toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

国民より早く総ゾンビ化したため『亡霊と対話できる政治家』がいない日本の危機

toxandoria2010-12-04



【プロローグ画像】仙台光のページェント …公式HPはコチラ ⇒ http://www.sendaihikape.jp/

・・・仙台市中心部のケヤキ並木をイルミネーションで彩る師走の風物詩「SENDAI光のページェント」が3日、開幕した。杜の都は31日まで約55万個の発光ダイオード(LED)によるまばゆい光に包まれる(nikkansports.com http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20101203-709676.htmlより転載/画像はウイキメディアより)。


<注記>


当記事は、些か長過ぎた記事[2010-11-30 /TV・新聞・端末等「俗物教養」が騙る無目的な「知の切断」でリバタリアン・ゾンビ化する日本国民、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101130]を章立てごとに分けて再録したものだが、新たにエピソードを書き加えてある。


【プロローグ動画】 Chopin -Piano Concerto Martha Argerich Chopin Piano Concerto11/4,2/4



【エピソード1】ヘロドトス『歴史』に頻出する夢や神託の役割


周知のとおり、政治権力者の思い上がりが破滅を招くことを主なテーマとして、紀元前5世紀のアケメネス朝ペルシアと古代ギリシア諸ポリス間との戦いである「ペルシア戦争史」、ペルシアの建国・発展史、それにオリエント各地の歴史・風俗・伝説などを収集した地誌でもある歴史書『歴史』を著したのは、古代ギリシアの歴史家ヘロドトス(Herodotus/caBC485−420/ドーリアギリシア人)だ。因みに、このヘロドトスを<歴史の父>と命名したのは古代ローマ文人政治家キケロ(BC106−43)である(画像はhttp://www16.atwiki.jp/welbiography/pages/3.htmlより)。


そして、古代における歴史記述のカノン(Canon)、つまり基準、規範と呼び、それらを後世のための模倣に値すると評価され得る歴史書はこのヘロドトスの『歴史』とトゥキディデス(Thucydides/caBC395−ca395)の『ペロポネソス戦史』だけだとされる。また、この二人の歴史書は時間軸でほぼ繋がるが、両者の書き方は大きく異なり、ヘロドトスは視野が広く雑学的内容(いわば知の胎盤・基盤となる内容)に満ちており、トゥキディデスは過去の史実的な記録の記述が主となっている。


このため、近代歴史学の祖とされるレオポルト・フォン・ランケ(1795-1886/19世紀ドイツの歴史家、史料批判による実証主義的・科学的歴史学を確立)はトゥキディデスこそ<歴史の父>に相応しいとした。しかし、現在は、再び<ヘロドトスの歴史の意味の重要性>が認識されつつある(ランケの画像は
http://www1.plala.or.jp/stein/post_de/BRD/1995/index.htmlより)。


ところで、ヘロドトスの『歴史』の特徴である<仕掛けとしての夢・神託・忠告者らの存在>の重要な役割(ヘロドトス的な書き方の歴史書の重要な意義、比喩的に言えば幽霊的な役割)について、見事に説明した記述があるので、その一部を下記◆より抽出し、以下に転載・紹介しておく。


◆中務哲郎著『ヘロドトス歴史、世界の均衡を描く』(書物誕生、あたらしい古典入門/岩波書店)、p060


・・・夢や神託が頻出するところから、ヘロドトスの『歴史』は科学的でないと評されることがあるが、そうではない。『歴史』を超える夢と神託は誤解され、あるいは回避を試みられ、結局は思わぬ仕方で実現してしまうから、ヘロドトスは歴史記述をギリシア悲劇に似せて構想しているのである。夢や神託と同様、行為を促すものとしてしばしば現れるが、ヘロドトスに特有であるのが忠告者のモチーフである。忠告は、聞き入れられる時は盛運を、無視される時は衰運を示唆する。夢・神託・忠告者のモチーフが現れたら『歴史』の先行きが読めることから、ヘロドトスがこれらを歴史記述の方法として用いることが了解されるのである。・・・


【エピソード2】ゾンビとビンゾについての論考/ひたすらゾンビ化する菅民主党政権へ贈る


表題に書いた『亡霊』とは、言い換えれば多くの日本国民の間に漂い日々に濃縮されつつある、一種の不安心理を核として日々に形成されている、国民一人ひとりが自分でも掴みどころがない、まるで鵺(ヌエ)の叫び声の如き不快な情念の塊のことだ。これは、一部のネット市民らによる<ネット上でのモグラ叩きやガス抜き作業>の程度ではとても治まりきれない危険値(カタストロフ)へ向かって上昇中であることは、もはや疑いがないところだ。


だが、未だ人間が比喩的な意味で『亡霊』であり続けるうちは救いがあると見なすべきだろう。しかし、それが『亡霊』ならぬ『ゾンビ』になる可能性があるのだ。というよりも、有史以来、既に我われ人間はゾンビと亡霊の成分を併せ持つ存在で、その両成分の配分の程度に応じて同じ人間が『亡霊』になったり『ゾンビ』になったりすることができるらしいのだ。


因みに、哲学者・永井均氏によれば、ゾンビとは<身体は外見上も生理学的にも人間そっくりのあり方で立派に存在しているが、実は中身(つまり幽霊的な意味での意識)が存在しない、完全にフィジカル(物的)な存在者>のことだ。その逆に、中身(意識)は存在するが、外部のフィジカルな身体が存在しない、完全にメンタル(現象的=100%幽霊的)な存在はピンゾと呼ぶ(このゾンビとピンゾの定義の出典⇒永井均ほか著『私の哲学を哲学する』−講談社−)。


そして、同じく永井氏によれば、このような人間におけるゾンビ化の可能性を明快に示してみせたのが、あのルネ・デカルトの『省察』における思考実験(Je pense, donc je suis)であった。真面目にデカルトを読んだ人が、デカルトの言うことを正しく理解したとき、疑う余地なく存在するその「私」とは自分(読者自身)のことだと考えざるを得ないのだ。


しかし、実はこれは非常に不思議なことだ。なぜなら、デカルトは、自分自身の内側も含め「私」以外の他者なるものの存在を悉く疑わしいとして、その一切を否定し打ち捨てたはずだからだ。ならば、この打ち捨てられたはずの他人が、それはお互い様なのだが、なぜ他人の「私」を理解できるのだろうか?(この疑問の出典も上に同じ)。


それは、このデカルトの議論が<言語>で語られているからだ。コミュニケーション言語が介在することで、この議論に驚異的転換が起こるのであり、この議論はその実質を一変させてしまうのだ。端的に言えば、もし<言語>がなければ「私」が他人の「私」と全く同価であることは、お互いに理解できないということだ。つまり、デカルトによれば、この<状態の驚異的転換>こそが人間の『ゾンビ』成分の作用だということになる。


敢えて、より俗っぽく翻訳すれば、それは、もし『ゾンビ成分70%の人間』が存在するとしたとき、彼が『他のゾンビ成分40%の人間』を論理的に理解できても、例えば、その他の『残りの幽霊成分60%の人間』の感情・無意識等のレベル(それコソ、人間の成分が殆ど幽霊である所以)については納得ずくの理解はできないということだ。


ヘロドトスが『歴史』を書いた時代の<夢や神託>の役割を担うものが現代にあるとすれば、それはネット網に広がる電脳空間を浮遊する「切断された知」の中に漂う『幽霊』的な色彩を帯びた、少数派のウエブ・インフォメーション(インフォメーション情報)ではないか。このインフォメーション情報が、そのままでリアルな人間社会の主役(情報知、インテリジェント情報)となることはあり得ないとしても、もし政治権力者や企業経営者らが自らの明確な目的を持つことができれば、それら『幽霊』的な色彩を帯びた情報をヘロドトスの<夢や神託>の意味で活用することはできるだろう。


つまり、「人間の内面生態空間」と「人間の外界生態空間」を開放系で同次元と見なすシャノン型情報伝達空間(電子情報の電気通信的伝達空間)を基本とする現在のウエブ・インフォメーション情報には、歴史や個々の人々の経験知と責任に根差した「情報知(intelligence)」ではなく「無責任に切断された断片知(parcel、information)」であるという限界がある(そのありのままでは悉くがジャンク情報に過ぎない)。だから、我われが無目的にこれらジャンク情報を日がな一日追い続けるとしたら、それは時間ならぬ人生の無駄遣いということにもなりかねない。


しかし、少なくともヘロドトスが超人的な知力・体力・財力(この辺りの事情は全くナゾに包まれたままだが・・・)で当時の世界を遍歴したスケール以上の膨大な<言語が介在>する情報(デカルトならぬ、ゾンビと幽霊の両成分を併せ持つ我われの如き普通の人間が人間どおしのコミュニケーション言語で双方へ伝達し得る情報)の中から、ヘロドトスの<夢や神託>に相当する、いわば<我われ人間社会の未来を暗示的に語るインスピレーション(≒ポエティック、詩的)な言語情報>を手にすることは可能なはずだ。


例えば、下の如き◆1、◆2のネット情報がその実例だ。早くも登場当時の新鮮さが薄れつつあるかに見える◆1のウイキリークスも、それが単純かつ野放図なリークではなく、背後にある何か一定の意図の下にリークされているらしいことが垣間見えるや、そこから多様な意味が読み取れ始めるのだ。


あるいは、◆2の如き情報が過剰に一方へ傾けば単純陰謀論のドグマへ嵌るのだろうが、いくらリバタリアン・ゾンビ化しつつある日本国民と雖も、宗主国アメリカの余りにも利己(リバタリアン)的で過剰横暴化するばかりの傾向の弊害を心底理解(つまり、日本国民の幽霊成分の方向への巻き戻しが)できれば、いつまでも<反小沢派vs小沢派>で不毛なエネルギー蕩尽の消耗戦を内輪(国内)でやってる場合でないこと位は納得できるはずだ。そうでなくとも、そのドサクサまぎれに、例えば日本の戦時経済体制化への姦計が着実に進んでいるのである(参照⇒『日本、ジブチに大軍事基地を建設』、
http://www.kisc.meiji.ac.jp/cgi-isc/cgiwrap/ubukata/freebbs/patio/patio.cgi?mode=view&no=18)。


◆1(ツイッター情報)hanachancause 2010.12.03 21:36
ヒ素利用生存の新細菌的戦略!RT @yamabada: これがアサンジ(ソロス他)の目的@leonardo1498 クリントン長官は辞任をウィリク創設者アサンジュ氏、対決姿勢鮮明http://bit.ly/dX2zTO @rolling_bean @hanachancause


◆2菅政権〜支持率1%でも続投できる理由(ブログ誰も通らない裏道)阿修羅掲示板<投稿者 判官びいき 日時 2010 年 12 月 03 日 11:00:22: wiJQFJOyM8OJo>http://www.asyura2.com/10/senkyo101/msg/200.html


・・・・・・以下は、[2010-11-30 /TV・新聞・端末等「俗物教養」が騙る無目的な「知の切断」でリバタリアン・ゾンビ化する日本国民、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101130]のプロローグの再録である・・・・・


【プロローグ】いまこそ《ハムレットと亡霊の対話》が復権すべき時だ


いまルネ・デカルト(1596-1650)の「我想う、ゆえに我あり(Je pense, donc je suis/ Ich denke, also bin ich /cogito ergo sum)」を確たる前提とし、それを無謬なる合理的視座とする基盤そのものが大きく揺らぎ始めている。自我の範囲で世界が完結し得ると見なす傲慢な近代理性主義を原点とする透視図法的な社会経済と政治意識についての設計主義が、その根本から疑われているのだ(ルネ・デカルトの画像はウイキメディアより)。


それは、合理的設計主義の発想下における<政府の大小論>などは“同じ穴の狢(無意味な議論)”であることが最早バレバレであるうえに、米国型自由原理主義、つまりミルトン・フリードマン仕立ての米国型自由原理主義ネオリベ戦争・災害資本主義/その典型がチリ・ピノチェト軍事政権下で成功が謳われた“チリの奇跡”の欺瞞/参照⇒
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20100730/1280494314)が、実は格差拡大主義の邪悪なホンネを隠蔽した食わせ物(リバタリアニズムランディアン・カルト、ティーパーティーらの暴走)であることが明らかとなってきたからだ(ランディアン・カルトについては下記★を参照乞う)。


ランディアンカルト感染症への警戒の勧め、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090824


この《ハムレットと亡霊の対話》が崩壊させられた状況(つまりルネ・デカルトの「我想う、ゆえに我あり」を確たる前提としてきた我われ自身の危うくも悲惨な姿)は、現代社会における次の如き我われ普通人の日常生活における所作に現れている。そして、そこに見られる我われ自身の精神環境の崩壊シンドローム(知の断片化)傾向は日々に強まるばかりのようだ。


・・・まるでデカルト先生風に、人は有史いらい“絶対孤独”であるべきとでも言いたげな表情で、本来は束帯装束にこそ似合う笏型の「携帯」をシッカリと手に握り締め、その小さな端末(画面)をジッと凝視しつつセカセカ歩きまわり、ひとたび座するや否やTVかパソコンにしがみつき虚像or電脳空間でインテリジェンス(一定のスピリトウス的な目的と結びついた情報)ならぬ拡散した無数の<知の断片>を日がな一日追い求め、又は詐欺的or作為的な虚像のパロールに溺れ、そして時には“すわ尖閣諸島で、朝鮮半島で有事勃発!”との超フェティシュ・インフォメーション(断片化したノイズ情報⇒そのクラスタ(塊)がトリビアな俗物教養)に条件反射し、かつ、うろたえ、時にはモグラ叩きの発火に嵌る・・・。


<注記>


(1)誤解なきよう前もって断っておくが、toxandoriaは携帯・ネット等の利用意義を全否定している訳ではなく、それが目的に沿う利用か否か常に意識することが肝要とする立場である。


(2 )リバタリアンリバタリアニズムを信奉する人のこと。リバタリアニズムについては当記事の中で説明する。


(関連参考情報)


「飲まず読まず、ネット」な日常=睡眠、読書は減り、ネット増―シチズン調査 - 時事通信
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_investigation2_so__20101127_15/story/101127jijiX971/
・・・


以下は、河合祥一郎編『幽霊学入門』-新書館-(p4-5)より部分引用・転載・・・


人は自分を超えたところにある<何か>と繋がり、呼応するときに大きな力を発揮する。インスピレーション(inspiration)を得るというのも息を吸う(inspirate)ことで自分の中に<霊(スピリトウス)>を呼び込む謂いにほかならない。・・・途中、略・・・だから、ちっぽけな<近代的自我>を超えるスピリトウス(霊なるもの、時空を超えた自然環境的・精神環境的・文化的な堆積と深淵)に思いを馳せてみよう。霊について考えることは、私たち自身がこれからどのようなスピリットで生きていくべきかのヒントとなろう。ハムレットが亡霊と対話することで“生きるとは何か”を考えたように、人は霊(スピリトウス)と向き合って初めて己の生き方を知ることができるのではなかろうか。


ともかくも、それはデカルトが、敢えて「それ(エス/das es)」の存在を無視して、確固たる「我(自我)」を捏造した節があるからだ。そして、デカルトが無視した「それ(エス/das es)」とは、比喩的に言うならば、広義の外部経済の如きetwas、我われ自身も気づかぬ無意識の世界、更には広範な自然・社会・文化環境の全てに結びつく無意識の深い海と言えるだろう。


実は、この設計主義の祖とされるデカルトの「我(自我)」に「それ(エス/das es)」が絶えず影のように付き纏うことを明確に指摘したのは18世紀ドイツにおける実験科学者の嚆矢とされるG.C.リヒテンベルク(1742−99/リヒテンベルク図形の発見等で知られる/ゲッティンゲン大学に入学し、1769年に物理学の員外教授、その6年後には教授となり亡くなるまで同大学に在職した)であった(画像『ゲッティンゲンの市場にあるリヒテンベルクの像』はウイキメディアより)。


その「エス(das es)」についての理解は、ポスト・リヒテンベルクで二派に分かれ、<リヒテンベルク→フィヒテ→(シェリング)→ビスマルクヒトラー→(リバタリアニズム)=前意識の系譜>と、<リヒテンベルク→フォイエルバッハニーチェフロイト=無意識の系譜>の二つの流れが存在することが、漸く、理解されつつあるようだ(以上、G.C.リヒテンベルクによるエスの発見と、(das es)の二派発生についての出典は、互盛央著『エスの系譜』-講談社-より)。


だから、我われは、この新たなスピリトウス的な意味での知見から『自由』について更に深く考えるべき時代に入ったのではないか。それは、近代啓蒙思想の類稀なる貴重な落とし子とも言える『自由』が、その『自由』の大劇場である筈の自然と社会そのものから限りなく逸脱しつつ傲慢化し、今や余りにも異様なほど天空高く舞い上がりつつあるように見えるからだ(この論点の詳細については下記◆を参照乞う)。


◆何もしたくない閣総理大臣コト、菅直人首相へ贈るパロールhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101118


<注記>(シェリング)、(リバタリアニズム)の丸括弧表記について


(1)「エス(das es)」の前意識の系譜<・・・フィヒテ→(シェリング)→ビスマルク・・・>で、シェリングに(   )が付いているのは、プロイセン王国フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とビスマルクによってシェリングが“都合よく誤解(曲解?)され、利用された節がある”ことを意味する。なお、その具体的内容については後述する。


(2)同じく、この系譜の<・・・ヒトラー→(リバタリアニズム)>の部分で、リバタリアニズムに(   )が付いているのは、これは一般の定説(常識?)とはやや異なるかも知れぬが、下●のような理解が可能であることを意味する。


●米国型自由原理主義の御本尊とも見なされるリバタリアニズムだが、その定義の領域は非常に広範で「極左〜極右までのレンジ(Range)」が視野に入ってしまうため、その本質については様々な議論が行われている。例えば、その典型例にフリードリヒ・ハイエクリバタリアンか正統保守主義者かという議論がある。


●そこで、最もその核心となるべき部分に注目すると、それは「徹底した自己責任」と「超過激な自由」(この場合の自由は国家が与えるものではないという意味で“消極的自由”という逆説表現が使われる)の極致としての「市場原理主義」ということになる。


●それ故に、超格差の発生とその帰結としての「超富裕層を頂点とする階層固定化」が必然であり、貧困層に嵌る人々の不利益と不幸は自己責任の冷厳なる帰結だとして当然視する。


●結局、これは公正資本主義の如き国家による設計の結果ではないというものの、結果的に「超富裕層を頂点とする階層の固定化」という非情で冷酷な社会構造が必然的にもたらされるという意味で、矢張り、リバタリアニズムが<事実上の設計主義>であることに変わりはない。


●というより、“消極的自由”という表現で中庸な価値観風を装いつつ、まったく敗者復活が不可能な弱肉強食のプロセスを経たうえで絶対に避けることができない「超富裕層を頂点とする階層固定化構造」を導くと言う意味では、甚だタチ(質)の悪い偽装的・詐欺的で、かつ非人道的なエゴイズム(自我=Je / Ich)丸出しの超利己的な「超設計主義」に他ならないと言うことになる。


●このような観点から見たリバタリアニズムは、例えば「ポーランド型自由原理」(一般国民に対し責任を負うべき中間エリート層には、必然的に戦争型の暴力性(ファスケス)を潜ませる覇権的大政治権力に対し民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意味での徹底した自由があるとの立場に立ちつつ節度ある市場経済(資本主義)を肯定する考え方/ポーリッシュ・モデラティズム(moderatism)とも呼ぶ)の対極にある。


【エピローグ動画】Martha Argerich Chopin Piano Concerto1 3/4,4/4