周知のとおりだ。


その、ビスマルクが折りにふれて「もう一人の男(andere Kerl)」あるいは「それ(das es)」という言葉を使ったことが知られている。例えば、プロイセンがナポレオン3世を破った直後の1870年11月1日に次男宛てに書いた手紙には次のようにある。・・・私は喜んで眠りたいのに、いっこうに眠れそうにない。だが、眠らねばならない。『それ(das es)』(つまり前意識のこと)が私の中で考え、思索する・・・後、略・・・(出典:互盛央『エスの系譜』-講談社-/ビスマルクの画像はウイキメディアより)


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<参考>ビスマルクの「それ(das es)」が明治期以降「日本の歴史病」へ与えた影響、F.K.サヴィニーの役割


ビスマルクの登場に先立ち、「歴史法学」の創始者たるF.K.サヴィニー(F.K.von Savigny/1779−1861)が、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の懇請を受け「立法改革相」(実質的な宰相)に就任し、彼が逝去した1861年にはその功績を記念する「サヴィニー財団」が創設された。ここからは、今も続く法史学雑誌「Zeitschrift der  Savigny‐Stifnung f. Rechtsgeschichte」(参照⇒http://www.fachzeitungen.de/seite/p/titel/titelid/1008936214)が刊行されている(サヴィニーの画像はウイキメディアより)。


たしかにサビニーの功績はこのように偉大なものであるが、サビニーの思想の根本には歴史を遡れば民族と法律が協働して法形成に参与した時代(慣習法の時代)がある”という基本があること、およびサビニーが歴史と法の関係について次のように両義的な言葉(国家の主権者は正統な国王かor一般国民か?)を残しているのを見逃すべきではない。・・・『法の素材は国民の全ての過去によって与えられており・・・途中略・・・それは国民自身の最も内奥にある本質とその歴史から生み出される』


また、もう一つ忘れてならないのは、19世紀ドイツが“真の統一国家を急ぎ模索する中で過剰なナショナリズム(民族国家主義)が沸騰した時代でもあった”ということだ。無論、この背景には、フランス革命の余波(ナポレオン戦争)とイギリスの産業革命が刺激となり、近代的な統一国民国家を急いで実現しようとする焦りの如き意識がドイツ人の中に高まったということもある。


そのように純粋な「ドイツ民族精神」の高揚とは背反することなのだが、1789年の大革命によるフランスの国民国家成立に遅れをとった当時のドイツの人々が精神の拠り所としたのが、すでに遠い昔の「ウエストファリア条約(1648)」で消滅したはずの、多民族国家たる『中世ドイツ(第一)帝国』(神聖ローマ帝国)の「栄光」であった。


しかも、このように混沌たる状況の中でこそ、偉大なるプロイセン・ドイツの法学者・宰相サビニーは、「ゲルマン民族の純血と伝統精神への激しいまでの憧憬」と「神聖ローマ帝国の栄光に満ちた国制の復権」という二つの政治的原理をアウフヘーベン(Aufheben)することで、プロイセン・ドイツのナショナリズムに新たな熱気を吹き込む「新しい国家理念の創造」に成功していた。


そして、誤解を招かぬように言わねばならぬが、この時代のプロイセン社会の中には既に「ナチズムに親和するような空気」が微かながらも漂い始めていたのである。ここで付け加えるべきは、「民族の歴史」や「民族の精神」そのものは悪でも何でもない当然の存在であり、それを<民族文化と歴史の総体>から切断して純粋培養しようとする如き政治哲学、あるいはアカデミズムの立ち位置こそが問題と考えるべきだということだ。


ともかくも、このような空気の中で、やがて1850年(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、宰相サヴィニーのとき)に、王権に対する「授権規範性」が意図的に排除され、「ゲルマンの純血と民族・伝統精神」への憧れと「神聖ローマ帝国の栄光」の復権という二つの根本原理をアウフヘーベンした「新しいプロイセンナショナリズムの熱気」(ナチズムへ向かう予兆のような空気)が仕込まれた、あの「プロイセン憲法」が制定されたのであった(1871から、ドイツ帝国の開始とともにプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ帝国皇帝を兼ねることになる)。なんと、これは、まさにあの<1791年5月3日憲法>に象徴される「ポーランド型自由原理」(シュラフタ民主主義、ポジティヴィズム型漸進主義)の対極にある歪み切った理念ではないか!


この憲法の大きな特徴は次の3点(★)にあるが、やがて、この独特の「プロイセン憲法に潜むナチズムへ向かう予兆のような空気」が、当時のプロイセンを訪ねた伊藤博文らを介して「大日本帝国憲法」のなかに流れ込むことになる。因みに、下記の三項(★)の中で<国王(皇帝)>を<天皇>に読み替えれば、そのままで「大日本帝国憲法」の根本理念となることにも驚かされるはずだ。例えば<国王(皇帝)の大権>は<天皇の大権>と同義になる。


★国王(皇帝)の権力は神の恩寵によって授与されたもの(神権政治としての最高権力)と規定されている。


立法権は国王(皇帝)と両議院(衆議院貴族院)が共同でつくるものである。(見かけだけの立憲君主制


★しかし、行政権は国王(皇帝)のみにあり、国王(皇帝)は法案の拒否権を持つ。また、国王(皇帝)は緊急勅令を出すことができ、大臣を任免する大権を持つ。(国王(皇帝)の権力はすべての政治的権力の頂点にある)


ともかくも、1882年(明治15)に伊藤博文らは、「大日本帝国憲法」(1889年公布)起草の参考とすべく、憲法事情及び西欧各国の諸制度(軍制、法制、官僚制、機密事務を扱う官房など)の調査を目的に、ある意味で、このように異様な政治的空気が満ちた時代のプロイセン王国(その国王がプロイセン・ドイツ第二帝国の皇帝)を訪ねたのであった(更に、この論点についての詳細は下記▲を参照乞う)。


▲点描ポーランドの風景/トルン・マルボルク編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100912


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ところで、当記事を書くヒントを与えてくれた『エスの系譜』(講談社)の著者・互盛央氏は、結局、デカルトの「Je pense, donc je suis/cogito ergo sum」は虚妄であったと断言されている。が、toxandoriaとしては、そう断言できるかどうかはともかくとして、少なくとも、「それ(エス/das es)」の流れの一つと考えられる<リヒテンベルク→フィヒテシェリングビスマルクヒトラー→(リバタリアニズム)=前意識の系譜>が、一種の政治的狂気(ファシズム一党独裁コミュニズムランディアン・カルトなど)にさえ繋がり得る<政治権力の暴走>へ<従属し易いという意味での脆弱性という弱点>が伴う点に注目すべきであろうと思っている。


なお、もう一つの「それ(エス/das es)」の流れである<リヒテンベルク→フォイエルバッハニーチェフロイト=深い無意識の系譜>は、「前意識の系譜」と異なり、脆弱性どころか非常に強靭な安定を「人間社会全体」へもたらす一種のバランサー機能(オートポエーシス的な不均衡解消作用=DNAが自己複製プロセスで見せてくれる不思議なアーキテクチャにも似た/参照⇒http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/10/post_2e60.html)を秘めているのではないかと思われる。


つまり、人間の知覚と認識領域における、確固たる自我ならぬもう一つの「それ(エス/das es)」との強いシンパシー(sympathy)が求められる場面でこそ、例えば「ポーランド型自由原理」(ポーリッシュ・ポジティヴィズム=一般国民に対し責任を負うべきシュラフタ(中間エリート層)には必然的に戦争型の暴力性(ファスケス)を潜ませる覇権的大政治権力に対し民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意味での徹底した自由があるとの考え方)あるいはハンガリーのマイケル・ポランニー(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090804/p1)らのような<東欧型英知>の出番があると言えるのではないだろうか(無論、これは東欧型に限らず、アジア型など特に従来の歴史観では周辺・辺境として片づけられてきた所に似たような役割の英知が隠れていると思われる)。言い換えれば、それは、例えば「ポーランド型自由原理」には “人間の意識の集合体としての社会構造全体”を安定化させる働きが期待できるということである。


ともかくも、フィヒテビスマルクらに見られる、かくの如き<歴史病(優秀な民族・文化の帰結こそが歴史だと解釈する歴史観>がもたらした国民的熱狂こそ(しかも、既に書いたとおり、この熱病は明治期に日本へ伝播・感染し八紘一宇の美しい神を奉る日本ファシズムの淵源となった)が、ヴィルヘルム1世(前出ヴィルヘルム4世の弟)を皇帝に戴く“純血で優秀なドイツ民族国家”たる「プロイセン・ドイツ第二帝国」(ヒトラー・ナチズムへの序曲)を実現したと言えるのだ。


2 デカルトの自我(Je/Ich)を批判的に凝視する深い無意識の系譜


これは既に述べたことだが、現代世界を跋扈する透視図法的な設計主義(その極致が米型市場原理主義リバタリアニズムなど)の始祖とされるデカルトの「我(自我)」に「それ(エス/das es)」が影のように付き纏うことを明確に指摘したのは、フォイエルバッハより半世紀ほど早く生まれた18世紀ドイツの科学者G.C.リヒテンベルク(1742−99/いわば“das es”の高祖)であった(G.C.リヒテンベルクの画像はウイキメディアより)。


1775年に、33歳で母校ゲッティンゲン大学教授となったリヒテンベルクは、ドイツの初期実験物理学を代表する科学者である。そして、後に『雑記帳』と呼ばれドイツ圏の知識人に広く愛読されるノートを遺したが、その中で次のように、まるであからさまにデカルトを批判するようなことを書いている。
・・・私達は新しい種(タネ)を作るが、類を創造することはできない。それは偶然によって成されなければならない。故に、<物理学>は実験を必要とし、<時>は大事件(フランス革命のような)の中で待たれなければならない。<大事件>のような変化は「我(自我)」ではなく、稲妻が走るように「それ=エス/das es」が考え出すのだ。・・・(出典:互盛央『エスの系譜』-講談社-)


ところで、理性の自己展開が世界の秩序と歴史の発展を弁証法的に成すと考えるヘーゲル(1770-1831)への批判から、ヘーゲル左派(民族・文化の優勝劣敗で歴史が展開すると考える『歴史病』を強く批判する立場)の代表たるルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(1804 - 1872)の真の哲学が始まるが、これはまさに“真打エス”(das es)の登場だったといえよう。


フォイエルバッハの哲学の本質は「無意識の総体たる人間は対象物あってこそ自己が意識できる、又その対象に意識があるとすれば、それは自己(我)の投影に他ならぬ」ということだ(『キリスト教の本質、1839』)。そして、この意味での確固たる対象から自我を照射するという視点は、殆ど逆説になってしまうが、エンゲルスマルクス史的唯物論へ大きな影響をもたらしたとされている(フォイエルバッハの画像はウイキメディアより)。


補足すれば、人が或る対象からの照射で初めて自己(自我)を意識できるということは、当然、人はその照射の「影となる広い領域」を常に身に纏っていることになり、その身に纏う広大な影を構成するのが「前意識」と「深い無意識の海」の二つの部分だということになる。そして、これはプロローグでも述べたことだが、その「影となる広い領域」の二大構成領域の系譜は<リヒテンベルク→フィヒテシェリングビスマルクヒトラー→(リバタリアニズム)=前意識の系譜>と<リヒテンベルク→フォイエルバッハニーチェフロイト=深い無意識の系譜>として、今も、現代世界に大きな影響を与え続けているのだ。


そして、先に“真打エス(das es)の登場”と書いた意味は、この二つの内の一つ、つまり「深い無意識の広がり(=広大な無意識の海)たる“それ(エス)”」の意義を明快に理解した人々の始祖が、このフォイエルバッハ(1804-1872)だと見なせるということだ。なお、もう一つの「それ=エス/das es」である「前意識」とは、普段はその存在に気づかぬが、何らかの出来事などを契機として必死に努力すれば明瞭な「現意識」(我われの日常生活における経験意識の持続)の中へ立ち現れ得る記憶等のことだ。


一方、先に述べた通り、「対象からの照射が人の内面世界の“影”(意識の構成でdas esの部分)を生成する」というフォイエルバッハ哲学の発想は史的唯物論へ大きな影響を与えたというのが定説だが、近年はフォイエルバッハ哲学の独自の重要な意味と新たな可能性が理解されるようになってきており、その一つが、ここで指摘する「深い無意識の流れたるエス(das es)」を重視する系譜の始祖ということなのだ。


さて、最新の生物学、またはJ.ギブソン(1904-1979)のアフォーダンス型認識論(関連参照、下記★)の知見によると、我われ人間も含めた地球上の生物には、それぞれの生物にしか見えない閉鎖系の「個別の生態空間」というものがある。そこで、人間の生態空間について、仮に、その周辺に広がる情報系の諸条件も視野に入れて仮説的に整理してみると次のとおりである。そして、これらが関わる現象空間は人間(あるいは生物一般)に特有な閉鎖系の「A内面生態空間」と情報系の「B外界生態空間」の<鬩ぎ合いの場>ということになるだろう。


ただ、前者Aの「意識(自我)の眼」は、恒常的・直接的に後者Bを知覚し(見)続けることは殆どできず、それを可能とするのが<鬩ぎ合いの場で自我意識が揺らぐ瞬間(自我と外来情報が共振するか、又はそこに僅かのズレが現れる瞬間)=自我意識の関心に沿った知覚情報がアフォード(外界から供給)される瞬間>か<殆ど掴みどころがないスピリトウスが立ち現れる瞬間>ということになる筈であり、このような現象の時にこそ、人間(または生物一般)が“生きている意味”を感ずる(感動する)のだと考えられる。(J.ギブソンの画像はhttp://www.easternpsychological.org/i4a/pages/Index.cfm?pageID=3378より)。


★日本に欠ける「アーカイブとフィッシュ・アイ・リアリズム」重視の視点、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080630


A 人間の内面生態空間


A−1 デカルト的な「我」(自我=Je/Ich)


A−2 前意識としてのエス(一つ目のdas es)・・・殆ど無意識に近いが努力で現意識化が可能な領域


A−3 無意識のエス(もう一つのdas es)・・・広く果てしなく深い無意識の海へ繋がる領域


B 人間の外界生態空間


B−1 狭義の外界(政治・行政・経済・社会・学会・教育制度など)・・・権力、権威、主権、王権、支配権などが実体化した諸制度(三権分立下の法制・議員内閣制、ビジネス・金融の現場、福祉・教育現場、住環境など)


B−2 広義の外界・・・地域社会、人文・芸術分野、自然環境、農林漁業の自然・文化的価値、格差・貧困・プレカリアート・奴隷的労働等の問題、専業主婦等家庭内労働価値など、いわゆる広義の外部経済の問題あるいは自然環境や精神文化を支える受け皿としての領域/スピリトウスとの共振可能性という意味でA−3と通底する


ゲルマン・ドイツ的内面性を代表する(ヴァーグナー楽劇への心酔、ナチスによるニーチェニヒリズムの誤用などで)とされる哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844-1900)がポーランドシュラフタの家系であることは真に興味深いことだ。しかし、今になって見れば、ニーチェ思想の岩盤には「ポーランド自由原理的」(シュラフタ民主主義、ポジティヴィズム型漸進主義=一般国民に対し責任を負うべきシュラフタ(中間エリート層)には必然的に戦争型の暴力性(ファスケス)を潜ませる覇権的大政治権力に対し民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意味での徹底した自由があるとの考え方)な価値観が深く浸み込んでいたと思われる(ニーチェの画像はウイキメディアより)。


別に言うならば、それは、ニーチェが、フォイエルバッハ哲学において新たに発見された側面でもある「深い無意識の流れたるエス(das es)」の存在を重視し、ルネ・デカルト流の「我(Ich)」の権威を明らかに否定していたからだ。そして、ニーチェがルネ・デカルト流の「我(Ich)」の権威に対する告発を開始したのは、ジークムント・フロイト(1856 -1939)がウイーンで開業した当時、1886年の著作『善悪の彼岸』に於いてであったとされる(出典:互盛央『エスの系譜』-講談社-/フロイトの画像はウイキメディアより)。


このパラグラフでの論を補強するため、上の互盛央氏の<著書『エスの系譜』(p34)-講談社->の中から、ニーチェが語ったとされる部分を以下に引用・転載させていただく。


・・・「私」が考え、「私」が行う。それが「原因」となって思考や行為という「結果」が生まれる――そう思わせる因果性こそが「教養俗物」(英知の胎盤から切断された知の欠片)を生み、「歴史病」をもたらしているにもかかわらず、大衆は因果性(近隣的な意味での)に「直接的確実性」を感じ、疑いさえしない。その幻想はどこから生まれるのか。『善悪の彼岸』の執筆時期と重なる1885年秋から翌年秋のあいだに書かれた断章で、ニーチェはこう断じている。「あらゆる判断には、主語と述語への、あるいは原因と結果への完全で深い信仰が潜んでいる。そして、後者の信仰は、むしろ前者の特殊な例であり、その結果、主語がある、という信仰(誤った、幻想としての)が基本的な信仰としてさらに残る」・・・


3 「ポーランド型自由原理」による<スピリトウスと外界生態空間の共振性>復活への期待


ビスマルクによって自らの「自我」(≒独善的政治権力)の補強のため都合よく解釈されてしまった(“前意識(das es)”が絶対的自由を持つ「自我(Ich)」の下僕だと解釈されてしまった?)とされるシェリングには、絶対に見逃せぬ重要な著書があり、それが『人間的自由の本質(1809)』だ。それは、西谷啓治訳の岩波文庫(画像を参照乞う)で読めるが、意志の自由、善と悪、人格性、必然と自由などの諸問題について論じている。これは、最も円熟した時期の著作でヘーゲルとショウペンハウエルを繋ぐドイツ観念論の総決算とも見られており、シェリング哲学の前・後期を分ける名著ともされている。


この著書の中でシェリングは “人間の悪の可能性を断言する”という表現で「人間だけが悪を行う自由をもっている」こと、それが人間的自由の本質であること、それ故にこそ人間は全ての存在者の頂点にあるのだとしているが、これは、真に厳しく冷徹なリアリズム表現だ。言い換えれば、神の被造物たる人間は、神から「我」と「精神」を分有させられたのだが、人間は、その「我」と「精神」を自らの意志で高揚させ過ぎたため「悪」を行う自由(悪の可能性)までをも創造してしまったということになる訳だ。


ただ、シェリングは「悪」が遍く支配する世界を認める訳ではなく、神の愛の光が遍く行き届き、それが人間の「我」と「精神」と「悪を行う自由」を照らし渡すことができる限り、世界は神の永遠なる愛に守られることになると言う。しかし、これら三者が不和となり(例えば、市場原理主義の深化の如きによって三者のバランスが崩れてしまって)、本来なら神の影響下にあるべき「我」(と「精神」)の場所に「転倒させられた神(der umgekherte Gott)≒ゴシック文学的なファントムorゴースト?」が乗り移ることがあり、これこそ<虚妄の想像>がもたらす「罪」(いわば、より大きな悪)が支配する世界だということになる。


ともかくも、ここまで見てきたことを集約すれば、それは<人間の「我(Ich)」と「外界」との関係の均衡回復を図る一種のバランサー(balancer/人間の社会と生態空間を安定化させる機能)の立場でデカルトの自我(Je/Ich)を秘かに凝視する二つの(das es)、つまり前意識としてのエス(一つ目のdas es)と無意識のエス(もう一つのdas es)の役割の再発見>こそが最も重要だということになるだろう。不幸にして、シェリングのそれ(特に、一つ目のdas es)はビスマルクによって意図的に(?)誤解されてしまったようだが・・・。


そして、特に我が国では、デカルトの自我の拡張と見なすべき<市場原理主義と癒着したステルス(不可視)型の実効権力>と、それが主にTV・新聞等マスメディア(実効権力の奴隷的な道具と化した)を介して意図的に提供される「俗物教養」(切断された知の欠片)で遠隔操作され<ミクロ&シンクロ化した個々人の自我>が、スピリトウス的な深みと面的拡がりを見失いつつ、線的・点的次元で無方向的に暴走化しつつあると思われる。これは、真にシェリングが、いみじくも予言したとおりの<虚妄の想像(ファントム)>がもたらす「罪」(いわば、より大きく成長した悪/der umgekherte Gott)が支配する、神の国ならぬ悪魔的世界の出現である。


一方、翻って見れば、実はこれら人間をめぐる「内面生態空間」と「外界生態空間」の諸相が重なり合い、揺らぎ、鬩ぎ合い、時には激しく反発しつつ、そのような場の中で個々人が体験しつつ織りなされた複雑極まりない体験層の堆積したものが、いわばヘロドトスの歴史のキュクロス観(キュクロスは車輪のことで栄枯盛衰の象徴/参照⇒http://ci.nii.ac.jp/naid/110007382686)で言う『歴史』なのであるからこそ、我われは歴史を線的ベクトルの繋がりではなく面として、あるいは層として、いわば生活空間の厚みがある無数の渦(うず)として、多面的かつ多層的に受け取ることができる筈なのだ。


然るに、今や我われの日常生活で着実に起こりつつあるのは、日々に亢進(技術革新名目での作為的更新?)するばかりの高度情報化技術とグローバル市場原理主義がもたらす社会関係と社会意識の画一化とシミュラクール(simulacre)化、いわば<北朝鮮型、ナチスドイツ型、あるいはネオリべラリズム型(←コレは、例えばリバタリアニズムの如き噴飯ものの子供騙しの詭弁で人間の生活空間の厚みを偽装しているだけ、より悪質とも言える)の過剰設計主義による人間精神のミクロ&シンクロ化>という現象だ。


<注記>シミュラクール(simulacre)
・・・、「現実社会」と「ITユビキタス化による仮想空間」が人の意識と端末インターフェースを介して相互浸透し、それらが互に強く影響を与え合いながら次第に日常生活のリアリズム(=生命体のリズムと精神活動の因果が司る現実世界)が見えにくくなるため、悪意のある政治権力(中野考次が言う近代人的二元論の発生する元に潜む暴力的存在(ファスケス))によって操られ易い方へ向かい我われの社会が仮装化・厚化粧化して行くこと。ニセモノ・擬装などの意味もあり、シミュラクール社会化とも言う(詳しくは下記の記事★1、2を参照)。


★1何もしたくない閣総理大臣コト、菅直人首相へ贈るパロールhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101118
★2映画『マトリックス』が暗示するわが国のアーカイブ脆弱性http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070319


つまり、人間精神のミクロ&シンクロ化の『より具体的なイメージ』は、これは冒頭で述べたことだが、<本来は束帯装束にこそ似合う笏型の「携帯」をシッカリと手に握り締め、その小さな画面を凝視しつつセカセカ歩きまわり、ひとたび座するや否やTVかパソコンにしがみつき虚像&電脳空間でインテリジェンス(一定のスピリトウスと結びついた情報)もどきの拡散した知の断片を日がな一日追い求め、あるいは詐欺的な虚像のパロールに溺れ、そして時には“すわ尖閣諸島で、朝鮮半島で有事勃発!”との超フェティシュ化したインフォメーション(超断片化したノイズ情報、英知の胎盤から切断された知の欠片⇒そのクラスタ(塊)がトリビアな俗物教養)に条件反射的に反応し、かつうろたえる>という姿になる訳だ。


これこそが、実体的人間関係が希薄化し画一化した人間社会で起こる、エス(das es)とスピリトウスらが不在の、恐るべき<情報知切断社会>の出現に他ならない。だからこそ、それは<巧妙に隠された実効権力的「我(Ich)」の暴走>と<相互不信と疑心暗鬼に踊らされミクロ&シンクロ化する個々人の「我(Ich)」の拡散>によって社会の不安定化をもたらすことになる。これは、まさにトマス・ホッブズが『市民論』と『リヴァイアサン』で思考実験した“万人の万人に対する闘争”の世界そのままの姿ではないか(トマス・ホッブズの画像はウイキメディアより)。


従って、目前に現れたトマス・ホッブズ流の“万人の万人に対する闘争”の世界で跋扈する「罪(シェリングが指摘したような意味での巨悪/der umgekherte Gott)」、例えば「ミルトン・フリードマン仕立の米型自由原理=ネオリベ戦争・災害資本主義」の如き邪悪な覇権パワーがもたらす「罪」が支配する悪魔的世界を規制・監視する有効手段として見直すべきなのが、暴走権力に対する厳格な授権規範と中間エリート層の役割とともに「前意識としてのエス(A−2/一つ目のdas es)」と「無意識のエス(A−3/もう一つのdas es)」および「広義の外界(B−2/広義の外部経済の問題あるいは自然環境やスピリトウスをも視野に入れるべき)」を重視する「ポーランド型自由原理」(シュラフタ民主主義、ポジティヴィズム型漸進・中庸主義)の優れた知見だということになる。


それは、「ポーランド型自由原理」(シュラフタ民主主義、ポジティヴィズム型漸進・中庸主義)が真に<スピリトウスと「外界生態空間」の復活>に焦点を定めた<知の切断の対極にある知見>に他ならず、端的に言うならば(前にも述べたことだが・・・)、それは「一般国民に対し責任を負うべき中間エリート層(ポーランドではシュラフタ精神を自覚する指導層の人々)には、必然的に戦争型の暴力性(ファスケス)を潜ませる覇権的大政治権力に対し民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意味での徹底した自由を行使する権利があるとする考え方」のことである。つまり、このような<知の切断の対極にある知見>こそが、<フィヒテ的、ビスマルク的、ヒトラー的、リバタリアニズム(≒ネオリベラリズム)的な「歴史病」に対するワクチン的存在>だと言えるのだ(ポーランド型自由原理についての、更なる説明は下記◆を参照乞う)。


◆何もしたくない閣総理大臣コト、菅直人首相へ贈るパロールhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101118
◆ディアローグ的論考、米国型自由原理(連帯分解・孤立型)を一気にコペルニクス的転回させ得るポーランド型自由原理(連帯持続・深化型)のユニークな意義、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101115
◆点描ポーランドの風景/ヴロツワフ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100819


別に言えば、「前意識としてのエス(A−2/一つ目のdas es)」は、一種の政治的狂気(ファシズム一党独裁コミュニズム、無政府リバタリアニズムランディアン・カルトなど)にさえ容易に接近し与する可能性が高く、それには<「政治権力(我)」の暴走>へ従属し易いという意味で「容易に国民主権を無視してしまうという脆弱性」が伴うのに対して、もともと「深い無意識のエス(A−3/もう一つのdas es)」には、リアル経済を支える外部経済あるいは自然環境ないしは豊かな土壌(内面生態空間で言うところの深い無意識の海)の如き懐の深さ、しなやかさ、そして強靭さがあると思われるのだ。従って、特に留意すべきは「深い無意識のエス(A−3/もう一つのdas es)」の役割についての再認識だということになるだろう。


4 新たな“知の切断”要因、「市場原理深化型“S−D”ロジック」の登場


ところで、更に、より問題視すべきなのは、新たな<市場原理深化型の企業経営戦略>が現れていることだ。これは、人間の「深い無意識の海(A−3/もう一つのdas es)」と「外部経済及び自然・文化環境(B−2 広義の外界)」までを視野に入れ、例えば人間の日常生活全般・文化・福祉・医療・教育活動等に関わる凡ゆる次元のニーズ・潜在ニーズを徹底的に掬いあげ、それを悉く市場機能へ直結させる目的で開発された「S−D・ロジック/Service Dominant Logic/サービスサイエンスの新手法」である。これは、米国経営学会の一角で誕生したばかりの<市場原理深化型の企業経営戦略(企業と顧客が新たな市場価値を無限に共創し続けることを可能にすると言う新市場原理型のコンセプト、http://www.sdlogic.net/http://nikkei-article.seesaa.net/article/169798965.html)の手法>だ。


特にこれが、「人間の内面生態空間のA−3:無意識のエス(もう一つのdas es)=広く果てしなく深い無意識の海へ繋がる領域」と「人間の外界生態空間のB−2:地域社会、教育、人文・芸術分野、自然環境、農林漁業等の自然・文化価値的側面、格差・貧困・プレカリアート等の問題、専業主婦等家庭内労働価値など、いわゆる広義の外部経済の問題あるいは自然環境や精神文化など凡ゆる次元」を悉く市場原理へ巻き込むことを目標としている点に注目すべきだ。


つまり、ここで新たに視野に入ってきた問題は、「S−D・ロジック(Service Dominant Logic)」なる「サービスサイエンス」の新手法が「人間の内外の生態空間」(自我、前意識、無意識、広義の外部経済、スピリトウスなど人間の生命と精神環境の維持・安定に直接関わる次元と空間)を「市場ニーズ、消費、資本マネー量産の視点」で全方位から攻略・浸食し、それらの触媒機能と母体空間(凡ゆる生命体の胎盤&揺藍機能)そのものまでを根こそぎに捕捉して、それらを悉く市場原理の餌食にしようとしていることだ。


従って、「一種のバランサー(人間の社会と生態空間を安定化させる機能)の立場でデカルトの自我(Je/Ich)を秘かに凝視し続ける<深い無意識(二つ目のdas es)>の重要な意義の再発見」ないしは「ポーランド型自由原理」など<知の切断>の対極にある英知の存在を再評価しつつ、「人間の生態空間」を根こそぎ破壊しかねない、この種の新設計主義に基づく<過激市場原理>を明確に意識して、より有効な監視・対抗技術と、コミュニタリアニズム(参照⇒http://www.weblio.jp/content/%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9)的な意味での「集団民主主義」(集団内での“社会的十分性”も視野に入れた“個別(取引)的衡平性”の実現)の立場で社会改良を促進する「公正資本主義」 (Reasonable Capitalism)に関わる革新的手法の開発・研究などについても、「S−D・ロジック研究」らと平行して、その取り組みを急ぎ進めるべきだと思われる(公正資本主義の詳細は下記★を参照乞う)。


★北欧型福祉社会と米国型市場原理の共通起源、「制度経済学派&リアリズム法学」についての試論(日本は何処へ向かうべきか?)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091219


【エピローグ】デカルトとジュリアン・ド・ラ・メトリ『人間機械論』の末路はリバタリアン・ゾンビの出現


想起すれば、人間を精神と肉体に分け、肉体の部分を機械と見たてたルネ・デカルトの思想を更に深め『人間機械論』を著したのは18世紀フランス啓蒙期の哲学者ジュリアン・ド・ラ・メトリ(1709-1751)であった。そこでは、もはや人間の脳は<考える筋肉>と見なされており、この考え方は基本的に現代の人工知能研究に受け継がれている。


しかし、これは前にも述べたことであるが、人間の内面生態空間の「意識(自我)の眼」は、恒常的・直接的に人間の外界生態空間を知覚し(見)続けることは殆どできず、それを可能とするのが<両者の鬩ぎ合いの場で自我意識が揺らぐ瞬間=自我意識の関心に合う知覚情報がアフォード(外界から供給)される瞬間>か<殆ど掴みどころがないようなスピリトウスが立ち現れる瞬間>ということになる筈であり、このように微妙で際どい現象の時にこそ、人間(または生物一般)が“生きている意味”を実感(感動)すると考えられるのだ。


然るに、我われが生きる現代社会は、ルネ・デカルトに始まりジュリアン・ド・ラ・メトリが強化し、そしてフィヒテシェリングビスマルクミルトン・フリードマンらが補強してきた<近代設計主義>と、その延長線上で高度情報化社会を支える<シャノン情報理論>のレール上を走っているのだ。クロード・シャノン(1916−2001/米、電気工学・数学者)が考案した<シャノン情報理論>は、極端に言ってしまえば歴史や個々の人々の経験知に根差した「情報知(intelligence)」ではなく「切断した断片知(parcel、information)」を電気信号化して伝達すればそれでよしとする考え方が基本となったアーキテクチャである(クロード・シャノンの画像はhttp://wbb.forum.impressrd.jp/feature/20061102/314?page=0%2C1より)。


つまり、<シャノン情報理論>は「人間の内面生態空間」と「人間の外界生態空間」を開放系で同次元のシャノン型情報伝達空間(電子情報の電気通信的伝達空間)と見なすことが基本となっているため、今や情報理論のフィールドでも<近代設計主義>は大きな壁に突き当たっており、これを乗り越えるにはオートポエーシス(参照⇒
http://www.nagaitosiya.com/a/autopoiesis.html)的な方向への発想転換が求められるとされている。


従って、今のところは、どれほど高度なIT関連技術が研究・開発されても、このガチガチな大前提(シャノン型情報伝達空間)が揺るがぬ限り、その二元論的な設計主義に基づく社会開発技
術(経済学・経営学なども含む)とIT関連技術は、人間が心底から“生きている意味”を感ずる(感動する)場を、言い換えればスピリトウス的、あるいはシェークスピア劇におけるマクベスの幽霊の如き存在を許すような深い人間的意味を伝え合うことはできないと考えられるのだ。


従って、「ポーランド型自由原理」に典型的に見られる<一種のオートポエーシス的知(=人間・生物・生命体に特有な閉鎖系の情報伝達&知覚システム、生命体としてのレゾンデ−トル(raison d'etre)の保全を視野に入れた謙虚で抑制的な自由原理>の(再)発見を前提としつつ、新たな「公正資本主義」 (Reasonable Capitalism)を創造し続け、それを支えると言う意味で画期的な発想転換をこそ急がねばならぬ筈なのだ。


然るに、これら前提条件の検討が殆ど蔑にされたままの条件下で、あるいは「情報知(intelligence)ではなく切断した断片知(parcel、information)」を伝達すればよしとする<シャノン型情報伝達理論>を大前提とするアカデミズム・パワー(デカルト&ジュリアン・ド・ラ・メトリ的な政治・財界権力と癒着したアカデミズムの存在)が未だに優勢な学術・研究・産業技術の環境下で、より高度な<電子書籍端末機器>、<未来型情報都市>などの開発・整備が大々的に推し進められているのが現実だ。


しかし、それでは、折角の貴重なビジネスの殆どが、更なる格差社会を深化させつつ「知(intelligence)から切断されたノイズ情報(parcel、information)の巨塊」か「砂上の楼閣」ないしは「自然環境及び人間環境汚染型の有害なゴミの山」を築くことに過ぎないと思われる。このため、本来であれば、ここで「ポーランド型自由原理」とともに、もう一つの東欧型英知の成果であるマイケル・ポランニー(1891-1976/ハンガリーの科学哲学者)の仕事(暗黙知の意義など)を見るべきであるが、それは又の機会とする。


ともかくも、現状レベルの設計主義の延長線上にしがみつく限り、我われの<知の切断の対極にある知見>そのものまでもが、“変性細胞化”したとも言える<ネオリベ型市場原理(市場原理主義化したリバタリアニズム)>に蝕まれ害されるため、この世界は、人間社会のシミュラクール(simulacre)化、つまり<ネオリベ戦争・災害資本主義型あるいはナチスドイツ型の人間精神のミクロ&シンクロ化=ルネ・デカルトに始まる自我の範囲で世界が完結し得ると見なす傲慢な近代理性主義の極致>という<恐るべきジレンマでその肉体が変質したリバタリアン・ゾンビの類しか棲むことができない流砂地獄の如き世界>へ限りなく吸い込まれてゆくばかりだ。


そして、我われ人間社会の未来パース(パースペクティブ/参照⇒http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A1%BC%A5%B9)のイメージは、凡ゆる自然・文化・生活環境とスピリトウス(幽霊・精霊・精神=深い無意識の海)が死に絶え、数多の紙幣が宙を舞う中で、道端に散り落ちた紙幣を貪欲に食み喰らい、永遠に死が許されぬリバタリアン・ゾンビたちが<超情報化人工建造物の林>を不気味な雄叫びを上げて彷徨・跋扈する、例えば高層&高速フェティシズムへ傾斜した「人工情報高層都市ドバイ」にソックリの悪趣味な<銭ゲバ・ゴーストタウン>だらけとなるだろう(やがて、擬塑性流体(Pseudoplastic Fluid/速度係数が上昇するほど粘性が減少する流体、つまり、もがけばもがくほど物体・人体等が沈んでゆく流砂のような流体)である巨大規模の流砂の中にフェイドインする運命の人工情報高層都市ドバイの全体イメージはコチラ⇒http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1568599.html)。


<注記>擬塑性流体(いわゆるコロイド溶液を意味する非ニュートン流体の一種)の例
・・・流砂に似た性質を持つ擬塑性流体の例を挙げると次のとおり。⇒塗料、ボールペンのインク、濃縮ジュース、トマトケチャップ、マヨネーズ、粘着性が高いトイレ洗剤など/なお、純粋な水はニュートン流体(速度係数と粘性の関係が一定の流体)の例である。また、川の水、海水、水道水なども厳密に見ればコロイド分子(溶媒中に均一に分散する、通常は溶解しない高分子化合物などの小粒)を含むので擬塑性流体である。


【スーベニール動画】燃える秋(ハイファイセット