toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・アベの課題

toxandoria2018-05-03


<注>OTT産業(化)の委細は、(2-3)「米国法思想史の概観・・・」を参照乞う。


…(一枚目)ハッブル宇宙望遠鏡から撮った地球、(二枚目)地球上のミクロコスモスの一つ(出典:いずれもpinterest-Japan)


【動画】The Best of Debussy


(プロローグ)AIデジタル・ナルシスの天敵?「ルドン(アルマン・クラヴォ−の慧眼に因る)“因果リアリズム美”」の発見はプラグマティズムの先取り?


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【プロローグ画像の説明】

[一枚目の画像]
オディロン・ルドンレオナルド・ダ・ヴィンチ礼賛」ca.1900 板パステル 116×50cm アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)https://www.stedelijk.nl/en 
・・・このパステル画はレオナルド『聖アンナと聖母子』の聖アンナを思わせる。幼児キリストを慈愛に満ちたまなざしで見つめる聖アンナの傍らにある大きな瞳のような図像は、我われ鑑賞者の驚きと畏敬の念をイメージ化したような不思議な感覚を呼び起こすが、それらは美しい花々と混然一体化しており、そこには紛れもなくルドン的な生命のリアリズムが満ちている。


[二枚目の画像]
同『グラン・ブーケ(大きな花束)』 1901 作品所蔵©三菱一号館美術館 (Mitsubishi Ichigokan Museum, Tokyo)/出典:在日フランス大使館HP)  
https://jp.ambafrance.org/article12727 
・・・「ルドン−秘密の花園」展が2月8日(木)から5月20日(日)まで、東京・丸の内の三菱一号館美術館で開催中。本展はフランスの画家、オディロン・ルドンが植物や花をモチーフに描いた作品に焦点を当てている。
・・・ルドンの花の絵には、18世紀ロココ様式時代のフランス絵画を代表する巨匠シャルダンらの花の絵の特徴であるヨーロッパ風の装飾的な美しさよりも、なぜか日本的なアニミズム風の空気が漂うように思われる。それにしても、この大作グラン・ブーケには何という大きな生命力が満ち満ちていることか!


[三枚目の画像]
同「夢想(わが友アルマン・クラヴォーの思い出に)」 ? 1891 リトグラフ(素材:紙) 21.0×15.8cm 岐阜県美術館 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/221801/1 (文化遺産オンライン)
・・・この一連の作品は、「黒の時代」から「色彩の時代」へルドンが移行し始めた頃のものである。そのため、それまでの「黒の時代」の特徴であった幻想的なミクロの生物や神話的な人物(アルマン・クラヴォーの世界?)とともに花々や植物のイメージが現れている。
・・・そして、この石版画でも、その細部をよく凝視すると殆ど漆黒で塗りこめられた室内空間のあちらこちらには、数多くの微小な生命体のようなものが浮遊しており、窓の外では清涼な空気の中で、それはもはや心象風景であるが<緑の木の葉>が風にそよぐ。
・・・恰も「実はこの二つの空間がミクロ・マクロの両世界を代表しており、更にそれを凝視するルドンと鑑賞者の精神が幻想空間(これぞエトノス環境!)を創造する」が如きである。


[四枚目の画像]同
「『ゴヤ讃』:(2)沼の花、悲しげな人間の顔」1885 リトグラフ(素材:紙)  27.5 x 20.7? 国立西洋美術館 http://collection.nmwa.go.jp/G.2009-0029.html 
[五枚目の画像]
同「幼児のようなものたちもいた(石版画集、『ゴヤ礼賛』4)」1885 23.8×19.7? 東京、個人増(出典:Bunkamura http://www.bunkamura.co.jp/old/museum/lineup/07_redon/works.html )
・・・これら四枚目・五枚目のモチーフも、まさに(後述するとおり)ルドンが探求した“中間の媒介的生命”たる「アルマン・クラヴォーの世界」のイメージであるのだろう。


[六枚目の画像]Flore de la Gironde by Armand Clavaud(1828-1890)/Published 1882 by G. Masson in Paris
・・・このアルマン・クラヴォーの原著、関連情報はコチラ↓
https://openlibrary.org/books/OL25199470M/Flore_de_la_Gironde

[七枚目の画像×2枚]
ミズハコベ(水繁縷)のイメージと種子(直径、約1?)/前者(水繁縷/イメージ)の出典= http://mikawanoyasou.org/data/mizuhakobe.htm後者・同種子の出典=File:Callitriche palustris capa52 002 php.jpg(ウィキペディア・コモンズ画像)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Callitriche_palustris_capa52_002_php.jpg 
・・・アルマン・クラヴォーが特に研究に没頭していたとされるミズハコベは湿地・水田・湖沼などで多く見られるが、オオバコ科の植物であり水田雑草としても知られている。


・・・以下、https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/x537877687 より部分転載(開始)・・・



オディロン・ルドン(Odilon Redon/1840-1916)は、フランス南西部のボルドーで生まれたが、たいへん虚弱な体質のため生後2日で、ボルドー近郊のペイルルバード(有名ボルドーワインの産地)の保母のもとに預けられた。「寂寞として不毛の原野」とルドンが読んだメドック地方のこの土地と孤独癖の少年時代との記憶が、彼の内向的な性格を深め、あの「黒」の時代を形成するに至る(画像は同地シャトーがラベルの『シャトー・ペイル・ルバード 2012』/出典、https://item.rakuten.co.jp/kbwine/c/0000002659/ )。


その「黒」が結晶していくのは、最初の石版画集『夢の中で』を出した1879年、39歳のころからで、画家としてはむしろ晩成型の方に属する。それまでルドンはいろいろな曲折を経ているが、モローからの影響のほかに、いくつかの大きな転機があった。


20歳の折に知り合った微生物研究の植物学者アルマン・クラヴォ−(A. Clavoud/1828−1890/ボルドーの植物園で働いていた人物)の影響がまずあげられるだろう。クラヴォ−は自分の研究のほかに、ポー、フローベールボードレールなどをルドンに教えた人だが、ルドンはこう書いている。


「・・・彼は無限に極小なものの中で仕事をしました。彼は、うまくいえませんが、知覚できない世界の果てで、動物性と植物性、この花やこの生き物の、「中間の媒介的生命」を探求し続けたのです。日中の数時間、ただ光の作用によってだけの“動物”である、この神秘的な要素を探したのです。」


・・・以上、[東野芳名:ルドン、人と芸術/週刊朝日百科・世界の美術、17号]より、部分転載(了)・・・


我々は、このようにルドンが書いたことの中で<クラヴォ−が「中間の媒介的生命を、日中の数時間、ただ光の作用によってだけの“動物”である、この神秘的な要素(実は、科学的に見ればそれは植物であるのだが、それら植物の中で確かに観察される“動物”的な要素を、つまり恰も動物の如く蠢き、動き回る要素)を探していた」>という部分に注目すべきであろう。


無論、このような感覚は現代人の高度に科学的な視点で理解すれば幻想にすぎないはずだが(実は、そう思わされているだけなのだが・・・)、なぜか我々は日々の日常生活の中で、今でも何気なく、時折、そのように感じることがある。


この種の幻想的な感覚、あるいは科学の道具であるはずの顕微鏡ら観察機器を通して新たな現象を発見したり、あるいは体験するような時の驚きの感覚について、なぜかそれがとても懐かしいと思われるような不思議な感慨、ないしは新鮮な感動や喜びをさえ感じるのではないか。おそらく、ルドンはそのような意味での<幻想>体験を描き続けたのである。


オディロン・ルドンの絵や版画が、美しく、いつまでも新鮮で、こよなく魅力的であり続けるのは、我われ人間(人間の意識)が、そのような意味で常に何かを幻想できる生き物であることの証である。つまり、そのような感性(特に、エトノス環境と深部共鳴する(審)美的感性など/例えば、エピローグで触れる俵屋宗達の繊細で壮麗な美学!)があるからこそ、我われ人間は、紛れもなく自律的で、より自由な人間として、しなやかに生き続けられることになるのではないか。

  
更に、この論点(特に、1960年代後半〜のネオ・プラグマティズム)には、人工知能(AI)&ビッグデータ(BD)の融合が創造する「AIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会)」が「個人、つまり個々の人間として尊重されるべき国民の権利」(我が国でいえば日本国憲法第13条と同25条が規定する)を脅かしつつあるという新種の巨大リスクに対する強力な天敵となる可能性が期待される(委細、本論で後述)。


・・・



・・・(1)民主主義は“普遍を求める永久に未完(未了)のプロセス”である、(2)政体(constitution)の如何を問わず<常在的に多数派である「凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>を分かり易く「公文書」等で保証するのが政治権力の役割である、という二点の理解を共有することが「リベラル共和制」の前提となる。特に、(2)は民主制に限ることではなく政体の違いを問わぬ国家統治の基礎的条件である。・・・


・・・


1「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)の正体


・・・それは「民主主義は永久に未完である!」という現実に関わる無知と無関心、その異様な空気に釣られた一般国民は<安倍「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)をルソーの市民宗教(民主主義日本国民の紐帯)と同一視する>という悍ましい罠に嵌っている!・・・



今や堂々と?<数多の嘘と改竄の山バカリ、そして全てが虚構の塊りという只の権力亡者にすぎぬ>というブザマな実像を衆目に曝す、「国体論」複合カルトたる安倍政権の正体を、白井聡氏の新著『国体論‐菊と星条旗‐』(集英社)が的確に抉りだし注目を集めている。

その安倍政権の正体である現代の国体論は、白井氏が指摘するとおり<戦前の国体(顕密二元論での天皇の政治利用)+米国流の強かな戦後日本統治のマヌーバ(maneuver/戦略)>であるが、実は、更なるその深層には、なかなか分かり難いことなのだが、 “これからの日本にとり非常に重要な課題になると見るべき” 二つの問題点(悲観と希望の両面に関わる)が潜むことを見逃すべきではないだろう。

<注>ルソーの市民宗教および戦前の国体(顕密二元論での天皇の政治利用)については、下記★を参照乞う。

★[戦前の国体論と顕密二元論での天皇の政治利用]幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀るアベ独裁は戦前構造災の再来/敗者と異論への寛容(思想)の回復が必須 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 

その一つが終戦時にポツダム宣言(敗戦)の受諾を拒否した「宮城事件」(きゅうじょうじけん)だ。これは天皇の首のすげ替えを謀り皇居(宮城)を襲った“生長の家”過激派によるクーデター(未遂)事件である。

つまり、“生長の家”過激派信者であった陸軍省勤務の一部将校と近衛師団参謀が引き起こしたものだが、“同”穏健派が中心となり鎮圧された。しかし、生き残ったその過激派残党から日本会議が派生しており、紛れもなく彼らが安倍“国体カルト”政権の背後霊(戦前型国体論に因る内側からのマヌーバの黒幕)となっていることだ。

因みに、近年のことだが、“生長の家”は政治との断交を宣言しているが、それはおそらく表向きのことであろう。なぜなら、今でも日本会議の中枢を占める幹部らの多くは生長の家の信者であるからだ(それは閣僚を務めた、あるいは現閣僚らの中にも存在する)。そして、同“家”の中では過激派Vs穏健派なる、カルトに付き物の内ゲバ暗闘が今も続いていると見るべきである。 

(参考画像情報/右端下)事実上、官僚の世界(首相補佐官や各省庁トップや幹部ら)では天皇の首が既に、安倍晋三のそれへ挿げ替えられている!

それに加え懸念されるのが、おそらく。これは選挙における自民党の票集めと各カルト教団そのものの勢力拡大ニーズが、カネメ問題も絡みつつ都合よく一致したことに因ると思われるが、事実上のカルト、日本会議を凝縮・結晶のタネとして旧統一教会らを含む複数の実に妖しげな教団が安倍政権を支援するため癒着・結晶化しており、事実上、安倍政権がカルト・コンソーシアム化していることだ。


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しかも、この「安倍政権の複合カルト化」なる病巣が、今度は、時代の先端ないしは日本経済の救世主か?とさえ持て囃される「AIシンギュラリティ信仰」と絡み始めており、そこから日本がデジタル専制国家(AIデジタル・ナルシス=超類型化AI社会)と化すリスクが助長・暴走しつつある(添付画像にある『内閣府経済財政諮問会議「2030年展望と改革タスクフォース」第1回会合資料』/齊 藤 元 章(株式会社PEZY Computing・・・/「最強の科学技術基盤出現と、到来する前特異点特異点」・・・』、つまり此の由々しき<お仲間スペックイン(政府主導の偽装合法談合)>には、その意味での暴走傾向が透けて見える(関連参照⇒(3−2))。

もう一つは希望の方向へ繋がる問題点である。米国流の強かな戦後日本統治のマヌーバ、つまり、これまで述べた事情から米国の統治戦略下で誕生した日本国憲法という側面があるのは全否定できない。が、だからこそ同時に<それがニューディール政策の柱となった米国リベラル共和的な側面の影響を色濃く受けており、“格差拡大”で疲弊しつつある現代の日本経済にも良循環への途を拓く可能性を日本国憲法は秘めている>という点を見逃すべきではない。より具体的に言えば、日本国憲法には平和主義と共に「20世紀初頭以降の理想と掲げつつも、その肝心の米国でも未了となっている、理想の文化資本主義・実現の条件となる先進的思想」が存在するのである(関連資料:↓◆1、2)。

◆1 スティーブン・フェルドマン著、猪股弘貴・訳『アメリ法思想史』―信山社―(猪股氏自身も未だ研究途上らしいが、同氏は日本国憲法ニューディールの関連性を指摘!)
◆2 リベラル共和主義の土壌、文化資本主義へ覚醒した歴史上の先進事例/マネー資本主義(市場原理)の機能不全、「大恐慌」下の米国で取り組まれたTVA「テネシー川流域開発公社」(文化資本主義政策)の再評価 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 


ポストモダニズムの日本でも必須と思われるネオ・プラグマティズム(“米国型リベラル共和”志向)の視点


2−1 プラグマティズムの現代的意義


19世紀後半にアメリカで誕生したプラグマティズムついて、日本で知る人はまだあまり多いとは言えない。そのうえ「実用性だけを追求する、アメリカ的な目先のカネメに好都合な道具主義だ!」という見方が根強く、それが固定観念化している。そして、圧倒的な実利第一の戦勝国アメリカには“強固な日米同盟”で追従するのが一番だ!という、このような意味での日米の根本的相互“誤解”に基づく、一般日本人の一種の割り切った空気(この日本国民の“戦前から引き継ぐ弱点”を十分承知の上で悪辣に利用するのが#日本会議、#安倍晋三ら!)が漂うのも確かだ。

果ては、嘘・改竄・隠蔽が垂れ流すウソに塗れた大スキャンダルの巣窟(それは、まるで出口ナシの“汲取便所”状態?)と化した安倍政権が、それでも非常に強固な3割支持層(目下のところ!特に男性の中堅ビジネスマンと就活前後の若年層にこの傾向が強く現れている)によって支持されるという不可解な現象の背景にあるのが、この“強固な日米同盟”で追従するのが一番だ!という倒錯した意識(根本的な米国に関わる誤解)ではないか?とも思われる。

ところで、生涯にわたり哲学書は一冊も書かなかったが、「形而上学メタフィジカル)クラブ」のメンバーの一人で、かつプラグマティズムで著名なウィリアム・ジェームズらと親交があったオリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニア博士(19世紀後半〜20世紀初めに活躍した米国の法律家・連邦最高裁陪席裁判官)は、「南北戦争」に参戦し米国民同士の残虐な殺戮戦を生き抜いた経験から、『思想は決してイデオロギー(他の人々へ強制する)に転嫁してはならない、戦争はどのような思想もイデオロギーも無力化する只の殺し合いだから!』という重要な殆ど経験的な信念を手に入れたとされる。

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因みに、同名書の著者ルイ・メナンドによれば「メタフィジカル・クラブ」のネーミングは、形而上学へ過剰に傾斜する哲学や思想の危険性を危惧するという意味で付けられたとされる。また、ホウムズと親交があったウィリアム・ジェームズはデューイらと並ぶプラグマティズム創始者のひとりで、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えつつ特にパースを支援して世に広めた人物として重要である。

付言すると、ここでホウムズが命がけの戦争経験で理解したのは「様々な開かれた考え方の一つである思想と、他者に対し無条件でそれを受け入れるように強制するイデオロギーは全く別物」ということだ。しかし、ほんの少し留め金が外れるだけで、いとも容易くイデオロギー化する思想はその取扱い次第で残虐な殺戮戦争の条件となり得るのだ。たとえ、そこに論理的・合理的(rational)な理由があるとしても。そして、このことがプラグマティズム哲学を貫く伏流として流れ続けている。


2−2 プラグマティズムの概要(通史ではなく主要論点に絞り込む)


プラグマティズム創始者の一人、パースの慧眼『道具主義』が意味すること)


エピローグで取り上げたルドンが言う「中間の媒介的生命」(幻想的なものに見える現実であると同時にその幻想の主役でもあり得るもの/言い換えれば、論理と普遍性(精緻な概念規定)の対極にあるリアリズム)とほぼ同じ対象(または現象)と思われる「因果の連鎖が構成する実在(リアル)」に注目したのが、プラグマティズム創始者の一人とされるチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce/1839- 1914)だ。

無論、論理哲学者パースが注目した「因果の連鎖が構成する実在(リアル)」とは、動・植物のジャンルに限ることだけではなく、生物・無生物を含む自然のすべてと人間社会そのものをも含む森羅万象の一部、つまり「因果リアリズム」(絶対“観念”の真理ではなく、エトノス環境と深部共鳴しつつ、それなりの正しさを現出させる限定合理的な意味での実在の因果的な塊り)のことである。

パースは「トークン(個性的な個々の実在/因果連鎖)とタイプ(抽象的な普遍・論理)の峻別」(Type-token distinction)という重要な着眼点をも提供しており、これは「超類型化AI社会」(AIデジタル・ナルシス/デジタル専制社会化)の時代へ着実に入りつつある我が国にとっても非常に重要であり、その視点から新しい「普遍観念」創造の可能性を提供することが予想される。

パースが言う「プラグマティズムの格率(基準)」が意味するのは、“例えばカント流の明晰な概念規定は、いわば精密な観察に基づく諸データの統計処理から得られる中心点、ないしはその表象”なので、それがリアルな意味を持つか否かは別問題であり、あくまでも実証実験(実践活動)の結果を見なければ分からないということだ。

この場合に前者がタイプ(明晰な概念規定)、後者は個々の個性的トークン(因果の個々のリアル/それは必ず中心点からバラついて分布する個性的な存在ということになる!の意味で多様性を持つ)に対応することになり、この観点こそプラグマティズムが重視する限定合理主義の意義(無限の道筋(プロセス)で、それなりの正しさの有意性の評価を重視すべきということ、つまりその意味でプラグマティズムは乗り物の如きリアルな道具である!)を支えることになる。

つまり、リベラル共和の実現を志向する米国モダニズム社会の胎盤というべきプラグマティズム(厳密にいえば、クワイン、ローティらのネオ・プラグマティズム)には、最先端のエトノス環境論をすら先取りする「さしあたりの生き方としての民主主義」(逆に言えば、“普遍”と“法の支配”を掲げる“民主主義”観念に因るリアルな道筋では“永遠に未了”(エンドレス)の努力が求められる!)という重要な視点が潜むと思われる(エトノス環境の委細はコチラ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160504 )。


(民主主義の根本たる“普遍”観念に関わる重要な格率を提示したデューイ『プラグマティズム道具論』)


・・・今や世界中で閉鎖系の壁をもたらしつつあるとさえ見える<民主主義の基本たる“普遍”観念>に対し、それを再び開放系へ転換するためのヒントとなる可能性が高い!・・・

デューイは、自らのプラグマティズム哲学の出発点として、独仏「大陸哲学」と英米分析哲学」の根本的な差異を重視する。それは、前者が<古代ギリシャの小規模都市国家直接民主制を理想と掲げる/現代の事例で言えばハイデガーハンナ・アーレントら/関連参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109>のに対し、後者は<今の日常における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視する/ヴィットゲンシュタインの論理実証主義はその終着点と言える>という違いである。

独仏「大陸哲学」のカント流の精緻な概念規定から(無論、哲学史・思想史を概観すれば何がしかの影響を分析哲学からも得ている!)、大革命などの歴史を経たうえ<法の支配、自由、平等、博愛、基本的人権>など現代民主主義に必須の「普遍」観念が定着してきた反面、21世紀の現代は大衆社会がグローバルに巨大化し、更にそこへネット環境の深化等の新たな要素が加わること(旧来型のマスメディアに代わり、ツイッターフェイスブック、ブログなどのネットワークメディア側から絶えずリアル・オルタナティブ情報が発信されるようになったこと)もあり、今や古代ギリシャ都市国家がモデルの「普遍」観念だけでは、到底、そのトレンドに抗うことができない状況となり、そのため深刻な分断が拡大しつつあると見ることができるようだ。つまり、新たに「普遍」とは何か?が今や再び問われていることになる。

一方、経験主義をベースとする英米分析哲学」も還元主義の限界という深刻な壁に突き当たっているものの(ブレークスルーを量子物理学の世界へ求めつつあるようだが…)、特に建国(独立)後のアメリカでは、「南北戦争」の経験(強制イデオロギー化した思想をめぐる同じ国民同士での殺戮戦という悲惨な経験)から生まれた<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視する/デューイ>というプラグマティズム哲学が、トランプ大統領なる<分断王>の登場で混迷する今のアメリカでこそ、その本格的な再評価が期待されているともいえる。

そこでデューイのプラグマティズムで絶対に忘れるべきでないのが「保障された言明可能性」という考え方であり、これは「凡人の正しさ」を保証する問題とも呼ばれる。それは<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”とは、言ってみれば『聖人・君子ならぬ、国民層の大多数を占める“凡人”の正しさの保証手段をシッカリ確保して社会的信用を維持すること』を最大限に重視すべきだ>ということだ。

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当然、このことから導かれるのが、例えば<公文書・ドキュメント資料、民間のビジネス文書あるいは歴史資料類は法に基づいて厳重に保管・保存すべき>だという『公文書管理(法)』の大原則である。だからこそ、目下のところ<アベさまのウソの山>を糊塗するための<公文書に関わる改竄・廃棄・隠蔽そして作為的な記憶喪失(アベ様によるヤラセ記憶喪失の政治利用?w)>なる大スキャンダルで揺れる日本は肝に銘ずるべきである。

それに、このような意味で民主国家の政治家として、というよりも時代を超えた(政治体制の如何を問わず!の意味で)人間としての基本中の基本である「ウソを吐いてはならない!」ということが分からぬ安倍晋三には、「倫理」を語りそれを他人に強要する資格が全くないことは、火を見るより明らかなことである

因みに、この「凡人の正しさ」を確保すべきという問題は当記事の冒頭(プロローグの末尾)で書いた<(2)政体の別を問わず、常在的に多数派である「凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>を分かり易く「公文書」等で保証するのが政治権力の役割だ!これこそポピュリズムのそもそもの意義だ!)ということに関わる、国家統治の基本中の基本であり、現下の安倍政権が唾棄すべき程に由々しい限りであるのは、この大原則を完全に無視して公文書・ドキュメント類を弄(もてあそ)んでいることである。

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例えば、第一次世界大戦中のウォルター・リップマン(著書『世論』(邦訳/岩波文庫)、『幻の公衆』(邦訳/柏書房)で名高いアメリカのジャーナリスト)は、同様の危機意識を前提としつつ「ポピュリズムを悪用するナチズムが必ず出現するので、各民族の自治権は確立してもハプスブルクを解体してはならない」とウィルソン大統領に進言することで表現していた。

それは、科学・合理的な理念(素描と透視図法的視点へ傾斜した美術様式を好む美意識)と反素描的なスピノザ流の観念論的理念(例えばフェルメールの如く17世紀オランダ市民社会で好まれた独特のクオリアを求めるような美意識)という、西欧の伝統化した二つの相矛盾する世界観の葛藤が様々な問題を抱えつつありながらも、未だ良い意味でハプスブルクが育んできた歴史・文化に関わる“限定的ではあったにせよ寛容な態度”が一定の信用を繋いでいたからだ(具体的に言えば、それは1871年10月13日の“オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の寛容令の発布”で、事実上、帝国内の信教が自由となったことに因る)。

 
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逆に言えば、どのような政体を採るにせよ、ルソーの「市民宗教」に相当する<「大衆、凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>の観念をつなぎ留め得る(言い換えれば、その“所詮は関係者らのネポティズム(おなかま政治)へ依存してしまう気まぐれ”な凡人たち(この傾向は、情報化・大衆化社会が深化するほど強くならざるを得ない/リップマン)が安住できる文化・公共的な意識空間)は最低限の条件になるということだ。

市民革命・仏大革命・独立革命後の、否、それどころか現在の欧州やアメリカ合衆国といえども、それが必須であるのは理解されていても、理想のルソー「市民宗教」と“普遍”を完璧に保証する制度は実現されていない。その弱点を突くのがナチス的なもの、つまり安倍晋三「国体論」等であり、それらに共通するのが公文書・ドキュメント・歴史資料等の改竄・廃棄・隠蔽・偽造という多数の草莽が暮らす社会の岩盤と国家統治の体制&システムを崩壊させる実に卑怯で愚かな蛮行である。


(今こそ再認識されるべきクーン『パラダイムの転換』の意義)


パラダイム転換」論で名高い科学史家トマス・クーン(ハーバードで理論物理学の博士号を得ている)はプラグマティズムの哲学者とは見られていないが、その思想(考え方)はまさにプラグマティズム的である。例えば、クーンは、アリストテレスの「質的変化の運動論」(運動は、原因と目的を持つ質の変化であると考えた)が全く正しいことに気づいていた。

それは、重力の法則(重力方程式)が正しいことは実証実験と重力方程式で確かめられるにも拘らず、“重力が神の意志(目的を与える何らかの存在に因るもの)であるのか否か?”を、実は現代科学でも、その根本的な部分についてはアリストテレスの方法以外では説明できないからだ。しかも、重力だけでなく時間についても、やはりアリストテレスが説くとおりで、我々は今でも目に見える空間や物質の位置的な、あるいは質的な変化としてしか、その変化そのものを認識できないのである。

クーンは、「基礎的概念(前提となる考え方/アリストテレスの運動論では“すべての根源は質の変化にある”という考え方)と基礎的用語法」しだいで、現代においてすら、たとえそれが同じ真理について語り合っている場合であるとしても、何時でもどこでも、認識や理解についての深刻な「分断」が起こり得ることに気づいたのであった。

つまり、アリストテレスが運動の「真理」について知らなかったのではなく、そのための前提となる考え方が、近代以降の物理学と全く違っていたため、アリストテレスと近代人・現代人との間で共通認識を持つことができなかったことになる。そして、これと同じ現象が社会科学のフィールドでも起きていることをクーンは体験した。

そこで、クーンは「基礎的概念(理論)と基礎的用語法」を経験的に共有することで、人々の議論はかみ合うようになるので、特にアカデミズムの世界では、「ある領域の研究者たちが基礎的な理論とモデルとなる考え方」を共有することが最重要であると見て、その「専門家が共有すべき考え方」をパラダイムと名付けた。

また、クーンは、このようなパラダイムは必ず複数のものが生ずることになるので、自然科学か社会科学であるかの別を問わず、それらは古代から現代に向かって決して直線的に発展してきたのではなく、それどころか、基礎理論との乖離が起こるたびに些かの修正か加わり、絶えず数多のパラダイムが変奏曲の如く生まれ続けるため、パラダイムの発展のイメージは必ずスパイラル(螺旋状)のものとなると見たのである。

まさに、このイメージは、W.V.O.クワインのネオ・プラグマティズムの核心部分、「人間のリアル因果の説明=それは、環境との新たな共鳴が連続する中で絶えずエンドレスに修正され続けなければならない」という観察とピタリと符合している。 


(ネオ・プラグマティズムは米国型リベラル共和の培地/W.V.O.クワイン『ネオ・プラグマティズム』の斬新な視点)


ところで、英米分析哲学」の終着点はヴィットゲンシュタインの「論理実証主義」とされており、その「論理実証主義」に厳しい批判を加え、その壁を乗り越えた哲学がW.V.O.クワインのネオ・プラグマティズムであるが、先ず「分析的真理(個別的真理)と総合的真理(普遍観念的真理)は区別できない」というクワインの主張が重要である。逆に言えば、クワインは「個々の分析的真理(意識の対象となる個々のリアル因果/パースのトークンに相当?)と総合的真理(意識の対象となる観念・表象/パースのタイプに相当?)は区別できる」とする立場を「論理実証主義の第一のドグマ」として批判したことになる。

そして、「此の点」は人間の意識の問題と深く関わっていると思われるうえに、その「分析的真理と総合的真理」に関わると見るべき、プロローグで取り上げた『中間の媒介的生命(東野芳名氏)』を連想させて興味深い。因みに、現代哲学の多くは人々が広く共有する言語をベースに認識や価値観の問題を捉え直そうとする試みに挑戦しているが、このように分析対象を意識自体から言語へ再び転換する研究を言語論的転回と呼ぶ。

これは余談だが、おそらくヒトに限らず、基本的という意味では言語を持たぬ動物も同じく「分析的真理と総合的真理」をどう理解すべきか?という問題と深く関わっていると思われるうえ、実に興味深いことだが、AI・ビッグデータ研究および脳研究の深化・共鳴と共に此のこと、およびヒトと動物の意識の違い(言い換えれば、言語の役割)が深く理解されつつある。

クワインは「言語論的真理」も還元主義であり、それは人間のリアル(リアル因果)を捉えてはいないと見て批判したが、これは「論理実証主義の第二のドグマ」と名付けられている。要するに、クワインによる「論理実証主義の二つのドグマ」に対する批判から、新たに理解されたのは<環境(正確に言えばエトノス環境)との日々新たな共鳴のなかで人間のリアル(リアル因果)は永遠に未了であり続けるのが必然で、それは絶えず内外環境と共鳴しつつ修正され続けている、ということになる。

そして、この辺りは、ネオ・プラグマティズム、正統保守主義歴史修正主義ならぬ!)、トマス・クーン『パラダイム転換』などと奥深くで反響し合っていることを感じさせる。因みに、クワインは自らの哲学を次のようなメタファーで要約している。
・・・すなわち、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る私たちの知識や信念の総体は「周縁部(フリンジ/fringe)でのみ経験と接する人工の構築物」ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされるのである。この描像の下では、理論(あるいは“思想”としてのイデオロギー)と合致しない観察結果が得られたときに生ずるのは、なんらかの特定の仮説の撤回ではなく、その信念体系内の各命題に割り当てられていた真理値の再配分なのであり、絶えず、そこには多くの選択の余地が残ることになる。(言い換えれば、本物の“思想”は無限の可能性が絶えず拓ける状態にあり続けることになる!←補、toxandoria)》(中山康雄著『科学哲学』(人文書院、p88))


2−3 米国法思想史の概観/プレモダニズムモダニズムポストモダニズムの流れは「リベラル共和」を志向するプラグマティズムの深化と共に歩んできた


・・・プレモダニズムモダニズムポストモダニズムの流れ・・・

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ごく普通に考えてみれば人間の意識の営みの中枢にある諸概念がそれ自身の力だけで変化することはあり得ない。それどころか普段の我われが常にそれを意識するかしないかはともかく、まさにクワインが指摘するとおりであるが、各々の信念体系内部ではエトノス環境との間での共鳴が発生しており、その内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分が絶えず行われている。これは米国法思想史の流れでも矢張り同じことであり、それが西欧哲学の流れと共鳴しつつ変遷してきたことが観察される。

一方、ある広範で、時には大変革を伴う社会的事件が知的変化を促す結果として、法思想が変遷してきたことが理解できる。その意味での重要な事件としては南北戦争ベトナム反戦運動公民権を巡るブラックパワー運動などを挙げることができる。中でも特にメタフィジカル・クラブのメンバーの一人、オリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニアのプラグマティズム意識の誕生を促した南北戦争の影響が重要である(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 )

それは、米国史で最大の62万人という戦死者を出した「南北戦争」(同じ国民同士の非常に残虐な殺し合い)へ参戦した過酷な経験がホウムズに対し「些かでも油断すると、穏当な思想であっても、それは教条的イデオロギー(他人へそれを強制するもの)へ変質し易いこと、いったん殺戮戦争が始まってしまえば、その戦場では如何なる思想もイデオロギーも全く無力化すること」を知らしめた。そして、そのことが「それなりの正しさを重視して今を生抜く」ための哲学、プラグマティズ(それは、建国(独立)いらいリベラル共和を志向してきたと見るべき米国法思想の核心となっている)の誕生を促したのである。

ティーブン・フェルドマン著『アメリ法思想史―プレモダニズムからポストモダニズムへ―』(信山社)の著者・猪俣弘貴氏によれば、プラグマティズム法哲学の核心と見る米国法思想の特徴は「思想と社会的利益は複雑で弁証法的な関係において相互に作用する」と考える点にあるようだ。

従って、米国における「法」は、公正な利益を実現するための道具(パースの道具主義の意味/それは限定合理主義のそれ(無限の道程の中で、それなりの正しさの有意性の評価を最重視し、それを実現する道具/参照⇒2−2)であることになる。そして、そのような意味で、「法」が常に米国の最も重要な社会制度の背骨であることを全否定する米国民は殆どいない。



そのため、事実上、今や国家そのものがグローバルOTT産業化(https://www.hivelocity.co.jp/blog/27343/)しているので(無論これは比喩的な言い方だが)、従来型製造業と同じ感覚でトランプが中国IT企業を敵視するあまり過剰攻撃すると、天に唾を吐くの謂いで、その敵視“貿易”政策が米国自身の憲法問題(特に、米国民の生存権に関わる)に変質してトランプをブーメラン攻撃(支持率低下へ直結)することもあり得ると考えられる(参照/添付、一枚目の画像)。

・・・同書に従って、以下に米国法思想史の流れを纏めておく・・・

[プレモダニズム期](米国独立〜南北戦争
・・・欧州と同じく、自然法思想に忠実であった時代。市民革命と独立戦争を指導した自然法思想が米国法体系の基礎であると考えられていた。

[モダニズム期](ポスト南北戦争〜1960年代前半)
・・・プラグマティズムメタフィジカル・クラブ/関連参照⇒(2−1))の影響を受け始め、それが定着した時代。言い換えれば、憲法が、パース流の「公正な利益(限定合理主義の果実)を実現するための道具」として、日常的に適用され続ける裁判規範として捉えられることが定着したことになる。
・・・世界大恐慌のあと、このプラグマティズム流の「公正な利益」に加えてフランクリン・ルーズベルトニューディール政策に反映された「社会的な公正」(特に、個人の尊厳と生存権に関わる適正な分配の意味でのディールを重視する!)の考え方が憲法の基礎に流れ込んだ。
・・・それは、大恐慌金融危機の時に、自由原理主義アダム・スミス“市場の神の見えざる手”の短絡的解釈に因る誤解!)の決定的な弱点(マネー原理主義故のノモス的(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 )な欠陥)が必ず露出することを学んだからである。

[ポスト・モダニズム期](1960年代後半〜現在)
・・・クワインおよびローティ(委細、エピローグで後述)らのネオ・メタフィジカル、および分析哲学者・ディヴィッドソン(委細、後述)らの影響を受け始めた時代。大きく捉えれば、欧州の自然法思想の弱点を更に修正するネオ・プラグマティズムの考え方が深く影響しつつある。


3 個人の尊厳を重視する「欧州(EU)GDPRの先進的規定とそれを見習いつつある米国/一方、政財労界&メディアおよび国民の殆どが無自覚かつ無防備な日本


3−1 恐るべきAIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会リスク)の脅威


・・・日本では、多数派国民が「AI-SNS社会化に特有のフィルター・バブル」(=AIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会リスク))らのリスクの問題に殆ど無関心である現実が、安倍政権の<“公文書”改竄・削除・隠蔽>と相まって、この二つの合併症である<共約不可能性(incommensurability)>症候群の重篤化を促す!・・・


(1) それ故、一般国民目線でAIデジタル・ナルシスを制御し、共約不可能性を解消する新たな「日本国憲法の役割」の発見が急務

すでに述べたことだが、プラグマティズム創始者の一人、パースは「トークン(個性的な個々の実在/因果連鎖)とタイプ(抽象的な普遍・論理)の峻別」(Type-token distinction)という重要な着眼点を提供しており、これは「超類型化AI社会」(≒AIデジタル・ナルシス/デジタル専制社会化)の時代へ着実に入りつつある我が国にとっても非常に重要で、新しい「普遍観念」創造の可能性を提供することが予想される。

なお、共約不可能性とは、例えば 1と√2の比のように、いかなる整数比によっても表現できない量的関係を表す数学用語で、「共通の物指しで測れないこと」を意味する。科学史家、科学哲学者のトマス・クーンが『科学革命の構造』(1962)において科学史上の異なる研究パラダイム間の関係を表現するために用いたことによって、科学史、科学哲学の重要な用語となった。


(2)「国体論」複合カルトの果てに潜む「AIデジタル・ナルシス」(超類型化AI社会リスク)暴走の危機!


・・・それは強欲と傲慢の極み、そして余りの反知性主義というおぞましさ、人間の性(さが)という罠に堕ちた安倍政権・・・

安倍政権が退陣しようが、しまいが、<モリカケらを筆頭とする一連の大スキャンダル、アベ・ゲート事件の根本原因が、維新政府の時に仕込まれた「幕末ミッシング・リンク(戦前期のダミー市民宗教(ルソー)たる顕密二元論の隠蔽”であったこと、つまりそれはアベ型“構造災”であるという、戦前からの連続性がリアルに意識され、周知されなければ、第二・第三のアベ・カルト(今度は、超類型化AI社会リスクと更に深く癒着した!ビッグデータを高速処理するAIに対する過剰な期待がほぼ信仰の対象である神のレベルまで亢進することにより、国民層が類型化処理され、分断化されるという実に恐るべき社会的危機を意味している)が出現するのは必定である。

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なお、「超類型化AI社会リスク」(AIデジタル・ナルシス(デジタル専制社会化)とほぼ同義)は、『おそろしいビックデータ』(朝日新聞出版)の著者・山本龍彦氏の造語である。それには、恐るべき近未来の地獄絵、つまり「フィルター・バブル(『閉じこもるインターネット』の著者 イーライ・パリサーの造語)&『デイリー・ミー』(The Daily Me/キャス・サンスティーンの造語)など、愈々、本格化する超AIビッグデータ社会化が、日本国憲法の保障する“個人としての尊重”(第13条)と“最低限度の生活の保護”(第25条)」が完全破壊される時代の到来を警告するための造語である。

また、それは「デジタル専制国家」とほぼ同義であり、「AI+BD(ビックデータ)」の本質が、例えば下のような点●(出典:同書)にあるため、AIが暴走する可能性だけに留まらず、それを悪用する政治権力(例えば、“安倍政権”の如き国体カルト政権?)が、再び、新たな専制支配力を手中にする可能性が高まることを意味する。

●フィルター・バブル(見たくない情報を遮断するフィルター機能が、まるで私をバブル(泡)の中に囲い込む如く見たい情報しか見えなくすること)、デイリー・ミー(ネット上で、日々に私の全人格的な性向(出生、生活環境、嗜好、趣味、関心、過去の行動パターンなど)に合わせてカスタマイズされ送られてくる情報)などで、AIシンギュラリティ信仰は際限なく人々をセグメント(細分&分断)化するパワーを得るため、バーチャル・スラム化など、AI・BDプロファイリングによる個人『信用力』の一方的な破壊により新たな差別の発生が懸念!https://www.cvfinance.com/contents/support/report.html?act=d&kind=1&id=333)が次々と生まれるリスクが高まる)

●AIはBD(ビッグデータ)を餌として急速に、しかも無限に生長するため、AIの判断能力とスピードに人が追いつけなくなる

プログラマーがAIディープラーニング(AI自動学習)のアルゴリスムを理解できなくなるレベルに入ると、AI暴走の懸念が高まる(Ex.テロ対策を逆手に取る予測的警察活動(Predictive Policing)https://www.nij.gov/topics/law-enforcement/strategies/predictive-policing/Pages/welcome.aspx など)

●AIのビッグデータ(BD)分析には、本質的な意味で可謬性(原理的に必ず間違いが起こり得ること)の問題が付きまとっている。例えば「相関関係もどき(うわべだけ、みせかけの相関関係)の出現」、「みせかけの有意性データの出現」など。

ところで、山本龍彦・著『おそろしいビックデータ』によれば、最も懸念すべきが「AI・BD分析」で『日本国憲法第13条が保証する“個人の尊重”』と『同25条が保証する“国民の生存権、国の社会保障的義務」”』が根底から破壊される可能性が急速に高まっていることだ。我われはネット利用環境の中で、個人プロファイリングが既に日常化しているため普段はあまり意識しないだろうが、よく考えてみれば、生活の凡ゆる側面がネット利用とクロスする次元で個人プロファイリングの監視網の中に今や際限なく取り込まれていることを自覚すると空恐ろしく感ずるのではないか。

同書の中で山本龍彦氏は、その問題点を次のように指摘している。・・・憲法上の「個人の尊重原理」は、(1)人間の尊厳(職歴・犯歴・趣味などのデータ・ステグマの否定)→(2)狭義の個人の尊重(血(民族・出自)・階級など集団からの解放)→(3)個人の尊厳(過去の差別の助長などの排除による、自律の保証)→(4)多様性の尊重(誰でもが対象となり得る新たな差別発生の排除)という4層から成っているが、野放図な「AI・BD分析」の利用は、これらの全てを根こそぎにする恐れがある。・・・

その結果として、予想されるのが「前近代への退行、AI・BD分析による個人の自由の制限(一方的に、絶えず決めさせられる私の出現!)、そして民主主義そのものの崩壊」という、まさに悪夢の如き由々しき世界の到来である。このような現実を目前として、我われはどのように対処すべきなのか?日本の「安倍国体複合カルト政権」の「お仲間ネポティズムこと政府主導“偽装合法談合”、大嘘、改竄、隠蔽、削除」など<腐臭芬々たるアベ式“大スキャンダル”の山>から、只ひたすらの逃避行を謀るバカリであるのを傍目に、欧米諸国は、着実にこの問題への先進的な対応を模索しつつある。


3−2 刮目すべき欧州(EU)GDPRの先進的規定


・・・欧州とアメリカの<民主主義と憲法>に関わる議論は日本と全く異なる状況であり、それは欧州型(“普遍”理念の重視)と米国型(個々のリアリズムを尊重するプラグマティズム)という<二つの異なる政治哲学の培地>から生まれたが、次第に同じリベラル共和の実現へと進みつつある・・・

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[資料]欧州GDPRの先端的規定、プロファイリングに異議を唱える権利(中止請求権)など/EU一般データ保護規則GDPR)の概要(前編、後編)
http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-gdpr01.html 
http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-gdpr02.html

(欧州/EU)

欧州における民主主義の特徴を短く言えば「理念型“普遍”の価値=欧州連合基本権憲章、欧州人権条約で集約」を培地としつつ、同「憲章」などの価値理念が経済秩序を包摂するという思想がベースとなっていることである。従って、持続経済と経済活性化のため市場原理を活用するにしても、“普遍”の価値理念を冒すことは許さない。

ただ、既に触れた<リップマン“大衆論”>の予見どおりであるが、“グローバリズム・情報・AI”化(21世紀型の新たな巨大大衆化現象)が急速に深化しつつある昨今では、益々、一部専門家集団による政策主導への傾斜という由々しき問題が影を落とていることも否定できない。例えば、特に東欧における右傾化(というよりも、保守を騙りつつ歴史について不勉強な偽装極右化に因る社会的分断の発生)はその典型であり、いま欧州連合は、EUエリート層化した一部専門家集団(テクノストラクチュア/ガルブレイス)による政策主導のあり方について様々な修正が迫られている。

しかし、これは今の日本が嵌っている『民主主義憲法と歴史を蔑視する“反知性主義的な意味での歴史修正主義者、日本会議”らが主導する、いわば『アベ様のお仲間(ネポティズム)によるスペックイン(政府主導の偽装合法談合=モリカケ財務省の超堕落事件および齊藤元章@PEZY ComputingのAI&スパコン・スキャンダルがその典型!)の跋扈&横行』という昨今の安倍内閣を巡る、実におぞましい<狂気政治の所業>とは全く異質であることを肝に銘ずるできであろう。

ともかくも、欧州では「民間企業による個人情報取り扱いの規制およびデータ保護(法制)」と「人間の尊厳、個人の尊厳(個人の尊重)など基本的な憲章上の価値」(日本の場合、これは日本国憲法第13条(個人の尊重)、および同第25条(国民の生存権、国の社会保障的義務)に関わる)が切り離されることなく、しっかりと議論されている(関連参照⇒上掲のEU一般データ保護規則GDPR)の概要)。

因みに、欧州(EU)GDPRの第1条は<本規則は、自然人の基本権利および自由、ならびに、彼らの個人データ保護に対する権利を保護する>と明確に書いており、それが加盟各国の憲法の価値観を最重視していることを強調する。


22、23、24
結局、それは『AI・BDの個人プロファイリングに対し、人々は異議を唱える権利(right to object)を有する、この権利が行使されると、事業者は原則としてプロファイリングを中止しなければならない』という、最も重要な欧州(EU)GDPRの第21条一条を支える砦となっている。AI・BDプロファイリングへの意義申立どころか、それより遥かに低次元な<アベ様の暴政>に対し、彼が嘘つきの極みであると分かりつつも、一向に何らright to objectを実行しようとしない国民が多数を占める今の日本の現状との余りの落差に愕然とするばかりである(画像参照)。

(米国)

オバマ政権下のアメリカでは、ビッグデータの利用例がマイノリティー排除や差別に繋がる懸念から、政府内部において熱心な検討が繰り返されてきている。ただ、アメリカの場合は、理念型の“普遍”に因るリベラル共和志向の欧州と異なり、プラグマティズムに因るリベラル共和志向の伝統に基づいているため、裁判所による緻密な判例を積み上げる手法で、ビッグデータの利用の規制が検討されつつある。

オバマ政権の政策を全否定することをモットーとするトランプ政権下でも、例えばトランプ大統領がモラー特別検察官の解任(トランプ自身のロシア疑惑関連で)へ踏み切れないことが象徴するとおり、アメリカではたとえ大統領であっても、米国民主主義の“虎の尾”を踏むことを意味するため、合衆国憲法と米国法制そのものに反する行為を断行するという決断へは、なかなか踏み切れない。

因みに、米国民主主義の“虎の尾”(過半超の米国民が辛うじて、しかし強固に共有する逆鱗/これは、トランプ支持が約4割で歩留まりし米国民の分断が固定化されていることの原因の一つとも考えられる)が意味するのは、もしその事態となれば米国史上で最大の政治危機(思想Vsイデオロギーの闘争であった南北戦争の火種が再燃する恐れ/関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 )となることに加え、これまで述べてきたプラグマティズム法思想の伝統から、必然的に「薄氷を踏む憲法上の争い」に嵌ることを意味する。

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また、それが辛うじて維持されてきた司法積極主義(特に、リベラル傾斜のウオーレン・コートいらい強く意識化されてきた/出典:松井茂記アメリ憲法入門』―有斐閣―)の伝統ということでもある。従って、トランプ政権下のアメリカとはいえども、少なくともAI・BD利用についての規制に関するかぎり、オバマ政権で検討を重ねてきた、マイノリティ保護をはじめとする個人の基本権を尊重するという憲法上の観点からの活発な議論が停滞することは許されないことであろう。

そして、近年は「ウイスコンシン州最高裁のルーミス判決」(AI自動処理によってのみ重要な決定を下されない権利についての判決)に類する判決が、裁判所による判例法として承認される事例が多くなりつつある(関連参照/下記▼)。

▼再犯を予知するソフトウェアは人種差別的?http://www.sekaiwoyakusu.com/entry/machineracism 








(エピローグ)希望は「日本型リベラル共和」の可能性(結論に代えて)


(再認識すべき、“ルソー市民宗教”としての伝統日本文化の意義)


・・・その特質は、十分に水平的なプロトモダニティ(日本型リベラル共和意識)が歴史的に存在してきたということ・・・

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重要文化財 http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/184.htmlより部分転載
・・・すでに江戸時代(17世紀初頭〜前半、寛永期頃〜)の日本には、俵屋宗達あるいは本阿弥光悦のような“現代のエトノス環境論にすら匹敵する、マクロ・ミクロ両世界に広がる非常に広大な世界観を「巻物」なるアナログ空間(それと相対的に見れば書物(図書上の図版・画像)は頁ごとに分散したデジタル空間)のなかで見事に演出、あるいは表現できる優れた美学や芸術作品”を大いに支持し、愛好する、もはや上下の身分層を遥かに超えるという意味では、十分に水平的なプロトモダニティ(日本型リベラル共和意識のタネ)が、いわば“近代的な市民感覚の種苗”がすでに自生的に先行し、存在していた事実に驚かされる!(Cf.要参照↓★)

★盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されているhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 


27、27−2
その意味で、日本には「リベラル共和」型の民主主義を本格的に実現する素地が十分にあると思われるが、問題はその歴史的事実に対する日本国民の覚醒の有無であり、“今や<嘘・改竄・隠蔽そして高級官僚らの作為的な記憶喪失>が溜まり過ぎて、恰も<完全出口ナシ汲取便所>式の<複合カルト妖怪>と化したアベさまに体よく騙され続けているようでは一向に埒が明かない!苦w(日本のプロトモダニティの委細は下記▼を参照乞う)。 

▼2017051・toxandoriaの日記/盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている、
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 


28、29、30
[自民総裁選の番頭に聞く:萩生田幹事長代行「首相交代が国益に叶うか?」 日本の将来が懸かる外交こそ安倍政権の使命!20180423産経]という実に“異様な情報”(安倍“国体論”複合カルト政権の呪文?苦w)が象徴するとおり、“そのウソの山”が悉く白日に曝されたにも拘わらず、支持率が3〜4割で下げ止まり(3〜4月:読売43%、同:朝日31%)、アベ改憲すら否定されている”にも拘らず、張本人の安倍首相が未だに意気軒昂であり、その使命たる?w外交に勤しむことができるのは何故なのか?


31、32、33
しかし、安倍首相が、外遊先で相も変わらず巨額の国民の税金を鷲掴みにしてバラ撒く“御大尽外交”に狂奔する一方で(安倍在任中のバラ撒き累計額はmin.30兆円!?)、肝心の日本外交の基盤が、添付画像の如く外務省・内閣府など中枢部分から激しく腐敗し崩壊し始めている!

結局、究極の原因は、これは以前から指摘されてきたことであるが、日本国民一般の主権者としての自覚の欠如ということであり、その「日本の民主主義のアキレス腱」が3〜4割の<固定アベ支持岩盤>として統計的に濃縮された形て表れている訳だ。より具体的に言えば、その症状を引き起こしている病原体は第1章で取り上げた『恐るべき「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)の正体/病巣=日本会議ら』と、本来あるべき正統保守の決定的な違いを日本国民の殆どが理解していないことである。


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それに加え、最も危惧すべきは<「国体論」複合カルトの果てに潜む「AIデジタル・ナルシス」(超類型化AI社会リスク)暴走の危機!>ということであり、更にその致命的な悲劇を危惧させる動向の根本には、例えば、これも今まで見たとおりであるが、必然的にリベラル共和を志向すると思われる民主主義が先ず前提とすべき「感情」と「道理性」をめぐる政治哲学>の不在ということだ。しかも、これは必ずしも英米型のそれに拘らずとも、例えば、上で取り上げた事例サンプルの如く日本的な「伝統文化と美的感性」などを“ルソーの市民宗教”として活用できる「感情と道理性」の政治哲学(or政治美学)があり得るにも拘らずである。例えば、この日本的「伝統文化と美的感性」の新たな可能性に関わる議論は、米国の宗教・神道学者トマス・カスリスが論じている(関連参照↓★)。


★多数派日本国民が共有する「神道」に関わる誤解/トマス・カスリス著『神道』の警告
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104















(感情と道理性をめぐる政治哲学の議論/ローティのロールズ批判、およびディビッドソン『基本的解釈』の重要な意義)


そこで、「安倍首相・去就の問題」はさておくとして、その先に予想される「より深刻な危機」へ備える心構えの参考として、最も先進的な<「感情」と「道理性」をめぐる政治哲学>の議論に関わる、特に注目(重視)すべきと思われる論点を纏めておく(なお、以下は大賀裕樹著『希望の思想プラグマティズム入門』―筑摩書房―を参照しつつ,toxandoriaの見解を整理したものである)。

既述の「主要論点」では敢えて触れなかったがネオプラグマティズムの代表者の一人であるリチャード・ローティは、「自然の鏡」(Mirror of Nature)のメタファーで、我われの心が恰も自然の諸相の中から唯一の真理をありのままに映しだす能力がある「鏡」であるかの如く仮定するデカルト、ロック、カントらの近代哲学を批判する。また、「自由・民主主義・基本的人権」を彼らと同じく擁護しながらも、特に、カント的な理念(正しい概念・範疇の表象を規定する)を根拠とするロールズ、ハバーマス(ドイツの社会哲学者)らをも批判している。 

ジョン・ロールズは、プラグマティズムとは異なる欧州的な思潮のジャンルに入る米国の政治哲学者で、カント的構成主義で正義を説く1971年の著書「正義論」で名声を博した。ロールズは、社会契約に因る正義の原理は自己の利益を求める合理的な人々が共存するための合意がもたらす構想ととらえ、同時に、その構想が必然的に不平等をもたらすとしてホッブズに始まる功利主義を批判したのである(<注>カントには“情念統制理念、論理構成理念”の考え方があるので、必ずしも100%観念傾斜だとは言い切れない、と思われるが・・・)。

ロールズの「暫定協定(暫定契約)に基づく財産所有制民主主義」(ロールズは、これが歴史的な繰り返しの過程で必ず定着、共有されると考えていた)は<カント流の西欧的な普遍観念(功利主義と同じく“理念(観念)”の世界に傾斜し過ぎ)であり、もしこれが唯一の普遍的な正義のあり方だとすれば>、そこから生じる覇権的「強制力」は、やがて非西欧的な文化や社会と必ず衝突することになるとして、ローティはロールズを誤った意味でのプラグマティズムだとして批判した。

見方を変えれば、これは「タイプ(抽象的な普遍・論理に因る表象)Vsトークン(個性的な個々の実在/因果連鎖のリアル)」(Type-token distinction)という、非常に重要なパース(パース流プラグマティズム)の着眼点に相似していることが理解できる。つまり、正義や平等の価値を重視するのは正しいとしても、それをリアルに(我われが生身で生きる世界で)実現する方法は、エトノス環境(当然、そこには生命そのものと分離できない感情・情念・情感も含まれる)の意味での自然・文化・伝統・社会など凡ゆる内外の因果的緒条件との絡みで、日々に更新されることが必然であると見るべきだということである。 

そして、ここからローティは『道理性(reasonability)と合理性(rationality)』の違いということを導く。つまり、ローティは<ロールズが西欧近代の政治文化をベースとする正義の原理と基本的人権の観念を『万民の法』と捉え、それをそのまま他の文化圏にも適用が可能な普遍性(普遍的観念)と見る>ことに対し、“普遍”観念と因果連鎖のリアルを峻別する視点から疑義を主張したことになる。

そして、我われはローティの説く道理性(reasonability)が感情(情念)と深く関わっていること、道理性(reasonability)と合理性(rationality)は対立関係にあるものではなく、また両者の関係が一律で普遍的なものではないことも理解しなければならない。それは、合理性も感情(情念)と深く関わっているからだ。因みに、動物一般では彼らが言語を持たぬためヒトより遥かに厳しく苛烈な一回性の生のリアルを生きていると考えられる。ともかくも、人類の場合はこの道理性と合理性のバランス関係の一回性(ルドン美学が発見した“ミクロ・マクロ世界に跨り環境内を浮遊しつつ際限なく生成と消滅を繰り返す、そして夫々は掛け替えなく個性的な中間の媒介的生命の連鎖であり続ける”という目前の幻想的光景)こそが、実は言語を持つ人類の場合であっても、逆説的になるが、それこそが多様な文明・文化を育んできたのだという事実を深く理解するべきではないか?と思われる。

だから、その道理性であっても、それが唯一の観念的“普遍性”として強制権力的・武力威圧的に定義され、それを非西欧的な世界や異なる民族へ押しつけることになれば、例えば安倍政権が掲げる積極平和主義の如く衣の下の暴力(先制攻撃の刃)へ転化してしまいかねないことになる。そこで、必須となる考え方がドナルド・ディビッドソン(分析哲学の系譜の研究者といえるがカント、クワイン、ローティら欧米哲学を一つの視点から捉え直すという観点に立つ米国の哲学者)の『一つの世界についての複数の記述(根本的解釈)』の問題ということである。この視点からは「生き方としての民主主義」を重視する方向性が生まれ「討論型世論調査http://keiodp.sfc.keio.ac.jp/?page_id=22 など新たに民主主義を深化させる工夫への取り組みも始まっている。

ともかくも、『根本的解釈』について短く言うならば、それは<そもそも異なる信念をもつ者同士であっても一方に威圧的な感情が存在しない限り“程々の意思の疎通としての会話”は成り立っており、ほぼ平和裏に折り合いがつくことが多い>という考え方である。たしかに、平和裏で日常的なコミュニケーションやヒトとペットの関係等々の様々な場面を振り返ってみると、多くのケースでは、必ずしも、そこでは“普遍”的でパーフェクトな会話は必要とされておらず、その「一つの世界についての複数の記述」という交流環境にも拘らず個々の個性的文化のあり方や生ある者としての個々の生き方(尊厳性など)は尊重されている。しかし、我われは、再び、ここでデューイのプラグマティズムの「保障された言明可能性」という考え方を想起すべきである。

逆説になるが、特に高度な言語コミュニケーション社会(契約社会)の中で生きる我われ人類の場合は、そもそも当たり前であったはずのローティ―『根本的解釈』の世界を維持するためにこそ、言い換えれば「哲人・聖人・君子ならぬ凡人のための民主主義」を保全するためにこそ、血みどろの闘いのプロセスで漸く人類が手に入れた社会契約に因る“普遍”およびそれに対する批判から、一層より深く理解できるようになった道理性(reasonability)に基づく円滑なコミュニケーションのあり方などの大前提となる、政治行政の<信用>を繋ぎ留めるために必須の<公文書(ドキュメント)・歴史資料等>を最重視すべきだということになる。このような意味でも安倍内閣の<嘘・改竄・隠蔽に頼る行政手法=戦前型の国体論なるカルト幻想観念(追憶のカルト)に因る詐欺政治>は、非人道の意味でも最悪である。


つまり、安倍政権がやっているのは<人類が経験してきた民主主義へ至る歴史を無視しつつカネメのバラマキとウソ八百を抱き合わせ、一方的かつ威圧的に相互理解をムリクリに強制する非常に野蛮な政治>であり、近々の国際関係悪化に留まらず日本社会の調和的コミュニケ―ションの崩壊が急速に高まる恐れがある。おそらく、その危険性を経験的・歴史感覚的に最もよく理解されており、その学びから得た象徴天皇制日本国憲法)の意義に対する自らの信念(責任感)を<象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば20160816>の形で表明されたのが今上天皇である。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

このことを、『国体論−菊と星条旗−』の著者・白井聡氏は<天皇のアルカイスム―国を支える「祈り」―>と表現しているが、当然、その深層には「古代〜江戸プロトモダニティ〜戦後〜現代」へと伏流してきた、世界に対しても大いに誇るべき日本文化(東アジア系の渡来複合文化を基層とする皇室文化が源流となる)の伝統が存在する。今こそ、このような観点から、例えば幕末期〜明治維新の英傑たち(吉田松陰坂本龍馬福沢諭吉ら)の日本的“白日”(日本的“普遍”の気づき)の意味を深く噛みしめ直すことが肝心であるだろう。それは、必ずそこから欧米流とは異なる日本型リベラル共和へ進む途が見えてくるはずであるからだ(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307/なお、日本国憲法下の現代日本で生かすべき、十分に生かし得る天皇のアルカイスムの問題については、白井聡氏とほぼ同様の視点で、宗教学者・小山悳子氏が論じている/関連参照↓▲)。 完


▲正統保守が基本とすべき視点/日本の心の原点を伺わせる神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(およそ“大化改新”以前)の伝統神道天皇に対し民衆を平等に見なす「徳治政治」を求めていた http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160109