toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

信濃古代エトノスの警告/緊急事態『改憲』の隠れ標的、「国家神道」と先制攻撃「軍事研究」の復活(国民が軽視する安倍晋三“感情構造の病理”)は日本の未来をゲキ破壊する時限Bomb!

toxandoria2016-06-26



・・・山紫水明な大自然の風土の下で稲作・穀物らの豊穣を祈願する弥生・縄文両文化系アニミズム信仰の“和解”(縄文系自然の・狩猟・戦闘的で荒ぶるカミ(神話論理)の象徴化=その典型が諏訪社の御柱祭)に基づく王権(天皇家の権力)を確立したという意味での神聖政治(平和・専守防衛)国家が、日本エトノスの原型である・・・


【Cover Images】





Nolwenn Leroy - Juste Pour Me Souvenir
・・・私のスーベニール(大切な古代ケルト・エトノスの記憶)/ブリトンケルト)風の唄声とメロディー/男たちは荒れ狂う海に漕ぎ出し、女たちはその帰りを待ち続ける。独特の哀愁が漂い、こぶしがきいていて・・・(http://goo.gl/KxOMx6 より)。ブリトン民謡(ケルト・エトノス)のフィーチャー。



(右=『半跏思惟像(木造、制作時は彩色?)/中宮寺 飛鳥時代・7世紀)』、左=仏像『韓国国宝78号 半跏思惟像(金銅像/メッキ(滅金アマルガム技術)製)三国時代・6世紀』)
・・・“半島と列島が古代エトノスを共有する時代のスーベニール”(←“補足”、toxandoria)と、日韓国交正常化50周年を記念し、両国の文化交流の一層の促進をはかるために企画された展覧会。今回は史上初めて、日韓を代表する国宝である2つの半跏思惟像をあわせて展示。最初に韓国国立中央博物館で披露されたのち、海をわたって日本でお目見えとなる(R25イヴェント・カレンダー、http://r25.jp/off/00051135/ より転載)。



(古墳時代・騎馬兵(首長級)のイメージ)
・・・当画像は、島根県出雲市上塩台築山「古墳」から出土した馬具・武具・装身具を元に復元した首長像。神戸市立埋蔵文化センターでの展示(1999.10.23)を報告するHP、http://goo.gl/lPYTfS より転載。


 
(鞍作止利・作:釈迦如来坐像(飛鳥大仏)、法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像
・・・その代表作が「法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像」(623年)とされる鞍作止利(くらつくりのとり/生没年不詳/鳥仏師とも)は、飛鳥時代の渡来系(百済系?)の仏師とされるが、元々は馬具の鞍を作る工(職)人であったらしい。その釈迦三尊像に先立ち飛鳥寺奈良県高市郡明日香村大字飛鳥)の本尊、「釈迦如来坐像(飛鳥大仏)」の作者でもあると考えられる。577年には百済聖明王の子・昌王が倭国へ造仏工・造寺工らを派遣しているので、それより先に渡来し倭国で活躍していた鞍作り工が造仏を命じられたと考えられる。やがて、百済から伝えられた仏工技術は「倭国」風により洗練されて『半跏思惟像(飛鳥時代・7世紀 奈良/中宮寺)』(↑Cover Image“ほほえみの御仏”/右)などの美しい作品を生み出した。


・・・


木曽路の風景、アラカルト(20160618〜20160620)


妻籠宿(本陣跡ほか)


  


奈良井宿島崎藤村ゆかりの徳利屋ほか)


  

  





松本(中町土蔵街、松本城旧開智学校


 

 


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(プロローグ) 緊急事態『改憲』の隠れ標的、「国家神道」と先制攻撃「軍事研究」の復活を謀る安倍首相、日本会議日本青年協議会=隠れ、生長の家“過激派”)、神社本庁らは世界の超リスク!


・・・戦前の「国家神道」(追憶のカルト)は終戦時に全日本国民を「本土決戦」(愛国総玉砕戦)の瀬戸際に追い込んだ偽エトノス(感情構造に寄生する閉鎖的カルト病)!因みに、英EU離脱ポピュリズムの赤字(反知性主義の極大化)に因る一種の偽エトノス現象なので唯一のワクチンは理念再構築への挑戦!その意義に一般国民が気付かぬのであれば国家滅亡も覚悟すべき!・・・


    

    


1 縄文・弥生両文化『“和解”エトノス』の典型/古代ユーラシア文化圏に繋がる「信濃の古代史」(概観)


 


・・・一枚目の画像(ユーラシア大陸)はウィキより、二枚目(北・南・中央アルプス信濃)はブログ・湘南キット研究所、http://goo.gl/LtnVlQ より、三枚目はHP長野県の地形・地盤 : ジオテック株式会社、https://goo.gl/N7Ddyzより転載。


1−1 エトノスの視点で信濃国(長野県)の縄文・弥生両文化と古代史を概観する


信濃国に遺る縄文・弥生両文化のエトノス的“和解”の残照)


近世〜近代〜明治期〜戦前・戦中・終戦期ころに至るまで、外部権力に容易に妥協しない信濃人(信州人)は同時に信濃の内部でも群雄割拠しつつ各地域ごとに鬩ぎ合う歴史を繰り返しており、古代の一時期には諏訪国が分立していたこともある。それは、地域伝統の縄文文化に徹底的に根差し、ヤマト朝廷(中央政権)の弥生文化の受け入れを拒否したからであった。また、同じく一時期に国府が上田→松本へ移ったのも、信濃人のそのような個性形成プロセスの表れと見るべきかもしれない。(以上の出典:大和岩雄『信濃古代史考』−大和書房−)。


江戸時代の信濃国では、発生件数が全国一であった百姓一揆や数多の訴願闘争が頻繁に起こり幕藩領主らを苦しめた。また、明治期以降の長野県(旧信濃国)では先進的な自由民権運動、やがて、それに引き続く普通選挙運動、農民運動などのいわゆる社会運動が全国に先駆けて非常に活発化し、時の政府が社会主義運動を弾圧した「大逆事件」(民主主義、共産・社会主義へ極刑で臨んだ政治的弾圧)の発火地となった。


次いで、瞠目すべきは長野県出身の優れた出版人・編集者らが非常に多いことで、例えば主な創業者を拾うと岩波茂雄岩波書店諏訪市・中州出身)、古田晁筑摩書房塩尻市(旧東筑摩郡)・同)、大和岩雄(大和書房&青春出版創業者・古代史研究者/伊那市(旧伊那郡高遠町)・同)、小尾俊人みすず書房茅野市・同)、小宮山量平(理論社上田市・同)等々という具合で、その他の出版人、ジャーナリスト、作家らを加えるとそれは夥しい数となる。


ところで、ある地域の景観と風土は長い年月の繰り返しという膨大な時間の流れのなかで積み重なった古い地層(その地で生きた人々の『純粋経験と感情構造』(委細、後述)の積み重なり)の上に築かれたものである。だから、我々は、そこで暮らしてきた多くの人々がその地域で培った個性的文化と現代の生活にも繋がる古層(地域文化・社会・経済の空間・地層・岩盤環境としてのエトノス)がどのようなものであったかを先ず深く理解すべきである。そのうえで、それを未来へどのように繋ぐべきかという視点と、それらを正しく評価する柔軟な感性(正統保守たるエトノスの視点)を保持することが肝要となる。


<注>エトノス(ethnos)
・・・エトノスは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念と風土、又は過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化を常に受け入れつつも、その伝統的な全体性の“持続”を最重要視する幅広い寛容な集合意識、およびその受け皿たる風土』の意としておく(委細/下記★参照)。


★政治的ネクロフィリア安倍内閣のオフィーリア・コンプレックス/バシュラール・エトノス、「水のイマージュ」による批判/2016-05-04toxandoriaの日記http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160504


・・・


エス(das es)と純粋経験について)



かつて、J. G.フィヒテ(J. G. Fichte/1762 – 1814/カントから大きな影響を受け、自らもシェリングヘーゲルらに影響を与えたドイツ観念論の哲学者)は「最もドイツ的な特徴はドイツ人の最初の文化的な流出(Abfluss)たる“ドイツ語”そのもの」だと言明したが、言い換えればそれは「ドイツ(ドイツ語)にはIch(自我)」と等値(同等に評価)と見るべきものとして「それ(エス/das es)」を重視する伝統がある、ということだ(出典:互盛央『エスの系譜』-講談社-)。


ドイツ語のエス(人称代名詞es/“Es gibt A(=There is A)”のes)は、我々がこの世に誕生した瞬間の無垢の所与である純粋経験(前意識・無意識/Vorbewusste)と融合しつつ、現在の自己から未生へも繋げるべきエトノス環境(ethnos)を指すのだと理解することも可能である。ともかくも、そもそも我々が生まれた瞬間の意識はおそらく「主語も彼我の区別もない世界」であったことになるだろう(関連参照/既述の<注>★/バシュラール・エトノス、「水のイマージュ」)。


ところで、我々が差別も敵意も殆んど感じなかった純粋経験の全てを主語が支配する明晰なコトバ(文脈)で語ることはなかなか困難である。無論、その純粋経験には真逆の敵意に満ちた悪の成分が潜む場合もあるのは当然のことだが、まがりなりにもそれが揺籃環境であったからには、それは前者(差別も敵意も殆んど感じなかった)の経験が些かなりとも優勢であったからだと考えられる。


そして、それはまさにその“純粋”の意義にはエスが司る意識の流れとして、ある種の寛容な感情の漠とした流れ(この場合は、寛容な感情構造)が記憶されていることを意味するからだ。だから、あえてそれを明晰に語り得るとすれば、それは虚構ということになるだろう。


また、ドイツ・ロマン派の哲学、同文学、同美術らの分野で、あるいは戦前日本の浪漫派文学(1930年代後半に保田與重郎らが中心となり日本伝統への回帰を提唱する文学思想(委細、下記★参照)で使われたアイロニー(irony/この場合は美的価値や宗教観などへ没入し現実逃避すること)に関して、あの漠としたエス(es)を政治・社会・経済の分野で政策的に実在化させようとする異常な運動が起こったことがある。


★「戦前を取り戻す」に潜む三島由紀夫橋川文三が共有するアキレス腱(追憶のカルトなる近世日本の伝統テロリズム)2013-08-22 toxandoriaの日記http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130822


・・・


言い換えれば、それは当時の日本の哲学・美学・文学世界がグローバル国際社会(リアル世界)から観念的に完全遊離しつつ(舞い上がり、あるいは没入して)、国民一人ひとりを国際社会から意図的に切断するという意味での現実逃避(アイロニー)であった。また、当時の日本政府が、政治権力的に国民へそれを強制することに対して、当時の日本の文学界およびアカデミズムが積極的に同調することさえあった。


しかし、結果的にそれはドイツにナチズム(純潔ゲルマン民族主義、人種改良優生学、過激ヘイト主義など)をもたらし、日本では偽エトノスとしての国策「国家神道」原理式のファシズム(現在、#安倍政権、#日本会議、#神社本庁 らが必至でその国家神道の復活の前提条件となる緊急事態条項付“改憲”の実現を謀っている)らを誕生させ、それが第二次世界大戦の大きな悲劇に繋がったのは周知のとおりだ。


つまり、無理やりにエスの実体化(偽エトノスの創作)を謀れば、戦前日本の如き「神霊支配型ファシズム」(偽エトノスたる国家神道に基づく靖国英霊主義&純血民族主義)や、あるいはナチス・ドイツの如く純粋民族&血脈事大主義でマイノリティー排除型の閉鎖的で狂信カルト的な政治権力に一方的に支配される国家へ没落するリスクが高まる。


一方、もしその伝統をエトノスとして正しく理解できるならば、我われ一般の国民層は、その同じ国家の岩盤であるエトノスから多元文化主義や共生・寛容などの、開放系で未生に繋がる価値観を深く理解できるようになる。言い換えれば、我われはそのことによって初めて着実に未生(未来)へ繋げ得る開放系の新たな政治・社会・経済の方向性を発見できるのである。


(関連情報)



◆【現代世界でのIS化傾向の拡散と偽装極右(偽保守)化のトレンドはエトノスの病理?】親子間のエトノスの断絶でイスラムのジハードだけが受皿化したが、それは安倍晋三首相らが目指す愛国玉砕に通じる!また、彼らが必死で取り戻しを謀る国家神道(偽エトノス)は、神社本庁の本宗たる伊勢神宮に守護された靖国式“このみいくさ”を国家神道の最高秘儀と見たてる異常な政治観念である。
・・・Cf. それは「過激派のイスラム化」と見るべきだ!この過激派(人間の本性に潜む暴力性の過剰化)は世界の何処でも起こり得る。例えば、フランスの場合、親世代に対する若者の反抗に宗教(イスラム)的要素は薄いので、この種の傾向をイスラム化(日本の場合は“右傾化”のコトバで←補足、toxandoria)で単純に括るのは誤りだ!:欧州大学院大学教授、オリビエ・ロワさん2016611朝日https://goo.gl/QmtP0n


1−2 長野県の特性


(現在の産業)


  
・・・右の画像は『安曇野の風景』/(以下、第三パラグラフまでの内容、および添付画像(地図)の出典は、日銀松本支店『長野県産業の特徴』http://goo.gl/Fd9UIg より/二枚目の画像『安曇野市 (旧穂高町)』は、ブログ「信州・安曇野穂高 『碌山美術館』 &穂高町の火の見櫓(長野県)」http://goo.gl/QADQHW より転載) 


戦前の長野県は養蚕・生糸中心の製糸王国で最盛期には工場数が800余を数え、それは日本の生糸生産量の約3割、県下工業総生産額の約8割を占める隆盛を示した。が、太平洋戦争期に至ると生糸輸出の途絶から急速な衰退をみることとなった。しかし、代わりに航空機部品・光学機器・通信機・バルブ製造等の工場約400社が相次いで疎開してきた。


この太平洋戦争期の養蚕・製糸王国の没落が主な要因となって、満洲への積極的な移民政策を長野県は推し進めることとなり、満洲移民数が全国で一番多くなったとされ、戦後には多くの悲劇が生まれた。


一方、戦後は適した風土条件が評価され、これらの工場の技術が地元に根づき、諏訪・岡谷地区を中心にカメラ、腕時計、オルゴール等の精密機械工業が発達し、県内各地にも電気・輸送用機械関連等の企業が定着した。


昭和40年代後半の第一次石油危機以降、重厚長大型産業に代わり、軽薄短小型産業が全国的に急成長を示す過程で、長野県の電気・精密機械工業も技術革新の波に乗り飛躍的な発展を遂げた。


(地理的特性)


県境には標高2000m~3000m級の高山が連なり、内部にも山岳が重なりあう急峻で複雑な地形であるため日本の屋根とも呼ばれることがある長野県は全国の都道府県の中で第3位の広さがあり、その面積は隣接する埼玉、山梨、愛知の三県を合わせたものにほぼ相当する。加えて地理的にも歴史的にもきわめて変化に富んでおり、しかも県内各地でも著しい地域個性の差が見られる。


長野県の地理的特性を見ておくと、中央部を高地が占める山地型の地形ではなく、むしろ北西の県境の飛騨山脈、南東の県境の赤石山脈(長野県、山梨県静岡県に連なる山脈で、通称南アルプスとも呼ばれる。飛騨山脈(北アルプス)、木曽山脈(中央アルプス)とともに日本アルプスとも呼ばれる。)の標高が高く、それらの間のいくつかの盆地(伊那谷松本盆地佐久盆地長野盆地など)を中心とした集住地域が形成されている。


また、数多くの水源を擁しており、天竜川(南信濃諏訪湖を水源とし伊那谷を通る)、木曽川(中信濃)は南下し太平洋へ(岐阜県、愛知県、三重県を経て伊勢湾に注ぐ)、千曲川(東信濃、北信濃)、犀川(中信濃)は長野市で合流して北上し、県境を越えて信濃川と名称を変えて日本海へ流れ、姫川(中信濃)も日本海に流れている。


木曽川の水運と江戸期の中山道


(1)木曽川「水運」の役割



木曽川は飛舞山脈の南部、長野県の鉢盛山(2446m)を水源としており、ほぼ南西方向に流れ伊勢湾に注いでいる。上流では寝覚ノ床、恵那峡日本ラインなどの峡谷をつくり下流では扇状地と三角州からなる濃尾平野を形成している(画像は、環境省HP『名水百選』https://goo.gl/HE92FP より転載)。


木曾川の水は古くから灌漑用水として利用されており、17世紀初めには大野村(一宮市浅井)に設置された大野杁(おおのいり/杁=水門)を源とする宮田用水ができ、それ以降には般若、木津など多くの用水が設けられた。また、鬱蒼たる美林地帯で名高い木曾山の木材の輸送路としても木曽川は重要な役割を果たした。しかし、木材輸送路としての木曾川は明治末に国鉄中央本線が全通するとともにその役割は小さくなった。


(2)江戸期「中山道」の役割



中山道は、江戸時代五街道の一つで中仙道とも書いたが、江戸幕府は1716年(享保1)に中山道と定めた。また、東海道に対し山道(さんどう)とも書き、木曾路とも呼ばれた。中山道は江戸北西の板橋宿を起宿とし武蔵、上野(こうずけ/ほぼ群馬県)、信濃、美濃を経て近江の守山宿を最後の宿として草津宿東海道に合流し、大津を経て京都に入る。板橋から守山まで67宿だが、普通は草津、大津を加えて木曾街道六十九次(駅)とも言う(添付画像『寝覚の床/長野県木曽郡上松町』の風景はブログ『ぶらり途中停車の旅 by Tommykaira tb』http://goo.gl/oqtWSK より転載)。


近年は、木曽路の三大宿場町として馬篭宿(2005年に長野県木曽郡山口村から岐阜県中津川市編入)、妻籠宿、奈良井宿が注目を浴びており(参照/冒頭のCover Images)、人気の観光スポットとなっている。馬篭宿は、中山道43番目の宿場(→中山道六十九駅)で馬籠峠を越えた信州側の妻籠宿(長野県木曽郡)とともに人気があり、多くの観光客が訪れる。馬篭宿のほぼ中間地点には旧本陣であった藤村記念館島崎藤村生家跡)がある。


妻籠宿は、中山道42番目の宿場(中山道六十九駅)で現在は長野県木曽郡南木曽町にある。隣接する馬籠宿(岐阜県中津川市)とともに、馬籠峠を越える旧中山道史蹟と合わせて木曽路を代表する観光名所として人気が高い。中山道34番目の宿場(中山道六十九駅)である奈良井宿(長野県塩尻市)は、難所の鳥居峠を控え、多くの旅人で栄えた宿場町は「奈良井千軒」とも呼ばれた。


1−3 古代ユーラシア・エトノス文化圏に繋がり、遥か西方からケルト・フレグランス(微風)すらが漂う「信濃の古代史」(概要)


1−3−1 諏訪大社御柱信仰とカミカゼを繋ぐ深層/それは古代ユーラシア・エトノス文化圏に繋がる縄文期文化の残照



信濃(信州/長野県)で最も古層に属する地域は何処かという視点で見ると、それは諏訪地方である。一説によれば、天武・持統天皇信濃(特に、古代からの風神(ユーラシア全体に共通する、風を鎮め統制するカミ)を祀る諏訪大社(全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社/諏訪湖周辺で4か所の配置)が立地する諏訪/そこでは須波と記述されている)への行宮(あんぐう/変事などの折に利用する一時的に宮殿を造ること)に拘り続けたことが日本書記(持統天皇5年8月23日条)から読み取れる(添付の画像二枚、『諏訪大社(下社/秋宮本宮)』と『御柱/上社の木落し』はウイキより転載/三枚目の画像『道祖神/オンマラ・サマ』―松本市博物館(松本城内の展示品/これらに似た男根様の道祖神甲信越地方や関東地方に多く見られる)は、http://goo.gl/6aTZXn より転載―)。



<参考>古代史ミステリー、数えで7年に1度の 「御柱」 〜最後の“縄文王国”の謎〜(NHKスペシャル:初回放送20160626) http://goo.gl/BKAOLm ・・・当番組は「古事記神話+考古学遺址+社伝」の解釈で構成されているが、本記事は伊勢神宮ミソロジー重視の観点から「日本書記+考古学遺址」等の解釈に依った。なお、同祭で上社本宮から里曳道中まで派遣される「お舟」の使者は渡来系弥生文化(ヤマト政権/安曇・秦氏らが介した稲作文化)と縄文文化の和解(委細、後術)の象徴と見えて興味深い。


 
しかし、その時代の諏訪社に目立つ建造物はなく、その神域には巨大な柱(西域〜中国〜東アジア全体に拡がっていた風の神(おそらく中国の風伯のルーツ?)を祀る巨大な御柱(おそらく石柱)が1本立つのみであったとされる。因みに、風伯は風を支配する神とされるが、更に遡ればその特異な男性性器信仰なるアニミズム・フレグランスのルーツは古代ユーラシア(欧州(アイルランドブリテン島・ブルターニュらまで含む)〜東欧・ロシア・シベリア〜中央アジア〜東アジア)全体に拡がっていた男性器トーテム信仰の神?であったと考えられる(関連資料、下記★)。


★人文研究見聞録/生殖器崇拝(性器崇拝)とは? http://goo.gl/mnbaaj


・・・


なお、諏訪の周辺5か所に点在する千鹿頭神社(諏訪大社と同じく数えで七年に一度(満6年間隔)の御柱祭が行われる!http://goo.gl/d0H76P)も、おそらく此の地域の狩猟・採集民の縄文期からの信仰対象であったと思われる(上の一枚目の画像『井戸尻遺跡(長野県諏訪郡富士見町の縄文時代中期を中心とする集落遺跡)にある石柱トーテム?』は㏋富士見町・井戸尻遺跡http://goo.gl/do46pB より、二枚目『アイルランドのタラにある石柱(豊穣の象徴?)』は、ウィキ:Hill of Taraより転載)。
・・・<注>米ジョージア州ジョーンズボローの近くにあるとされる(フィクション!)、マーガレット・ミッチェルの長編時代小説『風と共に去りぬ』の物語に登場する、主人公スカーレット・オハラ家の農園名がタラ。その主人公の祖父の地アイルランドのタラ(Hill of Tara)に実在するのが二枚目の『アイルランドの石柱(ケルト文化/豊穣の象徴?)』。http://goo.gl/zOR6hl 


<補足説明>【7世紀後半に成立した、天武・持統期における『伊勢神宮』創建に繋がる神話論理(ミソロジー)の基本構造】広瀬神(弥生期信仰の中核)と龍田風神・諏訪風神(縄文期信仰の中核)なる二「祭神」の“和解”
・・・◆「広瀬神(伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神伏見稲荷大社宇加之御魂神と同神とされ奈良県北葛城郡河合町川合の廣瀬神社(現在は廣瀬大社)に祀られてきた/弥生期信仰の中核/ヤマト王権天皇家)の精神基盤のルーツ)」と、「龍田風神・諏訪風神(縄文期信仰の中核)」なる二(厳密には、三)「祭神(祀)」の和解/Cf.『広瀬・龍田の神』http://goo.gl/188PJU  


「広瀬・龍田の祭礼」は、天武4年4月の記事(日本書紀)が初見で、以後は「神祇令」に規定され、後世の「延喜式祝詞」で正式に祈願されることとなるが、これは天武期に整備されたもの。また、この天武期(670年代)に伊勢神宮の本格造営が着手されたと推定される(出典:新谷尚紀著『伊勢神宮出雲大社/日本と天皇の誕生』―講談社―)。http://goo.gl/UOzbBA 


『日本書記』持統天皇5年8月23日条に、「使者を遣して、竜(龍)田風神、信濃須波(これも諏訪の風神?)、水内等(信濃国水内郡にあったとされる神社(水の神?)ほか)の神を祭らしむ」とある。


これは、天武・持統天皇が拘り続けた信濃への行宮の問題(既述)が関わっており、この時に信濃須波(諏訪)の風の神(畿内にある龍田(奈良県生駒郡三郷町)らの風伯より古く、欧州〜中央アジアも視野に入るユーラシア伝統の風の神、つまり風を支配すると信じられてきた縄文期の男性器トーテム)と龍田風神(中国より伝わった風伯)の両者を、爾後は中央政府ヤマト王権天皇家)が統一(アマルガム化、https://goo.gl/Ah4fdp)して祀ることになったと考えられる(出典:大和岩雄著『信濃古代史考』―大和書房―)。


また、諏訪大社の神(御柱トーテムが象徴する?建御名方神/たけみなかたのかみ)が風神としての神業(かみわざ/仏教の霊験に相当)を現したとされる事例を挙げれば、「文永・弘安役(元寇)」に際して大風(台風の発生)によって敵船を沈めるため両風神、伊勢神宮の風宮と諏訪大社に勅使が発(た)ったことがあり、これが、いわゆる「世界一の日本を絶対的に守護するカミカゼ」と呼ばれる、カミカゼ信仰の起源である。


その後、明治維新期以降の日本の支配者たる『君側の奸』たち、特に太平洋戦争へのプロセスを演出した山県有朋(日本国軍の父)の衣鉢を継ぐ軍部(中枢は陸軍)が、本居宣長(1730 - 1801)の「古伝説」研究などに淵源する「他国に優越する現人神たる天皇を世界万国の宗主と見立てる皇国史観国家神道」を高く内外へ向けて掲げた時に、「ミッドウエー海戦」での敗退を隠蔽(大本営発表)までして、結局、この国民の深層に沁み渡った「カミカゼ精神」が効果的に利用され、太平洋戦争の敗戦間際には「カミカゼ特攻隊」や「国家神道(神国日本)下における愛国カミカゼ玉砕」の名に使われたことは周知のとりである。


しかし、よくよく考えてみれば、「世界に冠たる(日本が一番!の)神国・日本のカミカゼ(風神)」がアイルランドほか欧州全体に拡がるケルト信仰とも繋がる可能性が濃厚な、ユーラシア系の風の神様だというのでは、これは実にでたらめな神話論理である。何ゆえに、ユーラシア系の風の神様をそもそもの根拠とするニッポンが世界で一番!なのか???w


この辺りは、非常に危険な日本製「原発」を絶対安全(安倍式アンダー・コントロール)だと言い張るため、現代の神社本庁が創出し(でっちあげ?w)た「ウラニウム放射能アニミズム論」なる奇怪ミソロジー神話論理/ウランも放射能も自然の一部であり人畜無害だ!←でも、本当は危険なのだから日本国民は原発事故でも『嗚呼、オンマラ・サマ〜!』で玉砕すべし、ということか?苦w)と、そのでたらめぶりが実に見事に露呈している。w


なお、天武紀・持統紀(日本書紀)の記述から『伊勢神道に関わる最古の祭礼』(皇室行事・大嘗祭のルーツ/天皇即位の礼の後に初めて行う新嘗祭/勅使が伊勢神宮ほかに下向し幣帛(へいはく)を捧げる一方、宮中でも儀式が行われる)と考えられる、「広瀬・大忌神祭」(広瀬神社/奈良県北葛城郡/治水神祈願)と「龍田・風神祭(龍田大社奈良県生駒郡三郷町/中国系の風伯が諏訪のユーラシア系風神と合祀)なる二つの祭りの根本(創始、いずれも天武4年(665))にある宗教・政治的観念(ミソロジー神話論理)は、<漸く、ヤマト王権天皇家)が激しく荒ぶる抵抗を続けてきた諏訪大社(ユーラシア系)の風神(および、その眷属たる中国系の風伯(風神))と“和合”しつつ、山紫水明な大自然の風土の下で稲作・穀物らの豊穣を祈願する弥生・縄文両文化系アニミズム信仰の“和解”、言い換えるなら縄文系自然の・狩猟・戦闘的で荒ぶるカミ(神話論理)の象徴化(=その典型が諏訪社の御柱祭)に基づき王権(天皇家の権力)を確立したという意味での神聖政治(平和・専守防衛)国家・日本の誕生>ということであった(関連参照 ⇒ http://goo.gl/cYF6wkhttp://goo.gl/rrF6gt )。


1−3−2 古代“諏訪”地方のエトノス/根強い“縄文の信仰と文化”の残照、“諏訪湖”周辺は最も遅い仏教伝来の地であった


(巨大『御柱』は、遥かな時間を遡る縄文時代に重なるユーラシア“人類大移動”の痕跡) 


  


あの巨大な御柱(元々は石柱?/関連参照、↑添付画像・左端)については、そこから遥かな年月を遡る日本の縄文時代の草創期に重なるユーラシア圏内での人類の大移動(少なくとも1.5万年以上前)という壮大な歴史の痕跡(諏訪地方、およびその周辺に多く遺る“オンマラ(男根)”様、ミシャグジ道祖神(石棒)との関連の検証は道半ばだが!/諏訪を中心とする長野県北および離接する山梨県辺りはユーラシア〜東アジア全域に繋がる細石器文化の終点の可能性が高い?)と見ることができる。なお、今の御柱祭は大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)による「式年造営御柱大祭」の形で行われている(諏訪湖に近い山梨県『金生遺跡』/画像一枚目はhttp://goo.gl/wIQH4T より、二〜三枚目はhttp://goo.gl/iNYZb9 より転載)。


諏訪信仰には縄文時代信濃人の非常に古い信仰の名残が感じられるという点が、同じ信濃国の中で諏訪と他の地域との違いを際立たせる特徴となっている。具体的に言えば、それは山に住む人々の狩猟・採集民としての野性が強い個性となり残っていることだ。その意味での諏訪神は、東北・関東から九州に繋がる山の民(縄文文化の名残を背負った狩猟・採集民/アイヌ系の人々との関わりも窺われる!)からも篤い信仰を得ていた。


  
これと関連し、諏訪地方にある仏寺の殆んどが平安末期〜鎌倉期以降(12世紀末〜)の創建であることも注目すべきである。それは、おそらく縄文的色彩が色濃く残る諏訪地方では、物部氏に取って代わった蘇我氏系の国造(くにのみやつこ)の管轄・支配の時代となり仏教信仰が奨励されることとなっても、縄文期の信仰と文化に強く拘る狩猟・採集民が中心であった諏訪地方の人々は、なかなか仏教に馴染まなかったからではないか?と考えられる(出典:大和岩雄著『信濃古代史考』―大和書房―)。 


伊那谷信濃弥生文化の入り口)



このような縄文期の文化・信仰・社会の空気が色濃く漂っていた信濃地方で最も早く稲作文化が弥生時代の中期初頭(BC1〜AD1世紀頃?)に入ったと考えられるのが伊那谷である。やがて、その稲作文化は天竜川沿いの低地に水田を開きつつ上伊那〜諏訪方面へ北上したと考えられるが、諏訪方面の人々は稲作は受け入れても簡単に縄文期の文化と信仰を捨てようとはしなかった(一枚目の画像『空撮/翼の下の白く見える部分が伊那谷』はhttp://goo.gl/1oWHh6 より転載、二枚目『伊那谷の風景』は、http://vtrmorita.exblog.jp/ より転載)。


やがて、稲作の伝播は松本平から善光寺平へと移り、弥生中期・中葉〜後半頃に弥生文化信濃全体に広がった。しかし、既述のとおり、諏訪地域が中央政府支配下に入り信仰的にも仏教を広く受け入れるようになったのは平安末期〜鎌倉初期になってからと考えられる。なお、善光寺平(現在の長野市辺り)には経路が異なる日本海ルートでも朝鮮半島から渡来系の人と文化が入っていた可能性がある(関連する遺跡が多い!)。


1−3−3 日本人と馬の文化史/騎馬・騎馬戦法・武士(もののふ)の揺籃(発祥)地であった古代信濃


  


もう一つ見逃せないのは信濃国における騎馬と騎兵戦法(武士の発生の淵源?)の定着の視点だ。古墳時代の初期〜中期(4世紀?)に朝鮮半島から馬(騎馬)と騎兵戦法が導入されたが、その最初の着地点は仁徳天皇陵がある堺〜南河内(河内“長野”、藤井寺市、太子町など)辺りであったことが確認されている(関連参照⇒『堺市博物館』http://goo.gl/HZ215E /画像『古墳時代飛鳥時代頃の騎馬のイメージ』は、下記<参考>のHP『近つ飛鳥博物館・・・』の案内文より転載/二枚目の画像『復元された古墳時代の馬と馬具』はhttp://goo.gl/227wHf より、三枚目『藤の木古墳(法隆寺の近く/古墳時代末期)から出土した鞍の一部』はhttp://goo.gl/C0gwSN より転載)。


<参考>古墳時代(初期〜中期/4世紀?)以降、倭国が騎馬戦術を受容するに至った東アジア事情(HP『近つ飛鳥博物館(大阪府南河内郡河南町)の開館10周年記念特別展示は、今来才伎(いまきのてひと)』の案内文より部分転載
http://goo.gl/8oT9GK )
・・・4〜5世紀の東アジアの激動する情勢から、我が国が騎馬戦術を受容せざるを得なかったとする見方が圧倒的だ。この時期、中国の漢人の国家は北方民族の侵入で南に押しやられ、南北朝時代を迎えた。その余波を受け朝鮮半島では北の強国・高句麗が南下政策を取り、南の百済や、新羅加耶諸国に大きな影響を及ぼす。
・・・この危機に対し新羅はいち早く高句麗に下る道を選んだが、百済加耶諸国と共に倭国を味方に引き入れ高句麗と戦う道を選んだ。その結果、倭国は半島に出兵し高句麗と戦うことになるが、高句麗の騎馬軍団と戦うには騎馬文化の受容は不可欠だった。こうして倭国百済加耶諸国の援助を受け急速に騎馬文化を取り入れたと考えられる。
・・・近つ飛鳥博物館長・白石太一郎氏は、今回の展示図録の巻頭を飾る論文の中で今来才伎(いまきのさいぎ)に関し鋭い指摘をされておられる。我が国は上のような軍事的要請から騎馬文化を受容したが、その一環として伝えられた馬具製作技術は、鉄器加工技術、金銅技術、木工技術、皮革加工技術、織物技術などを含む、きわめて総合的な技術であった。


・・・転載、おわり・・・


善光寺平は古来「長野(長い野の意味)」と呼ばれてきたが、古代ヤマト王権信濃への進出で活躍する物部氏(大連)が仕えた仲哀天皇日本武尊の子?)の陵墓の一つも長野陵と呼ばれ、その場所は藤井寺市のミサンザイ古墳に比定され、同じく藤井寺市の市野山古墳に比定される允恭天皇仁徳天皇の第四皇子)の長野北陵も存在する。


そもそも信濃(シナノ)の地名のルーツであるシナノ(科野)は南河内の石川流域を指す地名であることが確認されており、渡来系氏族である多(太/おお)氏(日本最古の皇別氏族/前渡り渡来人?)系の科野(シナノ)氏の一族が科野国造となっていた。従って、信濃国に入った一般の高句麗百済系ら渡来人も畿内南河内に居住する渡来人と連動していたと思われる。また、石川沿いに長く伸びる平野(河岸段丘)は長野県の善光寺平と同じく長野(長いの野)と呼ばれてきた(河内長野市の名の起こり!)。


いずれにせよ、このような渡来系の人々の信濃国への移動(開拓・入植が目的)によって、元々、日本には在来種がなかった馬の取り扱いと騎馬戦術に長けた渡来系の軍事・農業・手工業等に携わる人々が伊那から信濃国全体へ拡がり定住するようになり、やがて信濃国における仏教信仰などの精神文化も徐々に深まったと考えられる。ただ、既述のとおり、地元に深く根付く縄文文化に拘り、その流れに頑なに抵抗したのが諏訪大社を中心とする諏訪地域の人々であった。(出典:同上/および関連資料:久慈勝男著『日本人と馬の文化史』―文眞堂―)


ところで、古墳時代の初期〜中期(4世紀?)に朝鮮半島から堺〜南河内、辺りに伝わった騎馬の技術と牧の経営は急速に各地へ広がった。特に「壬申の乱(672)」での騎馬の活躍を教訓とした天武天皇は騎馬・騎兵の軍装備充実に急速に取り組み、騎馬を主体とする律令軍事制度を完成させた。また、文武4年(700)には律令制下で牧の設置命令が全国へ発せられ、以前から各地に存在した牧が原則として大和朝廷の管理下の御牧(みまき)となった。


初めの頃の御牧は信濃だけであったが、やがて上野(群馬)、甲斐(山梨)、武蔵にも置かれるようになる。そして、特に馬の飼育に習熟した人々(おそらく朝鮮半島から渡来した人々)が、これら信濃、上野、甲斐、武蔵の御牧に存在したことが、長屋王家木簡(https://goo.gl/q71Npf )などの記録から確認されている。特に、信濃は重視されており、御牧の制度が衰微する15世紀後半(室町時代)頃まで、信濃からの駒索(駒引/こまひき/御牧から貢進した馬を天皇が御覧になり御料馬を定める儀式)が続けられた。


因みに、この「最初の御牧が信濃だけにあった」ことは、天武天皇が「壬申の乱における騎馬と騎兵戦の活躍を教訓にした」という歴史と併せ考えるとき、それが何か特別の重要な」事実を示唆するのではないか?ということに気付かされる。


例えば、それは古墳時代以来の信濃国には、「牧と馬を基礎に騎馬を中心とする帰化人系の軍事集団(騎馬軍団)」が存在し、やがてそこからヤマト朝廷の中枢に取り立てられた金刺舎人(かねさしのとねり/or金刺部)氏らのような人々が現れたことだ。また、特に信濃〜関東周辺を発祥地とする「武士団の起こり(国風文化の成立期である平安中期(10世紀)に登場する)」と、これら「渡来系の国衙軍制である馬の文化と騎馬軍団」についての歴史的検証も進みつつある(武士は『もののふ』 とも読むが、その起源を物部氏に求める説もある)。


金刺舎人(金刺部)氏の起源は、部民制(べのたみせい)における名代(なしろ/古墳時代の専門集団)の一つである金刺部にあるとされる。金刺部は欽明天皇の皇居であった磯城嶋金刺宮に由来し、その財政用に充てられた料地等の管理に従事した人々であり、信濃国駿河国に多く分布していた(金刺舎人は熊本・阿蘇氏とも関係がある)。奈良時代から平安時代初期の信濃国の地方政治は金刺部舎人氏や他田部舎人(おさたべのとねり)氏らの活動を中心に繰り広げられたと見られ、彼らが伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占めていた。


特に、伊那郡の郡司・金刺舎人氏は信濃国内に置かれた政府直轄の御牧全体を統括する責任者(牧主当)でもあり、郡司の子弟として平城京に出仕していた際に藤原仲麻呂恵美押勝)の乱(764年/孝謙天皇道鏡側と対立した太政大臣藤原仲麻呂が軍事力で政権を奪取しようとして失敗した事件)が起こり、孝謙上皇の側で乱の鎮圧(騎馬戦法)に功績が認められたと見られ翌年に外従五位下勲六等の位が与えられた。


ともかくも、古墳〜飛鳥〜奈良〜平安初期頃にかけて信濃国に馬と騎馬戦法を得意とする強力な軍事集団が存在し、それらを統率するのは渡来系の科野(しなの)氏・金刺舎人氏らで、更にそれをヤマト朝廷側から統制したのが葛城・物部・蘇我氏であったと考えられる。また、蘇我“馬子”、“厩戸”皇子(聖徳太子)ら馬に関わる命名も、これらのことを示唆する!


  
因みに、善光寺平(長野市)の南の丘陵には大室古墳群という渡来(百済)系の特徴をもつ積石塚があり、その近くに大室牧と高井牧があったとされる。また、平成6年(1994)に更埴市(現、千曲市)屋代の上信越自動車道の発掘現場から、7世紀後半〜9世紀初めの130点の木簡や木製祭祀具が出土したが、その中から「小毅(しょうき)」という軍団(騎馬軍団)の名を記したものが発見された(一枚目の画像『善光寺平の風景』はhttp://goo.gl/cJQM3D より、二枚目『善光寺』はウイキより転載)。



なお、よりグローバルな視点で日本の馬の文化を論じた久慈勝男著『日本人と馬の文化史』(文眞堂)からも、信濃国の馬の歴史と重なる「日本人の本来の強かで自在な適応能力の在り処(根拠)」が見事に浮上してくる。この本の紹介文は次のように書いている。⇒ 『日本人は中華文明や西欧文明の強大な影響に対し柔らかく強靭な心で対処しながら独自の文化を築いてきた。古墳時代早期に列島にもたらされた馬はその影響力の強さで舶来文物を代表するものの一つであり、馬に示された受容のあり方は日本人のユニーク(強靭で、かつ柔軟)な心性を浮き彫りにしている。東アジアにおける日本のアイデンティティを見据える好著』である。文眞堂の紹介文http://goo.gl/xA4dXs より転載)


そもそもの日本人のアイデンティティ島国根性的に形成された只の“融合・融和”の文化に因って形成されたものではなかったのだ。それどころか、本来の日本人は“和解”プロセスでこそ優れた特性を発揮してきたと考えられる。そして、その“和解”とは<厳しい議論を通しつつ信仰、イデオローグ観念、技術および基本的論理構造らの差異を異文化との間で柔軟に擦り合わせて自らを個性的ハイブリッドへ深化させ得る強かさ>ということであった。


しかし、その本来の日本人の優れた特性は、特に明治維新期以降の近代化に焦るあまり、「偽エトノスたる国家神道」を原理とする神憑りの富国強兵策と、それに安易に同調するよう強権的に仕込まれたメディア&アカデミズム洗脳によって、これが逆方向の事大主義(マアマアで馴れ合い見かけだけデカくて如何にも強そうな“名ばかり長いモノ”に巻(or魅)かれる方向)へ大きく捻じ曲げられたことになる。


1−3−4 信濃古代史における養蚕・殖産興業文化への秦氏の貢献、それを支えた安曇氏


(近世・近代の養蚕王国長野(信濃)の地盤を創った古代・秦氏の活躍)


長野県の「近世から戦前における養蚕・生糸中心の製糸王国(間接的な意味になるが、それは現在における技術・知識集約型へのシフトを可能とする環境条件ともなった)」の基盤を作ったのは古代における渡来系・秦氏の活躍であり、それを無視することはできない(関連で、既述の『1−2 長野県の特性/産業と地理的特徴』を参照乞う)。


ところで、善光寺(長野)の草創の年次は不明とされるが、『扶桑略記』(平安時代の私撰歴史書)の仏教渡来の条は、欽明天皇の時(6世紀半ば)に百済国の聖明王が献じた1尺5寸の阿弥陀仏像と1尺の観音・勢至像が善光寺如来秘仏)であるとされ、この像を推古天皇10年4月8日に秦巨勢大夫(秦河勝に比定)に命じ信濃国に送ったと記している。


このことは、善光寺を建立したとされる本田善光(ほんだよしみつ/古墳時代信濃国の人物)と秦河勝の関係を示唆すのみならず秦氏信濃国の特別な関わりの深さを推測させる。因みに河内長野の渡来人が信濃国・長野の渡来人と関係が深いことは既に述べたが(前節『日本人と馬の文化史』)、その河内(河内国志紀郡長野郷/河内長野市)が出自である渡来系(高句麗百済系?)の長野氏は河川・土木工事の専門集団であり、秦氏と同じく信濃国の開拓に貢献したと思われる。



また、その名が太秦の地名に残る秦河勝は、聖徳太子の仏教信仰と政治の指南役を務めたが、政商・先進技術・殖産興業の知恵袋として草創期の朝廷財政にも深く関わった人物である。また、聖徳太子(本名“厩戸”皇子)の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、蘇我稲目の娘で武内宿禰を祖とするとされるが、実はこの蘇我氏も渡来(百済)系との説が強まっている(添付画像『秦河勝夫妻像(広隆寺・講堂、所蔵)』はhttp://goo.gl/wlsZie より転載)。


秦氏は、中国・秦の‟始皇帝“麾下の遺民(技術者集団)が朝鮮半島高句麗新羅百済加羅)経由で列島へ渡って来たもので、おそらく5世紀頃から日本各地に定住し始めた前渡り渡来系の一族である(一説では17〜20万人におよび、当時の日本列島人口の5%弱を占めたとされる)。


その秦氏は「大和王権」以降の日本へ大きな足跡を残している。例えば、明法(律令)学の研究と講義、申楽(能・狂言のルーツ/観阿弥世阿弥=秦一族)、宮中神楽・雅楽等(東儀家=秦一族)の創作、あるいは冶金・工芸技術を活かした東大寺・廬舎那仏の建立などが典型だが、特に秦河勝聖徳太子のアドバイザー役として松尾大社伏見稲荷等の神社造営、あるいは広隆寺等の寺院建立に貢献した。


京都には秦一族の活躍に因んで、嵐山の葛野大堰(かどのおおい/桂川治水工事/同じく嵐山の景観造形の基本も秦氏の功績)、太秦蚕の社、大酒神社(太秦秦氏の祖、秦の始皇帝を祀った)、蛇塚古墳(太秦/河勝の墓?)、広隆寺(河勝と聖徳太子ゆかりの寺)などの事績が数多く遺されている。また、長野(市)・群馬・会津などにも養蚕神社が存在する。


3世紀末に渡来した弓月君(ゆづきのきみ/列島での秦氏の祖とされる)が養蚕と絹織物の技術を伝えとされるが、秦氏と日本の養蚕技術発展の関係には無視できないものがある。特に、信濃国に入った秦一族の活躍は重要であり、信濃を経由した養蚕技術は関東(群馬など/江戸時代以降〜戦前まで、信濃国(≒現、長野県)の蚕糸生産は日本一の地位を維持していたが、現代における養蚕の市場シェアは群馬県が1位で全体の約4割を占める)を経て、東北の南端に当たる会津地方(福島)まで伝播した。このため、北東北と北海道を除き全国的に養蚕が行われようになり平安中期以降頃には産地ごとの等級が決まり、それが税として朝廷に収められるようになっていた。


安曇野の風景/秦氏を支えた安曇氏の名残り)



安曇野は、松本盆地のうち梓川犀川の西岸〜高瀬川流域の最南部にかけて広がる扇状地全体を総称する呼び名である。特に、臼井吉見の小説『安曇野』で有名になり、この名称が一般的に広く定着してきた(画像『安曇野の風景』は、http://goo.gl/n8zBB8 より転載)。


安曇野の語源は古代に移住してきた渡来系・海人族の安曇氏に由来するとの説が有力だ。元々、北九州の志賀島周辺を本拠地とした安曇氏は全国に散らばっており安曇野にある穂高神社松本市安曇と上高地に奥宮が、奥穂高岳山頂に嶺宮があるので日本アルプス総鎮守の通称もある/祭神は穂高見命、綿津見命(海神、安曇氏の祖神)ほか)は信濃安曇郡に定住した安曇氏が祖神を祀った古社で、志賀島から全国に散った一族の本拠地がこの安曇野だとされる。


また、安曇氏の支援を得て信濃国に入った秦氏が最初に定着したのは鷺沢(おみさわ)とされているが、それが現在の筑摩郡鷺沢嶽(松本市波田鷺沢)であるのか?は未だ分かっていない。しかし、安曇野に限らず長野県全体(信濃国)における秦氏に関連する史跡等の発見は今のところは意外に少なく、これからの研究が待たれるところである。


ところで、一説では秦氏の列島全体への移動には海路または、河川路の移動を得意として操船・造船の技術にも長けた安曇氏が貢献したと思われる。BC3−4世紀頃から朝鮮半島経由で渡来系の人々が北九州に渡るようになるが、北九州に定着した渡来系弥生人の一部族が安曇族であった。つまり、秦氏信濃国への移動に安曇氏が大きく貢献したのはごく自然の流れであったとも言えるだろう。


2 緊急事態『改憲』に隠れる真の狙い、「国家神道」(偽エトノス)と先制攻撃「軍事研究」の復活/それは日本のエトノスと未生の可能性を完全消滅させる、確信犯的な感情構造の病理



・・・伊勢神宮式年遷宮式典への出席を実現した安倍首相、およびそれを準備した神社本庁日本会議らの真意は『改憲』に止ることではない!その正遷御当日(20131002)への<総理大臣として戦後初の出席>は、彼らの究極の目的が『国家神道』の復活であることを露呈している!・・・(添付画像は、http://goo.gl/PRzaN6 より転載)


国家神道」が偽エトノスであるとは、<通過儀礼などの関係で神社参拝をするのは我々の日常生活の一部であるが(つまり、各神社との親しみはエトノス環境化しているのだが)、そのことと「国家神道」が相貌的にはそっくりであり、強いて意識化しなければ(主体的に想像力を働かせ、理性(知性主義)的に考えなければ)外見上は両者の見分けがつかない>ということである(委細については、下記★を参照乞う)。


松岡正剛『エトノス(正確に言えば、偽エトノス)としての国家神道』(村上重良著:国家神道岩波新書‐の解説) http://goo.gl/viIoqC 


・・・


伊勢神宮式年遷宮は戦後四回行われたが、正遷御当日(20131002)の式典に参列した総理大臣は安倍晋三が初めてである。この時には、麻生太郎副総理を含む8閣僚(殆どが #日本会議 メンバー)も参列した。しかも、NHK始め主要メディアは、このことの委細を報じなかった。しかし、安倍・自民党政権は、 #日本会議 、神政連、神社本庁、神宮大宮司(鷹司尚武氏)ら「国家神道」復活派の希望の星である。


その当日の記者会見で菅官房長官は「これは恒例の私人としての参列で、憲法の正教分離原則に反しておらず何ら問題はない!」と “恒例の粛々説明”を得意気に述べたが、戦後初の「安倍総理と8閣僚」の正遷御当日の参列は、神宮遷御(伊勢神宮の存在)に関わる「戦前回帰」の政治的メッセージを、不遜にも、肝心の今上天皇のお立場(護憲主義)を一切無視する形で、日本社会へ戦後初めて発信したことになる。


この安倍首相の政治的メッセージが意識的に隠蔽するのは『全国民が玉砕する愛国自爆テロ戦争体制の取り戻し(あと一歩で実現できなかった太平洋戦争・本土決戦の再現)』ということだ。それは #日本会議、#神社本庁  など安倍晋三・一派の強い「追憶のカルト」の決意の現れに他ならず、これは「愛国戦争こそが国家神道の崇高祭儀だ!」とする稲田朋美・自民政調会長の発言の真意であり、かつ<一億総国民の“追憶のカルト”化/異常“観念同時”なる集団妄想の病理に全国民が強制的に連れ込まれる>ということである。(この問題の委細は、下記★を参照乞う)。


★先住多層文化エトノスはポスト・グローバリズムの希望/「国民主権否定の改憲で正しい立憲主義を!」の安倍政権は寛容のホスピタリティ(近未来の可能性)をナチ式恍惚催眠で犯す政治的変質者の群れ2016-03-01toxandoriaの日記、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160301 


・・・

 
我われが冷静に見据えなければならないのは、7月10日の参院選を目前とする安倍政権が急に「改憲発言をトーンダウン」させた裏には、<メディア活用(同調&洗脳)方式での参院選大勝 → 緊急事態条項付「改憲」実現 →「国家神道(偽エトノス)」復活>という、恐るべきほど反知世主義的な戦略(感情構造の病理)が隠されていることだ(【左・画像中の誤記訂正】核心犯⇒確信犯 へw)。


そして、いったんチャンス到来となれば、#安倍晋三 、#日本会議 、#神社本庁らの真の狙いは国家神道の復活なので、おそらく御用学者らを総動員して、戦前同様に「国家神道は日本国民の絶対多数派が支持する伊勢神宮を本宗とする超然宗教・非宗教たる日本伝統文化の根源だ!」という政治的「屁理屈=ネオ・国体の本義(関連で下記↓★を参照乞う)」を騙るはずだ。


大正デモクラシー昭和10年代に旧「国体論/天皇現人神論」は最大危機を迎えた、しかし文部省が強弁『国体の本義(昭12)』をでっち上げ、軍事超然権力は天皇を「現人神」に再び祭り上げ、「国家神道」体制を確立した!
2014-08-01toxandoriaの日記、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20140801 


・・・


それは、既に、憲法の解釈変更で先制攻撃を可能とする「安保法(平和安全法制)」が成立しているので、後は「国家神道」さえ復活できれば9条には一切触れずとも、望みどおり国民の義務としての「愛国戦争」が<マッチポンプ式で自在にできる>ことになるからだ。しかし、これは本来の国家安全保障とは全く無関係であり、それどころか徒に国家滅亡の危機を招く、全く異次元のカミカゼ・カルト妄想の再現(取り戻し)である。


(関連情報)


◆余りの筋悪で専守防衛安全保障法の「精緻な理論」が理解不能(理解できない!)の安倍晋三・首相への忖度の空気一色であるのが今の日本の超リスクだ!学問知の啓蒙はメディア本来の重責!もし、総メディアが努力尽した上であるならば「民主主義の赤字(ポピュリズム原理)」で国家滅亡も覚悟すべき鴨?20160622只のオッサンRT to Masaharu Adachi @HCEkobe/「政治的思いをそのまま違憲の結論に直結させることは、むしろその足元を危うくさせる」「この社会は、学問が生み出す知を活用しようとする社会なのか」/安保法「違憲」で議論 元最高裁判事・藤田氏「精緻な理論」求め一石:20160622朝日 http://goo.gl/WCyzLn



◆安倍“改憲”の真の目的が「国家神道の復活」であることは、日本の主要メディアはともかく、「G7首脳の伊勢神宮訪問・実現」との絡みで海外メディアが一斉に報じていた!(以下、その事例/情報源:20160624号・週刊朝日日本会議と安倍首相』、ほか/各( )内の記述は、toxandoriaの補足)
・・・安倍政権が進める神道復権国家神道・復活を指す)の中心にある伊勢神宮の役割を考えると、G7首脳の訪問は太古の森と清流を気楽に散歩する以上の意味を持つ。(英ガーディアン)20160624号・週刊朝日
・・・伊勢神宮訪問はいくつかの批判も呼んでいる。神道(一般の神社神道ではなく、G7首脳の伊勢神宮訪問を国家神道・復活の絶好の機会として利用しようとする安倍首相らの野望を指す)は日本の神話と歴史を国家主義と不可分に結びついた宗教(歴然たる宗教、つまり国家神道)に一体化させており、世界のリーダーが訪問するには不適切。(AFP通信)20160624号・週刊朝日
・・・「日本会議」は安倍首相と彼の内閣の殆んどを含む3万8千人の会員を持ち、日本は西洋の植民地主義からアジアを解放したのであり、戦後の憲法は国の本来の特徴(エトノス)を骨抜きにしたと信じている。(英ガーディアン)20160624号・週刊朝日
・・・G7首脳が日本で神社に訪問しないよう宗教指導者や宗教学者が警告した。伊勢神宮は日本の平和主義憲法を変える運動を進める国家主義者・組織(日本会議)に繋がる大きなリンクだ。(英ザ・タイムズ)http://goo.gl/D9Gyue
・・・安倍首相はG7サミットに先立って神道の聖地(伊勢神宮)を参拝している。戦争中の日本の指導者は「国家神道イデオロギーを戦争遂行に利用したが、戦後の平和主義憲法は国家と宗教を分離した。(ロイター)http://goo.gl/JvBqiT


3 【政治的「感情構造の病理」を罹患した日本】 #日本会議 の傀儡たる安部晋三首相が目指すのは、終戦時「宮城クーデター事件」が遣り残した「本土決戦」体制の取り戻しという追憶のカルト!


純粋経験としての感情構造/安部晋三首相の深層に潜むのは未生への可能性と紙一重の恐るべき内向的破壊力)


必ずしも先に述べたドイツ語の世界でなくとも(関連で、1−1−(エス(das es)と純粋経験について)を参照)、我われはエス(das es)に相当する三人称的な一定の環境が司る、ある種の漠としたエトノス空間の中で生を受けるものだと考えて間違いはないだろう。そして、そのヒトの生誕時の無意識的な経験が純粋意識(前意識、潜在意識)である。


この場合の“純粋”は、三人称的な一定の環境(ドイツ語ではdas es)が司るある種の寛容な感情の漠とした流れ(感情構造)が記憶されていることを意味する訳だが、それが特殊な純粋経験を培養するような生誕環境(例えば安倍晋三氏の如く特異な血脈(胎盤http://goo.gl/WC9xEJ)に置かれたた場合は、いわば一定の作為的エス支配下で非常に閉鎖的で過剰設計主義的な純粋経験が強制注入される。


言い換えれば、安部晋三氏の場合は「純粋経験の段階」で人格の非常に深い奥底から徹底的に激しく洗脳されたことになるため、やがてそれが成人後になって、異常熟成した政治的イデオローグやカルト宗教的アブノーマル観念等に囚われ易いサイコパス・キャラクターの病理として現れたと考えられる。


(日本の国策『原発』にその典型が見られる科学知の限界/人間の限りない欲望の感情が求める先を指し示しつつ、その抑制をも図り得る開放系ユートピア思考たる人文・社会科学系の知性こそが肝要!)



そもそも「感情構造」(affective structure)とは、ある人の内面世界での様々な思いの連なり、あるいは現実的な一定地域での社会生活における、人と人、人と社会、社会と社会のリアル感情の関わり合いの深化(進化に非ず!)に伴い一定の意味を帯びる塊となって直観されるようになることを指す。


逆説的に言えば、それは“ある言葉や概念の意味規定では、その意味付けが行われた時に関わった人々が抱いた凡ゆる感情が必ずそこへ相互に再移入され続けており、その絶えず更新される意味の規定に対して必ず何らかの影響を及ぼしている”ということだ。しかも、それは必ずしもフレーズ化したコトバや文脈になっているとは限らない。


分かり易い例としては、演劇、文学作品、未来小説またはSFなどで基調として繰り返される事象、あるいは最終的にはそれらが大きな主題として統合される意味でのモチーフがある。生物学では、規則正しく繰り返される装飾模様状の生体の構成単位をモチーフと呼ぶが、音楽でも幾つかの音符ないし休符の特徴的な連なりはモチーフと呼ばれる。


特に、レイモンド・ウイリアムズ(Raymond Henry Williams、1921 – 1988/カルチュラル・スタディーズの祖ともされるウェールズ出身の文学・演劇学者、作家、評論家)は、人間の未生のための想像力の可能性を指し示す絶えざる新たな感情構造の誕生ということを重視している。


従って、当然ながら政治の世界でもそれと同じことが言えるだろう。エンゲルスユートピア社会主義(開放系)と科学的社会主義(閉鎖系)の根本的な違いを指摘したが、レイモンド・ウイリアムズの「感情構造」もこの問題に重なってくる。


言い換えれば、批判力としてのユートピア社会主義は未生の感情の深化に対し開放系であるが、同じように見えても科学的社会主義はあくまでも閉鎖系の設計主義に止まるということだ。例えば、それは北朝鮮などで典型事例が見られるが、感情構造の暴走たる権力からの抑圧に対し、それは脆弱である。従って、科学・科学技術に希望を与え続けるのは開放系のユートピア的な思考、つまり人文・社会科学系の知性だと再認識すべきであろう。



つまり、ユートピア的思考は人間の限りない欲望の感情が求める先を指し示す重要な指標であり続けるので(これはカルチュラルスタディーズの問題意識の原点でもあるが)、それに対し開放系である社会主義的な視点に基づく適切な批判力をこそ重視すべきなのだ。老婆心ながら、決してこれは三流言論の如く左派Vs右派の対決を煽る話ではない!


それはポーランドの経済学者オスカル・ランゲ(http://urx.nu/b8j3)が、問題の在り処は資本主義か社会主義かの選択論争ではなく、要は配分問題(付加価値分配/資本⇔労働間の所得弾性値の、まさに紙一重の奪い合いをどう調整するか?)に絞られるということを学説的に証明済みだからでもある。また、この視点は米大統領候補サンダース氏(民主党)が指摘する課題にも重なっている。


(安部政権による、国家財政危機に直結するリスクを無視したアベノミクス失敗の隠蔽)


毎日新聞が<6月20日朝刊・編集長のこだわり(松木健)/参院選公示を控え、安倍首相は19日のネット党首討論で、憲法改正は「選挙で争点とする必要はない」と言いつつも、「次の国会から憲法審査会を動かしていきたい」と表明。「どの条文を変えるかの議論を進めたい」と述べ、衣の下の鎧が見えた。20160620ニュースのとびらhttps://goo.gl/iHtwtD>と、ネットで報じている。


  
しかし、ここでの最大の問題は、その最悪の動機<緊急事態付『改憲』の隠れた標的である国家神道の復活>が、アベノミクス失敗の隠蔽を狙いとする参院選対策用の偽装看板の陰に巧妙に隠されており、多数派国民がこれら二つの超リスクがリアルに認識できなくなっていることだ(Cf.自民が単独過半数に迫る 参院選序盤、民進議席減 自公等の改憲勢力、3分の2うかがう 2016/6/23朝日・毎日・日経ほかhttp://goo.gl/0FQjCC )。


今や「日本の危機的構図」の実像は<安倍首相が明らかに国民の善良な意思(政府への純粋な期待感)を裏切っている>ことにある。つまり、それは『政治的感情構造の病理を罹患したことに因る悪質な犯罪政治(1)緊急事態条項付“改憲”で国家神道を復活する、(2)国家財政危機に直結するリスクを無視してアベノミクス失敗を隠蔽する、の二つを強行する確信犯の意思を安倍政権が巧妙に隠蔽していることだ。


安倍政権に同調するバカリの国内の主要メディア(若干の例外はあるが)はともかく、この安倍政権の二つの犯罪政治について既に海外メディアはズバリ見通している。前者(アベ緊急事態条項付“改憲”の真の目的が「国家神道の復活」であること)については、直前の第2章で述べたので、以下では、後者((2)国家財政危機に直結するリスクを無視したアベノミクス失敗の隠蔽)について触れておく。


  


最近、第2次森内閣で金融担当相、第一次安倍内閣厚労相を務めた柳澤伯夫氏が「国家財政危機リスクを無視してまでアベノミクスの失敗を隠蔽する現下・安倍政権の愚策」を反リフレ派として的確に批判しているが、このことについても疾うに海外メディアと格付機関は厳しい警告を幾度となく発してきた。また、「英EU離脱」で急浮上した『シティVs金融規制派・EU』の問題が象徴する日本自身の国際金融マター(超異常な格差拡大亢進)に対する安部内閣とそれと交尾(つる)む日本メディアの独特の鈍感さも気掛かりである(添付画像)。


また、岩村充・早大大学院教授(元・日銀信用機構・参事)が日銀保有国債の一部、約300兆円(国および地方の長期債務残高の約1/3相当)の「永久債化」(満期を持たない債券化)を提案したのは(これはデフォルト危機を緩和しつつカタストロフを回避するためのやむなき方便?/20160614朝日『波聞風問/編集委員・原真人』http://goo.gl/hv9Naq)、おそらく格付機関フィッチ、海外市場、海外メディアらが、一定範囲での日本長期金利の上昇と超インフレ化への反転を疾うに織り込んだ可能性がある(但し、この永久債化の動きそのものがカタストロフの引き金となる恐れもあるので、よくよく慎重なバランス&信用構築型の対応が日本政府に求められる!)


フィッチは、今回、2年程度の猶予を前提に日本格付けの“見通し”をネガティブに引下げ、格付けは上から6番目のAに据え置いたが、もしもこの猶予期間で具体的な是正が行われなければ今度は実際に格下げとなる!


フィッチは無論のこと海外市場、海外メディアらが、一定範囲の長期金利上昇とインフレ化への反転を織り込んだ可能性があるとはいえ、信用の維持には具体的な政策とのバランスが必須条件となるので、(1)社会保障の確保、格差・分配の是正、(2)成長・生産性の改善、(3)課税・徴税公正化、の三方向に照準をシッカリ定めた明快で正直な財政・経済政策実行への政治的決断が喫緊の重要課題となる。経済を緊急事態付・改憲国家神道・復活などの隠れ蓑と位置づけたアベノミクス粉飾に拘泥している暇はない!


このような意味で現下の日本の財政・経済状況が今や風前の灯とも思しきリアル危機であるにもかかわらず、安倍政権が未だにアベノミクスの偽装看板(安倍首相は、アベノミクスの更なるギア・アップでヘリコプター・マネーのバラ撒きも(愚かにも更なる財政赤字拡大の強行も)辞さぬ!との余りにも異常な決意?)を掲げて多数派国民層を、参院選対策でも再び騙し洗脳しようとするのはなぜなのか?おそらく、その深層には余りにもリスキーな<「政治的感情構造」の病理>が潜んでいると思われる。


信濃古代エトノスから日本国民への忠告/それは“愛国のエロスに耽溺する安倍晋三日本会議神社本庁らのポピュリズム(民主主語の赤字)と妥協し易い「感情構造の病理」”と、“開放系の知性主義に因る自律的な未来への希望” の差異は紙一重であるということ!) 


[1−3]で見たとおり日本各地の神社等に残る生殖器崇拝(同祭礼)の痕跡が列島全体で見れば“離島”(孤立)化しているが、信濃国では諏訪地方の諏訪大社を中心とする縄文期信仰(生殖器崇拝)と縄文期文化(山岳・狩猟文化)への独特の拘りから、その古代ユーラシア文化圏に発する生殖器崇拝エトノスが観念的に深化し高度化したことで、それが容易に中央権力(弥生文化系)には妥協しない信州人に特有の強固な知性主義を培ってきたと考えられる。そして、このことは[1−1]で取り上げた、長野県出身の出版社・創業者ら出版界、ジャーナリズム界で活躍する人々の夥しい数の多さに端的に表れている。


それは、日本人一般の特徴である只の「弥生・稲作文化的な妥協・融合・融和」(和解の要素もあるが、基本となるのはマアマアで馴れ合い的に長いモノに巻かれながら権力や周囲と擦り合わせること)ではなく、議論を尽くす「和解」によって、つまり先見的知恵や新たな科学・技術等は積極的に取り入れつつも個性的主張や伝統文化は徹底的に保守するという「健全な感情構造」を持つ信州人気質の醸成に繋がったと考えられる。


これはドイツ観念論にも似た流儀であり、あるいは徹頭徹尾のユートピア社会主義(開放系)的な謂いでの強靭(諏訪大社に屹立する巨大御柱の如く強固?)な議論を介して自己の個性的観念と文化、および基本的考え方などと、他者・他国らのそれとの差異を“客観・論理・概念”的に緻密に深化させることが信州人の個性になったと思われる。


これと全く対照的なのが #日本会議安倍晋三・首相ら「偽エトノスたる国家神道」の取り戻しを必死で謀る人々の“変質者のエロス(関連、後述)”的で異様な精神構造(靖国顕幽論ら追憶のカルト/空想上の神霊的な世界観で天空(そら)高く飛翔し、そのまま彼方の世界へ昇天した感情構造の病理)である。それは、まさに<超閉鎖的な「政治的感情構造」の病理、カルト狂人の世界>とでも言う他はない。


安倍内閣に連なる #日本会議 のメンバー、あるいは神社本庁らと野合する「国家神道の取り戻し狙いの改憲」派や「原発推進」派(偽装神話論理たる原発ウラニウム放射能アニミズム論派)の人々は、まことに驚くべきことだが、「戦前そのままの靖国顕幽論」、「万世一系皇国史観」、「無比の美しい産土でできた世界一美しい神国日本」、「世界に冠たる神国のカミカゼ精神による愛国玉砕戦こそが国家神道の神髄で最高の宗教儀式でもある」などの閉鎖的で異様な観念(愛国のエロスor只の目先主義?w)を未だに後生大事にしている。


   
それを前提にアベノミクス原発推進もヘリコプター・マネーもとばかリに凡ゆる事実上の異常国策が進められている現実を直視すれば、その劣悪な安倍晋三首相のアナクロニズムには、オウム真理教以上の怪しげなカルト時限Bombが潜むことが分かる。しかも、それが日本の近未来へ与える被害の甚大さと深刻さは紛れもなく犯罪的である。


因みに、安倍晋三首相のアナクロニズムとは、追憶のカルトの謂いであるが、それは、日本のエトノスと未来の可能性を破壊する超リスクである。更に換言すれば、それは反知性主義、想像力欠如であり、その異常イデオローグの中核が、生長の家“過激派”たる?青年協議会(トップ= #椛島雄三 ・日本会議事務総長、黒幕=安東巌・全国学生自治体連絡協議会生長の家過“激派系”極右学生組織)初代書記長)を実働部隊とする #日本会議である。


そして、すでに戦前期において、この種の異常アナクロニズムを「変質者のエロス」(追憶のカルト、なる感情構造の病理)の暴走だと喝破していたのが『古寺巡礼』の著者・和辻哲三であった。しかし、これは日本人一般にも言えるのだが、<この「変質者のエロス」の暴走が、「健全な開放系の信州人の個性となっている知性主義的で強固な感情構造」と大きくかけ離れたもの>だと見るのは却って危険である。


むしろ、これら両者は紙一重のものとして、謙虚な視点でとらえるのが肝心である。それは、前にも少し触れたが、「真の知性主義(例えば、ユートピア社会主義)」と「設計主義(例えば、科学的社会主義)に偏った知性主義」の間には薄皮一枚の差異しかないという歴然たる現実を冷静に見据えることが肝要だということである。


そして、この両者の差異を左右するのが「陰謀論」的な視点の過剰ということだ。無論、怪しげなことを際限なく疑いそれを根底から厳しく批判すること、あるいは自らの批判的「好奇心」を刺激し続けるという意味で、陰謀論的思考にはかなり有意性があるのも確かだ。


が、もし余りにも過剰に特定ターゲットを意識した陰謀論に拘り過ぎると、それは自らの純粋経験レベルの想像力を総動員することと同意でもあるので、みすみす自ら無防備な状態(批判すべき対象側からの洗脳工作)を招き入れるリスクが高まり、却って、無意識のうちに批判すべき相手(対象)方の「純粋経験の感情構造」に回収され易くなる恐れがある。


しかも、それは自分がどれだけ理性的であるか否かという知性(より狭く見れば知能)の有無の問題ではない、というより知的レベルや学歴が高いほどそのリスクが却って高まることが観察されている(オウム真理教事件のケースなどで)。


例えば、終戦時、ポツダム宣言の受諾(天皇終戦宣言である玉音放送/敗戦の受け入れ)に反対して引起こされた「宮城クーデター(宮中武力占拠)」の首謀者の一人(生長の家“過激派”の信者)となり、近衛師団長森赳中将の殺害に関与した井田正孝・陸軍中佐の事例がある。井田正孝は信州人ではないが、隣接するためエトノス環境を殆んど共有する岐阜県出身である(井田正孝が引起こした宮城クーデター事を中心とする事件の概要は下記◆を参照乞う)。


  
生長の家“過激派”の軍人が中心となり引き起こされた「宮城クーデター事件」は、同じ生長の家“穏健派”の軍人らによって鎮圧され、ポツダム宣言の受諾で辛うじて「本土決戦」を免れたというのは終戦時に起こった事実である。


奇しくも、この終戦時の奇跡ともいえる終戦へのプロセスを概観して理解できるのは、いまや再び、その発祥が同じ「生長の家」とされる #日本会議 と、その影響下にある安倍政権によって、日本の近未来の命運の全てが完全に握られてしまったのでは?という疑念の高まりだ。その意味で、日本の終戦(敗戦)は未だ終わっていない。


◆【 #日本会議、#安倍晋三、#電通、#原発 (原発マネー利権)を巡る点と線が浮上!】終戦時「宮城クーデター事件」の首謀者(現在の日本会議に繋がる生長の家“過激派”イデオローグの信奉者たち)の一人である井田正孝(聖戦自爆玉砕テロリズム(このみいくさ)論)を主導した平泉澄の直門)は陸軍省・少佐の時に松代(長野県)“大本営”建設(本土決戦時における天皇の松代への動座を想定)を発案している。戦後の井田正孝は電通に入り総務部長等を勤めた。また、その井田は電通時代にも首尾一貫して本土決戦必須論を主張していたとされる。https://goo.gl/cgIlSA 


(井田正孝の略歴等/ウイキ)
・・・1933年7月、陸軍士官学校(45期)卒・・・途中、略・・・軍務局課員、台湾軍参謀、第10方面軍参謀ら歴任。
・・・1935年頃より東大教授平泉澄の直門として竹下正彦、畑中健二と親交深め1944年1月に大本営移動計画を発案して計画書を提出。大本営の建設場所は松代(長野市)を選定。
・・・終戦時、ポツダム宣言受諾に反対、「宮城事件」首謀者の一人となり近衛師団長森赳中将の殺害に関与。 クーデタは失敗し8月15日に陸軍省で自決の決心をしたが見張りの将校に止められ断念。
・・・戦後は在日米軍司令部戦史課に勤務のあと電通入社、総務部長及び関連会社電通映画社の常務を勤めた。
・・・本土決戦に備えた天皇の松代動座計画は松代に大本営、東京浅川に東部軍収容施設などを建設する予定であったが、この案は東條英機首相の日本政府全体の移動の意向で変更され「本土決戦」(←事実上の総国民玉砕!/補足、toxandoria)へ拡大した。