toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

お粗末「菅ゾンビ政権」と尻つぼみ「小沢の政治とカネ」は対「小泉ゾンビ」無反省の賜物? 記者クラブメディアの罪の軽重を問う

toxandoria2010-12-18



【スーベニール画像】ポーランドの風景・トルン、ア・ラ・カルト














【参考動画】Stand Alone坂の上の雲』の主題歌


“まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている・・・のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ=ひと固まり)の白い雲がかがやいて、いるとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくだろう・・・””と、小泉ゾンビが語ったかどうかは忘れたが、「小泉ゾンビ」こと、米国ネオリベかぶれで、マスメディアが大いに好んだ宰相・小泉純一郎の仕掛けた「小泉劇場」が日本社会に遺した大きなダメージの傷跡(産業構造&雇用環境破壊、貧富差拡大など)は余りにも深い(画像はhttp://pesfis.exblog.jp/12211327/より)。


そして、少なくとも諸外国の過半の人々が、この「小泉ゾンビ」の暴政ぶりについて認識しているにもかかわらず、結果的にその傷跡の修復を担うべく政権交代後に登板した「菅民主党政権」が再びゾンビ政権(国民一般の人間性を踏みにじる非人間的な政治感覚を持つ政権)であることが明らかとなってきたが、今や時すでに遅しの感がある。なお、諸外国の過半の人々が、この「小泉ゾンビ」の暴政ぶりについて認識している現実については、以下のような国際政治コメンテータ藤原肇氏の著書についての情報がある(toxandoriaの日記/菅・鈍感政権、唯一の成果は日本の「米型詐欺資本主義&国民総ゾンビ」化の促進か?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101215に対するコメント)。


不動明王 (76.170.112.253) 2010/12/17 to toxandoria(http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101215)
菅内閣小泉政権と同じネオコン政治の権化という意味で、小泉のゾンビ政治を世界に向けて明らかにした、藤原肇著「Japan’s Zombie Politics」を英語で読み返すことにより、いかに酷い暴政が菅直人という権力指向で無能な成り上がり政治家によって、日本国民全体を不幸に陥れているかがよく分かる。http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/paper/jzp/jzp.htmlここではゾンビ政治の実態が明らかにされ、それが明確に読み取られるのであるが、世界の要人がこれを読んで日本のゾンビ政治の実態を理解しているのに、肝心の日本人が英語を読む能力がないので、「知らぬは日本人ばかりなり」という事態を招いているのではないか。』


・・・以下に、<序文の一部>を英文のまま転載しておく・・・


Introduction - A Nation of Zombies  Koizumi Junichiro and Japanese Politics

 
The purpose of this book is to diagnose the pathological effect of the Koizumi administration on Japan and its citizens.


Koizumi Junichiro, Japan's current prime minister, has had the fourth longest incumbency of any prime minister in postwar Japanese history. Inaugurated April 26,2001, Koizumi overwhelmingly ,won a general election on September 11, 2005, and will retain his position as Japan's head of state until at least September 2006. If there is a new administration in fall 2006, it will be a ghost and puppet of the current Koizumi administration. It will preserve the Koizumi system and continue to rule Japan as an ochlocratic state.


Consider these two-figures.


$9 trillion. After his election in 2001, Koizumi abandoned his policy pledge to limit the issuing of new government bonds to less than $270 billion U.S. As a result, the amount of outstanding government loans rose from $3.3 trillion at the end of 2000 to approximately $4.3 trillion by the end of 2004. Also, debt from short-term government securities and public loans is presently at $7.2 trillion. There is a high probability that total debt will exceed $9 trillion with the inclusion of debt from local government agencies. A deficit of this magnitude is equal to roughly two years of Japan's gross domestic product. This will be impossible to pay back no matter what measures the government takes. For this reason, regardless of immediate economic trends, Japan is in a crisis.


$4,800. This is the average monthly income for a Japanese household as announced by the General Affairs Department in 2004. In 2000, before Koizumi was elected, this figure was around $5,100. This means that the average income of the Japanese family has dropped by $300 monthly over the course of Koizumi's four years in office.


From these two figures alone, it is clear that Japan under Koizumi is heading for disaster.


Diagnosing Japan's Malady


I have lived outside Japan for over forty years. During this period I have traveled many times to Japan to observe its political characteristics and compare them with those of other countries. This is the first time that I have had to stoop to such a low level to describe the government of my native land. Koizumi's policies are so callous toward the actual condition of the Japanese state and its people, that I esteem Japan's political performance to be worse than North Korea or even Namibia. Why has Koizumi's misgovernment been so neglected?


One reason for Koizumi's endurance is that the Japanese media has failed in its watchdog role. Another reason is that the Japanese people, who have personally fallen into a miserable situation, do not realize its gravity. Competent people in the world know Koizumi's how happy-go-lucky approach, and it is not an exaggeration to say that they are appalled. Yet Japanese people themselves do not understand the person they have elected or what he is doing to Japan. I can't help but saying that our ignorance makes me very unsettled.


I visit my country several times each year to gather information and debate Japan's condition with my readers and journalist friends. On recent visits they have asked me when my next diagnosis of Japan was coming out. I have always responded "diagnosing Japan is the work for a professional pathologist."


Many journalists, professional analysts, politicians, bureaucrats, and old acquaintances are among my readers. These people, who conscientiously support Japan, provide me with inside information and also occasionally cooperate and add to my research. I also have many old friends in the Foreign Correspondents Club of Japan. These special friends take pride in good coverage and news analysis. They help with homework I request of them when I visit. Their research and conclusions often provide flashes of understanding for me.


For a long time I was thinking who would write the diagnosis. But no person appeared. The Koizumi cabinet has remained in power for more than four years with no serious confrontation. When it struck me that I was the only one who would write it, I began a data file of information a few years ago.


As a professional geologist, I consider myself an earth diagnostician. While this means that I am best at working with Mother Nature, I decided to use my powers of observation to grasp the political problems of Japanese society and diagnose them from a historical point of view. ・・・この続きは。http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/paper/jzp/jzp.html
で原記事を参照乞う・・・


そして、傲慢化した「菅ゾンビ」お粗末政権の根本には、矢張りこの「小泉ゾンビ政治」への無反省ということがあると思われる。無論、政権交代後の菅政権は自らの正体が“ゾンビ”であることは、おくびにも出さず、むしろ小泉ゾンビを批判するかの風情にも見えたが、ここに来て正体がバレ始めた。見方によるが、それはミイラ取りがミイラになったといえるかも知れぬ。


ともかくも、「菅ゾンビ」の詳細については[toxandoriaの日記/菅・鈍感政権、唯一の成果は日本の「米型詐欺資本主義&国民総ゾンビ」化の促進か?、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101215]をご覧頂くとして、そのゾンビぶりを見事に示すワンシーンがあるので、ツイッター情報から下に転載しておく。


hanachancause 2010.12.16 18:12
【QT】大企業に甘く国民の暮らしに厳しい「税制改正大綱を閣議決定」 法人減税、暮らし増税でニコやかな菅ゾンビ総理、


ところで、主要な新聞・TVなどの主要メディアが総掛かりで執拗に攻撃してきた「小沢の政治とカネ」の問題が、急速に尻つぼみとなりつつあるという驚くべき情報がある。実は、恰も「菅ゾンビ政権」の援護射撃でもするかのように、「小沢の政治とカネ」に対する<主要メディアの絨毯爆撃>が数年来に及び行われてきたのだが、その状況が急速に反転しつつあるのだ。このことについても、関連する最新情報をツイッターから拾って下に転載しておく。


hanachancause 2010.12.16 17:59
御意 RT @owljii: 森ゆう子議員は偉い。朝ズバのみのや、いんちきコメンテーター達が束になってかかって来たがなで斬り!日本のTVのニュース報道は下らな過ぎる。 http://www.youtube.com/watch?v=azH9if0Fz74
【動画】朝ズバ 捏造報道を指摘 森ゆうこ?.mp4


・・・また、その急速に反転しつつある状況を詳細に報じるブログ記事があるので、関係部分を中心に、以下に転載させていただく・・・


政経徒然草、2010年11月25日木曜日 http://haru55.blogspot.com/2010/11/3.html


陸山会事件のその後・・・秘書3人の裁判の目処立たず》小沢裁判「司法現場は大混乱」


「強制起訴」された小沢裁判に「大逆転」の目が出てきた。暴走検察への国民の不信感が強まる中、検察の新たな矛盾、でたらめが次々と明らかになってきた。司法の現場はシッチャカメッチャカになっている。


「こりゃたいへんなことになったぞ」大マスコミの司法記者たちが頭を抱えている。悩みの種は小沢氏の元秘書石川議員の裁判だ。


政治資金規正法違反で2月に起訴されて以来、公判前整理手続きが長引き、初公判の目処もたたない。浮き彫りになってきたのは検察の支離滅裂ぶりだった。 検察は当初、「虚偽記載の背景には水谷建設からの裏金5000万円がある」というストーリーを描き、石川議員を別件で逮捕した。大マスコミを使って、大騒ぎさせて悪質性をことさらに強調。6月には改めて裏金疑惑を立証すると公判前手続きで明らかにした。


ところが、今になって「証拠はない」なんて言い出したから大混乱になっているのだ。「5000万円の裏金に拘ってきた検察に対して、石川議員の弁護士は「根拠が不明確だ」と反論していた。東京地裁も「虚偽記載との因果関係を明確にするように」と検察に指示した。しかし、当の検察はいつまでも根拠を示せないどころか、徐々に発言もトーンダウン。


「因果関係は断言できない」と言い出したかと思えば、最近はとうとう「分からない」とサジを投げ、「だから裁判で立証する」なんて居直っているのです。弁護側が「それなら裁判でやる必要はない」と言っているのにまるで禅問答です。検察の見込み捜査だったことを悟った大新聞やテレビの司法記者たちはガク然とし、「リークを元に散々裏金をを報じたのに・・・・・・・・・」と真っ青になっています。(司法関係者)


第五検察の起訴議決は「違憲」「無効」の見方が有力


それだけじゃない。11人の素人集団による検察審が小沢を強制起訴とした一件もひっくりかえる可能性がでてきた。小沢サイドは起訴議決は「無効」として行政訴訟を起こし、12月21日に初公判が開かれる。この裁判で議決無効となる可能性が高いと見られている。


最近、小沢が急に元気になっているのも、その見通しが立ったからではないか」というのだ。参議院法制局第三部長を務めた弁護士の播磨氏がこう指摘する。「有効、無効どころではありません。大前提として、検察審の強制起訴制度そのものが憲法違反の疑いが濃厚なのです。


同じ、行政委員会の人事院などが内閣の所轄下にあるのとは違い、検察審だけは独立した存在になっています。裁判所に置かれていると勘違いしている人も多いが、検察審査会法では「裁判所の所在地に置く」としか書かれていません。三権分立の枠組みを完全にはみ出している。


行政執行権をもっているのに、責任主体がない。これでは第四権力です。


実際、議決の執行停止などを求めた小沢氏の申し立てに地裁と高裁は門前払いをしたが、最高裁は特別抗告から1ヶ月近くたっても結論をだせない。慎重に審議しているのでしょう」西松事件で起訴された大久保秘書の裁判の「見立て」は崩壊している。この裁判では、小沢側に献金した2つの政治団体が「西松建設のダミー」だったかどうかが集点だが、検察側証人が1審、2審で「ダミーとは思っていない」と完全否定。


困った検察は訴因変更なんて言い出したから、裁判はグチャグチャになっているが、劣勢を挽回するのは難しい。


もし、秘書の裁判が次々と無罪になり来月21日からの行政訴訟も無効となって潔白が証明されたら、小沢は表にでてくる。その時に政局が一挙に動くことは間違いない。


序々に検察側のいい加減さが露呈し始めているようだ。石川議員の弁護側は虚偽記載を全面的に否認し、記載ミスは認める方向のように思われる。記載ミスと言っても翌年には記載しているわけで、自発的に修正しているので犯罪を問えるかどうかも怪しい。


当然、記載ミスを認める方向だとすると、小沢さんの共謀罪は成立しないことになる。両方の裁判の整合性を考えながらの判断なのかもしれない。公判前整理手続きで水谷建設からの裏金5000万円があるというストーリーが、認められなければ、検察審査会の二度目の議決の問題点となっている追加された犯罪事実も認められないことになる。検察審査会の議決が改めて問題となることは間違いない。


どうも、仙谷官房長官民主党執行部、マスコミ、野党もこれらの情報を入手している気配だ。小沢さんの動向に敏感になっている。注意すべきは、仙谷官房長官法務大臣を兼務することになった点だ。


江戸時代にたとえるならば、奥方の言う事にしか耳をかさないお飾りの将軍を裏で操る悪老中が自分の権力を維持するために恐怖政治をしき、政敵を徹底的に排除する図をイメージするとよくわかる。この老中は、いざとなったら何をやらかすかわからない怖さがある。十分に注意が必要である。


・・・・・ここで引用終わり・・・・・


もし、以上で概観した<大逆転劇>が成立するとするならば、この悲惨な政治状況と「小泉ゾンビ劇場」に無反省であるばかりか、まったく懲りることを知らずに再び無辜の日本国民を煽って<偽装版、坂の上の雲>ならぬ<巧妙版、坂の上の陥穽(落とし穴)>に乗せた主要記者クラブメディアの罪は余りにも重く、万死に値すると言わざるを得ないだろう。


それにしても、我が国は何故にかくの如く胡乱で無駄な回り道をいつまでも歩み続けることとなり、希少な国民の命が失われ続けなければならないのか(記者クラブメディアは、平成10年以降ここ10年数年もの長きに及び年間3万人以上の不況型自殺者が続く悲惨な現実を真面目に見据えよ!)。


このように悲惨な現実に対して何故に我が国のマスメディアが冷淡であるかについては、様々な見方があるようだが、ここでは、「近代日本における知識人社会と民衆社会の精神的断絶」という観点から概観しておく。


おそらく同じような状況はアジア諸国でも見られるのであろうが、少なくとも欧米諸国では些か事情が異なると思われる。欧米諸国においては、無論、国ごとに異なる現実はあるとしても、少なくとも過半に近い国民層はマスメディアが提供する情報によって辛うじて民主主義国家の国民として相応しい意識を持続させることが可能となっている。


我が国において、かくの如き主要マスメディアのお粗末な意識が今も続く原因は、我が国が、未だに明治期以降の急速な近代化がもたらした思想状況の著しい混乱の尾を引きづっているという現実にあるのではないかと考えられる。具体的に言うならば、それは廃仏毀釈や日本美術の廉価売り払いと同じことで、日本の伝統思想のまともな研究がアカデミズムの中枢から排除されたことを指す。その代わり幅を利かしたのがアカデミズムの外の国粋的政治勢力やジャーナリズム分野における日本主義などの“ゾンビ思想もどき”の跋扈であった。


いったん政治権力の中枢にそれらの“思想もどきゾンビ”が棲みついてしまえば、余程腰が据わった人物の命がけの仕事がもたらすレア・ケースを除けば、結局は政治権力にかしずかざるを得ない日本のアカデミズムで、まともな日本伝統思想の研究が行われる筈がなかったのも当然と見るべきかも知れない。


このことは、例えばポーランドにおけるシュラフタ民主主義(ある観点からすれば、日本における武士道に相当するサムライ精神でもあると見なせる)の伝統が、現代ポーランド社会で見事に生きていることと対照的である。無論、だからといって現代ポーランドは封建国家どころか、欧米諸国に対して<21世紀の新たな民主主義のあり方の可能性>をすら予見させる立場となりつつあるのだ。残念ながら、殆どの日本人には、このように極めて活目すべき重要な点が全く見えていないようだが。


ところで、このような意味での<明治期〜第二次世界大戦以前の時代>における我が国マスメディアの“一種の成功体験”が今もって悪さを為しているのが現代日本のジャーナリズムの特異性だ。その意味で日本の主要なマスメディアはアカデミズム以上の大きな権力を身に帯びるという歪な伝統を持ち続けていると見なすことが可能だ。そして、戦前の朝日新聞などが政府の外交政策を弱腰あるいは軟弱外交という形で糾弾しつつ対外強硬論を煽り、主戦論を主張して国民を無謀な開戦支持へ仕向けたことは周知のとおりだ。


その結果、現代日本のマスメディア(のみならず政治)に、いわゆる「オヴァートンの窓/ Overton window」(社会正義と民主主義の維持のために多様で斬新な人間社会の可能性を絶えず見据えることが可能な知的感受性のための窓として役立つ強靭な心のあり方/参照⇒http://en.wikipedia.org/wiki/Overton_window)を見失っており、おぞましき「小泉ゾンビ劇場」への反省をするでもなく、ひたすら戦前の主戦論のキャンペーン報道の亜流とも見なすべき「小沢の政治とカネ」を煽ることに現をぬかしてきたという訳だ。


百歩譲って、その「小沢の政治とカネ」が自らの狙い通りに大団円となったとして、その先にどれだけ明るい日本の未来が展望できるというのか? そこにあるのは<未だそれでも続くぬかるみゾ!>だけの日本ではないのか? その意味で、これら主要メディアがやっているのは抜け目のない火事場泥棒か、せいぜいが無辜の国民層の足元を見て法外な日ゼニを稼ぐ“たかり稼業”の雲助の仕事ではないのか。


・・・以下は、[toxandoriaの日記/『ゾンビ(新自由主義)vs幽霊(人間のための自由原理)』間に横たわるバカの壁http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101210]への“ぴっちゃん”さま(ポーランド在住)からのコメント&レスの転載である。些か長いものとなるが、何故に、上で書いた「オヴァートンの窓/ Overton window」が日本に欠ける事態となったかの事情を補強する意味で重要と思われる、文明論的・政治論的な解説となっているので、是非とも、ご一読願いたい。・・・・・


ぴっちゃん 2010/12/15 01:27  


惑星が異なると元の惑星での形質とは同じ形質が決定されなくなるだろうというのは、DNAやRNAだけでなく、酵素などの蛋白質その他の有機化合物の種類、構成、それらの動きが惑星ごとに異なるからではないでしょうか。それらが惑星ごとに異なるということが、そなわちその惑星ごとの「歴史的経験」が異なるということになると思います。


もしそうであるとすれば、デカルトからヘーゲルへの流れで発生し発展した「ドイツ歴史学派」の産物を取り込んだ近代日本は、別の惑星のDNAを持つ生物を移植した惑星の比喩が使えそうですね。DNAの場合、移植した先の地場の諸条件(有機化合物群の構成)との間で、移植に伴う定着期間において摩擦のようなものが起こり激しい淘汰現象が見られると思いますが、明治以降の現代日本における社会的矛盾や悲劇の多くはそういうメカニズムから来ているもの、という風にも解釈できます。


ポーランド的な穏健主義(moderatism)の自由主義というのは、つまりは「漸進主義(gradualism)」(19世紀には実践の場でポーランドポジティヴィズムとして現れたもの)のことですから、これは一方で「穏健な保守主義」であり、かつ同時に見方を変えると「穏健な革新主義」でもあります。


近現代ポーランドが非常にマズい対応をしていた時期(たとえば、ポーランド国王ジグムント3世自身がイエズス会と組んで革命家となり事実上のロシア革命に乗り出した17世紀初頭、一部の政治勢力によるリバタリアニズムが横暴化した「大洪水時代」からポーランド分割までの時代、19世紀の2度の対ロシア蜂起の時代、ファシズムではなかったもののポピュリズムが主流化した戦間期)の理想主義(idealism)や過激主義(radicalism)との対比を行うと、ここに日本の未来に向けて何らかのヒントがあると思います。現代日本は何らかの理想主義(idealism)・や過激主義(radicalism)に陥ってはいないか?それこそ社会主義(人間を社会建設の手段とする悪しき思想、カントが激しく批判する功利主義的な非人間思想)ではないのか?


佐藤政権から田中政権にかけての自民党の一連のアメリカ・ケインジアニズム的経済政策(また金融政策主導の、無理のある人工的な信用拡大政策による輸出後押しが始まったのはニクソン・ショックから数年後の1970年代半ば当時の日銀からで、これがのちのバブル経済を招いた)、橋本政権(実際はそれよりずっと前の中曽根政権からはじまった)から小泉政権を経て安倍政権あたりまでの自民党の一連のニュー・クラシシズム的経済政策かつネオリベラリズム的総合政策(日銀による信用拡大政策が過激化したのはこのころから)、現在の民主党の一連のニュー・クラシズム的経済政策かつニュー・リベラリズム的総合政策(ただしここで日銀は以前と異なり、白川総裁以下、一層の金融緩和を求める政治と戦うヨーロッパ的あるいはオーストリア的な金融タカ派勢力が内部で力を持ちはじめているように見えます)、これらは私には日本人の心理にある何らかの理想主義(idealism)にもとづいた過激主義(radicalism)のように思えます。その場その場ですぐに答えをほしがる拙速主義(hasty-ism)と呼んでもよいかもしれません。(客観テスト重視の高校受験や大学受験の心理的影響か)。


これらには明らかにそれぞれの同時代(というか10-20年程度の遅れで)の英米の政治思想や政治経済学の変化の影響が見られます。


日本において、許容されうる政策の選択肢が、上記のように理論的に見た場合は過激とみなされかねない範囲にまで拡大してしまった、いわば「空気に流される」現象自体は、「オヴァートンの窓(the Overton window)」という政治学の概念で説明できます。その「窓」の位置や大きさを主体的に規定しているのは、現象的には英米の政治事情ですが、私の見たところ本質的には「ドイツ歴史学派」すなわちデカルトからはじまりルソーからヘーゲルに至る「フランク人(つまり独仏人)たちの政治哲学」、ないしそれと親和性の高いイギリスのベンサムの「功利主義(utilitarianism)」の2つの思想ではないかと思います。これが人々の心に住み着き、人々を動かし、これまでの日本の「窓」を動かしているのです。


「西のフランク人」たち、そしてロシア人などのように東のローマ法であるビザンツ法の体系のもとで(ビザンツ法は私法の概念が未発達のため、公私の区別も未発達の)メンタリティをはぐくんだ「東の正教徒」たち、その2つの「人間を(社会建設の)手段とする」勢力のちょうどはざまで、カントの主張のように「人間を(社会建設の)目的とする」ことで「第三の道」を見出したポーランド自由主義者たちの弁証法的な政治思想は、例の熱血教室のマイケル・サンデル教授が英米や西欧(要するにフランク人たち)の唱える伝統的な「正義」に関する哲学に疑問を持ち、「これからの正義」に関する哲学として対応させているものに当たるものではないかと思いますがいかがでしょうか。


サンデルはカント的な立脚点から理論構築のアプローチをしているので、現代ポーランドの主流派だけでなくサンデルの政治思想も、もとは啓蒙主義時代のカントやバークなどの穏健自由主義者や当時の第一共和国憲法に代表される一連の思想と理論的に深いつながりがあると思います。


第一共和国憲法の哲学的中心人物を挙げるとフーゴ・コウォンタイ(Hugo Kollataj)、スタニスワフ・スタシツ(Stanislaw Staszic)、ヤン・シニャデツキ(Jan Sniadecki)ですが、彼らはイギリス経験論とは別個に発展したポーランド経験論およびポーランド実証主義(この場合の実証主義は、貴殿が言及しておられた19世紀の実践哲学としてのポーリッシュ・ポジティヴィズムでなく、純粋哲学としてのいわゆる一般的な意味での実証主義のほう)の哲学者たちです。


そして彼らポーランド啓蒙主義時代の政治哲学の源流は間違いなく、15世紀初頭におそらく人類史上初めて基本的人権国際法概念を明確化し、これをもってコンスタンツ公会議に赴き、(人間を社会の手段と考え、)「宣伝戦における勝利は、もはや勝利の期待できない本物の戦争から騎士修道会を救い出すことになる。」とまるでヒトラーゲッベルスのようなことを考えながら公会議ポーランド非難をしてきたドイツ騎士団を相手に、(人間を社会の目的と考える立場から)真っ向から論戦したクラクフ大学のPawel Wlotkowic学長でしょう。


なぜなら、Pawel教授の政治思想は経験論と観念論の弁証法的解決に他ならず、彼の理論では両者の間の矛盾が見事に解消されているからです。(15世紀初頭に活躍したPawel教授を基準とすると、17世紀初頭に業績を挙げたベーコンに発するイギリス経験論よりもポーランド経験論のほうがその発展において2世紀ほど長い歴史を持つことになりますが、その辺は解釈によってどうとでも言えますので、私はあえて強調しません。彼らの経験論の言いだしっぺはアリストテレスだとも言えましょうし)。


なお、コンスタンツ公会議におけるPawel教授の理論の要旨は、Wikipediaの「パヴェウ・ヴウォトコヴィチ」の記事において箇条書きでわかりやすく示されております。またそこに山内進氏による論文へのリンクがあり、そこでPawel教授の政治哲学と私の言うところのフランク人たちの政治哲学とのかかわりも示唆されていますので、そちらをご参照くださるとこの政治思想の流れの一貫性が明確にお分かりいただけると思います。(また、論文中で言及されている、公会議におけるドイツ騎士団やその支持者たちの政治運動のやり方はまさに近現代の戦争プロパガンダ行為の典型以外の何物でもなく、「なるほどナチスの使ったプロパガンダの元はこれか!」と、興味深く読むことができると思います)。


そこでPawel教授が人間の自然権(つまり「汝の望まないことを他人にしてはならない」という自然法)に言及し、その実践的一般化である事実上の国際法について述べていることは、ホッブスが「法のない空間」である非キリスト教世界における人間の自然権を否定した思想と、見事な対照をなしています。この思想はホッブズよりずっと前から存在し、キリスト教会でも「オピニオ・ホスティエンシス」(ローマのオスティア区における見解)として古くから知られているものです。中世ヨーロッパではイスラム教徒などのとの長い戦いのため、この「見解」が事実上の主流で、もとは病院運営の法人だったにすぎないドイツ騎士団がなし崩し的に武闘集団化したのもこの見解を基礎としています。


西欧キリスト教世界で言えば20世紀前半までのドイツ、そして建国から現在までのアメリカの政治思想の中心部に、この思想はなかったと言えるだろうか。のちに公会議が過去の教皇の勅令をすべて確認し、教皇無謬論によりPawel教授の先進的な態度を叱責し、騎士団による侵略を再度認めたことについてはどうだろうか。ただしPawel教授は異端者とは扱われず、ポーランド国王もリトアニア大公も教皇代理人と認められている。とりあえずあまりに本質的な問題について公会議は棚上げにし、騎士団側によって「この地上から完全に絶滅せらるべき」と主張されたポーランド人の立場を擁護しただけに終わったのです。


個人的には、Pawel先生こそ世界史においてもっと注目されてしかるべき人物ではないかと感じております。先生の思想を理解すればポーランド自由主義もよりよく理解できるはずです。ところが歴史は強者のみが「作る」ものであり、Pawel教授と教授の後の時代に続いたクラクフ大学の(後の世で「ヤギェウォ国際法学派」と呼ばれるようになった)人々とその業績は、19世紀から20世紀前半の当時の欧米とその価値観にすっかり魅惑されてしまった)日本では(ポーランドとその歴史に対する、おそらくドイツあたりから移植された一つの遺伝情報=ポーランドへの侮蔑感情によって)長い間「完全無視」され、きちんとした研究もほとんどされていないのが現状です。


現代ポーランド大戦争共産主義支配のために、そういった研究ができない状態に長い間置かれていたことが大きな理由ですが、しかしそういった時代のポーランドの人々の地下活動のおかげで、クラクフ大学内には一時資料は充分に保存されているはずです。天正遣欧使節団がローマでポーランド人僧侶に会ったその場で書いてプレゼントした、聖書の一節の日本語訳さえ残っていて、数年前に学内の書庫で偶然発見されたということさえあるのです。


しかるにコンスタンツ公会議よりも140年近く後のスペインのバリャドリード論争のほうが巷では強調されており、日本の歴史学者もグロティウスやビトリアの話を紹介するものの、コンスタンツ公会議にはまったくといってよいほど無関心で、Pawel教授や彼に続いた人々についての実証的研究が行われた形跡がほとんどありません。上のほうの経験論における比較とは異なり、この場合はいかに歴史の意義というものが実証よりも学界ないし社会の主観・嗜好で選択されているか、を示す明確な事例と言えるでしょう。


この日本における歴史学の「オヴァートンの窓// Overton window」はきっと現代日本の政治の「オヴァートンの窓」に影響しているのでしょう。その結果こそ、貴殿が常々ブログにて激しく批判しておられるような日本の現状ではないかと思われるのです。私が前のコメントでアメリカが変われば日本も変わるかもしれない(=「真似」するかもしれない)と書いたのは、そういう意味です。そもそも19世紀終盤からの現代日本はドイツ第二帝国やアメリカ合衆国からルソー=ヘーゲル的な思想DNAが熱心に移植された土地ですから。


上では少し遠慮がちに「アメリカが変われば日本も変わるかもしれない」と書きましたが、実際はむしろ民主党自民党といった日本の政治を批判したり変われと要求したりしても、もしかしたらそれは無理なのではないか、と感じております。良識ある日本人が日本をなんとかしたければ、自分の国は棚に上げてアメリカやヨーロッパに対して理詰めでもって論戦を挑み、「これこれこうだから・・・」という形で話を進めて批判したり変化を要求したりするほうがより確実な方法のような気さえします。


アメリカが変われば日本の「オヴァートンの窓」が動いて、日本人の間の利に敏い人々の間で「アメリカでは・・・」「欧米では・・・」という論調が必ず日本で生まれ、世論が変わって、結果として日本の社会全体も向こうを真似して変わると思います。民主主義の体制である以上は、世論全体の動向こそが政治の原動力ですので、この「窓」を動かす方策が大事で、それにはまずはアメリカの「窓」を動かすことが肝心だろうと思うのです。


これではもちろん政治哲学の上での根本的な解決にはなりませんが、根本的な解決を求めるあまり独米より移植したDNAをいまさらになって取り払うという急進的な行動を起こす(それこそ理想主義)わけにもいきませんから、ここはポーリッシュ・ポジティヴィズムを見習って、この一見「セコい」やり方が最も良いかと思います。移植したDNAも、このように漸進主義(gradualism)の対応を続けながらもっとずっと長い時間を与え続けてやれば、環境との関係でうまいこと変異して、環境に適応してくれるのではないでしょうか。


洋服を着るのに慣れてしまうと、和服なんて面倒くさくてとてもじゃないが普段の場面で着れるものではありません。ならば洋服その他のファッションのデザインを小修正したり、家や街並や職場その他の施設や服飾以外の文化を服に合わせて変えたり、それらを宣伝したりなどしてうまいこと折り合いをつけていくことで、文化として許容される範囲を動かしていくしかありません。


ところで第一共和国憲法には、「片や突然かつ頻繁な国家制度変更を阻止するため、片や現行制度の公共の福祉への影響を体験したのちには制度をより完全なものにする必要性を認識するのであるから、われわれ国民は憲法の改正を25年ごとに行う。(憲法改正のための憲法国会は特別な国会であり、別に制定される法律に従う)。」という条項があるのですが、日本国憲法と比較して、これもまたとくに素晴らしいと思います。また同憲法は、各条でそれらを制定する理由がこのようにいちいちくどくどしく示されているのが面白いところです。これも非常に良いことだと思います。


また、同憲法には「国王は国民に対して無条件の責任を負う。」と書いてありますが、つまりポーランド国王の社会的責任は「無限責任」になります。これは現代の立憲君主制でさえ、君主の私有財産と(政府も含めた)国民の財産は別と考えており、君主の責任は「有限責任」であって、第一共和国のような無限責任の考えは取り入れておりません。かといって国王は国家や国民に対して莫大な権利を持つのかというと、豈図らんや第一共和国憲法を読むと国王の権利は先にも書いたようにほんの少しの事項しかありません。それに対して「責任は無条件」となっているのです。


一見これじゃ責任ばかりでアンフェアではないか、国王になったら割に合わないじゃないかと現代ならば誰しも思うでしょうが、当時のポーランド人は、この規定された権利分と義務分でちょうどイーブンなのだと考えていたようです。(そもそもこの憲法成立に向けてもっとも熱心に運動したうちの一人がスタニスワフ2世王です)。それだけ「国王」という「地位」の対価としての「職務」責任は大きいのだ、と。


前のコメントでドイツ憲法との対比をしてみましたが、この君主の権利と義務の関係についてもドイツをはじめとした欧州の他国で勃興してきた様々な近代専制君主制とは著しい対比をなしているもう一つの例と言えるでしょう。もし第一共和国が存続していたらいまごろどんな世界ができていただろうかと、ついつい無益な夢想に耽りそうになります。


長文、失礼いたしました。


toxandoria 2010/12/17 23:22


デカルトからヘーゲルへの流れで発生し発展した「ドイツ歴史学派」の産物を取り込んだ近代日本は、別の惑星のDNAを持つ生物を移植した惑星の比喩が使えそうです・・・


「ドイツ歴史学派」の産物を取り込んだ明治期以降の日本では、残念ながら、廃仏毀釈や日本美術の廉価売り払いと同じノリで日本の伝統思想のまともな研究がアカデミズムの中枢から排除されたと思われます。その代わり幅を利かしたのがアカデミズムの外の国粋的政治勢力やジャーナリズム分野における日本主義などの“ゾンビ思想もどき”の跋扈ということで、これがもたらした混乱が今も尾を引いていると思います。


現代日本は何らかの理想主義(idealism)や過激主義(radicalism)に陥ってはいないか?


おっしゃるとおりで、日本人の多くは、理想主義、過激主義、社会主義あるいは共産主義などの<コトバ>に過剰に囚われているのではないかと思います。そして、最も問題なのは、これらのコトバを上からの目線で理解することがノーマルだと誤解されていることです。


イデアはあくまでもイデアであり、これらを積み上げるのは国民一人ひとりの意志と主体的実行力(行動)、そして鋭敏な感受性だという理解が欠落していると思います。そのような観点での教育も本気で行われておりません。幅を利かすのは相変わらず偏差値教育(その場で答えを欲しがる拙速主義or検定試験感覚)だけというお寒い環境です。


>これが人々の心に住み着き、人々を動かし、これまでの日本の「窓」を動かしているのです。


toxandoriaとしては、「オヴァートンの窓」そのものに是非はないと思います。むしろ、我が国のばあいは、その「窓」を日本の伝統思想に移植することに失敗したことが問題というかトラウマ状態となっており、それがますます重症化しているのではないかと見ております。


>サンデルはカント的な立脚点から理論構築のアプローチをしているので、現代ポーランドの主流派だけでなくサンデルの政治思想も、もとは啓蒙主義時代のカントやバークなどの穏健自由主義者や当時の第一共和国憲法に代表される一連の思想と理論的に深いつながりがあると思います。


この点は全く同感です。というより、ポーランドを少し学んで、toxandoria自身がこのような自由の形(=ポーランド自由主義者たちの弁証法的な政治思想)があることを知り驚いたということがあります。しかし、この点こそが、アメリカ型リバタリアニズムに洗脳された日本人一般にとっては最も理解し難いのかも知れません。


>・・・「宣伝戦における勝利は、もはや勝利の期待できない本物の戦争から騎士修道会を救い出すことになる。」とまるでヒトラーゲッベルスのようなことを考えながら公会議ポーランド非難をしてきたドイツ騎士団を相手に、(人間を社会の目的と考える立場から)真っ向から論戦したクラクフ大学のPawel Wlotkowic学長でしょう。


ドイツ騎士団ナチス・ドイツの一つの水源である可能性は薄々と感じていました。クラクフ大学のPawel Wlotkowic学長については、初めて知りました。大変興味深いので、Wikipediaの「パヴェウ・ヴウォトコヴィチ」の記事(Pawel教授の理論の要旨、山内進氏による論文へのリンクなど)は後ほど勉強させていただきます。


アメリカの政治思想の中心部に、この思想はなかったと言えるだろうか。のちに公会議が過去の教皇の勅令をすべて確認し、教皇無謬論によりPawel教授の先進的な態度を叱責し、騎士団による侵略を再度認めたことについてはどうだろうか。ただしPawel教授は異端者とは扱われず、ポーランド国王もリトアニア大公も教皇代理人と認められている。とりあえずあまりに本質的な問題について公会議は棚上げにし、騎士団側によって「この地上から完全に絶滅せらるべき」と主張されたポーランド人の立場を擁護しただけに終わったのです。


ホッブスの「法のない空間」がアメリカの政治思想の中心部に存在した可能性・・・この点は、例えば、サラ・パレツキー(米国の推理作家)の下の著書◆を読むと可能性があるような気がします。サラ・パレツキーは“建国以前からの傲慢さを引き継ぐ“アメリカ人”たちは、ピューリタンの一団を率いて紙一重楽天的なものだったし・・・”と書いています。なお、“Pawel教授は異端者とは扱われず、ポーランド国王もリトアニア大公も教皇代理人と認められている”の部分は、その後の“ポーランドの寛容”に繋がるような気がします。


サラ・パレツキー著『沈黙の時代に書くということ/ポスト9・11を生きる作家の選択』(早川書房)


>日本の歴史学者もグロティウスやビトリアの話を紹介するものの、コンスタンツ公会議にはまったくといってよいほど無関心で、Pawel教授や彼に続いた人々についての実証的研究が行われた形跡がほとんどありません。上のほうの経験論における比較とは異なり、この場合はいかに歴史の意義というものが実証よりも学界ないし社会の主観・嗜好で選択されているか、を示す明確な事例と言えるでしょう。


この部分は、冒頭で触れた、日本で<廃仏毀釈や日本美術の廉価売り払いと同じノリで日本の伝統思想のまともな研究がアカデミズムの中枢から排除された>ことに重なるような気がします。無論、このような傾向はPawel教授の事例に見られるとおり、日本だけのことではないようですが、特に我が国ではマスメディアの過剰な第四権力化が強く出過ぎているのではないかと思います。また、これはファシズムとの関連で由々しきことだと思われます。


>民主主義の体制である以上は、世論全体の動向こそが政治の原動力ですので、この「窓」を動かす方策が大事で、それにはまずはアメリカの「窓」を動かすことが肝心だろうと思うのです。


この観点は非常に重要だと思います。そして、やはり日本のアカデミズムのあり方の根本を考え直すべきだと思います。特に、客観的な世論調査等を大義名分として、大学等研究機関やシンクタンクが新聞社・テレビ局などの事実上の外注・下請機関化している現状は非常に由々しきことだと思っています。


第一共和国憲法には、「片や突然かつ頻繁な国家制度変更を阻止するため、片や現行制度の公共の福祉への影響を体験したのちには制度をより完全なものにする必要性を認識するのであるから、われわれ国民は憲法の改正を25年ごとに行う。(憲法改正のための憲法国会は特別な国会であり、別に制定される法律に従う)。」という条項があるのですが、日本国憲法と比較して、これもまたとくに素晴らしいと思います。


まったく素晴らしいことだと思います。以前に知ったのですが、現代のベルギー憲法にも下のように素晴らしい知恵があることを思い出しました。(以下に、関連部分をhttp://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-867.htmlより引用・転載しておきます)


・・・・・引用開始・・・・・


第8編 憲法改正


第195条
連邦立法権は、ある憲法の規定を示し、改正の余地があると宣言する権利を有する。


その宣言の後、両議院は必ず解散する。


46条に従い、新しい両議院が召集される。


それら両議院は、国王の同意を持って、改正される個所について審理を行う。


その場合、一方の議院の所属議員の少なくとも3分の2以上出席がない場合は、両議院はその審議を行うことが出来ない。また、少なくとも3分の2以上の賛成が得られなければ、いかなる変更も可決することが出来ない。


第196条
戦争時又は両議院が自由に連邦の領土で開催することが出来ない時は、いかなる憲法改正も開始し、続行することが出来ない。


・・・・・


憲法改正のためには、具体的に何の規定を変える余地があるということを宣言し、その後に上院、下院両方とも解散し、選挙を行なうということです。そのうえで新しい議員構成の両議院が審理をし、両院の三分の二以上の賛成で可決。何の規定を変えるということについて民意を問うた後で審理が始まるということ。


改憲手続法(国民投票法)がどさくさのなかであいまいな部分を残したまま可決されたいきさつを思い出すと、社会システムと政治環境の底が抜けた国、日本の改憲は、何をどう変えるかを国民に提示するところが意図的にあいまいにされる恐れがあると思っています。2005年の郵政民営化選挙のように一時の感情に流された空虚な熱狂の中で民主主義に逆行する改憲がなされそうでそこがとても怖いです。


・・・引用終わり・・・


>同憲法には「国王は国民に対して無条件の責任を負う。」と書いてありますが、つまりポーランド国王の社会的責任は「無限責任」になります。これは現代の立憲君主制でさえ、君主の私有財産と(政府も含めた)国民の財産は別と考えており、君主の責任は「有限責任」であって、第一共和国のような無限責任の考えは取り入れておりません。・・・それだけ「国王」という「地位」の対価としての「職務」責任は大きいのだ、と。・・・この君主の権利と義務の関係についてもドイツをはじめとした欧州の他国で勃興してきた様々な近代専制君主制とは著しい対比をなしているもう一つの例と言えるでしょう。もし第一共和国が存続していたらいまごろどんな世界ができていただろうかと、ついつい無益な夢想に耽りそうになります。


このような観点からしても、第一共和国憲法が存在したことは無駄になっていないと思います。それは、現代ポーランドの指導層の人々の中にポーランドシュラフタ民主主義(ポーリッシュ・モデラティズム、つまり第一共和国憲法のエセンス)の精神が現実的に生かされているはずだからです。


【エピローグ動画】Lara Fabian - Immortelle