toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

明治150年の“あるべき”眼目は江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌/が、今や『詩織さん事件』がその最も肝心の信頼性を崩壊させつつある!

toxandoria2018-01-07



【Cover Image】Claude Monet/The Cart:Snow-Covered Road at Honfieur, with Saint-Simeon Farm.

・・・c.1867. 65× 92,5 cm Oil on canvas. Musee d'Orsay, Paris, France


(プロローグ)首相官邸HP「明治の精神に学ぶ日本人の強み」とは何を意図するのか?


・・・明治維新期が近代日本幕開けの一画期であったのは確かながらも、そう単純ではない賛美・礼賛史観、暗黒史観、理想史観などの区別!・・・



明治維新は確かに「“普遍的価値観”追求」開始の画期であったと見るべきで、「明治の精神」(正体は“立憲主義、富国(経済)政策”確立と植民地・侵略戦争主義の葛藤)を一括りで捉えようとして「明治維新の強み/国民の戦争志向精神への雪崩込み(軍事国家ナショナリズム植民地主義への突入)という戦前期の暴走奔流」だけを高く評価しようとする日本政府の姿勢に違和感!2017年12月30日 只のオッサン@shinkaikaba https://twitter.com/shinkaikaba/status/946872688756252672
・・・@hi_kashi 苅部直氏はグローバル化の現在での国民国家的な維新顕彰の問題点を指摘。むしろ維新は普遍的価値観の追求であったとの指摘は重要 自由、平等こそ「明治の精神」 維新150年、苅部直東京大学教授に聞く1227朝日、
https://twitter.com/hi_kashi/status/945987278341410816 
・・・Cf.1「明治礼賛」でいいのか 政府は来年「150年記念事業」を大々的に計画20170210東京夕刊・毎日、https://mainichi.jp/articles/20170210/dde/012/010/002000c 
・・・Cf.2「明治150年」に向けた関連施策の推進について(20171104首相官邸
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/ 


2017/12/6共同通信によると、日中両政府が沖縄県尖閣諸島などをめぐる東シナ海での偶発的衝突を回避する「海空連絡メカニズム」設置案について、上海で開いた「高級事務レベル海洋協議」で大筋合意した。これは自衛隊と中国軍が接近時の連絡方法などをあらかじめ定めて衝突を防ぐ仕組みで、日中間の最大懸念の一つである尖閣を巡る緊張緩和と日中の関係改善の流れが加速することが期待されると報じられている。


おそらく、これは、「北」問題をさて置くとすれば習近平が内部分断の圧力(“中国近・現代史の特異性”由来=米・日・共和国・民国による、清朝末期いらいの“三つ巴”ならぬ“四つ巴(or五、六つ巴)”の極東地域における植民地争奪戦という過酷な“近代史”の悪しき余韻)を抑制し、外部分断(加害)力の張本人である米国および日本(特に米国)とリアルかつ前向きに対峙する余裕を持ち始めたということかも知れない。


つまり、東西冷戦下の中国(民国、人民共和国ともに)ですら<自らの法治規範モデル>を日本の優れた文化力に求めていた節があること(委細:本文で後述)からしても、今こそ近世における真の極東史を直視しつつ、歴史的な意味での極東諸国の対米警戒(日本でも左右派の垣根を越えて深くこの意識が潜在する)を解く努力に邁進するのが日本の役目だとする下記ブログの指摘は重要である。
 ☞ 北朝鮮危機 日本の役割は「米朝対話」を促すこと1123ブログ・山ちゃん
https://ameblo.jp/kalle2/entry-12327267502.html 




しかし、安倍政権はこの歴史的事実を完全に無視しており、それどころか更なる国民の犠牲をすら厭わぬ冷酷な態度で隷米(厳密に言えば、“トランプ氏と100%一致!”との物言いで対“米国産軍複合体勢力”盲従=正統保守ならぬ対米盲従の偽装極右)の姿勢を貫いている!


画像で掲げた本(中村元哉・著『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』―講談社―)の<中国を中心とする近代極東史のエピソード(中華人民共和国・成立後の顛末も含む)>は、「今や中国自身をも酷く蝕む共産党一党独裁の弊害」と「今後も含めその軌道修正に貢献し得る日本政治の役割」>を考えさせてくれる。特に「中華民国中華人民共和国」両憲法と「日本国憲法の憲政観念(厳格な法治観念と“日本国憲法”の平和主義)」が決して無縁でないことが分かり驚かされる。


因みに、民国(中国大陸にあった中華民国/1912〜49)が掲げていたスローガンである五族共和(漢族、満州族蒙古族、回(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の五民族の協調を謳ったものだが、そもそも言語も異なる民族の数は遥かにもっと多い)にあるとおり、古来、中国の政治権力には多民族を束ねて統治するという宿命が付き纏っており、それは近代から現代に至る中国でも変わりがない。


例えば、満州人の王朝である清朝を倒し漢人国家を復興する意味の「排満興漢」が清朝支配下の革命運動のスローガンとして使われていた。そもそも清朝成立後の時代のそれは明朝の復活を意味するが19世紀になると漢人国家の復興を期すナショナリズムの色彩を帯び孫文ら革命派の重要スローガンとなった。そして、現代中国でもこの“漢人問題”は潜在すると見るべきである。


古来、「一般に中国では西洋、東洋、中国大陸(自国辺り)を区分する世界観がそれほど強くなかった」(例えば20世紀初頭の中華民国の時代に至るまで中国王朝・中央政府が所管する国家財政は、一部の直轄地を除き伝統的に家政的な性格を持ち続けた)ため、日本のように極端なアジア主義(例えば、田中智学が皇国史観と国体思想に基づく日本植民地主義による世界統一の原理として 1903年に造語した八紘一宇の如きスローガン)が生じる可能性は小さかった。


しかし、これは日本と比較しての意味合いであるが、れっきとした漢字文化という非常に優れた基層(古来のオリジナル伝統文化)があったにもかかわらず、日本よりも桁違いに広大な国土と厳しい自然環境の風土、そして多民族から成る中国は国民の過半超を遥かに超える割合で占め続けてきた庶民層(特に農民層)の中から「プロトモダニティ」(“近代民主主義”成立の前提となる高い識字率など)の基本条件を効率的に自生させることは困難であったと見るべきかもしれない。


他方、目下、日本政府は「明治150年」にスポットを当てて日本国民の愛国心ナショナリズムの鼓舞に必死のようであるが、その「明治維新の画期」(西欧的な意味での日本近代化)への水先案内人と見るべき重要な「プロトモダニティ」が存在することを見落とすべきではない。そして、その重要な「二つのプロトモダニティ文化」は、奇しくも、徳川幕府体制下の「17世紀江戸時代」に自生しており、ある意味でこれら二つの近現代日本文化の苗床とも言える前提条件がなければ、あるいは「明治維新の画期」も、後で詳述する東アジア文化圏の中で飛びぬけた存在感を示す日本「法学」アカデミズムの伝統も存在し得なかったのではないか、と思われる。


1 重要なのは維新期に先立つ17C江戸プロトモダニティ、二つを発見すること


1−1 皇室文化を胎盤とする江戸プロトモダニティ


(日本『正統保守』の心髄、美と礼節の絆(江戸プロトモダニティー)の発見)


【画像】江戸の都会的シック(粋)、ほか/江戸期のトビウオ(自覚してシビックな水平に身を置く人々)が跳ねた瞬間/千住酒合戦



・・・一枚目、歌川豊国『文読む女』はロサンゼルス.カウンティ美術館所蔵、Joe & Etsuko Price Collection(池上英子『美と礼節の絆』が表紙で採用)、二枚目の喜多川歌麿『婦女人相十品 文読む女』は日本切手の図案として採用された作品。



・・・千住酒合戦図高田與清『擁斎漫筆』よりhttp://urx2.nu/DlQb
・・・これは文化12年(1815/高田屋嘉平が国後島でロシア軍船に拿捕された年)に、江戸のはずれ千住で催された酒飲競技会を描いた絵である。この企画の意図は単純なもので酒飲みの技量を競い只酒を大量に振舞うこと。主催者は「鯉隠居」を自称する現地の俳人(宿屋店主)で、参加者は身分の別を問われず、例えば酒井抱一、谷文晁ら文人ら、あるいは俳人、画家、町人、武士、農民、女性らも参加していた。これは当時の江戸に身分差を越えた経済・社会と文化・教養・趣味の両ネットワークが交差する「水平空間」が存在したことを意味する(出典:池上英子『美と礼節の絆』)。


ピーター・ノスコ他編『江戸のなかの日本、日本のなかの江戸』―柏書房―によると、J.F.クーパー(1789 – 1851/米国の作家・批評家)は、1838年(ペリーが日本の浦賀に来航する16年前)の著書『平等について』の中で「今や我々は権利の平等を謳う文明社会の住人であるとはいえ、同時に、本質的には個人間に線引きをしていることに変わりがない。つまり、それでもなお我々は“何らかの差異を相互に意識させられており、逆説的に差異と平等を同時に求める矛盾した存在”」なのだと嘆いている(ピーター・ノスコ:カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大教授/日本思想史)。


このことは、イデオロギーや政治制度を超えた<人間社会における逆説の真理>として先ず受け入れておくべきかもしれない。だからといって、この真理は文明の果実を享受する現代の民主主義社会を全否定するものではなく、むしろ肝心なことはそのような前提(その逆説の真理と矛盾)の先にこそあると考えられる。それは、このような観点に立ってこそ初めて民主主義の完成は持続的な永遠のテーマ(油断を許さぬ、そして決して強靭とは言えない)であることが理解されるからだ。


ところで(ここで述べた内容とは真逆の構図となるが)、例えば徳川幕藩体制下の日本でも、「れっきとした封建的身分制の江戸時代」であったにも拘らず<似たような意味での真理を含む逆説>が、いわば<封建制の身分差を超えた水平空間への希求>が存在した。その分かりやすい典型が上の画像『千住酒合戦』の事例である。そして、池上英子・著『美と礼節の絆』は、「その水平空間は江戸期における“弱い紐帯としての公(比較的裕福な庶民層を中心に身分差を越えて自生しネットワーク形成された公)”故の強みでもあった”と述べている。


無論、俳句・和歌・絵画らの文芸や趣味の交遊(交友)関係の拡がりは江戸期社会における公式の見方では劣位の私的領域と見なされていたものの、徳川幕府の分割統治で閉じ込められ分断されていた人々が、こうして私的領域(弱い紐帯の平等なパブリック圏)で結びついていたばかりか、文芸の世界という共通の媒介項によって共通の歴史を持つことになったのは確かだ。


その意味で、日本の文化的・美的イメージは、近代日本の国民国家が勃興する明治維新期より遙か前に、この国の「水平・平等空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏)を求める、多数派層の人々の自律的な自己意識」の中心的な受け皿になっていたと言える。これが、刮目すべき「江戸プロトモダニティー」の意義である。


俳諧狂歌・川柳には「連」と呼ばれるネットワークがあり、江戸・大坂など大都市だけでなく、文人・作家・絵師らをも巻き込むその繋がりは全国に拡がっていた。また、江戸期においてはその根本的な歌風の革新こそ余り見られなかったが、やはり和歌(一般への本格的な普及は鎌倉時代ごろから興り南北朝時代から室町時代にかけて大成された)についても、上は貴族・武士階層から下は農民・町民に至るまで凡ゆる身分層の人々がそれを愛好していた。


ところで、これらの文芸や趣味を支える日本美学の元は「皇室・朝廷文化」にルーツを持つ「伝統美と公的な礼節のパブリック圏」(日本の文化と学芸の両領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する「有職」に関わる知識・教養・知恵の共有空間)であり、しかも「日本史の竜骨(keel/大公儀のバックボーン、の比喩)」でもある天皇制の根本には、古代期から受け継がれてきた象徴的・美的パブリック圏(日本文化の中核を成す正統保守的な“美と礼節”の象徴)の問題がある。


他方、一般社会における日常的な交際文化(文芸や趣味の領域)について見た場合も、そこにはこの象徴的・美的パブリック圏と共鳴する『江戸プロトモダニティー』の名に値する水平空間が紛れもなく存在したのであり、それこそが明治維新〜現代にまで繋がる日本の近代化・現代化(民主主義化)を準備する非常に良質な胎盤となった。つまり、それは決して幕末〜維新期に準備され、偽装極右派(現在の安倍自民党政権らに繋がる)が上から押し付けた「尊皇愛国テロリズム妄想」(国民主権を否定する天皇密教的政治利用)の賜物ではなかったのである。


(『江戸プロトモダニティー』、弱い紐帯の平等なパブリック圏の5つの特質)


・・・その「江戸プロトモダニティー」(弱い紐帯の平等なパブリック圏)は、特に下の5つの点において17世紀オランダのみならず凡よそ17〜19世紀頃の啓蒙期ヨーロッパ諸国の市民社会よりも遥かに優れた点が多く見られることに驚かされる(上掲の『美と礼節の絆』より一部分を抜粋・転載し、更に(2)などの内容を若干補足した)なお、ここでは全体スペースの関係から、(3)と(4)以外は項目だけに止めるので、その委細については下記◆を参照乞う。・・・


◆盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている20170518toxandoriaの日記、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 


(1)取引情緒コスト、つまり礼節(civility/市民社会に必須の中間ゾーン)の発見
(2)都会的に洗練された「風流」と「粋」(シック)の出現
(3)特に都市部における驚異的な江戸時代「識字率」の高さ
・・・近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてある程度の推定が可能な、明治初期の自署率調査(文部省年報)が存在する。それによれば、1877年に滋賀県で実施された最古の調査では男子89%、女子39%、全体64%であり、青森県や鹿児島県ではかなり低く(20%程度)、相当に地域格差があったと考えられる(ウイキ情報http://u0u1.net/Dk3a )。
・・・但し、江戸・大坂・京都などの都市部での識字率寺子屋制度に支えられており、それはかなり高く、少なくとも全体で70〜80%程度(農民層を含む庶民層に限定しても60〜70%程度?)はあったと考えられる。17〜18世紀の欧米の識字率が高々で20〜30%程度であったと推測されるのと比べれば、江戸期・日本の識字率が驚異的であったのは確かだ(出典、http://u0u1.net/Dk3o http://u0u1.net/Dk3r )。


(4)識字率の高さを基盤とする、江戸期の活発な「商業出版」活動(全国規模に拡がった江戸“商業ネットワーク”の下地)
・・・江戸期プロトモダニティーの性格は商業出版産業の隆盛に支えられていたと見て過言ではない。日本最初の営業カタログである「和漢書籍目録」(1666)には書籍2589点が掲載されており、それは徐々に増え続けて1692年には7181点となっている。やがて18世紀には出版業者・販売業者が新しい読者層を開拓したため大衆読者層が指数関数的に拡がり、幕府の公式記録(1808)では江戸の貸本屋数が銭湯の数を超え656軒になっている。
・・・江戸期の商業出版は様々な社会的・認知的ネットワーク群の橋渡しをしたが、特に注目すべきは、そのネットワークが交差し拡大する過程が、現代社会学的な意味での非常に多様なパブリック圏と流通ネットワークを派生的・波及的に創造したことにある。中央集権的な幕藩体制の分節構造に組み敷かれながらも、一方ではそれが「身分差を越えた多様で水平的な文化・市場経済パブリック圏」として全国規模で拡大し、それこそが江戸期・日本の活力源であった。

(5)美的社交の場たる、いけ花、碁・将棋、歌舞・音曲、酒飲み合戦、絵画・浮世絵、古典解読、古書画、古美術、古器物など「水平空間」の創造


1−2 皇室文化からの学びと異質な「自生的に闘い(自律的な戦い方)を記憶する百姓たち」の江戸プロトモダニティ(目安往来物の拡散)


近年における「日本法制史日本教育(教科書)史」の研究分野の新たな検証と努力で、特に中世〜17世紀の「目安往来物」の役割が看過できないことが分かってきた。そもそも「往来物」とは、中国(唐)伝来の『杜家立成雑書要略』(とかりっせいざっしょようろく/正倉院宝物)を始祖とする、千年以上にわたりその利用が日本列島内の庶民層にまで普及してきた、実際の手紙(交換文書)等を手本とする、漢字での文体表現を活かす文章作成のための教科書のような性質の文書写本である。


つまり、それは多様なテーマの書簡や交換文書が手書き写本の形で繰り返し再生されたものであり、やがてそれが実際に役立つ手書き文字と用語、社会的知識、社会常識などを庶民・農民らの庶民層の人々が学ぶための教材として幅広く利用されるようになっていたことが明らかとなりつつある。



しかも、特にこの本が取りあげている「目安往来物」(“目安”とは、理不尽な課税・徴税について農民らが作ったお上(諸藩ないしは幕府)への訴状(公正な裁判を求める切実な要望書)の要旨を箇条書きにしたものを指す)の写本の分量が従来知られてきた以上に非常に膨大なものであることが分かってきた(出典:八鍬友広『闘いを記憶する百姓たち/江戸時代の裁判学習帳(目安往来物)』‐吉川廣文館‐)。


つまり、その「目安往来物」の具体定内容は一揆などの裁判事件に関わる訴状・訴訟関連の記録文書などであるが、山形地方・白岩村(現在の寒河江市西村山郡)のそれ(白岩目安)が、その後に日本列島中で普及することとなった「目安往来物」の最初のもの(雛形)であった(これは実に瞠目すべきことである!)という意味で、特に重要であることが分かってきた。


そして、白岩村の農民層らに対する指導者的な役割を担っていた出羽三山慈恩寺等の修験者・神官・僧侶・関連宗教者・知識人らの存在と役割が注目されており、彼らは渡来系文化(そもそも当地域(寒河江)には、関東(寒川)に居た渡来人が移住し再入植したというグローバル多元文化的な前史がある)を下地としているようだ。


これら知識人・宗教者らは「徳治・法治理念、漢字文化」などに関わる知識(社会的意識の共有化/反権力的な感情マグマの合法的意志への転嫁)を苛斂誅求な取り立てで臨む領主らに対する対抗手段とすることを目論んだ訳だが、彼らの指導を受けた白岩村の農民たちは一揆武装蜂起やテロによる中世的な自力救済の限界を乗り超えて、日本独自の民主主義の実現へ一歩接近していたことにもなると言える。



なお、慈恩寺(開山以来、約1300年の歴史をもつ古刹/藤原摂関家奥州藤原氏との関係があり、そもそもは聖武天皇の勅願で天平18年(746)に婆羅門僧正が開基したとの伝承がある法相宗の古刹であった(現在は天台・真言両宗慈恩寺派の総本山/慈恩寺に関わる委細は下記▼を参照乞う/画像は寒河江市慈恩寺三重塔(山形県指定文化財))。


▼「慈恩寺」(山形県寒河江市)について、雑感2017/11/03my-evernote
https://www.evernote.com/shard/s440/sh/cbaaeb79-ee40-41e6-a275-4486b17b315b/cf7a44dd59e3be0aaa6c72df2948c8fa


また、彼らはやがて開明を自負することになる、薩長が中心となって仕立てた明治維新・政府(上からの民主制の押し付け)を遥かに先立つ形で人治ならぬ「法治の観念」を当時の庶民・農民および領主ら支配層(最終ターゲットは幕府)へ啓蒙することも意図していたと思われる。このため、やがて、この「白岩目安」を手本(モデル/雛形)とする司法(裁判)による「苛斂誅求な暴政」への対抗の形は新潟、関東、そして全国へと及ぶことになった。


まさに、これは、皇室文化からの学び(美と礼節の絆)をルーツとする「主に富裕な庶民層を中心とする17世紀・日本のプロトモダニティ(近代市民意識の先駆け、芽生え)」(既述/1−1★)とは全く逆ベクトルの「下から上へ立ち昇った17世紀・日本の、もう一つのプロトモダニティ」であった。


いずれにせよ、これら二つの「17世紀の江戸プロトモダニティ」なる両輪の歴史(残念ながら、この様な問題意識は今のところ殆どの日本国民が理解していないと思われるが、その核心にあるのが、先ずもって江戸期における日本人の識字率(文字・文章リテラシー)の驚異的な高さ!であり、そのベース構築で大きく貢献したのが、漢字の伝来いらい遥か千年超の歴史を誇る渡来系(波状的に“前渡りし今来すること”を繰り返した中国、朝鮮)両文化の賜物でもあった。そして、特に17世紀の「白岩目安」を巡る動向(歴史的事実)は絶対に無視できない重要なファクターである、と思われる。


2 幕末の不平等条約を引き継ぐ明治期「外交」の最大“眼目”は平等「万国対峙」の確立であったが・・・


・・・かくて、近隣の中国(清朝)と朝鮮に対し“国威を輝かす国権外交”で先ず臨んだが、先行した列強と平等に対峙するためとはいえ、その露骨な侵略・植民地主義こそが、そもそも誤りであり、後世に禍根を残した・・・
 

(維新期“平等『万国対峙』の確立”の理想 ⇒“植民地・侵略主義”へ変質した契機は西郷隆盛征韓論』(西郷の真意が何処にあったか?はともかく)にある)


いつの時代であっても、革命、侵略、戦争などを想定しつつ国家権力の側が「国民」の「国家権力による一定の保護の囲みの外へ追い出される不安」を煽るためには、これまでの「政治対象とは明らかに異質だ」と一般国民が感じる、全く新たな具体的かつ作為的な「緊張」が必要になる。


民主国家にあるまじき水準まで酷く歪んだ国政選挙制度の放置、格差&不平等税制拡大、金融財政制度改革の停滞 、経済・ 教育・科学技術・産業・労働・高齢者医療等福祉環境の劣化(例えば、悉く失敗したアベノミクス)、森友・加計・スパコン疑獄に止まらぬ政治・経済・利権が奥深くで癒着・混交する<アベ一強ユガミ政治スキャンダル>の底なしの拡大・・・と今の日本の政治の実相(リアル)は行き詰まりを見せている。


このため、「囲い込まれている安心の感情」はもはや多くの人々に共有されておらず、作家の辺見庸氏が言うように今やこの国が「新しい内戦」下にあるとするなら、権力にとってはまさに「内乱を冀(ねが)う心」(一般国民層の内心の奥深くに沸々と滾り始めたルサンチマンのマグマ)を外に移す必要があり、その「不安」の責任(原因)を新たに転嫁する対象(多数派国民層がヘイト&差別の感情を激しくぶつけるべき)へのニーズが高まる。


そもそも、専制政治であれ民主政治であれ資本主義であれ社会主義であれ共産主義であれ、「囲い込まれている安心感」や「囲みの外に出る(出される)という不安感」を「国民」に刷り込むことさえできれば「統治改革」としては「成功」となる。更に、「囲いを広げる為政者側の邪な野心、例えば安倍政権では追憶のカルト(シュゴシン(守護神)たる日本会議の異常イデオローグ、靖国顕幽論)まで付け加えることができれば「大成功」だ。つまり、「内乱を冀う心を外に移し国を興すの遠略」は国家が国家である限り有効な戦略なのだ。


ところで、「内乱を冀(ねが)う心」というコトバは、1873(明治6)年の「征韓論政変」の直接的契機となった「朝鮮国遣使」問題(日本商人の密貿易を理由に朝鮮側が日本を“無法の国”と呼ばわったことへ、開国直後の維新政府が国威を輝かす国家戦略の大前提下で如何に対処するかが大論争となった/李氏朝鮮は様々な事情等から当時は未だ鎖国状態、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1182871906)に際し、筆頭「征韓」派の西郷隆盛が、太政大臣三条実美に対し、その「征韓論」の意味は「内乱を冀う心を外に移し国を興すの遠略」であると説明したとされる史実(西郷隆盛書簡、板垣退助宛、1873.8.17)に由来する。


当時、明治維新の相次ぐ変革で既得権を失った士族層の不満は爆発寸前にあり(ピークは“ 1874(明治7)年2月‐3月、1876(明治9)年10月‐12月、1877(明治10)年2月‐9月”/明治10年には征韓論争で敗れ下野した西郷隆盛が原因となり西南戦争が起こる)、他方、各地では暴政に対する民衆の一揆も続発していた。


因みに、西郷の真意については諸説があり未だにその決着はついていない。例えば、江戸城無血開城”での勝海舟らとの交渉・交流から西郷には正統保守主義イデオロギー(急進的啓蒙の実行は逆効果なので、日朝の夫々の国の伝統と国民の主権を尊重しつつ軍事強化主義へ傾斜せず教育に注力して先ず民心(民度)を高めるべしとの考え方)があったとの説もある。


しかし、少なくとも当時は国内の社会不安がもたらす政府への反発を抑えるため、一人歩きし始めた「征韓論」(西郷の真意はともかく、結局、これが爾後の時代における日本侵略主義イデオローグのルーツとなった/出典:勝田政治・著『明治国家と万国対峙』、関連後述)を利用しつつ、一般国民の不満の矛先を朝鮮へ向けようとしていたのは確かだと思われる。


首相官邸HPの“明治150年”を盛り上げるためか、西郷隆盛を人情噺風味で(?)救国の英雄の如く取りあげる大河ドラマ『西郷(せご)どん』のNHKテレビを筆頭に各メディアがコレぞとばかり西郷どん大翼賛の空気を煽り始めているが、果たして如何なものか?である。


事実上、国際情勢に関する限り当時の日朝両国の多数派国民は盲目同然であった。但し、コレは識字率のことに非ず、特に当時の庶民層を含む日本人の識字率は世界トップクラス!で、それは、(1−1)と(1−2)で既述のとおりである。また、これは日本文化の基層を持続的に固めてきた“歴史的・文化的”な事実(古代いらい波状的に伝来した中国、朝鮮からの渡来系“漢字”文化の賜物)に因るものだ。


なお、このような論点をより実証的に証明・強化し文化に関わる内面の意識から気付かせてくれる優れた著作(添付画像)があるので参考資料として紹介しておく(芳賀 徹著『文明としての徳川日本』‐筑摩書房‐)。ともかくも、国民に正統保守的な観念を根付かせるべきという西郷の秘めたる狙いがあったか否か?という“西郷の真意”に関わる「征韓論」解釈の決着はついていない。


ところで、岩倉具視(京都、公家/内務優先を唱え征韓論に反対の立場)、大久保利通(薩摩/ 初代内務卿(実質上の首相)を務めた内閣制発足前の政界リーダー/産業振興による富国政策を重視 /征韓論江藤新平、西郷らと対立)、大隈重信(佐賀/立憲主義を目指す内政改革と殖産興業 を主張し征韓論に反対/会計検査制の創設にも尽力)、木戸孝允(桂 小五郎/長州/台湾出兵など、国威を海外に張る外政論に反対し立憲主義三権分立の確立およびマスコミの重視を主張)、伊藤博文(長州/木戸と同じく外政論に反対/ 初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣プロイセン法の影響を受けたが国際協調主義)らもこの意味で言えば同様の正統保守的な考え方を持っていたとされる。


ともかくも、この征韓論(論争)の影響(中国・朝鮮ら周辺諸国を野蛮な国家と見下す(実は殆ど一心同体的な歴史・文化(漢字文化圏)・民族のヒュレーを共有/我われの日常生活空間において常に体験し続ける皮膚or内蔵感覚に近い概念とも言える“実在性として視覚と結びつき易い形相(エイドス)よりも触覚、痛覚、快・不快感らとの親和性を十分に想像させる現象学的な作用因”であるヒュレーについての委細はコチラ ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)は現代、安倍政権下の日本にも深い影を落とす。なお、西郷隆盛大久保利通木戸孝允明治維新の三傑とされる。


(維新期にはプロイセン型“国家主義”(制限民主政)と英国型“立憲民主政”(正統保守主義)なる二つの理想が混在し、せめぎ合っていた)


近年の研究成果である 勝田政治・著『明治国家と万国対峙』(角川選書、2017年8月・刊)によれば、一般的な理解(大久保が日本近代化モデルとして採ったのはプロイセン流の議会制限型の君主制だとする説)と大きく異なり、そのモデルは意外にも英国型の殖産勧業(人民産業)行政(民力・民度の向上が最大の狙い)で、そこで目論まれた国家政体もプロイセン型ではなく「英国型立憲君主制」で内務省もフランス内務省をモデルとするものであった。


この「事実」があるにも拘わらず、その死後に大久保の腹案であった筈の 英国モデル「内務省」構想がどのような経緯を経て(定説と異なる理解の流れで)プロイセン・モデルの官僚体制へと歪曲され(定説では井上 毅が深く関わったとされる)、遂には<「国家神道」(超然宗教の名を付与された大日本帝国の精神基盤)を支える内務官僚組織>に一方的に支配される官僚制度(植民地主義の侵略国家・日本を支える)へと変質したのか?


その具体的な過程については、別途、詳細な研究成果を待たねばならない(これも定説に従い、列強並みの軍事力強化による対等な万国対峙を目指した“山形有朋”一人の軍事国家主義にそのことを帰することで、果たして満足できるのか?)。いずれにせよ、このような大久保らについての新たな発見によって、維新開始〜内閣制度創始の時期における<正統保守のルーツの在り処とその変遷の姿>を正しく理解することが重要と思われる。


つまり、大日本帝国の骨格としてプロイセン・モデルの官僚体制を定着させたのは「明治十四年(1881)の政変」と見るのが従来の説明であるが、必ずしもそれだけではないと考えられる。因みに、「明治十四年(1881)の政変」とは、1881年明治14年)に自由民権運動の流れの中で憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である(なお、大隈重信は翌・明治十五年に早稲田大学を創設している)。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったとされる。


ともかくも、それはその後にも、例えば井上毅(明治十四年の政変で大隈重信らを追放する勢力に加担したが、同上政変の時に井上は未だ参事院議官・内閣書記官長兼任で、自らは「保守漸進主義」(これは正統保守そのもの!)の考え方から先ずプロイセン型国家を構想すべし、つまり プロイセン型の憲法を先ず導入すべしと主張していた)らが英国型の立憲主義(議会重視)にも注目していた節があるからだ。実は、井上毅は究極的には現代の日本国憲法下の象徴天皇制に近い「顕教的な天皇の政治利用」をさえ考えていたのではないかと思われる。


(敗戦後70年超の現在でも日本の立憲民主政は未完である!だからこそ、戦前の価値観をバッサリと一括りで全否定する態度は却って危険!)
因みに、「同上の政変」で大隈重信が政府から追放された後も益々高揚する自由民権運動への対抗策として政府が出した「国会開設の勅諭」(1890(明治23))の起草者も井上 毅なので、ここで井上の暗躍が功を奏し、名ばかり英国議会モデル(内実はプロイセン流の非政党内閣制(天皇を唯一の主権者とする))への誘導が成功した、と 勝田政治氏は理解されているようだが、この点については果たしてそうだろうか?との疑問が湧く。

それは、先に述べたとおり井上の考えていた天皇のあり方が実は現代の「日本国憲法」の象徴天皇制憲法上で主権者を国民とする)に近いものであった(天皇に因る人治の徳政を期待しつつ憲法上で天皇を主権者とする、大日本帝国天皇密教的な政治利用に対して)可能性が高いからであり、同じく、井上 毅については、彼が法制局長官の時に大隈重信の命で携わった教育勅語(原案作成)についても、次のようなエピソードがあるからだ。 

・・・<井上は、a「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」、b「教育勅語は宗教、哲学、政治、イデオローグとは関わりない中立的な内容で記す/後述する、ケルゼン“純粋法学”の概念に近い?」ことを前提として、つまり宗教色など世俗性を排することを企図して教育勅語の原案を作成した。また、井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対して、その中止を進言した(c)が、山形有朋の「教育勅語」制定の意思が変わらないことを知り、再び、自ら教育勅語起草に関わるようになり、この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。> 井上 毅が<この>ように紆余曲折した一連の経緯には、戦前の国家主義大日本帝国)の黎明期に活躍した人物らの内心には正統保守的な考え方(現代のリベラル共和主義に繋がる可能性をも秘めた)と、現代の安倍晋三日本会議らに繋がる偽装極右(エセ保守)的な考え方が混在していたことを示唆する。別に言えば、現代の「政治哲学」的な観点からすれば上のaに「哲学」が入っている点に曖昧さを感じるもののa・b・cが事実であるとすれば、やはり井上毅の内心にはライシテ(laicite/フランスの厳格な政教分離原則/Cf.↓注記2)的な観念が存在したと考えられる。因みに、教育勅語軍人勅諭と共に皇国史観的な内容として偏向解釈のうえ、国民へ押し付けられ、それが戦中期まで尾を引く結果となったのは絶大なまで影響力を強めた軍部の介入によるものであったことが知られている。・・・

(注記)ライシテという言葉の歴史上の初出は1870年代の初め頃とされているが、司法省の西欧使節団(8人)の一員として井上 毅は1872年(明治5/フランスでライシテ(フランスの厳格な政教分離原則の観念)が定着し始めた頃)に渡欧しており、フランス中心に司法制度の調査研究を行った。

・・・

従って、現代の我々が「戦前の価値観をバッサリと一括りで全否定する態度は、却って危険である」と思われる。益々、冷静な批判力が求められる所以である。その意味では、当書『明治国家と万国対峙』の著者・勝田政治氏が「有能な井上毅は、国家主義の基盤たるプロイセン流の憲法明治憲法)を伊藤博文らに制定させるため暗躍した」という記述に止まっている点に物足りなさを感じる。


3 世界との関連性を十分に意識しつつ「共和国たる20世紀中国」の憲政をめぐる歴史を俯瞰すると、「“日⇔中憲政”交流史」に透ける日本「法学」の影響力の大きさが浮上する


・・・特に日露戦争前後から日中国交正常化ころまでの中国近現代史を俯瞰すると、<維新期〜戦前の国家主義立憲主義の混在⇒戦争直前期〜戦中・国家主義の暴走⇒戦後立憲主義の苦闘、その日本政治の全過程を清濁併せ呑み凝視してきた中国>が理解できる! ・・・


(先ず日本国民が自覚すべき“日⇔中/憲政”交流史に透ける日本「法学」の影響力の大きさ)


周知のとおり、吉田松陰尊皇攘夷思想は明治維新期〜戦前軍国主義日本、そして現在の安倍政権と、そのシュゴシン(守護神)たる日本会議の極右的スタンスに至るまで深く影響してきたというのが一般的理解だが、近年の日中関係史研究の中から、このことについて根本的疑義を突きつける事実が発見されている(出典:王暁秋著、木田知生訳『中日文化交流史話』―日本エディタースクール―)。


それによると、林則徐(英国の植民地主義へ抵抗した清朝の官僚)らとも親しかった魏源は、アヘン戦争後の中国で新思想の提唱者として中国人に対し「世界に目を開かせる」役割を担った知識人の代表者である。魏源の著書『開国図志』と『聖武記』は佐久間象山(尊皇開国派)・吉田松陰尊皇攘夷派)ら幕末日本の知識人へ大きな影響を与えており、これが彼らの尊皇開国、尊皇攘夷思想の基盤を作ったと考えられる。


おそらく明の時代まで遡る日中間のかなり色濃い文化的な双方交流の関係に加え、ほぼ明治維新期に重なる清朝末期(清滅亡・宣統帝退位は1912(明治45)年)以降は、植民地主義化した日本から中国に対する外交・政治的な関りが増すことも周知のとおりである。そして、ポスト日露・日清戦争あたりから、国力が弱体化する一方の中国に対し日本からの外交・政治的な圧力が更に強化されることになり、これが爾後の反動、つまり過剰な中華ナショナリズム形成の契機となった。


と同時に、この頃の清国の王朝(光緒帝)は、中国が歴史的に多民族で構成されてきたという宿命から、新たな「中華民族の概念」を創造しつつ自らの国を近代的な意味での国民国家へ変容させるという非常に重い課題を突き付けられていた。このため、先ず京師大学堂(1912年以降は北京大学)の整備をバックとするアカデミズムと教育の改革に着手していた。


このような状況下で中国に対する日本側からの政治とアカデミズムが混交する形での影響力(個々の良し悪しの問題はさて置くとして)が増すことになったが、特にそれを大きく憲政史の観点から凝視することが重要と思われる。この「日・中両国を巡る一種のグローバル」史を考察する場合に特に見逃せぬ点として、中村元哉氏(津田塾大学教授/既出、『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の著者)は下の二点を指摘している。


(1)憲政の土台となる、律令に因る人治から法治化へ転ずる試みは間違いなく清朝に始まった。それは、治外法権不平等条約)の撤廃という政治上の要請に基づき法制の近代化が待ったなしだったからだ。そして、その最大の功労者は清朝末期の法学者・沈家本(しんかほん)で、彼は司法の独立を期して特に刑法典「大清現行刑律」の編纂に尽力した。このため、1940年代までには、刑法と民法を区分する六法によって支えられる近代法制へ置き換えられた。


(2)この時代の清朝は、およそ40〜50年くらい西欧文明を先行して受け入れた日本を成功モデルと見なしており、主に日本経由で西欧に関する諸情報を取り入れ始めた。それは、清朝からすれば民族・風土・地理学的にコンパクトで効率的な(既述の“二つの江戸プロトモダニティ”までがリアルにその視野に入っていたか否か?は未検証であるが/補足、toxandoria)、しかも同文同様の(古代以来という意味で歴史的に漢字・中国文化を深く共有する)日本は最適のモデルと見えたからである。このため、日清・日露戦争の頃から日本留学ブームが始まっており、清朝の近代化に不可欠な新しい概念(特に社会・法制・憲政関連の)が日本語(日本で創られた漢字、いわゆる国字)を介して次々と導入された。
・・・立憲民主主義国家の「憲政の構築に不可欠な用語」に絞ってみると、中国へ西欧的な新しい概念を伝えた日本語(国字/和製漢語)の事例は下記(⇒)のとおりである。特に「法学」分野を中心とする日本アカデミズムの存在感は圧倒的なものであったことが分かるが、見逃せないのは同様の傾向が共産党一党独裁下にある「中華人民共和国」となった現在も続いていることである。
 ⇒ 社会、権利、議会、憲政、憲法、共和など
・・・なお、「国体」なる和製漢語も日本から中国へ導入(逆輸入)されたが、このコトバの当初の意味(概念)が日本と中国では決定的に異なっていたことに注意を要する。明治憲法下の日本では国柄(国の形を天皇の身体と同一視する曖昧で特異な神権政治的概念)と同義、つまり万世一系の現人神たる天皇が統治する皇国の意であった。今の憲法学では国の主権のあり方(君主制or共和制)をさし、主権の運用の違いとしての政体(専制or立憲)と区別する。他方、20世紀 初頭の中国(新政(中華民国清朝の並立)時代の清朝末期)へ移植された(統治権の所在と最高機関の所在が曖昧のまま、国の形の意味として)コトバ、国体はやがて中華民国(1911・辛亥革命、1912・孫文〜)初期の<「国体」論争>のプロセスで、権力の暴走を防ぎ得る後者(最高機関の所在)の概念として定着するかに見えたが、その後はあまり中国では使われなくなってしまった。


(中国における日本『法学』アカデミズムの圧倒的な存在感の中核は美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力) 


このような意味での中国における日本「法学」アカデミズムの圧倒的な存在感の中でも絶対に見逃せないのが美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力の大きさである。しかも、それはある意味で現在の共産党一党独裁下にあるはずの人民共和国でも同じことが言えると思われる(この問題意識は、既出、中村元哉・著『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の重要な論点の一つである)。


そこで、先ず現代においても世界の大勢で理解が共有されている、『法学』アカデミズムにおける「純粋法学」(ケルゼン(Hans Kelsen)/1881 1973/オーストリアの公法・国際法学者)の重要性について中村元哉氏が同著書の中で書かれている部分をそのまま以下に転載しておく。


・・・ケルゼンの純粋法学理論とは、規範と事実を峻別する新カント主義の二元論を背景にして法学に倫理的価値判断や政治的価値判断を混在させることなく、実定法のみを取りあげることを主張した理論である。実定法そのものを純粋に認識しようとした彼は、規範概念によって国家理論や法理論を構築しようとし、規範こそがすべての上位に位置する原理だと捉えた。この純粋法学は根本規範を頂点とする法の段階説を導き出し、法の最上位に位置し蓋然性を規定する憲法も根本規範によってその妥当性を獲得する、とした。以上のような法学、政治学行政学の新展開のなかで、中国の憲政の準備は進められて行った。・・・


・・・[補足、toxandoria] → 倫理的価値判断については、昨今のAI進化あるいはコンシリエンス(人文社会・科学両知の融和傾向)の深化とそのカバー領域の拡大で、今や法に限らぬ凡ゆる分野で古典的なそれとは異質の発想が求められる時代へ入ったとはいえ、人類の存続そのものが完全に絶望的とならぬ限り、一定の理想を目的とする蓋然性が大きい『憲法』の規定についても、それがケルゼン理論的な意義を失うことはないと考えられる。/関連で、ヒトが生きる意味そのものを冒涜する典型(アンチ・ケルゼン)と思しき、シンギュラリティ―信仰的、ないしはトランプ流のコントラリアン(逆張り)思考的な空気に毒された?と思しき人物、ピーター・ティールに関して“他山の石”的な興味深い情報があるので、下記★も参照乞う!・・・


★ピーター・ティールがトランプを支持する本当の意味——テクノロジーが「政治」(それを統制すべき役割の法はおろか?!)を飲み込み始めたJun. 10, 2017松島倫明(NHK出版/学芸図書編集部編集長)<注>ピーター・ティールは「ペイパル・マフィア/シリコンバレーで数々の有名企業を立ち上げる天才起業家集団」の中でドンと呼ばれており、リバタリアン共和党右派シンパとされるが、厳密には、諸悪の根源が政府による規制(法に基づく)にあるとする、“貧困問題などへの着眼は良しとしても、実はいとも容易く戦争はおろか政治権力の暴走へ従属し易い、ご都合的orクローニー(お仲間)式の過激ビジネス自由原理”主義)であり、かつ熱烈なトランプ支持者。https://www.businessinsider.jp/post-3426 


・・・


同じく中村元哉氏によると、そもそもは儒教の人治主義一色に塗り込められてきた中国を根底から変革して個人の自由を確保しようとした陳独秀が1915年に上海で開始した「新文化運動」(文化革命)の思潮がその受け皿となったのだが、先ず清末〜民国(中国大陸にあった中華民国)の時代にかけ一貫して注目され続けたのが日本の美濃部達吉であった。やがて、その影響もあって清末から受容されていた大陸法系の行政法学が1910年代の中国でも主流を占めることになる。


その後、英米法などとの論争の時代を経たうえ、東京帝国大学に留学した法学者が美濃部達吉を基盤に中国の行政法学を1920年代の後半に中国で確立した。この学説に対する高い評価は満州事変以降も続き中国の憲政思潮に対する日本の影響が強く残り続けることになる。しかも、日中戦争が近づく1930年代になっても美濃部学説は高く評価され続けており、当学説を含む日本の行政法学が中国の行政法学を此の1930年代にこそ基礎づけたのである。


1940年代の戦時になると流石に日本の法学の影響は薄れたが、その流れの過程で日中両国の司法には意外な関係性が生まれてくる。戦前の中国の法学会はケルゼンの純粋法学を中国流に受け入れようと努力したが、意外なことに戦時期に入っても、今度は同じくケルゼンを紹介する横田喜三郎『純粋法学』(岩波書店、1935)の翻訳を法学者・劉燕谷(りゅうえんこく)が完成させており、それを戦後に再版して、純粋法学を正しく中国に定着させようとした。


更に、このように日本を介し全面的に紹介された純粋法学は、戦後の中国の憲政実施の準備と合さるかのように、韓徳培らによって肯定的に受容された。特に、韓は純粋法学を全面擁護して、これを全ての法学者が拠って立つべき出発点だと高く評価した(韓徳培『ケルゼンと純粋法学』ほか)。彼は、戦後中国の自由主義思想を代表する『観察』誌で自由を訴えた法学者であり、共産党一党独裁下で成立した中華人民共和国(1949〜 )の時代になっても、武漢大学で国際法学者として活躍した人物である。


中村元哉氏によれば、ケルゼンの純粋法学は政治的な法学支配に対抗し得る法理論であり、凡ゆるイデオロギーを批判する性格を持っている。そのため、これは驚くべきことだが、それからやや後になるが人民共和国成立後の「新民主主義」段階(1945〜1952年頃まで中国共産党の路線でもあった毛沢東の指導体制/主要政敵の崩壊が主たる目的の中国人民協商会議・綱領に因るものであるが、曲がりなりにも共和国を名乗る必要性(というか、むしろそれを名乗る必然の論理)から、この綱領は民主主義の名を冠している)から「反右派闘争」(1957.6〜年末にかけて中国で行なわれた右派分子に対する思想・政治闘争)の時代に至るまで、ケルゼン関係の著作は細々ながら広く翻訳され続けており、その影響力は、解放後のグローバル市場世界に愈々本格的に、しかも今度は十分に全世界に対して責任を持って参加せざるを得なくなった現在の中国にも、何らかの影響を与え続けている。


(“人類文明の行く末、そして世界の流れ”との関連性の俯瞰から浮上する、日中“憲政”交流史に透ける日本「法学」の影響力の大きさの背景にあるのは同じ漢字文化圏、同文同様の思考世界における日本文化への高い評価ということ)


・・・しかし、今や『詩織さん事件』なる蟻の一穴が日本法学アカデミズムの信頼性を根こそぎ崩壊させつつある!・・・


ポーランドの偉大な経済学者、オスカル・ランゲが理論的に証明していること(ランゲ・モデル(1))を引き合いに出すまでもなく、既にエトノス環境(2)における運命共同体であることが市場経済的にも実証されたといえるこのグローバル世界が、今や原理主義的な意味での共産主義などの社会・経済に関わる特定イデオロギーアナクロ極右化の類の固定観念支配下に収まるほど単純でないことは周知となっている((1)、(2)については下記を参照)。
(1) ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 、
(2) ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109


他方、中村元哉氏が著書『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の中で繰り返し指摘されているとおり、特に20世紀の中国史を共和国の歴史(つまり憲政史)として描写すると明らかとなる「殆ど運命共同体の如く対立と共存の関係を持続させてきた日本と中国」という構造の発見はなかなか一般的には、殊に肝心の日本政府関係者(厳密に言えば安倍政権の)らにとっては理解されにくいことのようだが、一般国民は薄々ながらこのことについての自覚が芽生えつつあるかに見える。



そして、このことは直近の世論調査の結果が暗示している。それは、「いくら安倍首相が固い決意を表明しようとも、改憲を急ぐべきではない」という意識が日本国民の約7割を占めていることである(添付画像)。これは、おそらく日本国民の殆どがその深層心理と重なる部分で「日本会議に主導された“追憶のカルト”式、アベ改憲の危うさ」(記事の冒頭でふれた維新期の征韓論を淵源とする侵略主義が狂信・暴走化した“追憶のカルト”についての委細はコチラを参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 )を直観しているからだと思われる。




問題は、<「戌笑う」と改憲決意!戌年の今年こそ憲法のあるべき姿を!>と年頭に発言した、安倍首相の<国民の最大の懸念をすら笑い飛ばす驚くべき軽薄さ、というより実に不快なミスマッチ異物感がムンムンする、そして恰もそれが不気味に湯気立つような不潔感にある。アベ流の軽薄さ、つまりこの臭い立つ汚物感の如き下品なノリが罷り通ることとなり、やがて<何でもポケット《AIシンギュラリティ》時代に相応しく“めっちゃ”インスタ映えする《ドラえもん式アベ改憲2018》の汚名が歴史に遺ることになるのだろうか?(添付画像)



振り返れば、日本の法学アカデミズムを高く評価しつつ中国が美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力を持続的に受け入れ、しかもその影響力は今も続いており、それが習近平政権の未来にさえ影響する可能性が高いという現実が観察される土壌には、同じ東アジア文明・漢字文化圏で同文同様の思考形式(文化意識)を、おそらく古代史以来の悠久の時間の過程で共有してきたという歴史的なリアリズムがある。


従って、いま何よりも懸念すべきは『追憶のカルト』の妄想に突き動かされるままに、国民の意思を無視するか、あるいはそれを凡ゆる手練手管を繰り出して誤魔化しつつ、安倍政権が自らとそのお仲間らが望む方向へ改憲をゴリ推すことだ。それは、既述のとおりの極東地域における植民地争奪戦という過酷な“近代史”の悪しき余韻を、その余韻の儘に止めるどころか、再びその悪夢をリアル国際政治の場で蘇らせ、東アジアに止まらぬ全世界からの<戦前型日本リバイバルへの警戒心>を取り戻してしまう恐れがあるからだ。



因みに、一見では全く異次元の出来事のように見えるかもしれないが、<日本メディアの沈黙を傍目に各国の主要メディアが急に次々取り上げ始めたためグローバルに公然化することで、あの「詩織さん事件」なる日本政府(安倍政権)が公式に?に隠蔽したアベシンパ・ジャーナリストによるレイプ犯罪のリアルが今や全世界向け重大ニュースとして拡散中という異常事態>が日本人そのものを深く傷つけつつあると見るべきだ。いわば、それは安倍政権下で起きつつある此の余りにも理不尽で動機不純な<レイプ型「改憲」>の実像と「詩織さん事件」が深部共鳴することで、世界中からより厳しい警戒の視線を浴びられることになるのは今や時間の問題!と思われるからだ。


この「詩織さん事件」なる日本政府によって公式に?隠蔽された女性ジャーナリストへのレイプ犯罪は、只の日本政治(安倍政権)の異常性の指摘という範疇に止まることはあり得ず、アナクロ日本会議靖国顕幽論)の画策の下で安倍政権が推し進める<レイプ型「改憲」>への暴走、つまり「アベ一強アナクロ政権への日本司法の過剰忖度問題の公然化」と深く重なり合うことで、当記事の核心である<日本「法学」アカデミズムへの高い国際的信頼性の伝統>が根こそぎ崩壊しつつあるかに見え始めている。だから、これは東アジア漢字文化圏のみならず世界中の民主主義と共和政国家の損失であり、全世界的な危機でさえある!



従って、このような時であるからこそ同様に悠久の時間(日本側からすれば広義の日本の古代化(日本国の幼生期)以来の時間)を刻んできたユーラシア大陸の東端に跨る広域文化圏であるとの意識(それこそが、東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌であった!)を深耕させることが最も肝要となる訳だが、残念ながら、ここでその先を書き込むスペースはない。そこで、注目すべき歴史学者深谷克己氏(早大名誉教授)の著書『東アジア法文明圏の中の日本史』(岩波書店)から、関連する部分を下に引用することに止めることとしたい。


・・・社会が政治的支配・被支配ではなく長老・祈祷者などの経験知と託宣に導かれ、集団の合意によって行為を決定する「運営社会」から、特段の有力者か少数上位者の意思で左するか右するかを指図する「政治社会」へ変化することが「古代化」である。中でも日本史では、当初から東アジアの「古典古代」を継受するという(自意識を持つ)大陸諸王朝群の更に周辺に位置して、かつ王への上昇を欲求するいくつもの集団(日本列島でいえば渡来系、倭人系の諸豪族から成る数多の集団)が一段上へと争闘を繰り返し鬩ぎあう地域であったため、国際的な力が往復的に働く中で消長し、長い時間を要した古代化となった。・・・(途中、略)・・・そのような意味での「古代化」は数世紀にわたる長い過程であって、初めから「日本国」だったのではない。「別れて百余国」と記された時代から奴国・邪馬台国等の小国あるいは連合国時代を過ぎて何世紀も後に東アジア法文明圏(中国冊封圏)において承認される「国号」として「日本」、「日本国」が称され始めた。日本列島にはなお独立性の強い広大な政治的勢力、部族社会が各地に跋扈しており、それらに対抗しつつ幼生期の日本国は国際関係において優越した地位を得たということである。・・・


・・・また、古代以後にも、広い範囲の「唐物(からもの)」文物の渡来は留まることがなかった。ことに古代の「日本国幼生期」に、東アジア古典古代を継ぐ中華王朝の政治文化を吸引し続けたことによって、「外来文化の影響」を超えて、自らの「体質」(特に日本的と見なすべき超個性的な中華帝国よりも或る意味で高度化し洗練された体質)に近い域にまでそれが進んだ。最初に吸収したものから更に二次的に紡ぎ替えて日本風になった事物も数多くあり、身辺化して派及が気付かれなくなっているものさえあるが、それらが日本の文化と政治の「基層」的な構成要素となったと言ってもいいくらいである。・・・(完)


[エピローグ]映画、上海の伯爵夫人(脚本:カズオ・イシグロ)について



https://www.cinematoday.jp/movie/T0004818
・・・この映画の舞台は1936年(南京事件1年前) の上海 であるが、それは「当ブログ記事の重要モチーフとなる、中華人民共和国が成立して「新民主主義」段階(1945〜1952年辺り)へ移行する直前の時代の中国・疎界地周辺の空気を良く描いている。


この映画を初めて観た時(2006)に些か驚いたことを記憶している。それは、この映画が感動の「ラブロマンス」であるとともに、静かながら深く心に残る「反戦映画」であったからだ。恐らく、この「反戦映画」の側面を強くアピールする宣伝では集客が困難になるとの判断があったのか、当時のこの映画の宣伝文の類にそのことを覗うくだりは片鱗もなかったが。(なお、この映画は、そのノーベル文学賞・受賞の契機になったとも言えるカズオ・イシグロ原作の映画化である『日の名残り』(『上海の伯爵夫人』 と同じジェームズ・アイヴォリー監督))と共にツタヤのレンタルで鑑賞できる)。


無論、『上海の伯爵夫人』の脚本は、あのブッカー賞(英国内ではノーベル文学賞より高い評価が与えられている!)に輝く英国文学の名手、カズオ・イシグロの書き下ろしであり、名匠ジェームズ・アイヴォリー監督の感動的で風格ある文芸作品だ。そして、ここでもアイヴォリー映画の主人公たちは“たとえ彼らがどのような星の下にあるとしても、常にひた向きに、誠実に自分の目前のリアリティーを凝視し、いつでも相手や周囲に対して十分過ぎるほどの思いやりを持つことができる強い人間として生き続ける”のだ。


しかも、この『上海の伯爵夫人』を観た後には、主人公たちのひた向きな生き方への感動とともに「戦争の恐ろしさ・愚かさ、そして戦争へのめりこむ追憶のカルト一派(今で言えば安倍晋三金正恩、トランプら)のバカバカしさ」が深く強烈な印象として心に残る。無論、“平和! 平和! 平和!”と何百万回も叫び続けることは大切だが、このような映画の鑑賞が人々の心の奥深くへ与える影響力も決して無視できぬほど大きいのではないだろうか?そのような意味で、これは今こそ鑑賞に値する秀作だと思っている。


ラストシーンに近い場面(この映画の舞台は1936年、つまり南京大虐殺が起こる1年前の上海)だが、主人公ジャクソン(レイフ・ファインズ/国際連盟で活躍した米国の元外交官だが不幸な運命の悪戯で妻子を亡くし、自らは盲目となっている)を侵攻する日本軍の砲撃から救おうと訪れたマツダ真田広之/実は日本軍部のスパイ)がジャクソンから、それを断られた時に“信頼関係を築いた友人”としてのマツダが残す言葉が脳裏に焼きつく。


『あなたは、本物の白い伯爵夫人とともに生きて新しい別の世界を築くべきだ! が、自分は日本が“美しい国”なる一等国になることを信じ自分の任務を果たすだけだ・・・・・・』(白い伯爵夫人(The White Countess)はジャクソンの夢が実現して出来た店(バー)/落ちぶれたロシア貴族である、伯爵夫人(ソフィア)を演ずるのはナターシャ・リチャードソン



https://iwj.co.jp/wj/open/archives/279662
当然のことながら、この映画が作られたのが2005年であるので、2006年の日本で“美しい国”を標榜する、安倍晋三歴史修正主義者)政権が誕生することなど知る由はなかっただろう。しかし、結果的に見て、カズオ・イシグロジェームズ・アイヴォリーは見事に今の“偽装極右化したうえに、益々、異様化しつつある日本”(つまり、今や何も憚ることなく緊急事態条項(事実上の治安維持法!)を“改憲”の“最優先目的”化することを堂々と宣言するレベルまで凶暴化したアベ一強下の日本!/添付画像)の姿を見通していたようである。


少し補足しておけば、 「国民主権を最優先する憲法」に、言い換えれば「立憲主義を蓋然的に規定する民主“憲法”」に<緊急事態>を書き込むのは、事実上、総統・総裁型権力の暴走を許すナチ(戦前)型「国家総動員法」の復活であり、かつ戦前型“治安維持法”成立に道を拓くことになるということだ。それは、ダン・ザハヴィの現象学的「主観性」の用語で言えば、必ず、ヒトの自我の深奥に潜み蠢く悪徳(全天候型の悪魔的な権力)意思の存在(例えば、アベ一強政権の如き)に対し、国民主権の取り扱いを100%(全面)委任するという恐るべき事態を招来することと同意である(ダン・ザハヴィの委細はコチラ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)。


なお、この映画のヒロイン(ソフィア)を演ずるナターシャ・リチャードソンの母親は英国の名女優のヴァネッサ・レッドグレイヴ(彼女はこの映画で、ソフィアの義母の姉オルガを演じている)である。彼女は、映画「ジュリア」でアカデミー助演賞を受賞し、舞台では2003年にユージン・オニールの「夜への長い航路」でトニー賞を受賞している。また、彼女は反体制の闘士としても有名で、政治的発言やデモへの活発な参加などでもよく知られている。欧米の映画や舞台芸術の懐は深い。


・・・追加、参考情報・・・

                         


このザマ、つまりアベ一強政権がもはや向かうところ敵なしと思ってか?今や好き放題であるこの異常な状態の最中に、もし本当に“緊急事態条項”が憲法に書かれたらどうなる?苦w ◆↓☞「ドラマ『相棒』に“官邸のアイヒマン”北村滋内閣情報官が登場!? 公安が反町や仲間由紀恵を監視・恫喝する場面も/安倍官邸は公安警察を使って官僚たちを勤務時間外もその監視下に置くなど、徹底!2018.01.06 リテラ http://lite-ra.com/2018/01/post-3721.html 
・・・◆それは、ダン・ザハヴィの現象学的「主観性」の用語で言えば、必ず、ヒトの自我の深奥に潜み蠢く悪徳(全天候型の悪魔的な権力)意思の存在(例えば、アベ一強政権の如き)に対し、国民主権の取り扱いを100%(全面)委任するという恐るべき事態を招来することと同意である。 https://www.evernote.com/shard/s440/sh/dff1b946-a2c4-473d-bd49-61500c725a1a/76cc3c4cdf50bae9bdc4ac09f03fef29  


・・・【多数派層の国民には殆ど見えなくなっている、日本の恐るべき現実!】そして、遂に「日本外交の危機」を宣言!? 笑うに笑えぬ<偽装極右>権力の情けなさではないか!