toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

安倍「隷米“軍需”政権」は「伊勢神宮創建」精神を曲解した紀元二千六百年&皇国史観型の軍需経済(原発利用式)パラノイア

toxandoria2013-03-01




・・・画像『宇佐神宮の梅』2013.2は、http://urx.nu/3mZo より転載



・・・画像『太宰府天満宮の梅』は、http://urx.nu/3mZZ より転載。


Lara Fabian - Je t`aime encore _ 2012


<注記>神憑り安倍・隷米“軍需”政権の御神体神道政治連盟
・・・「事実上、全国88,000社の神社を統括する」神社本庁の外郭政治団体である神道政治連盟の会長は安倍晋三自民党総裁で、神道政治連盟(神政連)は国政選挙等における自民党の中核的集票マシンである。また、その神道政治連盟(神政連)が<ウラニウムプルトニウム放射能もれっきとした大自然の一部なので、それらを有効に活かす日本の原子力平和利用(原発、核燃サイクル、もんじゅ)は自然アニミズム信仰たる神道の道理に叶った日本にこそ相応しいエネルギー・産業政策である>という、やんごとなくも“神憑る”お墨付きを安倍・自民党政権へ授けていることは周知のとおり。


(プロローグ)“神憑り”安倍政権の正体


<史実の可能性が高く真の国家安全保障を実現した『7−8C/天武・持統期〜平城京遷都頃の伊勢神宮創設と日本民族伝統確立の真の意義(民百姓の安寧・福利を第一とする国家建設理念の存在)』を隠蔽する意思が潜む>という意味で、「神武天皇神功皇后新羅三韓)征討」なる空想論の神話論理(ミソロジー/それは、日本書紀が創作した時に先ず上層・貴族世界層で共有化され、以降は南北朝末期の太平記で民百姓へ普及し、以降は太平洋戦争期まで真実として疑われなかった)は、「科学と経済の両合理性」を、疾うに、完全に失ったにもかかわらず未だに「原発安全神話」を高く掲げて世界原子村&ウラニウム資源コングロマリット御用達の詭弁に付き従うばかりか、「一般国民の犠牲を一切厭わぬ非情な上層(1%派)の代理人たる安倍政権」の紀元二千六百年型<虚構論理>に通じる(画像『神武天皇説話のイメージ』は、http://urx.nu/3lls より転載)。
http://www.facebook.com/tadano.oyaji.7#!/photo.php?fbid=340635172720445&set=a.110630322387599.11985.100003218947947&type=1


案の定だが、原発復帰へ猛進し始めた安倍・自民党!フクシマ3.11原発事故の過酷な現実(4号機問題等)を無視した神憑りの安倍政権は「エネルギー計画検討委員会」から脱原発派の委員を排除して、オバマと米CSIS(ネオコンの牙城とされる保守系シンクタンク)へ原発推進を確約した!⇒ エネ計画検討委 脱原発派を交代 経産省方針hanachancaue2013.02.21 07:08 http://urx.nu/3mNo


かくて、<原発安全神話>が復活し<反・脱原発派へのクレージー呼ばわり>も取り戻される鴨?!日米首脳会談の目的は安倍が米CSISへ原発推進の復活を報告することだった!メディアのプロパガンダにコロリと騙される余りにも善良な日本国民!<原発推進>賛成が60%超も時間の問題だろう!⇒TPP賛成63%に増 内閣支持上昇72%へ増 共同通信世調 - MSN産経http://urx.nu/3nES hanachancause2013.02.25 04:09


ホ〜ラ、それ見たことか!医療保険こそが米国のTPP本命ターゲット、場外で神輿を担ぎ祝詞を上げる安倍・軍需アホノミクスと、今ごろ騒ぎ出すアホ・マスメディア!⇒【TPP】の焦点に医療保険浮上 厚労省国民皆保険制度」崩壊に危機感−MSN
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130226/trd13022622420008-n1.htm
hanachancause2013.02.28 11:10


1 古代日本における渡来文化の痕跡


(日本の古代化/幼生期・日本へのプロローグ)




・・・これら二枚の画像は『大阪高低差学会のブログ』 http://osakakoteisa.blog.fc2.com/ より転載。


この『大阪高低差学会のブログ』から引用した二枚の画像(それぞれ低地を青塗りしたもので、一枚目は大阪湾を中心とする地域を、二枚目は奈良から京都南部辺りを俯瞰している)は、縄文海侵(進)、平安海侵(進)など遥かな太古から古代にわたり海水面の上昇が幾度となく繰り返された時代の様々な可能性を連想させて非常に興味深い。


無論、それは特に想定される数回の大きな海侵(進)の時代にだけ渡来人が押し寄せたという意味ではなく、それらの狭間の時にも海水面の上昇と後退が幾度となく繰り返されてきたことが想像されるからであり、加えて、これらの画像について『大阪高低差学会のブログ』さんが<以下>のように分析しているからだ。


<地形図に歴史ある神社をプロットしてみた。すると低地と高台の境目にすべてが当てはまる。岬や崖の上は古来より聖地とされてきたというが、あるべき場所に重要な神社が置かれていることを改めて実感する。また、上町台地の南には世界的歴史遺産である百舌鳥(もず)古墳群があり、その東側に古市古墳群がある。百舌鳥古墳群は海からよく見える場所にあり、古市古墳群大和川を遡り大和へ向かう途中にある。両古墳群は渡来人が多く訪れた地域でありアースダイバー的にもとても興味深い地域だ。>


因みに、二枚目の奈良から京都南部辺りの俯瞰図(画像)を見ると、四天王寺難波宮跡(飛鳥宮斑鳩宮、大津宮平城京などとの間で遷都の往還的繰り返しはあるものの凡そ大化の改新から律令国家形成期の舞台となったところ)が半島状地形の上に南北の関係で並び、さらに生駒山を挟む真東の奈良盆地内の対称地点に平城京があり、その南には法隆寺が位置し、平安時代前期(9世紀半頃)に宇佐神宮(九州・豊前国)から勧請された石清水八幡宮が淀川から宇治川へ変わる辺りの岬状の場所(川岸の近く)に立地するなどがわかり興味が尽きない。まるで、古墳時代末期〜飛鳥時代〜奈良・平安初期の歴史をリアルに俯瞰しているかのような錯覚に襲われる。


更に連想されるのが凡そ飛鳥・古墳時代末期から遥か紀元前後まで遡る「日本古代化へのプロローグ」の時代、つまり「日本書紀」、「古事記」が描写する日本の神話・説話の世界と重なる時代だ。そこで、大きく此の「日本古代化へのプロローグ」期から「日本国の輪郭が成立して天皇の呼称が開始する天武・持統期(7世紀後半)」の時代辺りまでを「広義の日本の古代化(日本国の幼生期)」と見立てることが可能であるだろう。すると、この時代に見逃せないのが渡来人の夥しいばかりの数の多さと、彼らが此の日本国の幼生期(黎明期)の基盤造りに果たした役割の大きさということである。


歴史学者上田正昭氏(京大名誉教授/参考文献、下記◆)によれば、およそ奈良時代末〜平安時代初期辺りを境(基準)として、それより遥か以前に渡来した人々は「前渡(まえわたり)」、その頃に来たばかりの1・2世位の渡来人は「今来(いまき)」と呼ばれ、貴族あるいは官僚・学者・僧侶・特殊技術者などとして朝廷に仕えた「前渡」が自国の話し言語を忘れた(殆ど倭人化した)ため「今来」が通訳に取り組むなどの場面も見られたようだ(一方、この頃の日本語の書き言葉は漢字で書かれた、つまり中国語での表記なので指導層に属する倭人と渡来人の間での意思疎通は可成り図れたと考えられる)。


上田正昭編『古代の日本と渡来の文化』−学生社


より深く「広義の日本の古代化(日本国の幼生期)」が意味するところの概観のため、もう一人の注目すべき歴史学者深谷克己氏(早大名誉教授)の著書『東アジア法文明圏の中の日本史』(岩波書店)から、関連する部分を下に引用・転載しておく。


・・・社会が政治的支配・被支配ではなく、長老・祈祷者などの経験知・託宣に導かれ、集団の合意によって行為を決定する「運営社会」から、特段の有力者か少数上位者の意思によって左するか右するかを指図される「政治社会」へ変化することが「古代化」である。中でも日本史では、当初から東アジアの「古典古代」を継受するという(自意識を持つ)大陸諸王朝群の、さらに周辺に位置して、かつ王への上昇を欲求するいくつもの集団(日本列島でいえば渡来系、倭人系の諸豪族から成る数多くの集団)が一段上へ争闘を繰り返し鬩ぎあう地域であったために、国際的な力が往復的に働く中で消長し、長い時間を要した古代化になった。・・・


・・・そのような意味での「古代化」は、数世紀にわたる長い過程であって、初めから「日本国」だったのではない。「別れて百余国」と記された時代から、奴国・邪馬台国等の小国あるいは連合国時代を過ぎて何世紀も後に、東アジア法文明圏において承認される「国号」として「日本」、「日本国」が称され始めた。日本列島にはなお独立性の強い広大な政治的勢力、部族社会が各地に跋扈しており、それらに対抗しつつ、幼生期の日本国は国際関係において優越した地位を得たということである。・・・


・・・東アジア世界では、618年、後継中華王朝である唐が隋を滅ぼして周辺諸国に圧力が及んだ。「異国」化の意識を強めた「倭」は百済の遺民と連合し、新羅と連合した唐と663年に白村江で戦い敗れた。唐は、講和の施設を日本へ派遣し、華夷の国交が始まり、それが「日本国」であろうとする、またその方向を中華王朝が認める画期となった。国号変更は、倭という文字が雅(みやび)でないという価値観が日本側にあったからだとされる。・・・


・・・また、古代以後にも、広い範囲の「唐物(からもの)」文物の渡来は留まることがなかった。ことに古代の「日本国幼生期」に、東アジア古典古代を継ぐ中華王朝の政治文化を吸引し続けたことによって、「外来文化の影響」を超えて、自らの「体質」(特に日本的と見なすべき超個性的な中華帝国よりも或る意味で高度化しソフィすティケイトされた体質←只野親父ことtoxandoria、補足)に近い域にまでそれが及んだ。最初に吸収したものから、さらに二次的に紡ぎ替えて日本風になった事物も数多くあり、身辺化して派及が気付かれなくなっているものさえある。それは、日本の政治文化の「基層」の構成要素となったと言ってもいいくらいである。・・・


(古代日本における渡来文化の痕跡/事例サンプル)


飛鳥・古墳時代末期から遥か紀元前後まで遡る「日本古代化へのプロローグ」期に関わる渡来人と、渡来系関連文化の痕跡を少し探ってみると、その数は夥しいものとなり驚かされる。ただ、些かでも気を緩めるや否やトンデモ論、陰謀論あるいは与太話の類の術中に嵌るリスクもあるので、これらの点に留意しつつ幾つかの事例を以下に採録しておく。


大夫・難升米(たいふ・なんしょうまい)歴史学者上田正昭氏)
・・・3世紀、邪馬台国卑弥呼が魏に使わした大夫(中国で使われた役職名)とされる文字(漢字)を理解し、それを使うことができたとされる渡来系の人物。


史部(ふひとべ)歴史学者上田正昭氏)
・・・記録・文書をつかさどって朝廷に仕えた部民(べのたみ)だが、3世紀頃に渡来したという王仁(わに)の子孫・西史部(かわちのふひとべ)と阿知使主(あちのおみ)の子孫・東史部(やまとのふひとべ)の二大勢力があったとされる。金石文(金属や石などに記された文字資料)の記録者が史部であったと考えられる。


古代の交流史、日韓で共有/百済の昆支王、ソウルで展示へ)(2011.11.16産経MSN)http://urx.nu/3nrG
・・・5世紀の雄略天皇の時代に倭国(古代日本)に派遣された百済(古代韓国)の王族、昆支王(こんきおう)に関する展示スペースが、日本側の働きかけで、韓国・ソウル市に2012年・春開館する市立漢城百済博物館に設置された。
・・・昆支王は百済の21代・蓋鹵王(こうろうおう)の弟。日本書紀には、雄略5(461)年、蓋鹵王の命により倭国に派遣され、その際、兄の后(きさき)を妻として同行したが、出産したため、生まれたこの継子を帰国させ、後に25代武寧王となったと記されている。
・・・倭に渡った昆支の行跡に関しては、河内•近飛鳥で百済系の移住民を糾合して根拠地としたという見解がある。『新撰姓氏錄』の河内近飛鳥戸造の先祖と河内近飛鳥戸造神社の祭神が昆支である点と、倭で多くの子女が生まれたという点から推測すると、昆支を先祖とする後裔(末裔)の氏族が、今の河内・飛鳥郡一帯を中心に繁栄していたと思われる。これは百済人が倭に渡って造った横口式石槨が主流をなす河内平野古墳群の分布からも立証できる
http://urx.nu/3nrR)。
・・・なお、桓武天皇の生母である高野新笠(たかののにいがさ)は武寧王を遠祖とする渡来人「和」氏の出身という記述が『続日本紀』にある。新笠は皇后になることはできなかったが桓武天皇の生母として皇太夫人と称され、更に皇太后とも称された。


渡来系氏族の中で国号を氏姓とした氏族で最も著名なのが百済王氏(くだらのこにきしし)歴史学者、坂本義種氏ほか)
・・・百済最後の王・義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。氏として百済がつく氏族は百済朝臣百済公、百済連、百済宿禰などがあるが、王という特殊な姓は、かつての百済を象徴する宗主的な存在であったことが窺われる。
・・・百済最後の国王義慈王倭国と同盟し、その王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に献上した。しかし、660年百済は唐の進攻によってあっけなく滅び、百済王室は唐の都に連行された。百済復興のため倭国から朝鮮半島に戻った豊璋王(阿倍比羅夫が半島へ送り届け王位に就かせたとされる)も白村江の戦いに敗れ、高句麗に亡命するも、やがて唐に捕らえられ流刑となったため、日本に残った禅光王が百済王族の血統を伝えることとなった。
・・・奈良時代末期には百済王氏の後裔の俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど百済王敬福(くだらのこにきしのきょうふく/陸奥守在任時に陸奥国小田郡から黄金が発見された)いらい東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。
・・・平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の「和」氏出身であったため天皇外戚とみなされ厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇嵯峨天皇らの後宮の宮人としたため、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。また、桓武天皇の時の宮中には百済人の女官が数多く採用されていたとの説もある。
・・・また、平安京遷都(794)で桓武天皇(生母が百済武寧王の子孫(高野新笠)であると続日本紀に記されているとの今上天皇自身からのご発言もある)へスポンサー的な意味で大きな影響を与えた秦氏百済系/秦河勝の私邸が御所として、河勝の子孫によって桓武へ提供されたとの説もある)以前の渡来系部族として物部氏百済系?)と蘇我氏新羅系?)の大きな存在は無視できない。
・・・因みに、近年の考古学調査で物部氏の仏教系氏寺と目される遺跡が発見されたため(http://urx.nu/3bT2 http://urx.nu/3bT3 )、教科書的定説とされる<廃仏・物部氏VS親仏・蘇我氏>の崇仏論争という歴史解釈にも疑問が投げかけられ、それは政治的権力抗争であった可能性が高くなっている。
・・・百済王氏の本拠地は難波であったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し、この地に百済王氏の祀廟と百済寺を建立した。百済寺は中世に焼失したが百済王神社は今も大阪府枚方市に残る(http://urx.nu/3pQQ )。
・・・統計学的推計手法を使った直近の歴史研究によると、関東・東北辺りに住んでいた俘囚と呼ばれる人々こそが原日本人(縄文系の子孫)であり、一方、西日本〜畿内・中部辺りに住む日本人(弥生系の庶民層)は、その6〜7割が半島又は中国からの渡来系の人々ないしは、その混血であり、その当時の日本全国の人口規模は約700〜800万人と考えられるようだ(典拠:日本歴史学会編、井上満郎著『人物叢書秦河勝』―吉川弘文館―)。
・・・飛鳥・奈良〜平安初期の時代についての統計学的推計手法を使った直近の歴史研究によると、関東・東北辺りに住んでいた俘囚と呼ばれる人々こそが原日本人(縄文系の子孫)であり、一方、西日本〜畿内・中部辺りに住む日本人(弥生系の庶民層)は、その6〜7割が半島又は中国からの渡来系の人々ないしは、その混血であり、その当時の日本全国の人口規模は約700〜800万人と考えられるようだ(典拠:日本歴史学会編、井上満郎著『人物叢書秦河勝』―吉川弘文館―)。
・・・また、「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」(平安時代初期の815年(弘仁6年/799年(延暦18)12月の嵯峨天皇による本系帳提出命令に端を発する)に編纂された古代氏族名鑑)の記録によれば、当時の貴族・豪族層は約3割が渡来系とされるが、それは自己申告方式だったため、この3割の数字には疑わしい点がある。実際には、畿内・中部辺りの貴族・豪族は庶民層以上に渡来系が占めており、前渡と今来を合わせれば7〜8割程度までが渡来系という実態ではなかったかと思われる。


先進的な製鉄技術を日本に伝えたアメノヒボコ 歴史学者上田正昭氏)
・・・アメノヒボコは、4〜5世紀の狭間ころに渡来し、播磨を経て但馬に定着したとされる新羅の王子で、記紀と播磨風土記に登場するが、製鉄、水田開墾などの技術者集団の渡来の可能性があるようだ(アメノヒボコはそのリーダー?)。
・・・事跡としては、比売許曽神社(ひめこそじんじゃ/大阪市東成区)、揖保郡太田里条(兵庫県揖保郡太子町太田)、出石神社(いずしじんじゃ/兵庫県豊岡市)、糸井神社(奈良県磯城郡川西町)、アメノヒボコの後裔の可能性がある三宅連(みやけのむらじ)、糸井造(いといのみやつこ)、但馬守(たじまのかみ)など。


王辰爾(おうしんじ) (歴史学者上田正昭氏)
・・・6世紀後半に敏達天皇の朝廷で活躍して、船氏(船史/ふねし)らの祖となった渡来系(百済)の人物。大阪府曳野市古市にある野中寺(やちゅうじ)は船氏の氏寺。日本書紀では、船の賦(みつぎ/積荷)を数え記録する仕事に功があったので「船長」に任じられて、「船氏」の氏姓を与えられた人物として登場する。また、「津史(つのふひと)」の氏姓を与えられた牛(うし)という人物は王辰爾の弟とされる。


隋書倭国伝にある秦王国(はたorしんおうこく)、つまり豊前国(ぶぜんのくに/現在の福岡県・東部から大分県・北部辺り)に入っていた仏教(538年の仏教公伝以前の仏教伝来)、および其の薩摩・隼人との関係 (古代史研究家、大和岩雄氏/歴史学者、中村明蔵氏)
・・・豊前地方には欽明期の創建になる仏閣が大変多く、中には538年以前のものもある。その後、百済系の秦氏(はたし)は、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着したが、薩摩・大隅地方との関わり(移住?)も窺われる。大隅八幡宮(鹿児島神社)(霧島市隼人町)、韓国宇豆峰神社(霧島市上井)、韓国岳霧島山最高峰)などの痕跡がある。
・・・霧島市隼人町の地名が残るとおり、百済系の秦氏と薩摩・隼人の繋がりが窺われる。厳密には其の居住地の違いにより阿多隼人(薩摩隼人)、大隅隼人、日向隼人などの区別がある。彼らは畿内とその周辺部にも居住しており、その一部は律令制下で衛門府被官(官吏)の隼人司(はやとのつかさ)に属し、天皇と朝廷の守護役を勤めていたともされる。


神武天皇東遷神話」の新しい研究/森浩一『日本神話の考古学』(朝日新聞社) (泉森皎氏、考古学者・元奈良県橿原考古学研究所 / 研究員)
・・・これは、虚心に神話・伝説と考古学の接点を探るべきとする意欲的な著書である。それによれば、神武天皇東遷神話については、九州地方(南九州および豊国(北九州北東部))に遺されている考古学的資料・遺跡関係等と奈良県宇陀地方の古墳群との関連を視野に入れつつ下記の諸問題についての研究推進が期待される。


●何らかの政治的まとまりや軍事力を持った南九州の豪族集団の移動があったと考えられる(豊国から薩摩・大隅地方へ移住した秦氏系の分派?)
●出発地点は日向(宮崎県)で、船団を組んでの移動であった
●途中には多くの寄港地と水崎案内人(ウズ彦=根源津彦/倭国造(やまとのくにのみやつこ)?)がいた
●宇佐(豊国地方の秦氏系?)の建造物と思われる足一騰宮(あしひとつあがりのみや/一本柱建築)の記述(記紀による)などからは中国の南方的要素の渡来が窺われる
●同じく、記述(記紀による)の関連記述では宗像神社(北九州)のある玄界灘沿岸らしい特殊性が窺われる


2 「幼生期・日本の完成」(中国律令制儒教の日本化プロセス)は伊勢神宮創建期(天武・持統期)に重なる


(7世紀後半の天武・持統期は中華帝国律令制儒教の日本化プロセス/幼生期・日本の完成)


(1)祖型「伊勢神道」(律令制儒教の日本化プロセス)についての概観 (一部は、http://urx.nu/3oZ3 より部分再録)


推古天皇(厳密には推古大王/位593 - 628)の600〜618年の18年間に5回以上派遣された遣隋使(小野妹子の派遣は607年)による文化的な衝撃が大きかった。そこで国威発揚を目的とするグランドデザインの必要性を意識し着手されたのが「日本書紀」(720/養老4年)に記述がある「天皇記」、「国記」など国史(両者とも現存せず)の編纂であるが、その過程で「日神祭祀」(太陽神、つまり天照大神(あまてらすおおみかみ)を崇め望拝する宗教儀礼)を伴う王権神話が創作されたと考えられる。


現存する日本書紀の中の推古紀に具体的な「日神祭祀」(天照大神)の指摘と記述はないが、同じく用明紀が引用する別の推古祀の記述からは、その「日神祭祀」が行われていた可能性が窺われる。


しかも、日本書紀の編者・舎人親王らが、その事実に一定の脚色を加えつつ、より古い時代の崇神紀・垂仁紀へ其の記述内容を意識的に移行し、その上に重ね書きした可能性が高い。つまり、8世紀初頭に成立した「日本書紀」と「古事記」(出来た順序は逆になるが、古事記日本書紀の副次派生的テキストと考えられる)は、幼生期・日本の深層記憶をヴァーチャル化したものであったと考えられる訳だ。


垂仁紀に記載されている<御杖代(みつえしろ/神や天皇の杖代わりとなって奉仕する役目を負う人物)の皇女が天照大神の奉祭地を求め大和から伊勢へ移動する物語における、近江から美濃への大きな迂回伝承>は、「壬申の乱(672)における戦線の地理的展開と移動」が反映していると考えられる。


ともかくも、伊勢神宮・創期のプロセスで見逃せないのは、すでに推古朝(593-628)において「日神祭祀」(天照大神の祭祀)が行われていた可能性があること、斉明朝の百済滅亡(660年/倭(日本)は百済からの亡命者を多数受け入れた)の前後における「伊勢とは異質な出雲の外部性(百済・大陸系渡来文化等の影響)を伴う祭祀世界の吸収」(参照、下の注記3)、持統朝における社殿造営と行幸(692年?)、という三代の天皇の治世下における三つの出来事である。


<注記>出雲の二つの外部性
・・・出雲には、伊勢とは異質な二つの外部性があると考えられる。一つは伊勢の太陽神(日出)を補完すると言う意味で伊勢とは異質な日没の神々、つまり大己貴神(おほなむち=大国主命)を中心として祀る杵築神社(現、出雲大社)の神々の存在。もう一つは、半島・大陸系文化が流入して来る窓口としての外部性であり、例えば古代に東出雲(現在の松江辺り)で勢力を誇った蘇我氏新羅系ともされる(聖徳太子の没後に実権を握った蘇我馬子らの背景?)。


つまり、この7世紀後半(近江浄御原令(668/天智朝))の頃に律令制が定められ神祇官太政官・徴税制などが制定されてから、各地域に分散伝来して行われてきた仏教の寺院建築(中国・百済等系の先進文明の象徴)に倣う意味もあり、天地神祇(伝統の民族的・鬼道信仰的風習/この時代には未だ神道(シントウ)の呼称はなく、神祇が一般的であったがジンドウと呼ばれていた可能性は高い/参照⇒2013-01-17toxandoriaの日記、http://urx.nu/3bT4 )を祀る神社(元来は氏族単位で存在した?)が、神仏習合的観念の下で本格造営が行われるようになっていたと考えられる。


そこで問題とすべきは、そもそもの<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』の神話論理(ミソロジー)とは一体どの様な内容であったのか?>ということだ。それは、この<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』なる神話論理(ミソロジー)への根本的誤解>こそが、明治維新期以降における<国民玉砕型の狂った偽イデオロギー/偽保守主義皇国史観のベースとなった『紀元二千六百年』型歴史観>をもたらしていると考えられるからだ(伊勢神宮のミソロジーの詳細については、下記◆を参照乞う)。


アベノミクスへの応援で国民の文化マインドコントロールを謀る神政連のトンデモ「原発必要論」(祖型伊勢神道比較/正統保守試論)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130207


そして、特に留意すべきは、<伊勢神宮創建時の『超越神聖王権』なる神話論理(ミソロジー)そのものが誤りだということではなく、その『超越神聖王権』の本質的部分についての曲解(時によっては意図的・恣意的な?)とミスリードが、明治維新期以降の『皇国史観⇒太平洋戦争への突入』や現代日本の『国策原発』なる『国民玉砕型の恐るべきほどリスキーな国家グランドデザインのジレンマ』を日本へもたらしているという現実>を、我われはメディアプロパガンダなどに惑わされることなく冷静に直視すべきだということである。


(2)優れたオリジナル日本文化と天皇制の象徴たる祖型・伊勢神宮の建築と儀礼が意味すること



・・・この伊勢神宮の画像は、http://urx.nu/3puU より転載。


・・・以下は、伊勢神宮斎宮歴史博物館、学芸普及課長・榎村 寛之氏の論文『伊勢神宮の建築と儀礼‐棟持柱建物は神社建築か?‐』を参照して書かせて頂いた内容である(出典:上田正昭編『古代の日本と渡来の文化』‐学生社‐)(斎宮歴史博物館の画像は、http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/ より転載)


伊勢神宮創建(日本幼生後期)の意義>は『伊勢神道の精神性/創設時の歴史と根本理念(天皇の超神聖王権の主柱)』にあることは既に書いてきたとおりである。また、その日本国幼生後期において<伊勢神宮天皇の超神聖王権の主柱として創建された意義>についての詳細は、下記◆を参照願いたい。


◆フクシマの直視ができず対象喪失ホワイトアウトに嵌り過半超の反原発意思が7割の安倍「原発推進」支持へ転換する不可解ニッポンhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130216


アベノミクス&国策原発の玄宮で蜷局(とぐろ)を巻く「神道政治連盟」なる自民党御用達「極右ウロボロス神」の現象学的考察http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130117


ここでは、そのような意味での「創建・日本国」のオリジナリティである<伊勢神宮の建物(および神道儀式)の起源>について、更に観察を深めてみることにする。結論からいえば、そのアーキタイプは、外来・渡来系の文化、特に関連儀式に関しては、その起源が明らかに古代中華帝国律令制にあるということだ。


日本精神の起源の象徴である伊勢神宮のモデルが中華帝国律令にあることを知ると、それは沽券(こけん/原義は不動産の売り渡し証券、転じて人やモノの値打ちのこと)に関わると思う向きもおられると思うが、およそ世界文明の伝播・発展プロセスを概観すると、全くの独創(オリジナリティ)的文化様式が、ある日、突如として此の地球上の何処かに出現し、まるでボーフラの如く湧き出すなどということはあり得ないことだ。


須らく、人間文明は其の意味で果てしない模倣の繰り返しの連続なのである。だからこそ、宿命的に付き纏うという意味での此の模倣から、如何にして其の土地固有の自然環境や地域文化環境と調和させつつ当該地に最も相応しいオリジナリティを創造できるかということが問題となる訳だ。日本が世界に誇る国風文化(その芽生えは凡そ9世紀初頭・嵯峨期ころ〜)もそのようにして誕生し、それこそが日本語(漢字かな混じり文としての書き言葉)、日本文化、そして誇り高い日本人としての他に代え難く、とても洗練されて魅力的な個性を育んできたという事実は、我われが義務教育過程の日本史の中で学んだとおりである。


だからといって、現代の中国で横行する他国模造品の乱造ビジネスや日本国内でのパロディー商品の類(例えば、吉本興業の“面白い恋人”騒動など←コレには“原発安全神話”風味で何となく妖しいメディアぐるみのヤラセ的空気が漂うが・・・←只野親父ことtoxandoria、補足www)を礼賛する訳ではない、それとこれは全く異次元の問題である(画像は、http://urx.nu/3puP より転載)。


・・・以下、伊勢神宮の建築と儀礼が古代中華帝国律令制等の導入であることに関わる問題点を箇条書きで纏めておく・・・


伊勢神宮の棟持柱高床建築(神明造)について


・・・(参照、上掲画像)を持つ高床式建築(神明造)は伊勢神宮・社殿建築の特徴となっている。そして、一般的に、これは神社建築の特徴と見なされているようだが、これには問題がある。


・・・棟持柱を持つ高床式建築は縄文中期頃からの発掘事例はあるが、伊勢神宮の建築を除けば、それらの全てが神社建築と断定された訳ではなく、むしろ伊勢神宮が例外的なものである。


・・・考えられるのは、伊勢神宮を除く棟持柱建築は倉庫建築ないしは宮殿建築ではないかということである。因みに、現在、神明造と呼ばれる神社建築は唯一伊勢神宮だけであり、現在の神社建築の大多数を占めるのは、平安時代以降に成立したと考えられる流造(賀茂神社正殿の様式)と春日造(春日大社正殿の様式)である。


・・・それ以前の古い形式と見られる住吉造、大社造(出雲大社造)、大鳥造(大阪府大鳥社)、和歌山県日前国懸社(図面のみ存在)は棟持柱を採用していない。


・・・伊勢神宮の諸儀式の根本的意味は、天皇と同じく御神体の鏡が行幸(移動)し出御することにあると考えられており、諸儀式が神宮正殿の内部で行われることはなく、それは正殿前の外部空間で行われることになる。


・・・従って、棟持柱の意義として考えられるのは、建物と儀式が一体化して荘厳な空気を醸し出す演出上の効果が期待されていたということだ。つまり、正殿の屋根の棟持柱効果による巨大化の背景には、屋根という、建築がたとえ塀で囲まれていても外部から見ることのできる、いわば最も目立つ部分を拡大することで、建築の荘厳性を強調すること以上の積極的意味はないと考えられる。


・・・なお、豪壮な印象効果を演出する棟持柱建築を持つ古代建築のルーツはヨーロッパ、中国南西部、東南アジア、朝鮮半島などにも拡がっているが、その殆どは内部空間の合理的仕切りの必要性などから消え去っており、伊勢神宮の神明造は、その意味でも世界的に非常に貴重な遺産である(Cf. http://urx.nu/3pxG )。


・・・なお、屋上屋になるが、神明造のルーツも古代世界の文化伝播の流れの中で縄文期頃に渡来伝播したものと考えられる。しかし、既述のとおり、「神武天皇東遷神話」に関連して<宇佐(豊国地方の秦氏系?)の建造物と思われる足一騰宮(あしひとつあがりのみや/一本柱建築)の記述(記紀による)から中国の南方的要素の渡来が窺われる>という指摘があることは興味深いことだ(← 只野親父ことtoxandoria、補足)。


●「日本古来の伝統祭祀と渡来『律令制または唐風』儀式の融合文化」としての伊勢神宮祭祀
・・・黒田龍二氏(神戸大学教授、建築学)の研究によれば、伊勢神宮の社殿は心御柱(社殿の中央にある柱)を基準(遷宮の定点)に、神宮の平面プランが作られている。ただ、「心御柱」自体の「依り代(日本古来信仰の鬼道で神霊が依り憑くとされる対象物)」的な性格も重視すべきと思われる。


・・・つまり、依り代である心御柱を定点とする広場を中心として意識しつつ、柵・門・建物を整然と配したところに伊勢神宮祭祀の二重性(日本古来の信仰である鬼道プラス渡来・律令制等の宮廷儀礼・寺院儀礼の視角化された「礼秩序」の二重構造)が見られるという訳だ。なお「礼秩序」および其れに付随する「拝礼作法・規定服飾」等は中国・春秋戦国時代儒家および法家が観念的に確立し、かつ外形的にそれらを整備したものである。・


・・・それは、遷宮の制度が定着した7世紀末〜8世紀初頭、つまり、まさに天武・持統期という日本型・律令国家の形成期に初めて実現された儀礼である。なお、天皇の命により神社・山陵などに幣帛(神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌以外のものの総称)を奉献する儀式「奉幣(ほうべい、ほうへい)」も、中華帝国律令儀式・心法(老荘の精神修養法)などから援用され、日本的という意味で高度にソフィスティケイトされたものと考えられる。


・・・なお、斎宮儀式における唐風女性の装束を始めとして、日本の宮廷における儀式が唐風儀式の援用であることも周知のとおりである。無論、それは全くの模倣ということではなく、遣唐使による実際の見聞、あるいは渡来系貴族層などによってもたらされた文物や風俗文化・儀礼作法などの模倣・習得を通じて、日本宮廷の貴族層が次第に日本風に演出するようになり、より高度化・洗練化する形で其れらを採り入れていったものと考えられる(← 只野親父ことtoxandoria、補足)。


【参考動画】臺北市孔廟-古禮祭典《雅樂舞》


(3)8世紀初頭に成立した古事記(712)、日本書紀(720)は「プロローグ幼生期・日本の深層記憶」のヴァーチャル化


既述のとおり幼生期・日本の国威発揚を目的とするグランドデザインの必要性を意識し書かれたのが『古事記』と『日本書紀』である。そして、天武天皇の命で稗田阿礼が誦習した内容を太安万侶が日本語で書いたものが『古事記』であるとされるが、厳密に言えば、それは<文字は漢字を使ったが日本語の語順である“漢字和文”で書かれた>ということだ。一方、『日本書紀』は漢文(中国語)で書かれており神代から持統天皇の時代までを扱う。


そして、この両者は現代の日本へも様々な意味で大きな影響を与え続けている。そこで、「古事記(712)、日本書紀(720)はプロローグ幼生期・日本の深層記憶のヴァーチャル化であること」が、現代にも大きな影響を与えているという事実の説明に代えて、古事記日本書紀が伝える「神功皇后三韓征伐(新羅征討説話)」の意義を説明する歴史学者深谷克己氏の著書『東アジア法文明圏の中の日本史』から、関連する部分についての説明を下に一部引用しておく。


・・・3世紀のことと『古事記』、『日本書紀』が伝える、「新羅高句麗百済征服」の記録は、後世、「神功皇后三韓征伐」と呼ばれ、近世でもその信憑性が疑われないまま近代に持ち込まれた「説話」あるいは「霊験譚」である。日本近代史の朝鮮国植民地化の古代史像を提供してきた武功物語である。


物語の中心は、『日本書紀』に第14代天皇として記録された仲哀天皇の后で、応神天皇の母である神功皇后新羅に対して行ったとされる出兵である。新羅は降伏し、百済高句麗も日本の支配下に入ったとされる。8世紀初頭の『日本書紀』の完成が、おそらく貴族世界において、史実の根拠の確信される画期になったものと思われる。


しかし、全国民的に大きな情報源となっていったのは、南北朝時代の末期に書かれた(1370年頃までに成立)軍記物語『太平記』である。いわば「中世」によって送り継がれた「民族物語」である。そして、これは史実と信じられた。江戸時代の学者でも、これを疑う者はなかった。なぜなら、それが虚偽だという発想はなく、また疑っても証明はできず、近世にあるのは「朝鮮通信使」が単方向的に来日するという「来聘(らいへい)」の事実だったからである。


しかも、「神功皇后三韓征伐」は、第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わるまで、日本では広く真実とみなされていたのである(それは、全ての日本国民が記紀創作の『日本の深層記憶のヴァーチャル化』に囚われて集合的パラノイア状態になっていたということ!←只野親父ことtoxandoria、補足)。・・・途中、略・・・


そして、おそらく、この武功物語は「朝家(天皇家)」(および、摂関政治期以降に定着した日本伝統の二重権力構造のもう一本の柱である武家政権←只野親父ことtoxandoria、補足)が「政(まつりごと)」を担う威信を社会から獲得するうえで大きな保障力になったものと考えられる。なぜなら、「覇権を誇張する安全の保障者」こそが国家権力の掌握者に相応しいと見なすのが、無辜な民百姓(一般国民層)の気持ち(民意)の常(つね)だからである。・・・・


・・・


つまり、歴史学者深谷克己氏のように冷静で、かつ十分に客観的な観点で日本の歴史を概観すれば、当然のこととして見えてくるのは<天武・持統期(7世紀後半頃の伊勢神宮創建期)を中心とする7〜8世紀にかけてヤマト朝廷が律令制の充実による独立国家・日本の基盤づくりと個性的な国風文化確立への準備に取り組みを始めた時代>の歴史を正しく理解することが全ての基本であり、かつ最重要であるということだ。ただ、これも深谷氏が述べるとおりであるが、「覇権を誇張する安全の保障者」こそが国家権力の掌握者に相応しいと見なすのが一般国民層の民意となり易いということも厳しい現実なのだ。


だからこそ、一般国民層に対して正しい情報を提供するジャーナリズム活動のための環境が十分に整った民主主義国であるはずの現代日本における主要メディアの役割が非常に重要だということになる。そして、民主党政権の自滅崩壊を受けて政権に就いた安倍自民党政権が、ポスト・フクシマで言葉巧みに「覇権(実はひたすら隷米!)を誇張する安全の保障者」を演じていることは周知のとおりだ。他方、知る人ぞ知るではあるが、安倍政権のホンネは<「紀元二千六百年」型の歴史観皇国史観)と原発推進を日本に取り戻す>ということにある。


安倍政権は、明らかに「衣の下に刃を忍ばせている(一般国民に対して!)」のであり、これを野合的、凭れ合い的な関係で必死に支援しているのが<6世紀から紀元前にまで遡る日本の“神話的色彩が濃い幼生時代を現実の歴史と見なすべき(しかも原発アニミズムだとのトンデモ屁理屈を騙る!)>と主張する神道政治連盟など、いわゆる右派系と呼ばれる諸団体(その内実は、単なる文化的な意味で見栄っ張りのウソ吐き集団であり、伝統保守の風上にも置けない輩!)である。


このような意味でも、アベノミクス(アホノミクスこそ相応しい!)なる隷米“軍需&原発一極型”経済政策をひたすら持ち上げるばかりで、安倍の「仮想(日本の深層記憶)のヴァーチャル化/皇国史観復活の企み」の超リスクを無視し続ける、つまり<権力のイヌと化した主要メディア>の罪は非常に重い。また、その意味でも『古事記』と『日本書紀』は現代日本へも、まことに大きな影響を与え続けているということになるのである。


3 「伊勢神宮創建」精神の曲解による皇国史観型「軍需経済(原発利用式)」の取り戻しを謀る「安倍・軍需政権」パラノイアの核心


1930年代の日本では、先進諸国からの軍縮圧力への反感と経済格差拡大への危機感増大から軍部が中心となってファシズム思想が強まり、彼らは「昭和維新」(昭和の改革)を合言葉にファシズム的な国家改造を夢見ていた。彼らは、ワシントン体制(1921年ワシントン会議と四カ国条約を前提として日本の独占的な中国進出が抑えられた/1930年代の東アジアを巡る国際協調体制)を前提としつつ英米と協調しながら日本の国際外交の展開を構想する中庸な国際派の政治勢力を「現状維持ないしは守旧派」として蔑み、自らを「改革派・革新派」と位置づけて胸を張った。


そして、彼らは、対外的には軍備強化による東アジアでの強圧的、制圧的、支配的な軍事力の形成を目指し、国内的には神格化された天皇を前面に押し出して立憲主義的な政党政治(議会制民主主義)を掲げる一派を強引に押さえ込むことを謀った。


一方、このファシズム体制の中核となった日本陸軍の内部では「皇道派」(天皇親政の昭和維新を実現しようとする、やや観念的・直情的な青年将校らが中心の勢力)と「統制派」(日本の伝統神学的な意味で観念的な皇道派に対し、ファシズムへの現実的プログラムを持つ一派/その中心は東条英機、片倉衷、永田鉄山らで、いわばこちらこそが確信犯的な「明治維新の流れを汲む本流の軍国・軍需経済主義」であった)の対立が深刻化していた。


そして、遂に1936年2月26日(昭和11年)、国家社会主義者である北一輝西田税(当事件の首謀者と見なされる軍人でもあった)らと結び皇道派の軍事政権樹立を目指した青年将校たちが、歩兵第1・第3連連隊及び近衛歩兵第3連隊ら千数百名の兵士を率いて、クーデタ「2・26事件」を引き起こした。彼らは、内大臣・斉藤実、大蔵大臣・高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害し、首相官邸・東京朝日新聞社などを占拠した。


結局、これら青年将校らの反乱は鎮圧されるが、クーデタの勃発当初に反乱を容認するかのような態度と対応措置を取った陸軍首脳部(行動派系)は、自らの失態を隠蔽し、事件に対する国民からの非難を逸らすために、決起した青年将校らを速やかに極刑に処す決定を下した。


そして、クーデタにかかわった青年将校らは“一審制・非公開・弁護人なしの「特設軍法会議」で死刑の判決を受け直ちに処刑された。この「2・26事件」以降、事実上、日本の政治は軍部(陸軍)の独走を抑えることが不可能になったというのが定説である。しかしながら、「2・26事件」そのものについては軍内外の上部構造が絡む陰謀説などもあってコトの深層は未だに藪の中だともいえる。


また、政友会の森恪(明治16年− 昭和7/田中義一首相(外務大臣・兼)下の政務次官の立場ながら事実上の外相格で辣腕を振い対中国強硬外交を強力に推進して「山東出兵」、「東方会議開催」などに奔走し、「張作霖爆殺事件」への関係も取り沙汰される帝国主義者)らが、もしも第一次世界大戦後の軍縮の流れに不満を持つ軍人を政治に巻き込む「統帥権干犯問題に絡めた策謀」を仕掛けなかったならば、あるいは日本の特殊権益を保持・発展させる方向で満州問題を上手く処理できたと思われる節もある。


<注記>統帥権干犯問題・・・統帥権干犯について、政友会の森恪が天皇の神聖(万世一系皇国史観)を盾にこれを政治問題化した事件。1930年(昭和5年)のロンドン条約ロンドン海軍軍縮条約)に調印した浜口内閣に対し、これが統帥権大日本帝国憲法第11条が定める天皇大権の一つで陸海軍への統帥の権能を指す)の独立を犯すものだとして野党政友会が攻撃し、これに軍令部や右翼が加担する形で政府を攻撃した結果、政治が軍事を統率する力を失い、結局は(この問題で政府を攻撃した当の本人である)犬養毅が「5.15事件」(国家社会主義者・大川周明の1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、犬養毅首相を暗殺した。)で射殺され、日本の政党政治は、事実上の生命を絶った。


今まさに太平洋戦争へ雪崩れ込もうとる一大エポックの時代における、以上のプロセスと顛末を冷清に観察すると、不気味にも其のような過去と現代日本との間に何やら共鳴するものが感じられてくる。そして、現在の安倍政権下で起こりつつある政治状況と、およそ「5.15事件」、「2.26事件」辺りの時期から太平洋戦争・突入期までの過去のプロセスとが共鳴すると思われるものの中から、特に注目すべき政治上の特異点が三点浮上してくる。


(1)「天皇と国民の距離」の問題(神格へ戻るのか、憲法改正による国家元首化か、象徴天皇の維持か?)


・・・そもそも、日本国・幼生の完成時(天武・持統期)における独立国家の重要な基盤は、中国伝来の律令制を模倣・敷衍することによって生まれた「民百姓」である。ただ、ここでいう百姓は、近世以降における農民を指す言葉ではなく、官僚も含めた国民一般の意味であった。また、この時、同時に「賤民」の意識も生まれており、その時の差別の対象は俘囚(蝦夷など)であった。


・・・「5.15事件」、「2.26事件」に影響を与えたとされる大川周明北一輝国家社会主義者の思想の根本にも「国民の天皇」なるコトバで代弁される「天皇と国民の距離」についての問題があった。ただ、彼らの思想が悲劇で終わったのは、神格天皇そのものへの疑問が湧かなかったという意味で、皇国史観のフレーム内でアジア主義大川周明)などを短兵急に完結させるという一種の短絡に陥り、健全な民主主義構築への戦略が一切視野に入らなかったことである。


(2)格差拡大の放置


・・・1930年代以降において次第に強まった日本ファシズム思想の背景の一つに超格差問題(特に、当時の農村の疲弊と悲惨化の問題があり、今で言えば1%派vs99%派)が存在した。戦前の日本でも、政官財界の堕落と実行権力層の横暴が蔓延り、政治自身がなす術を見失っていたため、特に青年将校層を中心とする軍部が危機感を膨らませていた。


・・・また、日本国・幼生の完成の時(天武・持統期)における独立国家の重要な基盤(日本国・幼生期の手本)となった中国伝来の律令には「中庸」に加えて、福祉の遥かな魁(さきがけ)とも見える「鰥寡孤独(かんかこどく)」そして「凡ゆる批判を受け止める多様性」(神仏・儒教道教老荘・神仙・陰陽など諸要素の習合)の観念があり、特に此の「中庸」の(言い換えれば、国家権力と民百姓(国民)の均等(バランス)を図るべしとする)観念は、天武・持統期に約20年の歳月をかけて漸く完成した日本型・律令制中華帝国のそれをより進化させたとも言える)の中に入っていたことを理解する必要がある。


(関連情報)


東京新聞 [自著を語る]『東アジア法文明圏の中の日本史』深谷克己さん(早稲田大学名誉教授)http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/jicho/list/CK2012122502000216.html


・・・以下、記事の転載・・・


◆鰥寡孤独(かんかこどく)への視線で結ぶ


本書で私は、「政治文化」の視角から見れば日本史は東アジアの内側にあったことを、長期的な通観によって明らかにしようとした。東アジアは古くから確執を抱え、今なお猜疑から自由になれない。現在の猜疑のもとが近代の「大日本帝国」の進み方にあったことは、多くの論著が論じている。近世史研究者の私は、異なる立脚点から東アジア史を検証し、「歴史認識」の次元でだが、猜疑を払う「希望の種子」を見いだす工夫を進めた。


歴史学」では、東アジアが一体的な世界であることは自明ではない。「対外関係史」は濃密な交流を証明したが、交流の盛んさと社会の類似性は同じではない。東アジアの個々の要素は相違が大きく、歴史学でも明治維新で日本だけが「独立」し、日本だけが「資本主義発達史」を実現したことから、アジアで例外的な欧米社会への近似性を強調してきた。これが日本先進観をともなう「脱アジア論的日本異質論」となって、今も生きている。


本書は、東アジア固有の古典古代(神話・聖典・聖人)を始原とする「儒教的政治文化」を持つ「東アジア法文明圏」の膨張の過程で、日本史は、「東アジア化」(君主制的な民本・教諭主義)と、対抗する「日本化」(鬼道支配の持続)の相克として進展すると論じた。そして優位な政治文化として、「民主制」ではないが、「民本」「安民」「太平」など、今でも再鍛造の可能な要素がいくつも取り込まれ政治文化の日本的個性として磨かれたことを指摘した。


「鰥寡孤独(かんかこどく)」も頻繁に言われるが、それは、安定した生産者家族の経営保護を超えて、「年老いて妻なき男と夫なき女、みなし子や子なく老いたひとり者」、つまり「よるべなき者」に生きる方途を与えることが「政(まつりごと)」の要諦だとする政治文化である。


孤独な高齢者を増やしていく日本社会が、この政治文化を無駄にすることはもったいない。しかも、同質の政治文化のなかに、磨きなおす値打ちのあるものを共有しあっていることを知るのは、東アジアの猜疑を乗りこえるヒントにもなるのではあるまいか。(岩波書店


*ふかや・かつみ:1939年三重県生まれ。早稲田大学大学院を経て同大学文学部助手。日本近世史担当教員として同大学に勤務。2010年3月退職。博士学位論文「百姓一揆の歴史的構造」『深谷克己近世史論集』全6巻。


<注記>アニミズム・シャーマン信仰の核心たる鬼道と鰥寡孤独について (只野親父ことtoxandoria的理解)


・・・縄文〜弥生時代という長い歴史時間と、比較的温和で恵まれた自然・文化環境で崇拝されてきたアニミズム信仰の賜物と見るべき日本型「鬼道」は、言い換えれば広義のシャーマニズムであるが、まぎれもなく「神道」(古くは神祇信仰)こそが其の中心的役割を担ってきたといえる。しかも、「神道」は、中国伝来の儒教精神と一体化した律令政治の模倣化プロセスの中で自らの個性の輪郭を明瞭化させ始める(7〜8世紀)頃より遥か前の時代から、そもそもが神仏習合であったと考えられる。


・・・「鰥寡孤独」は、律令制下において国家による救済対象とみなされた、儒教的理解に基づく困窮化した家族構成のことであり、わが国でも国家・日本の輪郭が析出し始めた天武・持統期から幕末に至るまで、最上位に天皇制を掲げる二重権力構造の中で連綿と引き継がれてきた日本的な伝統観念(政治文化)であった。


・・・しかし、「明治維新」以降は、19世紀的植民地主義の酷薄な弱肉強食の論理に翻弄され其の伝統の根本が崩壊した。乱暴に言ってしまえば、それが短絡であったとは雖も、北一輝大川周明らが国家社会主義的な発想へ取り憑かれた悲劇の原因も此処にあるとすれば彼らにも同情し得る気がする。しかし、クーデター、テロリズム、あるいは軍国・戦時型経済への没入は愚の骨頂であるし、まして自由主義の全否定も、国家社会主義共産主義を偶像化する設計主義もナンセンス(自由原理主義は論外!)である。


・・・要は、日本の自然環境、文化、歴史などに十分目を配りながら、資本主義の先鋭化で必ず祀り上げられ図に乗る「花見酒経済/偽ケインジアニズム」から湧き出る1%派なるボーフラを退治する有意な方法を創造し、確立することだ。「東アジア法文明圏」で共有する「鰥寡孤独」に再びスポットを当てるべきという 深谷克己氏の主張が重要であるのは、まさに此処にあると考えられる。


(3)軍需経済(安倍自民党政権では、これに科学・経済両合理性を疾うに失った「原発」の一極利用による非常にリスキーな軍需経済への異常なほど強いこだわりが加わる)


・・・先ず、押さえておくべきポイントは、<民主主義国家において国策軍需経済へ過剰傾斜することは、事実上、開戦(戦争)するか否かを決定する最も重要な主権を官僚・軍人・財界人らへ安く売り渡すに等しい最大の愚行である!>というリアルな認識が必要だということだ。この点を軽視すると、確実に軍靴の足音が近づくことになる。


・・・ところで、これは格差拡大の問題とも絡むのだが、戦前、政友会の森恪らが満州国を舞台にした軍需経済拡大を深謀遠慮(策謀)した事実がある。一方、現下においては、安倍政権が堂々と改憲と自隊法の改変等を前提とする「国防軍創設」、そして安全保障と安定エネルギー源確保目的の「原発推進(フクシマの現実を無視した原発政策の完全な取り戻し)」を謳いあげており、それは紛れもなく確信犯的に軍需経済へ前のめりになっているということだ。


・・・これら二つの歴史の共鳴に対し主要メディアも国民一般も、ほとんど看過するか、あるいは無関心を装う如き空気が拡がりつつあることに不気味さを覚える。また、「2.26事件」の直後にあたる昭和11年(1936年)6月3日に13年ぶりの第三次「帝国国防方針」改訂が行われた。ここで明確化したのは、内需拡大策などへ傾注して格差拡大を図るよりも、爾後は政財界が一致結託し全国民が一丸となり「軍需経済」の振興策へ突き進む国策方針が明快に決定したということである。


・・・無論、軍需を賄う円増刷に抵抗した財務大臣高橋是清は首尾よく(?)「2.26事件」によって粛清されていたという訳だ。この辺りの経緯が、余りにも、メディア・プロパガンダ絡みで原発再起動型のアベノミクス(アホノミクス?)路線を突き進む現下の日本の状況に酷似することに驚かされる筈だ。


<注記>昭和11年「帝国国防方針」第三次改訂
・・・「2.26事件」の直後ともいえる時期の昭和11年(1936年)6月3日に「帝国国防方針・第三次改訂」が行われた。この時、陸軍はソ連を仮想敵の中心とみなして軍備増強の方針を決定したが。これが太平洋戦争への直接的始動を運命づけたことになる。
・・・ここで国防方針は外交で国家の発展を確保するものの、その上で<有事においては先制攻撃と短期決戦を軍事ドクトリンとする>ことが定められた。また持久戦・総力戦に配慮しながらも短期決戦に必要な平時における軍事力の準備が強調された。


(関連情報)


【権力と交尾(つる)む醜悪なマスメディア】唯一の“成果”「原発推進」決定を浸隠す異常メディア!⇒自民という危険極まりない隷米独裁政党の暴走(日々雑感)/関税自主権破棄が正しいかの如き論調で足並みを揃える。TPP参加前のめりで日米首脳会談は「大成功!!」と持ち上げる。http://urx.nu/3paP


万世一系皇国史観、軍事国体論、徴兵制、安倍型アナクロへの道!⇒安倍首相、96条見直しに意欲=憲法改正本部が初会合、「国防軍」創設の必要性を訴えた−自民
http://t.co/n4qyhFLKNX hanacahnacauseposted at 19:07:242013年02月21日


アベノミクスの正体は互恵的?軍需創造なる19世紀型アナクロ経済戦略/安倍政権・価値観外交と表裏のダイアモンド(日米印豪)同盟戦略なる誇大妄想ツールが<国防軍創設>と<国策原発>復活」、そして其の補完たる「軍需・国策原発増強即応型の円増刷臨機対応用日銀総裁人事」のコラボレーションhttp://urx.nu/3mQC hanacahnacauseat 00:31:152013年02月12日(画像『アジアの安全保証ダイアモンド』はhttp://urx.nu/3gnD より)


(エピローグ)


戦前に一般国民が共有していた『紀元二千六百年』型の歴史観が否定される現下の日本の状況にご不満の向きが多くおられるようであり、<憲法改正、教育改革、国軍創設、徴兵制、天皇元首制、天賦人権論(基本的人権)否定、国体論・国体明徴、万世一系皇国史観への復帰・・・、そして其れらと「国策原発」必要論を牽強付会で強引に結びつけて騙りつつ明治維新型のアナクロ・ミソロジーアナクロ神話論理)を必死で取り戻そうとする安倍自民党日本維新の会などの“偽装or勘違いorトンデモ”保守派>へのシンパシーが勢いよく日本国中で拡大しつつある。


そして、これらアナクロ・ミソロジーアナクロ神話論理/『紀元二千六百年』、つまり戦前型の万世一系皇国史観の取り戻しを謀る詭弁)の推進役を担うのが安倍自民党総裁が会長職を兼務する神道政治連盟神社本庁の外郭)であり、それに連なる全日本愛国者団体会議日本を守る国民会議、 創生「日本」、 日本の前途と歴史教育を考える議員の会(『紀元二千六百年』の学校教育への導入を謀る会)、美しい日本をつくる会、日本協議会、日本青年協議会etcなどの関連諸団体(これらは全て自民党の強力な集票マシン!)が其れを強力にバックアップしている。


加えて、原発が稼働せぬから貿易赤字が拡大するというようなトンデモ論までもがアホノミクスの名を借りてのさばり始めている。そして、神道政治連盟神社本庁の外郭)が<一般国民向けの文化マインドコントロール/ウランもプルトニウム放射能も自然の一部なので原発推進は日本伝統の神道アニミズムに違反しないという屁理屈、http://urx.nu/3j7t>を掲げて、安倍自民党政権の原発取戻し戦略を強力に支援していることは周知のとおりだ。


(関連情報)


原子村・エネ研のウソ誘導プロパガンダ原発貿易赤字は9割方無関係!⇒原発9基再稼働でも来年度は大幅貿易赤字 輸入燃料高止まりで、エネ研 – MSN http://urx.nu/3qjN  hanachancause2013.02.28 13:56


【動画】そもそも貿易赤字原発停止が原因なのか? その1モーニングバード たまぺでぃあ2013.2.28)


【動画】そもそも貿易赤字原発停止が原因なのか? その2モーニングバード たまぺでぃあ2013.2.28)


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これら諸勢力が<伝家の宝刀として頼る>のが、上で縷々述べてきた「日本古代化へのプロローグ」の時代に入る古事・説話である。言い換えれば、それは『古事記』、『日本書紀』が古代ヤマト民族中心の説話ないしは霊験譚として脚色・創作したと考えられる「神武天皇、建国神話(BC660.2.11?/現在の建国記念日)」と「神功皇后三韓征伐(新羅征討説話/AD3世紀頃?)」の二本柱である。しかしながら、我が日本国の創建と天皇の称号の開始は、その時代より後の「日本国の輪郭が成立して天皇の呼称が開始する天武・持統期(7世紀後半)」とするのが考古学と歴史学が検証した現時点での結論である。


日本の高度な伝統文化と美しく恵まれた自然環境を保全・継承すべきと考える正統保守的な観点からすれば、「日本古代化へのプロローグ」の時代に入る古事(説話ないし霊験譚)の類について、<それは歴史的事実であり、かつ誇り高き「原発の超リスクすら封じ込めが可能な神国・日本」なる皇統の証なので此れを否定するのは国賊・非愛国者ないしは狂人か犯罪者だ>とムリヤリ決めつけるアナクロ・ミソロジーアナクロ神話論理、というよりも一種のパラノイア型論理)を当て嵌めるべきではないと思われる。


ともかくも、神道政治連盟神社本庁の外郭)が、言い換えれば安倍総理大臣自身が唱える<ウラニウムアニミズム論による原発取り戻し戦略なるパラノイア型の異常論理>は余りにも国民を小ばかにし過ぎではないか?こんなトンデモを素直に信ずるのが日本国民の自画像だよ!・・・と言ってしまえば其れまでのことだが・・・。


しかしながら、神道政治連盟神社本庁)や自民党系の原発族議員らの魂胆はともかくとして、既述のとおり、伊勢神宮に所属する専門の神道学者ないしは歴史学者らが、<伝統信仰プラス古代中国伝来の律令儒教等を祖型として創建された「優れたオリジナル日本文化と天皇制の象徴たる伊勢神宮の建築と儀礼」が意味すること>を客観的に研究しているという非常に冷静な現実があることに、些か安堵の感を覚えたしだいである。フクシマ由来の過酷な放射能被害で福島県内の神社関係者が大変ご苦労されているらしいことも伝え聞いている。


ところで、この記事の表題は普通の表現を採るなら「安倍“右傾”政権」と書くべきであるのだろうが、敢えて此処では“軍需”政権とした。それは、日本の正統保守を真剣に意識する立場からすれば、いまや陳腐化した右傾化or左傾化の議論は無意味であるからだ。事実、グローバル市場原理主義なる偽装資本主義が席巻する現代においては、右=自由(資本)主義、左=共産主義なるドグマ・メジャーで世界の政治・経済の現実を理解する思考方法そのものが既に破綻し、その有効性が殆ど失われているのは周知のとおりだ。


要は、各国それぞれが、自国のアイデンティティを正しく客観的に捉えなおしつつ、自他双方の国民についての「鰥寡孤独」、「中庸」、「多様性尊重」などの価値観を地球・自然環境へ配慮して平和裏に共有すべきだということである。