toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

記憶喪失の海に沈む安倍内閣、その底に潜む偽遺伝子は文化進化論(遺伝的適応)上の追憶のカルト!新鮮な生命が持続的に吹き込むエトノス対話の環境づくりが急務

toxandoria2016-08-22



北アルプスの風景、夏

・・・当画像は「ブログ信州からの贈り物http://goo.gl/HdtYTh 」様、より転載。



・・・暗喩的解釈/あなた(先住多層文化、tienne =yours)の中の私の人生、だから私を離さないでね!


<注>偽遺伝子(pseudogene)について
・・・集団遺伝学者・木村資生氏の「偽遺伝子(pseudogene)」(関連する、同氏の中立進化説については第3章で後述)は、DNA塩基配列では正常遺伝子と相同に見える正常遺伝子のコピーだと思われるが、これは様々な理由で健全な遺伝子機能を失っており“死んだ(ゾンビ)遺伝子”とも呼ばれる。また、これは機能を失ったあと塩基置換の進化速度が異常に高くなり、にも拘らず進化上は有意な変化がなく、言わばアナクロ二ズムで空転している(以上、https://goo.gl/Xa5vs6より)。以下は未だtoxandoriaの想像レベルの理解であるが、おそらく現下の日本を覆いつつある安倍内閣(#日本会議)が放射する不気味で暗鬱な空気は、日本国民の生命環境と精神環境の両面に取り憑いた、このような意味での文化的「偽遺伝子」(偽エトノス=ゾンビ国家神道)への強烈な回帰願望(政権側の)に起因すると考えられる。



Andrea del Sarto(1486-1531)『アルピーエの聖母』「Madonna of the Harpies」1517 Oil on wood  208 x 178 cm Galleria degli Uffizi 、 Florence


・・・主に15世紀末〜16世紀初頭のフィレンツェで活躍した盛期イタリア・ルネサンスの画家アンドレア・デル・サルトが、いま「ミメーシス美学の復活」とともに再評価されている。デル・サルトはフィレンツェ古典主義を完成に導いた画家として知られており、ラファエロミケランジェロダ・ヴィンチ、フラ・バルトロメオら巨匠とほぼ同時代人で、特にミケランジェロとバルトロメオから大きな影響を受けた。


・・・『アルピーエの聖母』はデル・サルトの聖母子像の中で最も重要な作品で、彼の妻が聖母のモデルである。ヴェネツイア派の技法を身につけたフラ・バルトロメオの情熱的な色彩、ダ・ヴィンチの明暗法(sfumato)、そして何よりも古典主義(古典彫刻風の人物表現)的なバランスの良い構図と荘重さが漂っており、これらの調和が鑑賞者の目を強く引きつける。向かって右は福音書記者の聖ヨハネ、同左は聖フランチェスコで、聖母マリアは左足に重心をかけるコントラポスト(支脚と遊脚の対照)で台座にしっかりと立つ。なお、アルピーエ(Harpies)はギリシア神話にある“女の顔と鷲の体を持つ怪物”のことで、それは台座の四隅に描かれている。


・・・従来は、ダ・ヴィンチら巨匠の影に隠れた地味な存在であったデル・サルトが注目され、再び評価されつつある背景には近年の「ミメーシス美学」の復活がある。つまり、古代ギリシアで模倣を意味したミメーシス(mimesis)の真の意味がルネサンス〜現代にかけ長い間に渡り誤解されてきたことになる。デル・サルトの素描の特徴でもある「ミメーシス」の再発見とは、それがルネサンス〜17世紀バロック・市民革命期(初期近代)〜現代に渡る「近代主観主義」への反証だという意味だ。 


・・・つまり、「近代主観主義」の特徴とは「自然を制御可能と見做す科学還元(万能)主義」の立場のことである。そこからすれば、レオナルドやミケランジェロのような天才芸術家も科学的視野の強化(新しい理論の発見など)と同期しつつ人間の進化に役立つ偉大な芸術を創造することになる。しかし、デル・サルトが重視した古代ギリシアのミメーシスは、そのような考え方とは真逆であることが分かってきたのだ。


・・・そこで、古代ギリシアのミメーシスが意味するのは一体何か?が問題となるが、それは「自然世界と交流し、そのプロセスから自然界に内在する本質(形の模倣に止まらず!)を視覚的・感覚的に強化しつつ吸収し造形的に再提示する」ということになる(出典:青山昌文著『美と芸術の理論』(日本放送出版協会)、p18-19)。これこそが「近代主観主義」(近代主義の呪縛)への反証が意味することだ。これにより芸術に関わる実在論的な概念が反転することになった。


・・・つまり、絵画に限らず凡ゆる芸術作品は人間の主観(科学知を支えるのと同じ意識)が一方的に構成するものではなく、この自然界に限りなく存在する本質の一部を、ミメーシスで(自然エトノス(委細後述)との交流・交感プロセスへの没入によって)その奥底からすくい上げ、それを鑑賞者の目前に感動的な造形等として強化的に出現させるのだということになる。


・・・そこで想起されるのが、18世紀英国のエドモント・バーク(アイルランド・ダブリンで生まれた政治家・哲学者)の著書『崇高と美の観念の起源(1757)』(—みすず書房-)だ。バークが主張するのは、18世紀にアンシャンレジーム下のフランスで開花した啓蒙思想による「明晰な主観だけが芸術に必須の本質だ」という主張に対する反論と考えることができる。


・・・すなわち、バークによれば、偉大な芸術は世界(自然)エトノスの無限を絶えず志向するものであり、無限には果てがないから芸術は“矮小な人間の尺度に過ぎない明晰さでも明瞭さでも”あり得ない。だから逆説になるが、それこそが「偉大な芸術を小さな範囲に囲い込むこと」ができない理由なのだ。また、それこそ我われが明快に表現されたものより暗示的・暗黙知的な芸術の方により一層大きく強い感動や魅力をおぼえる理由なのだ。


・・・このバーク流の美学こそが「英国の正統保守政治」を基礎づけたと考えられる。保守を騙りながら内向的で傲慢極まりない安倍政権や日本会議との何たる違いか!結局、英国政治の伝統は、その悠久の歴史における保守と革新(改革)の絶妙なバランスによって、エトノス環境(詳細後述)である大自然との交流・交感のプロセスで有機的に組織されてきた、着実に未来へつながる秩序であるということになる。


・・・バークが言う「悠久の歴史における保守と革新の絶妙なバランスにより有機的に組織された秩序」とは、古代ギリシア・ローマ〜古代末期〜中世〜ルネサンス〜初期近代〜近代〜現代という悠久の時間の流れのプロセスで「英々と積み上げられてきたミメーシスの努力の繰り返し」と見做すこともできるだろう。


・・・このようなヨーロッパ伝統の真摯な努力の積み重ねによる漸進的な改革を重視するという古典主義(バーク流の保守主義)のコアとなっているのは、無限の世界(広大無限の自然)への「怖れ」の感情と、その恐るべき世界に対する「不安」であると考えられる。また、このような「不安」があればこそ、人間は自然と世界に対し謙虚になるべきだという「英知を伴う心性」が生まれる訳だ。なお、このことは当記事の表題に掲げた「文化進化(遺伝的適応)、エトノス対話」の問題とも関連するが、その点については以下(第3章)で詳述する。


1 閉鎖系内向の静止的“追憶のカルト”安倍内閣の病理は「記憶の未来」への恐怖、それは「リアル敗戦」再来の国難となる恐れがある!


山崎雅弘 @mas__yamazaki 第三次安倍再改造内閣の「日本会議神道政治連盟所属リスト」を作成してみた。再改造前よりも日本会議系閣僚が増えており(+3名増で、全閣僚の約8割が日本会議!)、神道政治連盟は今回も公明党創価学会)の一人を除き、全員が国会議員懇談会メンバー。価値観の多様性とは全く無縁の政権。16:04 - 2016年8月8日
https://twitter.com/hanachancause/status/762545012122931200 

・・・山崎雅弘氏は『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社、2016年7月・刊/日本会議と安倍政権が改憲へと傾倒する動機が、かつて日本を戦争に導いた国家神道を拠り所とする戦前回帰への道筋にあることを指摘。気鋭の歴史研究家が日本会議を近視眼的な“点”ではなく、史実をふまえた“線”としての文脈から読み解く、同組織の核心に触れるための必読書(同書・紹介の集英社HPより部分転載))の著者であり、戦史・現代史研究家、グラフィックデザイナー、シミュレーションゲームデザイナー。




1−1「日本会議」問題の核心は、それが<正統保守とは似て非なるもの>であるということ


青木 理『日本会議の正体』(平凡社新書)によれば、日本会議が結成されたのは1997年5月だが、それより先の右派活動として注目すべきは、いわば左派の流儀を模倣する国民運動として取り組まれた「元号法制化運動」であった(同国民会議議長:石田和外・元最高裁長官/元号法は1979年6月6日に可決、6月12日 公布)。


そして日本会議のHP(http://www.nipponkaigi.org/activity/ayumi )には、“1953年7月に元号法制化の世論喚起にむけ全国47都道府県にキャラバン隊を派遣、各地に都道府県民会議(地方組織)の結成相次ぐ(キャラバンは以後毎年実施)”と記されている。


この運動の中心となったのが生長の家(厳密に観察すれば、生長の家“過激派”/下、注*)、神社本庁らであり、生学連(生長の家の学生組織)、日本青年協議会、日本協議会(これら三者生長の家“過激派”イデオローグの流れを汲むと考えられ、生学連の指導的立場にあった椛島有三氏は、現在、日本会議の事務総長を務めている)、および自民党の一部がこれに関わっているのは周知のとおりである。


*<注>「宮城(クーデター)事件」(玉音盤事件)は生長の家“過激派”の主導で起こされ、同じ生長の家“穏健派”の主導で鎮圧された。


・・・「宮城事件」は昭和20年8月14日の深夜〜15日にかけ一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心に起したクーデター(最終的に失敗)。それを主導した生長の家“過激派”一派の中には敗戦を受入れる天皇の首のすげ替えを主張する者もいた。彼らは詔書の録音レコード(玉音盤)奪取と玉音放送の阻止を謀った。日本降伏の阻止のため此れら将校達は先ず近衛第一師団長・森赳中将を殺害した。続いて彼らは師団長命令の文書を偽造し近衛歩兵第二連隊を指揮して宮城(皇居)を武力で占拠するが、陸軍首脳部及び東部軍管区(田中静壱司令官/熱烈な生長の家“穏健派”信者)の説得で失敗した。結局、一派は自殺もしくは逮捕され日本の降伏(玉音放送)は予定通り行われた。「生長の家および生長の家系列の出版物の中で、旧日本軍に生長の家の信者がかなり多く存在したことがしばしば証言されている」ことは注目すべきである。


・・・また、終戦時「宮城クーデター事件」の首謀者、後に日本会議に流れ込む生長の家“過激派”イデオローグの信奉者たちの一人である井田正孝(聖戦自爆玉砕テロリズム(このみいくさ)論)を主導した平泉澄の直門)は陸軍省・少佐の時に松代(長野県)“大本営”建設(本土決戦時における天皇の松代への動座を想定)を発案している。戦後、井田正孝は電通に入社し総務部長等を勤めた。そして、井田は電通時代になっても首尾一貫して「本土決戦」必須論を主張していた(出典:https://goo.gl/cgIlSA ) 


・・・


ところで、上掲書を含む日本会議にスポットを当てた本(現在、次々と出版が続いている)が共通して指摘するのは、この「元号法制化運動」が「日本会議」誕生のルーツだという点である。しかし、結果から見ればその通りかもしれぬが、一つ見落とされていることがある。


それは、「建国記念の日」(1966年6月25日、成立)〜「元号法制化運動」までであれば、それは自国の歴史と文化を重視する正統保守の立場からのこととして当然視されても然るべきであろう(但し、皇室典範の改正で天皇の一世一元制の呪縛(現人神復活への回路)を解いておくべきだ!/参照、今上天皇生前退位希望・象徴天皇制重視の御言葉http://urx.red/xULq )。しかし、目前の日本会議には<「宗教右派集団」が牛耳る保守集団>などという生温い表現では到底つかみ切れない不気味さが漂っている。


つまり、それは、上掲書らによって明らかとされつつあるとおり、何故に「かくも異常な生長の家“過激派”の信条(対ポツダム宣言疑義(敗戦否定)、天皇元首制復活、国柄重視ゆえの国民主権“制限”必須論etc)」を前提としつつ余りにも反立憲主義的な「自民改憲草案」(国民→国家、の授権規範ベクトルを逆転させる倒錯草案!)の下書きを提供するまでウルトラ極右集団化したのか?という点だ。


1−2 生長の家“過激派”(日本会議の中枢)は「記憶の未来」に対する異常(過剰)な恐怖心を持つ


既述のとおり日本会議の中枢(日本青年協議会、日本協議会、椛島有三・事務局長ら)、および安倍内閣を内外から支える人々は明らかに、生長の家“過激派”イデオローグの流れを汲む生学連の出身者たちだ。


その元・生学連の活動家(生長の家“過激派”イデオローグの踏襲者、)で、かつ今も、その教祖・谷口正春の熱烈な信者であり、日本会議の活動を内外から支える主な人々(椛島有三氏以外)を列挙すると、百地 章(日大教授)、大原康男国学院大名誉教授)、高橋史朗(明星大教授)、伊藤哲夫日本政策研究センター代表)、安東 巌(生長の家千葉教区教化部長)、衛藤晟一(首相主席補佐)らである。


因みに、生学連系ではないが第3次安倍(第2次)改造内閣で防衛相に抜擢された稲田朋美日本会議国会議員懇談会神道政治連盟国会議員懇談会・事務局長/一億総玉砕&崇高宗教儀式“戦争”論にかぶれた核武装論者で、女性初の首相候補?)は、自他ともに許す教祖・谷口正春の熱烈な“信仰者”である(参考情報:http://lite-ra.com/2016/06/post-2372.html


ところで、「記憶の未来」に対する異常(過剰)な恐怖心とは、言い方を変えれば「自国あるいは、ある民族の歴史・文化に関わる記憶が、立憲主義などの近代思想の影響下で、やがて根こそぎに消え去ってしまうのではないか!」という、およそ正統保守とは程遠い異常にトラウマ化した恐怖心ということだ。が、その委細は、後述することとして、以下では「正統保守(エトノス)と偽装極右(偽エトノス)」混同の問題に少し触れておく。


1−3 「正統保守と偽装極右」混同の病理


「正統保守と偽装極右の混同」は、日本会議とそれにどっぷりと浸かる安倍内閣の性格そのものであり、その根底に観察されるのが「情念の病理」ということだ。


そもそも、政治理念は永遠に実現不可能なものであることが通例であるからこそ、高次(High-Dimension)の目標とすべき理念を掲げ続けることでのみ、邪悪(戦争や欲望の暴走)へ傾斜しがちな情念を逆説的に統制しつつ現実的(リアル)な政治や諸政策の改良へ取り組む論理的な努力(リアル因果と高次理念との対話/これが本来やるべき政治家の仕事!)が持続できる(理性の情念統整的使用)ことになる。これは“情念統制理念と論理構成理念の相互補完性”と呼ばれる。


同じことを、モンテスキューは著書『法の精神』で次のように書いている。・・・『人間社会は、情念・理性・利益の三つ巴の構成要素から成るが、その人間の情念が、邪悪たれと人間を絶えず突き動かしているにもかかわらず、実は邪悪ならざる謙虚で中庸で公正(倫理的)な理性(国民主権ナショナリズムを評価する正統保守的スタンス/toxandoria補足)の方が、宿命的に多様な不条理に包囲された人間の利益にかなうという現実こそ、人間にとって幸福なことであり唯一の救いだ。』


つまり、そもそも「正統保守」と呼ぶべきものは抽象論理(理念)と因果論理(リアル)を峻別し、現実(リアル)に沿った微調整と微修正の持続を承認し許容する寛容で開放的な立場である(例えば、それは模倣の意味を再確認するミメーシス美学の復活で評価されるようになった、そして古典派絵画技法の先駆者と見なすべき盛期イタリア・ルネサンスの画家アンドレア・デル・サルトの絵画の如き/参照、エピローグ画像)。


だから、この正統保守の立場が、生長の家“過激派”イデオローグ一色に染まり、生長の家教祖・谷口正春の思想に耽溺し、太平洋戦争での「敗戦」と「戦争の悲惨」という紛れもない歴史(現実のエクリチュール(軌跡ドキュメント))を無視する日本会議安倍内閣らに連なる人々はモンテスキューが言う“人間にとって唯一の救い”を徹底無視していることになり政治家失格の偽装極右派(エセ保守、保守モドキのカルト一派)と見るべきだ。


最も問題なのは、主要メディアがこのような論点から安倍内閣を批判することを自粛するどころか、むしろその偽装極右派に同調するばかりとなっているため、日本の民主主義の主役である、肝心の多数派層国民がこの「正統保守と偽装極右」の差異(違い)について全く自覚していないことである。


つけ加えておくが、上で紹介した青木 理『日本会議の正体』(平凡社)より少し先に出版された「日本会議の研究」(扶桑社新書)の著者・菅野 完氏が、実は熱烈な生長の家の教祖・谷口正春の信者であると、ネット上で告白していることが分かり驚かされた
http://sei4ch1ou.seesaa.net/article/439615699.html )。生長の家の「政治との決別宣言http://the-liberty.com/article.php?item_id=11592 」がステルス作戦とするなら、これは陽動作戦のつもりなのか?苦w


2 安倍内閣日本会議神社本庁ら「記憶の未来」への恐怖は、文化進化(遺伝的適応)論上の記憶障害(喪失)


2−1「記憶の未来」の喪失を怖れるあまり、戦前・戦中期「国家神道」の復活を謀る権力が国民の生命・主権・財産の簒奪へ暴走するのは必然


「記憶の未来」は、フェルナン・デュモン(Fernand Dumon/1927−1997/カナダ・ケベック州ラヴァル大学などで活躍した社会学者)の著書「記憶の未来/伝統の解体と再生」(伊達聖伸・訳、2016.6刊―白水社―)からの借用である。それは今や日本のみならず世界各国に拡がりつつあるナショナル・アイデンティティーの問題が歴史記憶の問題と切り離せないということを先駆的に捉えている(画像は、白水社 on Twitterより)。


同書の訳者解説(伊達聖伸氏)によれば、デュモンが注意を向けるのは“以下”のことである。少し長くなるが、重要な点なので転載しておく。


“人間は歴史的な存在であって、歴史は二重化の機能を果たすものだ。いわば手の加えられていない生の歴史は偶然とも見える出来事(因果律)の連続だが、記憶としての歴史は人生に意味を与える指標となり得る。歴史がこのような二重化の機能をつねに備えているものであるならば、今日でも以前と同じように、歴史を解放して政治参加に結びつけていくことは可能であるはずだ。この新しい伝統は、学校とデモクラシーによって養われる批判精神に支えられていなければならない。デュモンにとって、これからの記憶は、かつての伝統とは異なり、批判的な精神を備えた主体が絶えず息を吹き込んでやる必要のあるものであって、それを通して記憶の未来に期待をかけることができる。”


しかし、現実の世界ではエセ・イデオロギーである新自由主義に深く染まり「格差拡大メカニズムと化した資本主義と政治権力の野合・複合体が支配する絶対的巨大機構」に巻き込まれてしまった人々が殆どそこでの主導権を握ることができなくなっている。


従って、これら“匿名のアトムとしての状況に埋め込まれた多くの人々”は、もはや自分の参加は必要とされていないと心の奥底で感じているため、今更、その巨大な機構メカニズムのために自分の意識と国家の歴史記憶(ナショナル・アイデンティティーとしての記憶)とを主体的に統合する努力の有意性を見失っており、その傾向は特に日本で強まりつつあると考えられる(←コレこそが、日本全体を覆い尽くしつつある極右化(正しくは偽装極右化)トレンドの病原体だ!)。


このような視点から、特に「靖国国家神道日本会議」などと関連させることで、日本の安倍政権がこれら戦前型イデオロギー(実は、イデオロギーもどき、偽エトノス!)への回帰を謀る背景を探りつつ、それを厳しく批判しようとする海外メディアらの眼差しと警戒心が強まりつつあるようだ。そして、世界の眼は、その安倍政権の<逆噴射/戦前型・国家神道体制への回帰願望=反立憲主義、反平和主義、国民主権否定>の原因が、そこに巣食った「日本会議のイデオローグ=戦前・戦中期の異常な生長の家“過激派”イデオローグ」が持つ、「記憶の未来」が消滅することへの恐怖心であることを百も承知していると思われる。


そこで問題となるのが「日本文化のルーツとも言える天皇家の歴史と、事実上、多数派国民層の通過儀礼と融合している伝統(神社)神道」の共鳴ということだ。先に見たとおり、たしかにアトム化した多数派層国民は、今更、その“新自由主義に蝕まれた巨大な格差拡大機構”のために自分の意識と国家の歴史記憶とを主体的に統合しようなどとは思っていないかもしれぬ。


だから、万事につけ無関心なのだろう。が、一方では通過儀礼と融合している伝統(神社)神道を介し日本文化に触れていることが日常(現実)でもあるので、実は、彼らの多くの心の内にも、近未来における「日本文化に関わる記憶喪失」への恐怖心が宿っていると思われる。そして、それこそが日本会議神社本庁、安倍政権らの付け目ともなっている訳だ。


しかし、その国民層の素朴かつリアルな日本文化への思いと日本会議らの国家神道(追憶のカルトなる異常観念)の間には水と油以上の違いがある。だから、その溝を権力側が強権的に埋めようとすれば、再び、戦前・戦中期の悲劇が全国民を巻き込む強制愛国の国難という形で再現される恐れがある。そこで出番となるのが、偽遺伝子(追憶のカルト/偽エトノス=国家神道)の天敵となるエトノス(委細、後述)である。


2−2 米バーニー・サンダース現象の深層にある、米国「公正資本主義」の伝統


そもそもTPPは暴走市場原理主義の最終的な草刈り場(遠隔市場における利権争奪戦場)の位置づけ。欲ボケ頭を冷却し経済市場の役目につき再考し、草刈り場の原義(共助・共有・相互扶助の場)へ、ベクトル転換する好機!サンダース支持の若者層らの重み!只のオッサン@hanachancausert RT 日経@nikkei TPP暗雲さらに クリントン氏反対明言 20160815日
経 https://twitter.com/hanachancause/status/764911776789954560


国家権力の最終手段が暴力(軍事・警察・司法)であるのは時代を問わぬリアル!https://goo.gl/kjKRHK が、戦意剥出&人権無視の安倍改造内閣と比べ米・民主クリントン政権(予)にサンダースの「人権と命の保守」なる人類普遍の価値が取込まれた(↓★)意義は大きい! https://twitter.com/hanachancause/status/757850110743031808


★【動画】「愛は憎しみに勝つ」バーニー・サンダース 2016年 (日本語字幕)


(国家と資本主義の本質が暴力であるという事実を理解することが先決である!)


菅野稔人「暴力と富と資本主義」(角川書店)によれば、マックス・ウェーバーは「職業としての政治」(岩波文庫)のなかで、国家を“合法的な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する組織”と定義している。これは、“国家はあらゆる合法的な物理的暴力行使を独占する”ということであり、別に言えば“暴力抑止力に国家以上のものはない”ことを意味している。無論、そのジャンルには日本国憲法のような平和主義の原理も入るが、正当防衛権までを放棄することは意味していない。


そもそも、ホッブスリバイアサンを引き合いに出すまでもなく、人間社会を含む自然界には望むと望まざるとにかかわらず暴力が存在する。ただ、現代世界では、国際協調の原則下で国家権力の暴力行使が国際法的に承認される形となっている。が、「テロ、および核兵器の所有と攻撃」はエトノス環境(凡ゆる生態系と人類の文化基盤)を根こそぎ破壊するという意味で、このフレームそのものを脅かしつつある。


他方、現代「立憲主義」国家の土壌と位置付けるべき社会契約論(近代啓蒙思想)は、結果的に戦争技術の高度発達を促すことに結びついた、「主にナポレオン戦争期のロスチャイルドによる金融資本主義技術の発明および近代科学技術の発達」と二人三脚で誕生したという厳然たる歴史的な事実(これは陰謀史観ならず、リアリズム因果論!)がある。


また、「20世紀初頭〜後半に跨り世界史上のマイナー・エポックとなった独伊国家社会主義ファシズム、日本軍国主義ファシズムソ連邦スターリニズム、米ソ冷戦構造」および「20世紀後半〜現在に至るまで世界経済を席巻してきた新自由主義(金融市場原理主義市場原理主義)」は、突き詰めれば「資本主義をより一層合理化するための構造調整の歴史」であった(共産主義も市場機能に限れば資本主義の合わせ鏡!/参照:市場社会主義ランゲ・モデル、http://urx.nu/4YCE /オスカル・ランゲの画像はウイキより)


非常に大雑把であるが、このような「啓蒙思想の萌芽期〜現代に至る、民主主義の深化に伴う資本主義の合理化のためのプロセスと国家権力の絡みの歴史」を概観して分かるのは、結局、何時の時代であっても国家権力には、経済・財政・教育・福祉政策など凡ゆる場面で最強の暴力を行使するという力の論理が付き纏うということである(この論述が意味するのは暴力の是非論ならず暴力リアリズム論!)。


従って、だからこそ「その意味での国家暴力の本性が理解できない人物は政治家になる資質がない!」ということになる。逆説的に言えば、それは「政治権力者には、暴力行使への誘惑を自ずから制御し、絶えず国家と国民へより多く奉仕する」という公正な義務感こそが強く求められる。そして、マックス・ウェーバーは、このことについて「政治権力者に求められるのは『心情(信条or信仰)倫理』ではなく『責任倫理』だ」と述べている(関連参照:責任倫理と心情倫理(信条倫理、http://goo.gl/by9kpF )。


(しかしながら、資本主義のリーダーたる米国には公正資本主義を志向してきた歴史がある/20世紀初頭の米国における“新自由主義=制度経済学派”の台頭/それは「公正資本主義」が目標であった)


19世紀末〜20世紀初頭(第一次世界大戦へ参戦する頃まで)のアメリカでは、「政治の革新」と「経済への政府干渉」の必要を説く運動が興り、この時代は「革新主義(Progressive)の時代」と呼ばれる。そして、この時代の経済思想の特徴は「新自由主義/ニュー・リベラリズム」(New Liberalism/1980年代以降に定着したネオ・リベラリズムと直接的な関係はない)という言葉で代表されている。


このニュー・リベラリズムの考え方は、アダム・スミス流の古典的な「人間の平等と契約の自由を原理・原則的に重視する」こととは異なっており、その独創性は「社会全体が発展するための活力源として個人的な自由を一層拡大するためにこそ、政府(国家)は一定の介入を積極的に行うべき」だと主張した点にある。ただ、その後の研究でアダム・スミス自由主義と雖も、それは決してネオリべラリズム的な意味での自由原理主義ではないことが理解されている。


また、19〜20世紀初頭のアメリカ経済思想の黎明期は、レオン・ワルラス( 1834- 1910/スイス、新古典派の祖)が活躍した時代にほぼ重なっている。そして、その時代のアメリカは「プラグマティズム」と絡みつつ「制度経済学派」が台頭した時でもあり、その中心的存在はソースティン・ヴェブレン、ジョン・ロジャーズ・コモンズらであった。


<補足>制度経済学派または制度派経済学(Institutional School)


・・・アダム・スミスデヴィッド・リカードマルサスジョン・スチュアート・ミルなど英国の経済学者に代表される労働価値説を基礎とする古典派経済学を批判し、社会的な行動様式や集団的活動形態などの切り口から市場経済のあり方などを理解する経済学研究の一手法。ドイツ歴史学派の影響を受けつつ、ダ―ウイニズム(進化論)とプラグマティズムPragmatism/具体的な事象に即した有効性・有益性を重視する学派でアメリカを代表する哲学)の知見も取り込んでいる。


・・・「制度経済学派」の創始者と呼ばれるヴェブレン(1857- 1929)の特徴は、「私的所有」よりも「社会資本」の充実を重視する立場であり、一部の階層が“金ぴか生活”をするための“単なる金儲けの手段”としての営利企業は“一国の産業体制そのものを管理し消費者に消費財を公正に分配する任務”(国民に一定の生活水準を保証する“社会的十分性”を担う役割)には適していないと考えた。


・・・一方、ジョン・ロジャーズ・コモンズ(1862- 1945)も「制度経済学派」の代表者の一人とされるが、彼の社会改良主義的な経済思想の特徴は“アメリカ伝統の自由主義的フレームを重視しつつ、強力な労働組合運動・独占的巨大企業・公益企業などに関する諸改革の実行について、その時代の州と連邦レベルの立法・行政(Law Makers)へ大きな影響を与えた”という点にある。


・・・そして、ロジャーズの到達点は「集団民主主義」(集団内での“個別的衡平性”の実現)で社会改良を促進する「公正資本主義」 (Reasonable Capitalism)ということ(=非マルクス主義的な経済発展段階説)であった。


・・・いわば、これら19〜20世紀初頭のアメリカ経済思想の黎明期に一世を風靡した“現代アメリカ経済思想の源流”とも看做すべき「制度経済学派」に属する経済学者に共通するのは、「社会に公正をもたらす資本主義」を実現しつつ、アメリカ建国いらいの伝統である“個人の自由原理に基づく個人の行動領域を最大限に解放し、それをより一層拡大する”ということであった。


(北欧型福祉原理と米国型市場原理/ “リアリズム法学” という同根から生まれた二つの異質な社会福祉の現状)


「リアリズム法学」は20世紀初頭にアメリカと北欧(スカンジナビア)で、ほぼ同時期に興った法社会学の一派である。それまでの学説では、“判決とは法規(判例、制定法)を大前提とし、事実(具体的事実関係)を小前提とする三段論法の結論に当たるもので、公判とは裁判官によって結論が変わることのない形式的・機械的・非個人的なプロセスだ。従って、それは事前予測が可能な確実な論理的手続きだという理解”であった。


ところが、このようなドグマに対して心理学・社会学など各種社会科学の成果を駆使して鋭いメスを加えたのが20世紀初頭にアメリカとスカンジナビアで興った「リアリズム法学」である。そのため、現代の裁判では“複数の先例から一個の先例を選択し、制定法についても可能な複数の解釈から一個の解釈を採用することができ、特定の裁判官の活動に政治的責任を問うことも可能であり、事実認定のプロセスが裁判官の主観的作用であるということなどが、当然視されるようになり、今ではそれが法曹界での常識となっている。


しかしながら、やがてスカンジナビア型の「リアリズム法学」はアメリカ型の「それ」と異なる方向へ進化(深化)することになる。つまり、前者がスカンジナビアキリスト教的・歴史的な意味での地政学的知見を背景として「普遍的人権」への理解を深めたのに対し、そもそも欧州から離脱し新大陸でゼロから建国したという歴史経験から、アメリカの地政学的知見は“徹底的な自由原理に基づき、個人の行動を最大限に解放し、それを限りなく拡大することを最終目的とする”という極めて「特異な人権意識」の方向へ発展した。


このため、同じ「リアリズム法学」の影響を受けたと見るべき「制度経済学派」の根本がスカンジナビア(欧州型の社会民主主義的な方向)と米国(新自由主義的な方向)では大きく異なる価値観を創造することになった。これこそが、北欧(スカンジナビア)と米国の各々が20世紀の現代史を通して「制度経済学派」を異なる方向へ進化させてきた理由(根拠)である。


従って、今や民主党クリントン大統領候補に対し、大きな軌道修正を求めるリアル・パワーとなりつつある「サンダース現象」は、このような米国経済史の流れと全く無縁であるとは言えない、と考えられる。特に、その流れを強く支持するのが高学歴の若者層らであることは、世界にとっても希望の光であるといえるだろう。


3 絶えず新しく生命を吹き込む、動的な「エトノスとの対話回路」の重要性


3−1 井手英策『経済の時代の終焉』が示唆する繋がる社会への希望


・・・今こそ、アベノミクスこと「アナクロニズム(追憶のカルト)と新自由主義の複雑骨折に因る癒着性カルト炎症」からの脱出が求められる・・・



只のオッサン@hanachancauseエトノス観(エトノスについては後述)が皆無の議論自体が中学生以下のレベル!いずれも成長目的主義で時代遅れ!井出英策『経済の時代の終焉』を学ぶべき!w ➡(大機小機)経済学者の埋め難い溝/税収弾性値(名目成長率/税収伸率、相関度)吉川洋(多変量解析派)vs竹中平蔵(成長率万能・単純平均派)20160813日経
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO06016390S6A810C1EN2000/


只のオッサン@hanachancause GDP上げるには何をすればいいの?政府・安倍内閣が鉛筆舐めれば良い?w ➡ 消費低迷、景気足踏み GDP年率0.2%増 雇用や年金に不安 山本行革相(日本会議、神政連)がGDP算出方法の変更検討!20160816朝日2016年8月16日https://twitter.com/hanachancause/status/765337754137952256  
・・・そもそもTPPは暴走市場原理主義の最終的な草刈り場(遠隔市場における利権争奪戦場)の位置づけ。欲ボケ頭を冷却し経済市場の役目につき再考し、草刈り場の原義(共助・共有の場)へ、ベクトル転換する好機!サンダースを支持する若者層らの重み!只のオッサン@hanachancause RT日本経済新聞 電子版 @nikkei TPP暗雲さらに クリントン氏反対明言20160815 
https://twitter.com/hanachancause/status/764911776789954560


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新進気鋭の財政学者・井手英策氏は、大仏次郎論壇賞を受賞した著書「経済の時代の終焉」(岩波書店)のなかで、バブル崩壊後の1990年代後半から「小さな政府・規制緩和」万能主義なる新自由主義(似非イデオローグ/“相互扶助・分配・共助”蔑視観)が本格的に国民の心の奥に深く浸透し、特に多数派層の精神面のエトノス(エトノスについては後述)が変質した(それに洗脳されてしまった)ことが、今に続く混迷の根本原因であると指摘している。


俯瞰的にプラザ合意(1985/協調介入名目の対日『円高・ドル安誘導の強制、米国際収支改善が目的』/バブルの遠因?)後の日米経済関係史を俯瞰すると、同合意の“含意”に因る対日・内需拡大要請(中曽根政権・受皿=1986前川レポート)、日米構造協議・日米包括経済協議(内需拡大・市場開放・新自由主義推進/対日圧力強化・・・当関連の財政赤字増1991〜2000/ca430兆円)、経団連・平岩レポート(1993・細川政権/対米迎合の金融・資本規制緩和)、小泉政権(2001〜12006)の隷米的新自由主義路線強化、民主党政権政権交代でも隷米新自由主義が続く/2009.09〜2012.12)・・・第2次安倍政権・アベノミクスアナクロ(追憶のカルト)+新自由主義/2012.12〜奇怪なアナクロネオリベラリズム複雑骨折政治w)・・・という具合になる。


井手英策氏によれば、この約30年の間に米国が新自由主義の受け入れ圧力を日本へより強め続けてきたとはいえ、そもそもその間にこそ日本政府と政治家らは自律的意思を持続させて「相互扶助・分配・共助をベースとする財政力強化の国家理念」を、しぶとく構築すべきであった。しかも、思うに(toxandoriaが)、民主党ら野党、市民・国民レベルの左派・リベラル・正統保守勢力(特に新自由主義に屈服し迎合するばかりの大労組・学界および法曹界)とジャーナリズムの力量(理解力?)不足もあって、残念ながら、多数派国民層も未だに「小さな政府こそベスト」のエトノス破壊型(エトノスについては後述)の錯覚に嵌ったままである。


それどころか、前川レポート以降に内需拡大策として強化された土建型国家政策(←井手氏の用語、必要悪だった?/地方交付税生活保護、貯蓄率向上効果等に資するという意味では地方傾斜型の分配に一定の有意性(高い成長を期待しつつ個々人が高い貯蓄率で病気や老後へ備える、という意味)があった)と、それに付随して補完設計された肝心の福祉基盤を維持する財政が根こそぎ激しい批判に曝され(既述、中間層の錯覚による)、かつ苛烈な格差拡大が、そして新自由主義政策が一貫して強化されてきたため、徒に財政赤字だけが積み上がり、肝心の福祉部分(相互扶助・分配・共助)がより一層貧相化する惨状と化し、結果的に殆どの国民層が将来不に怯えるというアベノミクスのジレンマに嵌っている訳である(バブル崩壊後の金融機関救済の財政赤字増ca100〜200兆円はやむを得ぬと考えられる)。


そこで、更に悪いことに「日本会議に憑りつかれた安倍政権下でアナクロ二ズム(追憶のカルト)とネオリベラリズム新自由主義)が癒着した複雑骨折症状という政治・経済・財政的な奇病を罹患」してしまった日本の近未来の救済のため、井手英策氏は『以下』のことを提言する。


『成長(GDP年次比)は、只の集団ではなく信用(人々↔人々、国↔人々、国↔地方自治体の繋がりを“よすが”とする)を基に統合された人々(国民)の日常生活活動の結果と見なすべきであるので、財政のそもそもの最重要な機能であった相互扶助(互酬/集団パターンに応じた相互扶助、助け合い)・再分配(徴税上の応能負担・応分負担の均衡を図り、全体の公正を期すための中央の決定によるメンバーへの再配分)の仕組みを再構築すべきである。市場機能である交換は、これら財政の規模と適正バランスを保ちつつ伸縮すべきであり、似非イデオローグ新自由主義が言う小さな政府が成長を促すは決定的な誤りである。従って、日本政府(安倍政権)は信用をゼロから構築し直せるように発想を180°転換すべきである!但し、そのやり直しが許される時間(参照、下記<補足>)はあまり多くは残されていないので、ここ5〜10年位が勝負である。』 ← 近年、進化経済学等の最先端フィールドでのAIによるビッグデータ解析から「利他心>利己心」の有意・有効性が証明・理解されており、この観点からも井出氏の提言の正しさが裏付けられる!(補足、toxandoria/委細後述)


<補足>政府の規模と債務の大きさの関係(井手氏の同著書より一部分を抽出転載)
・・・同書(p229)には、ある得られた観測値と回帰直線との関係性の評価が可能な決定係数のバラツキ(相関係数rの二乗だが、ここではそれが0.0966なので政府の規模と債務の大きさに“関係ある”とは言えない)を示すグラフ(井手氏、作成)が掲載されているが、ここでは省略する。
・・・ともかくも、この井手氏の観測(グラフ)によると、「政府規模の大小」と「政府債務の大小」には、少なくとも統計的に見て直接的関係があるとは言えない。
・・・要するに、政府を小さくさえすれば財政が健全化するというのは、ひとつの幻想(妄想)である。国民から未来への不安を取り除くことが可能な国家理念を政府自身が先に示すことで、政府を信用して応分の徴税負担に応じる気分を国民が持てるようにすることが肝心である。
・・・無論、だからといって野放図に国家財政赤字を拡大すれば良いということにはならない。国際的な信用監視の構造に組み込まれているという現実もあるので、それ以外の諸指標から見れば自ずから限度があり、その意味で高々で5〜10年程度しか発想転換への移行時間は残されていないことになる。
・・・因みに、井手氏は「最初に導入した5%消費税の1/2に相当する7.5兆円が使えれば、小学校〜国公私立大学授業料等全学費と高齢者介護施設入居費用・自己負担分の全額無償化、介護等福祉施設職員人件費の大幅増額、地方公立病院赤字全解消が可能であった、と分析している。


3−2 新たなエトノス対話のための条件づくり/シンギュラリティを克服する先端AI時代への希望


(新たな地平への希望1/エトノス、ネオ・ラマルキズムの再評価、文化進化論、DNA不均衡進化論の共鳴)


ネオ・ラマルキズム、ビッグデータAI解析、ゲーム理論等を使う先端知、文化進化論の知見はⅯ.フリードマンら経済学よりも正確に人に有意な経済現象を説明可であることが分かりつつある!その意味でも「穴黒+ネオリベ」のアベ=クロは最悪!w @只のオッサン@hanachancause RT to @kogoro_wakasa- 20160818/確かに安倍政権のそれは幅広くお金をばらまくヘリマネというより、ばらまきの客体を取捨選択するドローン・マネーと言えなくもない。日経コラム<大機小機>の執筆者は「危険極まりない政策の実験場になるのはごめんこうむりたい」と訴えた。その通りであろう。http://goo.gl/0uDkyT
https://twitter.com/hanachancause/status/766150139668946944


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エトノスの定義は『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念と風土、又は過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化を常に受け入れつつも、その伝統的な全体性の“持続”を最重視する幅広く寛容な共有意識、およびその受け皿たる風土』である(関連参照➡ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160626 )。


言い換えればそれは「地球上における、人間の内面(肉体・精神両面)も含む全ての生命・文化・生態・自然環境」のことであるが、そもそも専門用語としてのエトノスは、文化人類学フィールドで一定のローカル地域における先住民多層文化の意味で使われていた。やがて、その概念が上の定義まで拡張した訳である。


特に、宿命的・歴史的に先住民問題を抱えてきたカナダでは、2015年11月4日から第29代首相に就任したばかりのジャスティン・トルドーが、先住民多層文化を最大限に尊重する本格的なエトノス政策への取り組みを開始して世界の注目を集めている(参照➡
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160301 )。


このジャスティン・トルドーの本格的なエトノス政策への取り組みは、第2章−1で取り上げたフェルナン・デュモン「記憶の未来/伝統の解体と再生」の思想と無関係ではない。それは、安倍政権のアナクロニズム(偽エトノスたる追憶のカルト(国家神道)、日本会議靖国が求める偏狭な愛国心)などとは全く異質なものであり、いわば全人類の平和の実現と未来への可能性を切り拓く新たなナショナル・アイデンティティーのリアルな実践である。


なお、このフェルナン・デュモン「記憶の未来」(翻訳叛−白水社−)の序文を書いたセルジュ・カンタン(ケベック研究専門のケベック大学教授/政治哲学)は、“この新しいナショナル・アイデンティティー(エトノス観に基づく/toxandoria補足)をリアル政治の小道具と軽視してはならない。カナダ国民はそれを理解しているから良いが、日本会議靖国などで極右化へ進むかに見える今の日本では、その点が誤解されぬよう注意すべきだ。”との懸念を寄せている。(toxandoria流で逆説的に解釈するなら、それは偽エトノスである国家神道靖国と、デュモンが指摘する『記憶の未来』(記憶&認知能)の病理が見事に重なるということ!)



ところで“文化は生物進化の延長“と考える立場から、より高次なレベルで文化を研究しようとする「文化進化論」(その背景にソリッドな数理的基礎が存在する、生物学・人類学的規模の長大な時間軸を視野に入れるという意味で動学的である、の二点で旧来の社会進化論と決定的差異がある)が世界的に注目を集めており、その最先端を担う研究者アレックス・メス―ディ(Alex Mesoudi/英エクセター大学准教授https://goo.gl/PjE2LH )の著書「文化進化論/ダ―ウイン進化論は文化を説明できるか」が、漸く日本でも2016年2月に出版(NTT出版)された。


それによると、現実世界で起きる文化進化の度合いについては、ラマルクの「遺伝的適応」(獲得形質の遺伝/厳密には、ダーウイニズム(突然変異説)によって否定されたラマルキズム(ラマルク論)の復活の意味なので、ネオ・ラマルキズムの遺伝的適応と呼ぶべき!https://goo.gl/eTVHHX )や数理モデルが仮定するより以上に強く働き、同じく予想以上の短時間に進化上の変化が起きることが分かってきている。


また、21世紀に入り、AI研究の進化等と共振しつつ急速に発展してきた文化進化論のルーツの一つになったと見るべき「進化心理学」(身体の自然環境への適応と同様に、また人間の心も生物学的な進化の産物と理解する心理学/ https://goo.gl/l4kq67 )は、文化進化論が向かう二つの方向を見据えているが、それは、「(1)伝達される文化」と「(2)誘発される文化」の二点である。


考えてみれば「(1)伝達される文化」はプロローグで触れた盛期イタリア・ルネサンスの画家アンドレア・デル・サルトの「ミメーシス」(古代ギリシアで模倣を意味したミメーシス(mimesis)の本当の意味/自然世界エトノスと交流し、そのプロセスから自然世界に内在する本質的なものを視覚的・感覚的に強化しつつ再現し、造形的に再提示する芸術上の模倣技術の意義)と、「(2)誘発される文化」はAI研究におけるニューラル・ネットワーク技術(委細後述)と、それぞれ共振していることが分かり興味深い。


また、(1)は旧来の伝統文化の概念にほぼ重なることが理解できるが、他方、(2)は<教育の意義の再発見>という意味で特に重要と考えられる。つまり、人の心(AIのニューラル・ネットワーク技術はその外装的模倣)は、エトノス環境との交流を介して無限に進化(というより深化?)する可能性があり、それは経済的な意味での生産性向上にも資すると考えられる」からだ。余談ながら、この観点は第3章で既述の井手英策氏が財政・経済学上の観点から<義務教育〜大学教育までの完全無償化>の実現を非常に重視していることとも重なると思われる。


<補足>不均衡進化論(発生生物学者・古澤満氏)は遺伝子レベルで観察されるネオ・ラマルキズム? 


エトノスと文化進化論の共鳴・進化の問題をより深めて考えるために、不均衡進化論にも少し触れておきたい。発生生物学者・古澤満氏の著書『不均衡進化論、Disparity Evolution』(筑摩書房)から、その要点を纏めると、以下のようになる。


・・・


【動画】DNA Replication Process/DNA Replication Process Free Science Videos and Lectures


生物が進化する途上での変異の大部分は、DNA複製の過程で生じる。そして、一本のヒストンに巻きついた二本のDNAがほつれて複製されるとき、「二本の鎖」のうち一方は連続して複製される「連続鎖」となるが、もう一方は複製酵素の特異性で連続鎖と同じ方向へ鎖を伸ばすことができないので、敢えて断片状に複製されたもの(岡崎フラグメント)が結合され一本になり複製が完成する。これは「不連続鎖」と呼ばれる。


そして、岡崎フラグメントがある「不連続鎖」では、遺伝子と形態の関係が不明確であるので分子レベルでは中立説(木村資生:中立進化説/https://goo.gl/Xa5vs6 )、形態レベルでは総合説として棲み分けが行われるが、形態に影響する総合説の作用と細胞レベルのミクロ・エトノス環境の共鳴・協調・競合が窺われる(http://goo.gl/tQGcAY )。


ともかくも、このうち「連続鎖」は変異の発生が極めて小さく、つまり保守的である(既述、進化心理学の(1)伝達される文化、を連想させる!)。一方、「不連続鎖」は「連続鎖」合成に比べてDNA複製プロセスがかなり複雑になるため作用する酵素の種類数も多くなり、それだけ変異の発生可能性が大きく、つまり革新的・学習的であるということになる(既述、進化心理学の(2)誘発される文化、を連想させる!)。そして、変異の発生が比較的大きいが環境変動のない場合には変異発生の小さい「連続鎖」側により現状が維持(保守)・継承される。


他方、もし大きな環境変動が発生した場合には、変異発生が大きい「不連続鎖」側で変動に合わせる形で<変異の閾値>を作用させて問題の解決を図る(本源部分も保守しつつ変異に併せた全体の進化プロセスを次世代へ繋ぐ)ということになる。詳細は省くが、「変異の閾値」とは遺伝情報が存在し得る一定数値の範囲のことで、変異がこの閾値を超すと遺伝情報は融解し<カオスの海>に沈む(アダムスミス又はネオリベ流の市場原理の如き自然選択、つまり神の手に委ねられるため制御不能で大きなダメージを受けるか死を意味する)ことになる。


しかし、古澤満氏は、そう簡単に遺伝情報が<カオスの海>に沈む訳ではなく、自然選択(神の手)の役割とともに、木村資生氏の「中立的な意味での自由原理」(中立進化説https://goo.gl/oqa4EX )、あるいは「不連続鎖」側での<変異の閾値>の粘り強い作用の可能性が重要だとする。そして、古澤満氏は、この「不連続鎖」側での<変異の閾値>の粘り強い作用を『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説(細胞エトノス環境内でのネオ・ラマルキズム?)と名付けた訳だ。


このDNA次元での『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説を正確に理解するには、古澤満氏が種の進化過程における遺伝情報の流れ方について想定した二つのモデル、「均衡変異モデル(従来型ダ―ウイニズムのセントラルドグマ/近年までの分子遺伝学では、専ら遺伝における情報の流れはDNAを翻訳して形質が発現する一方通行であるとされていたことを指す)」と「不均衡変異モデル(Disparity Evolutionの根幹)」の違いを知る必要があるが、余りにも煩瑣になるので、ここでは説明を省かざるを得ない。


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ところで、古澤満氏は『不均衡進化(Disparity Evolution) 』のことを「元本保証された多様性の創出」とも称していることに注目すべきだろう。


これを平たく表現すれば、「保守すべき価値(価値観)および人間としての最低限の権利、歴史・文化、自然・生態環境、モノ、情報などは確実に守りつつ、大きな環境変化にも耐え得る革新性を何時でも発動できるように常時スタンバイすべきであり、又そのようなスタンバイを可能ならしめる知恵をメンバー間で共有し、かつ子供・若者・子孫等へ確実にそれを継承することが肝要」だということになる。


また、DNA周辺の「細胞」環境を含む全ての体内環境を体内エトノスと見立てることも可能であり、そのように考えれば、いずれ人間の内外エトノス環境を統一的・統合的に説明し得る「ネクスト・ステージの文化進化論」の可能性が、AI研究らの進化・深化と相俟って実現することになるだろう。


(新たな地平への希望2/シンギュラリティとは?AIを巡る楽観論・悲観論の相克を超えて)


(1)AIを巡る楽観論と悲観論のジレンマ


コンピュータで人間と同じ知能を人工的に実現する技術、人工知能(artificial intelligence/AI)の研究は1990年代から本格化したが、今や自動車の自動運転が確実視されるほど急速に関連研究が進みつつある。が、AIを巡っては楽観論と悲観論が同時並行的にしのぎを削っている。


楽観論の代表者は、10年後にも訪れるとされるシンギュラリティ(技術的特異点/technological singularity/人工知能の完成で人間が生命を完全に支配する時代に入る?)を主張する、米国の人工知能研究の世界的権威、レイ・カーツワイルである。ただ、カーツワイルは優れた研究者であると共に実業家(その意味での野心家)でもあるという二足の草鞋を履くことに留意すべきであろう。


一方、悲観論(AIがAGI(Artificial General Intelligence/人間レベルの知能、つまり汎用知能を実現したもの)の段階に入ると、そのAI故の機械的暴走を人間が制御不能になるという意味での)の代表者には、ビル・ジョイ(元サン・マイクロシステムズ社 チーフサイエンティスト)、スティーブン・ホーキングブラックホール特異点などで著名な英国の理論物理学者)らがいる。


また、ヒューマニスト(目的さえ見失わなければ人間はAIを十分に使いこなせると主張する)と呼ばれる立場の代表者は、カーツワイルを“AIカルト教の信者だ!”と批判するジャロン・ラニアー(カリフォルニア大学バークレー校の起業・技術センター(CET)客員教授)である。また、ラニアーがコンピューター科学者であるだけでなく作曲家、ビジュアルアーティスト(芸術家)でもあることは興味深い。


また、ヒューマニストの一人であるスティーブン・ジェイ・グールド(米国の古生物学者、進化生物学者科学史家)がAIの『物事の意味や価値(シニフィエ/意味、記号内容、所記)を判断し、納得的し理解することの限界』を指摘しているのも注目すべきだ。つまり、あくまでもAIはシニフィアン(道具、記号表現、能記)であり、宿命的に地球エトノスと共鳴・共感するシニフィエ的な存在である人間に成り代わることはできない、という主張である。


(2)やはり、エトノスへの気づき(学校教育による新鮮な生命が吹き込むエトノス対話の環境づくり)がAI活用を生かした未来への可能性を拓く



何時までも穴クロ安倍一派に振回されずAI時代の新産業創造に知恵出すべき!➡自動運転経済の失業者たち/AIが仕事を奪う方が早い時代に資本主義は如何に機能できる?20160820TC-J http://goo.gl/nAQkjm 20160822 @hanachancausehttps://twitter.com/hanachancause/status/767426113098219520 


・・・


ところで、AI技術に関わるテンポラリーなポイント(概要)を整理すると以下のとおりである。


●研究そのものは1990年代から進められていたが、カナダ大学のジェフリー・ヒントンが、画像認識のための多層構造ニューラル・ネットワーク(人間の脳の神経回路の仕組みを模したモデル)を使う「深層学習」(機械学習ディープラーニング)を2010年に初めて実現した。


●ニューラル・ネットワークは、人間の脳の神経回路の仕組みを模した数学モデルであるが、目下、最も注目されているのがスパイキング・ニューラルネットワークSNN(従来の発火頻度ではなくニューロンの内部電位に注目したモデル)で、これは人間の脳の機能をより深く外装的に模倣する技術である。より深く模倣の意味は、SNNが、約1.6万個のチップで1000億個超の脳のニューロン・ネットワークの動作環境を実験的に生体模倣の忠実度をより高めつつ模倣するということで、リアル脳とは余りの桁違いながらも、人間の脳の働きについての基本的な知識が得られるというアイデア


●興味深いのは此のAI「深層学習」の実験でも判断力を飛躍的に高めるカギが正確な記憶、正しい歴史と経験の積み重ね(頑健性(ロバスト)の取得)、そして何よりも精錬のプロセス(敢えて困難な課題を繰り返し与える思考訓練)が必須であることだ。しかも、この歴史(正しい記憶)の積み重ね(頑健性)と精錬がないと蓋然性が高い未来と行動の予測(より正しい結果の予測)ができないことが分かってきている。余談だが、この辺りでは「安倍内閣日本会議神社本庁らの根本的な文化的ゾンビ遺伝子、アナクロニズム(内向的で静止的な追憶のカルト)の脆弱さ」が連想させられ無性に笑いがこみ上げてくる!w


●それまで特徴量(課題解決のために使うパラメータ/何を特徴量にするかで精度が決まる)の設計(特徴表現学習)は、画像や音声などに関する知識と経験が豊富な各データの研究者・技術者らが手動で設定する一種の職人技に頼っていたが、これ以降は自動で計算されるようになった。ただ、「深層学習」の計算プロセスで行われる“異層間での共鳴・共振・取捨選択”(密結合と呼ばれる)をプログラマーは理解できないというブラックボックスの部分があり、想定外のリスクも確認されている(出典:小林雅一『AIの衝撃』‐講談社現代新書‐)。


●根本的な課題としてカルマン・フィルター(自動運転車・金融工学などの基本原理/先端AIの正体は線形回帰分析、ロジスティック回帰分析ら統計学モデル)の問題がある。カルマン・フィルターは、そもそも誤差のある観測値を用いて、ある動的システムの状態を推定あるいは制御するための数理統計モデルだが、金融工学(自動運転車)で使われる正規分布曲線(その尻尾(テール)部分の異常・リスク事態は無視できるほど小さな確率、が前提である。ところが、そのテールが正規分布から微妙にズレた「無視できない大きな尻尾(実はファットテール曲線!)」であることを、賢明なエコノミストらが以前から指摘してきた。そして、実はこれが起動因となりリーマンショック(2008)やヘッジファンドLTCM破綻(1998)が起きており、自動運転車も同じ危険性を内包していると考えられる(出典:同上)。


・・・


以上のとおり、現況では未だまだ課題を抱える先端技術AIではあるが、いずれこれらの課題が解決され、本格的に人間社会のためにAIが貢献する時代が近々に到来することであろう。そして、特に期待されるのが先に取り上げた(1)文化進化論、あるいは(2)新たな経済・財政理論の創造等の分野である。


(2)については、既に第3章―1「井手英策『経済の時代の終焉』が示唆する繋がる社会への希望」で少し触れたが、進化経済学等の最先端フィールドでのAIによるビッグデータ解析から「利他心>利己心」の有意・有効性が証明・理解されており、この観点からも井出英策氏の提言の正しさが裏付けられている。


米国の経済学者(厳密に言えば進化経済学者/旧来の経済学が物理学の考え方をモデルとするのに対し、進化経済学は生物進化をモデルとしており、経済主体は多様性を帯びることになる)ハーバート・ギンタスは、社会心理学行動経済学(互恵的利他行動)、ゲーム理論らの分野で、AIによるビッグデータ解析などの手法を使って旧来の主流経済学(特に、利己心を最重視する市場原理主義の根本的な誤謬!)の内容を根本から書き換えるような画期的業績を続々と発表している(参照→ https://goo.gl/403hFM )。


ギンタスらの行動経済学が注目するのは「旧来の主流経済学が、人間は完全に利己的だと見なし、人間は経済的利益のみを考えて行動すると決めつけているのが根本的誤り!」だということである。しかも、例えば「新自由主義が主張してきた労働改革の柱である非正規雇用の拡大が、却って生産性を低下させる」ことも実証的に観察されている(出典:既述、アレックス・メス―ディ著「文化進化論」‐NTT出版‐、p282‐286)。近年は多様な研究と豊富なフィールドワークによって、人間が完全に利己的な訳ではないことが実証されつつあり、そこでの結論の一つが<AIによるビッグデータ解析を駆使する文化進化論は、従来の経済理論より遥かに正確にリアルな経済現象を説明できる>ということである。


しかもこのような視点は、第2章−2で取り上げた「米バーニー・サンダース現象の深層にある、米国・公正資本主義の伝統」、第3章−1「アナクロにズムと新自由主義の癒着、アベノミクスからの脱出・・・井手英策『経済の時代の終焉』が明示する「繋がる社会」復活への希望・・・」などの問題意識と奥深くで通底することが理解できるはずだ。いつまでもアベノミクスなる「アナクロニズム(追憶のカルト)と新自由主義の複雑骨折に因る癒着性カルト炎症」に嵌り続ける安倍内閣を支持するバカリの多数派国民層は、いい加減に目を覚ますべきである!


同時に、急がば回れであるが、このような意味での自覚を促し、エトノスとの対話環境に最も重要となるのがフェルナン・デュモンが指摘するとおり「学校教育での民主主義の学習」である(第2章―1、参照)。また、井手英策氏の提言「相互扶助(互酬/集団パターンに応じた相互扶助、助け合い)と再分配(徴税上の応能負担・応分負担の均衡を図り、全体の公正を期すための中央の決定によるメンバーへの再配分)の仕組みの再構築」(第3章―1、参照)に緊急に取り組むべきである。


つまり、AIによるビッグデータ解析を駆使する文化進化論の研究によって、今や「エトノス環境下の現実世界で起こる文化進化の度合いが、ラマルクの遺伝的適応や既存数理モデルの想定以上に強く作用しており、しかも想定以上の短時間に進化上の変化が生じていること」が分かりつつあるということだ。その意味で、米バーニー・サンダース現象がジワリと政治の中枢へ影響を及ぼしつつあるアメリカの方が安倍政権(アベ=クロ暴走)で立ち往生する日本よりも遥かに健全である。


一方で、AI(AGI)装備によるマッド・サイエンス化にも警戒の目を向けるべきだ。既述のカルマン・フィルターでの予期せぬ自動運転車による大事故や金融パニック等の発生リスクの他に、大いに懸念されるのが既に一部で実装配備されているAI「自動制御兵器」で“Go and Forget!”(AI制御の猛スピードに人間が付いて行けぬため、尖閣諸島ら事実上の前線で予期せぬ人的統制不能が出現し、後は野となれ山となれのままの状態で開戦へ突入する)などの大リスクが出現することだ。その意味でも、安倍政権の平和理念&同関連防衛政策の混迷と外交力の劣化は日本を更なる大国難へ叩き込む恐れがある。


ところで、AI(AGI)の近未来について「楽観論」、「悲観論」、「ヒューマニスト」の三つの立場が関連研究者らのなかに混在することを既に指摘したが、シンギュラリティの先に「悲観論」が予見する如きデストピアが出現するのを回避するためのカギは、やはりエトノス観の有無ということになるだろう。


それは、ディープラーニングをベースとするAI(AGI)と人間の決定的な差異がエトノス観の有無であるからだ。仮に、知的(知能)レベルで人間を遥かに凌駕する、人間並みの意識を持つAGIが出現するとしても、おそらく「楽観論」者が主張するように、それらAGIマシンが人間と全く同様に自然(自然環境)を愛でるようになるのは考え難いことだ。なぜなら、彼らAGIマシンは地球環境エトノスと絶えず交流し交感する、その意味で地球環境を生存条件として必要とする人間とは異種の存在であるからだ。


無論、これらAGIマシン(AIロボット)が人間を完全に支配した挙句に、地球資源を消耗し尽くした彼らが地球圏外へ向かって大規模エミグレーション(大移住)を企てるような事態にでもなれば、このような「楽観論」では済まされなくなり、基本的に地球環境でしか生きられない人類がゾンビ集団と化したAGIマシンの奴隷orペットと化す恐れもあるだろう。苦w


いずれにせよ、そのような緊急事態とならぬよう、いよいよこれからが人類(特に日本国民!)の正念場である。また、異常に知能が低いw「亜種ゾンビAGIマシン」を先取りしたような安倍政権、日本会議神社本庁ら「偽エトノス派」(疾うに日本から消滅したはずの、奇怪な“死んだ”ゴミ遺伝子が漂う記憶喪失の海に生息する追憶のカルト、人間が住めない非エトノス環境で蠢くゾンビ)らが跋扈し、実効支配する日本は全人類滅亡の震源ともなり兼ねないので十分に警戒すべきである!w