toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

ボディーブローの逆流となり世界へ拡散する安倍ネオ・ファッショの恥!/高度Web情報化で本格的「出現」が懸念されるネオ“優生学”ファッショの超リスク

toxandoria2018-07-01


・・・歴史から「倫理」(絶えざる善の欠損状態の修復)の意義を学び直すことが急務!/AI・BD-Web高度情報化に因る<社会情報の“断絶”>と<個人の“原始化(孤人化)”>を乗り越えるための試論・・・

(Cover Image)A certain summer impression/ Source:Olga's Gallery - Online Art Museum. http://www.abcgallery.com/


Claude Monet‐The Bridge at Argenteuil.1874. Oil on canvas. Musée d'Orsay, Paris, France.

Claude Monet−Young Girls in a Boat. 1887. Oil on canvas. National Museum of Western Art, Tokyo, Japan./Olga's Gallery

(プロローグ)再び、マッハ現象学とマッハ感覚論的素材論(性)についての考察が必須

・・・以下は、[20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提とすべき危機の哲学、フッサール現象学的還元』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 ]の部分的な再録、プラス(+)アルファ(α)・・・

◆「同じと思われる光景」でも我われは異なる現出(実在・真理と信ずる射影、イメージ表象)を見ている/が、一方でその最大公約の表象(最大の共通項となる)が客観性(間主観性が保証する)である

・・・我われ一人ひとりは、例えば下図『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』のような<それぞれ各人が見ている内面表象>の外へ、そのままでは絶対に出られず、これが一人ひとりの「主観性」の強固な地盤である(この左目だけで見た絵の周辺は眼窩の縁、右の出っ張りは自分の鼻先、中央には自分の寝そべった両脚とペンを持つ右手が見える)。しかし、その避け得ない内面の差異を話し言葉など様々な記号(表象)を介在させた多様な表現の交換、あるいは文章(文脈)化・ボデイランゲージなど積極的コミュニケーションの工夫で一定の実在(真理)のイメージ(or表象)、つまり「間主観性」の共有化が可能になる。・・・


Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body stretched out in his studio; limited by the curvature of the eye socket, one sees his nose and beard. http://ur0.link/F5BD

このこと(同じと思しき光景を見ても、各人は異なる現出(実在・真理と信ずる表象(イメージ・射影))を見ており、その最大公約の表象が客観性である)を真逆に言えば、普段に、我々の一人ひとりは同じものを見ているように思い込んでいても(これはよほど強固な自覚(または覚醒への意志)を持たぬ限り日常生活では避けるのが中々困難な錯覚!)、実は誰一人として全く同じものを見てはいないということだ(その極端な現れの事例として立体イリュージョン(立体錯視)の問題がある⇒http://www1.odn.ne.jp/sugihara/illusion/illusion.html)。

また、ここでの最大公約(数)なるコトバは比喩で使っているので最小公倍(数)でも構わない、要はそれこそが『話し合い、あるいは個々の情報の擦り合わせなどで漸く同定・共有される、ある実在(真理)についての客観的な“表象”、つまり間主観性であることを意味する。

そして、このような認識が正しいことは、植民地資本主義の限界とカルト同然のナチス的な空気拡大への危機意識で覆われつつあった19世紀後半〜20世紀初頭に活躍したオーストリアの物理学者、エルンスト・マッハの影響を受けたフッサールの厳密な主観性の検証である超越的「現象学的」還元のプロセス、つまりその科学哲学的な分析によって確認されている。

だからこそ、特に 政治・行政の現場では厳密な客観性と公正を担保するため「対話(言葉の遣り取り)→文章化」のプロセス(あるいは、それらを集約した文書・記録・映像など=常にブレたりズレたりする恐れが高い表象(真理)の統一・集約・同定or規定化)を保存する必要性があることになる(Cf.公文書管理の重要性/この観点から見ると、日本の「特定秘密保護法」が公文書管理の常識を外れているとの海外からの指摘がある! http://urx3.nu/FnRA)。

我々が日常で見ているのは、何につけ射影の寄せ集め的なもの、つまり直接的で物語的なものである。例えば、それは机の形が平行四辺形(現出/フッサールはこれを記号とも呼ぶ)に見えるような遠近法的で瞬時的な分かり易いイメージ(ものごとの現われ)に関わる感覚・体験の流れであり、これが深刻な錯覚をもたらす主な原因となっている。一方、我々はそのように少しでも油断するとかなり曖昧となる日々の状況の中で生きており、又そうでなければ生きられない生き物でもあるので、ここが厄介なところなのだ。

但し、平行四辺形の場合のイメージ記号と異なり言語という“記号”では現出と現出者(真理のイデア)の間に同等性(イメージ的相同性)はない。また、知覚的直接性(映像)は、想起・連想などと比べより直接的でありながら、それでも知覚映像はリアル(真理)に対し直接的ではなく現出(本質直観/一つのor特定の“射影”)で媒介された直接性である。その意味で、一般の知覚映像も一部分のリアルに過ぎない。

どこまでも我々は 「内的な表象」(本質直観=マッハの内面的な表象)の世界に閉じ込められていることになり、これは言語など<マッハ感覚論的素材性>の交換によるコミュニケーションの難しさを意味するとともに、「それ故にこそ、誤解を小さくするため、より積極的なコミュニケーションが重要であること」も示唆している(が、姑息な安倍政権は、その<射影がもたらす錯覚をどんどん肥大化させるウソ(虚言)政策>を作為的に一環して採っている)。

ともかくも、その先には“その机の形は長方形(現出者/この場合は長方形の机という真理)であること、つまり一定時間の流れとも関わりつつ見えてくる現出者(長方形の真理)に関わる知覚・経験”が出現する過程があり、この現出者こそが現象学的な意味での実在(同一性)で、フッサールはこれを“客観の同一性の表象は多角的で多様な表象(夫々の本質直観)で媒介される”と表現する。

また、この“現出(各射影)⇒現出者への過程”をフッサールは“現出(各射影)を突破して現出者(真理)を知覚または経験する”と表現しており、このベクトルを更に「志向性」とも呼ぶが、これは「意識」作用と殆ど同義である。なお、この“現出を突破して現出者へ到達する”ために必須となるのが、フッサールが言う「エポケー/判断中止(ごく自然な思い込みの流れを停止する省察でマッハ的な内面の光景へ引き戻し(これがマッハの第一義的還元)、それに照らして現出者(真理)を理解する!)」の意識作用である。

・・・以上で、再録の部分は終わり・・・

ところで、情報Webネットワークの高度化が進むにつれて、新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスクが高まりつつあるという危機意識が世界的に拡がりつつある。より具体的に言えば、それは<「AI・BDセマンティックWebの高度化」(委細は第1章に譲る)に関わるデータ原理主義的な社会の解釈によって新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスクが高まりつつあるという危機意識>である。

言い換えれば、それは「AI・BDセマンティックWebの高度化」で「“フーコー生政治”(偽装道徳強制&生命・医療衛生支配)型の新たなアンシュタルト(Anstalt/不可視の一強支配構造)」が出現し始めており、その先には「データ原理主義的な社会の解釈に因る新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスク」が高まりつつあるということだ。

そして、そのような悪しきトレンドを照射する重要な切り口は「(1)AI・BD型Web情報化に因る社会の“分断と断絶”」、および「(2)同じく、それに因る個人の“原始化”」という二つの異なる次元のリスクの問題である(個人の原始化については、第三章に譲る)。

因みに、この悪しきトレンドが意識されつつある背景となっているのは量子コンピュータの実現ということだ。完成までは未だ時間を要するようだが、その処理スピードは古典的なそれの比ではなくスパコンの約1億倍ともされており、それがビッグ・データ(BD)の利用拡大、セマンティックWebネットワークの進化と合わさることで、やがて想像もつかぬほどの巨大な「ネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」を新たに創造することが予想される。

しかし、量子コンピュータと「AI・BDセマンティックWeb」(一定の文脈を理解できるWeb検索だが 未だ実現されていない)の連携で如何に<巨大な電脳汎“知”ワールド>が出現しようとも決して忘れるべきでないことがある。

それは、<我われ人間社会のコミュニケーション(リアル世界で日々に、かつ瞬間的に更新され続ける人間が連帯し日常を生きているという生命感覚論的な意味で持続的な意識世界の交流的な繋がり、いわばそれは間主観性のエルゴンergon/アリストテレスの用語で、流動・共感的な活動の意味)の拡がりであり、かつそれは必ず自己言及的な未来への“残余”を伴うマッハ感覚論的素材性である)>と、<その殆どはリアル日常世界の間主観性に関わる多様な諸々の意識の流れから切断され抽象化された非文脈的で断片的な情報知の集まりである「電脳汎“知”世界」>との間には、そもそも決定的な『断絶』が存在するということだ(委細は本論へ譲る)。

実は、この「生命感覚的な意識」に対し、非常に注意深く原理的に注目することで始めて理解できるのが「マッハ現象学」に始まる一連の現象学の流れであり、それが最もヒューマンなM.アンリ『情感の現象学』に結晶したことは周知のとおりである(関連参照↓◆)。

◆20171109toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(2/2) M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性」http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109

ところが、情報科学量子コンピュータ、IT・BD技術系等の先端領域に従事する専門家らの一部に、抽象的で自立的な「電脳汎“知”世界」(デジタル情報データが乗るデバイスは電子or量子構造)と「生命感覚的な生身のヒトの意識世界/生命感覚的な意識」(マッハ的な感覚要素、つまりマッハ感覚論的素材性である内的な表象・本質直観)が繋がった<恰も西部開拓史時代の米国における新世界の如きニューワールド(膨大な抽象的ネットワーク構造が生命圏をも一元的に包摂する画期的な新世界)の出現>を主張する声(抽象的デジタル情報データ・アニミズム論?)が存在するのは実に不可解なことだ。もし、彼らが本気でそれを信じているなら、彼らこそマッド・サイエンティストか、あるいは日本のアベ・シンパ(その実像は古色蒼然たるアナクロニズムである日本会議流“追憶のカルト”)の如き新種のカルト信者のジャンルではないのか?

要するに、「マッハ感覚論的素材性(マッハの内面的表象)」とは、内外のエトノス(自然・文化環境)と殆どアニミズム感覚的に交流・共鳴する「ノントリビアルサイバネティクスの内部観察者(obserber)」(委細、後述)に相当すると考えられる。とすれば、それは生命論的、ないしは人間論的な意味で時間の流れと同期して進行する「内外世界の因果連鎖」に関わるリアル感覚(リアル意識)そのもののことでもある。

つまり、<事実上、もし我われがスマホという名の“Webネット型DB(データベース)ロボット”の操作なしでは一日たりとも日常が生きられなくなっている>とすれば、今や、この“リアル意識obserber(生身のヒト)”そのものである我われは、<抽象的なWebネット型DB上に君臨するクラウドAI汎“知”>の支配下で完全にそれに組み敷かれるか否か?の瀬戸際の時代を生きつつあることになる(ソフトバンククラウドAI型ロボット、ペッパーの脱人間化『知能』の設計アーキテクチャはその典型事例、https://www.softbank.jp/robot/)。

Google‐Webネットワーク時代の「AI・BD‐Web情報」とリアル社会情報の根本的な差異の問題

1−1 その前提には、先ずa「あくまでもヒトがリアルに生きている文脈的世界の一環であるデータ(一般的な意味での抽象性とは異なるマッハ感覚論的素材性)」とb「機械言語上の情報知(抽象的体系性)」の「断絶/アポリア」ということがある

・・・両者はアリストテレスの潜勢態(デュナミス/dynamis)と現勢態(エネルゲイア/energeia)に対応する。なお、その潜勢態(可能性でもある!)を完全に実現して、その目的に到った状態のことはエンテレケイア(entelecheia/プラトンイデアに匹敵する)と呼ばれる。つまり、今の我われは、(1)社会活動的に見れば間主観性が日々に更新され続けるリアル側面にも相当する、一定の文脈的世界の一環であるマッハ感覚論的素材性(エトノス&感情の海を漂うエネルゲイア)、(2)巨大WebネットDB汎“知”が刻々と更新し続ける新たなクラウド的世界(増殖し続ける抽象的データ/デュナミス)、(3)ルソー「一般意志」に相当する普遍観念(絶えざる未来志向の理想/エンテレケイア)という、日々に我われが生きる環境世界のリアリズムに関する三つのフェーズを明確に意識しつつ生きるべき時代に入ったといえる。なお、例えば当記事で“反面教師的”教材として取り上げた東 浩紀『一般意志2.0』の如く、その筋の専門家でも「(1)と(2)」を混同するケース(マッドサイエンティストもこのジャンル?)が観察されるが、一般的には(1)、(2)、(3)が区別されず漫然と混同されているようだ。(以上についてのヒントを与えてくれた主な資料:大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)、p316・注記 ほか)・・・

端的に言えば、a「リアル社会情報=パースの“トークン”(関連参照↓◆)が代表する社会の諸活動(エルゴン/ergon)が日々に創造するリアル因果の連鎖=時間の流れに伴い永続更新するマッハ感覚論的素材が紡ぎ出すリアル現象」および b「Web情報=Webネットワーク内のデータ分布(ビット&抽象情報化した各データは一定のリアル文脈構造から切り離されている)が拡張しつつ創造する無限のヴァーチャル構造/Webネットワーク汎“知”DBが構築し続ける電脳空間」、として<根本的にaとbを対比して見る>ことでこそ両者が決定的に「断絶」していることの理解が可能となる訳だ(前段の文脈で言えば、(1)と(2)の断絶ということ!)。

◆20180503toxandoriaの日記/「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・アベの課題http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503 

ところで、量子コンピュータについては、それがスパコンの数億倍ともされる高速計算が可能とはいえども、不確定性原理による量子の状態変化を安定させる方法など(Ex.データ保持期間の長期化など)の課題が残されている。また、1古典量子ビット(1.0)と比べた情報量の大きさで見ると、現行の50量子ビット(2の50乗=1,125,899,906,842,624)から100同ビット(1.26765060022822940149670320537E+30)へ拡大する技術(古典コンピュータ50台分の計算の同時並行処理)が実現できたとしても、それを実用化する(そのままで理解不能な膨大な計算結果を人が読んで分かるよう処理する)ため、それは今も同じことだが、その各々の計算(情報処理)の結果を統合的に理解するため古典コンピュータによる解読(計算)処理が必ず必要である。

そこには「リアル世界」と「ビット情報が蓄積した抽象的ヴァーチャル世界」の決定的な「断絶」の幅が、古典ビット時代を遥かに超える膨大なスケールて益々拡大するという深刻な問題が潜んでいるようだ。無論、そのような「断絶」について、あまり深く考えず割り切って無視することも出来るだろう。が、そうすると今度はそこに「ヒトが生きる意味は何か?」という古くて新しい問いが、つまり<倫理と人道に関わる厄介な価値判断>が必ず浮上し影を落とすことになる。<日々に巨大化へと増殖し続けるWebネットDB汎“知”型ヴァーチャル世界>が、自分をも含むリアルの日常を圧倒しつつ飲み込み続けるというイメージが実に悍ましく見え始めることを只の杞憂として見過ごしてよいものだろうか?(関連/参考情報 ⇒スタ二スラフ・レム原作、アンドレイ・タルコフスキー監督・映画『惑星ソラリス』、http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/wksslr.html

<補足1> 量子コンピュータとは何か? 実用化進む次世代コンピュータの基礎と仕組みを解説、https://www.sbbit.jp/article/cont1/34458 

要は、“ビット情報に因って伝わるWeb情報は、たとえそれが見かけ上で文脈的な体裁となっているものであっても、それは純粋に抽象化した「データ」(潜勢態/デュミナス)であり、リアル・コミュニケーションにおける会話や文章(がもたらすアナログ情報)は、必ず何らかの特定の目的(や意図、何らかの世界観など)と結びつく「インテリジェンス情報」(現勢態/エネルゲイア)であるということになる。これを真逆に言えば、<リアル世界でのデータ>は、たとえそれが数字等の抽象的データであっても、それがこの世界に出現した瞬間(何らかの数字や記号やコトバが話したり書かれたりした瞬間、あるいは書棚の本やそこに置かれた新聞が読み始められたりした瞬間など)には、それらは必ず何らかの生きたエトノス環境(内外の自然&文化環境)に包摂されているという意味でリアルな「マッハ感覚論的素材性」を帯びることになる。

つまり、<Webネットワーク汎“知”DBが構築する電脳階層に格納され続けるデジタル情報>と<リアル世界という大海原を漂い、泳ぎ、潜水と浮上を繰り返し、あるいは交流する社会フィールドを駆け巡るアナログ情報>との間には、このような意味で<宿命的、かつ決定的な断絶>があり、その両者を仲介するのが「エトノス観念(同環境論)」(最広義の自然・文化環境に包摂され同期し続けるリアル意識の総体であり、それが今を生き続けようとする生身のヒトの意思の源泉でもある)ではないかと思われる(関連/エトノス環境の委細はコチラ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503)。


1−2 AI・BD‐Web時代にこそ注視すべき、セカンドオーダー・サイバネティクスとしてのヒトが創造する“余剰etwas”(意志を含む)の問題

・・・H.v.フェルスターのノントリビアルサイバネティクス(セカンドオーダー・サイバネティクス)がもたらす“余剰意志”(アンガンジュマン等の始動因(モチベーション)となる)についての理解が、「間主観性の連鎖」と「多次元的な倫理感」についての再覚醒をもたらす。・・・ 

東 浩紀『一般意志2.0』(講談社)を一読した限りでは、本格的なAI・BD‐Web時代に入ってしまった現代では、J.J.ルソーの一般意志に牽引されてきた近代啓蒙思想も、あるいはアーレントハーバーマスらが果敢にその研究に取り組んだ「間主観性」論(手続きの普遍性を重視する立場)の現実社会面での役割も、これらの悉くがAI・BD‐Web周辺の情報技術の深化で今や無効化したと見なされている。

しかし、果たしてそう言い切れるのだろうか?実は、いま起こりつつある事態はそのような悲観的(orそのような見方を一種のシンギュラリティ論への翼賛の心情と見なせば甚だしく楽観的だともいえる?苦w/その委細は、第2章へ譲る)な観察とは真逆ではないのか?

(セカンドオーダー・サイバネティクス

そこで、先ず注目すべき重要なファクターはH.v.フェルスター(↓補足2)のノントリビアルサイバネティクスだ。つまり、それは従来のファーストオーダー・サイバネティクスを「普通のサイバネティクス」(トリビアルサイバネティクス/下図1)とすれば、セカンドオーダー・サイバネティクス(普通ではない2nd.オーダー・サイバネティクス/下図2)型の自己言及システムがあり得ること、それがヒトを含む生命体のそもそもの起動因となっている可能性が高いという発見である。


<補足2>Heinz von Foerster(1911–2002)Austrian American scientist combining physics and philosophy, and widely attributed as the originator of Second-order cybernetics. https://en.wikipedia.org/wiki/Heinz_von_Foerster 
4、5

図1Trivial machines(上) 図2Nontrivial machines(下)

Trivial machines :As shown in Figure 3, trivial machines are driven by their inputs. Describing something as a trivial machine is to focus on the predictability of its behavior, o, from the conditions that impinge upon it, its input i. This is accomplished by formulating a relation between the two observables, ideally in the form of a mathematical function F : o = F(i). Functions do not offer choices.・・・http://web.asc.upenn.edu/usr/krippendorff/secorder.html 
周知のとおり、サイバネティクス(1st.オーダー・サイバネティクス)は20世紀中ころにノバ―ト・ウイナー(Norbert Wiener/1894-1964/米国の数学者)らにより情報と通信に関する制御理論(自己言及的フィードバック・システム)として定式化されたものである。

この1st.オーダー・サイバネティクスの特徴を端的に言えば「それは、結果をインプット(原因)側に戻すことで原因側を自己言及的に調節し続けることであり、例えば電気回路では出力による入力の自動調整機能、生体では代謝・内分泌の自己調節機能などを挙げることができる」ということになる。因みに、この1st.オーダー・サイバネティクスをモデルとする西川アサキ(AI研究・情報哲学者)らの「意識創生に関わるコンピュータ・シミュレーション」では(2nd.オーダーでないことに注意!!)、そこで創生された“コンピュータ上の意識もどき”(最小単位のモジュール)が「対外部的に秘密化(過激なまで暗く内向化)する性質」が観察された、という報告があることを特に注視すべきである(参照⇒『西川アサキの基礎情報論』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104。 

一方、H.v.フェルスターの2nd.オーダー・サイバネティクス(ノントリビアルサイバネティクス)の活動モデル(エルゴン)は、その起動因を先ずシステム内“観察者”に仮設することで得られることになり、そこでは<外部環境(それはカント的な普遍、ないしは最広義のエトノス環境とも言える)というフリーハンドの多様性(つまり、外部から)の影響があればこそ、その起動因は常に自由で開放的な自己言及が確保できる>ことになる。この2nd.オーダー・サイバネティクスの生体活動における具体的な事例は、最新のマイクロバイオーム研究などの成果に見られる(委細、後述)。

因みに、カント的な普遍は必ずしも絶対的に固定されたものと見なす必要はないと思われる。それは、それがデータ表象ではなく観念である限り、そこでは一定の振幅が許される筈であるからだ。又、その内部の“観察者”(observer)については、特にヒトを含む生命体の場合は入れ子的・重層的に存在する各システム内の固有値(observer)が、つまり三次元空間内でのゼロ点から突然に個性的なものが出現すると考えるのは甚だ困難である(存在と非存在が重ね合わさる“無限次元での複素数ベクトルの確率分布(波動関数)の力学”が支配すると思しき量子力学ワールドならいざ知らず!苦w)。だから、特に生命活動(生体活動)における2nd.オーダー・サイバネティクスの場合の「内部観察者」は生命論的な意味で時間の流れと同期しつつ目前の三次元世界で進行する「内外世界の因果連鎖」に関わるリアル感覚(リアル意識)そのものと見なすべきであろう。

そもそも如何に始原的な個性であるとしても(最初の一撃に相当する始動因は化学反応的なものかも知れぬが)、それは最広義のエトノス的な環境との相互作用の下で、漸次、しだいに培われて文化・伝統的に馴化・変容・継承されてきたものだと見る“正統保守的”な意味での個性)に相当すると考えられる。いずれにせよ、特にヒトを含む生体活動では閉鎖的な1st.オーダー・サイバネティクスと開放的な2nd.オーダー・サイバネティクスの双方が、何らかの法則に従いつつ実に巧妙に夫々の役割分担を果たしている(究極的には2nd.オーダーがやや優越していると思われ、そこに生命誕生の核心も潜む可能性がある)ことが窺われるのは興味深いことだ。


(ノントリビアルサイバネティクス(同・マシン)としてのヒトが創造する“余剰etwas”とは?)

R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著・刊)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバイオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、それは超100兆個の新世界(宇宙規模!)の発見を意味する!)であり、彼らの全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの生理機能を調整し個体のアイデンティティ(2nd.オーダー・サイバネティクスで言うobserver?)を持続させていることが、ここ数年来の研究で急速に解明されつつある(委細は↓◆参照)。

◆20170320toxandoriaの日記/マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「“民族主義レイシズム=非合理”http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 

その分野の研究の中で最も注目すべきものに、我われ個体内に馴染んで棲みつく多くの細菌が発達させてきた『クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)の有意性』の発見ということがある。それは、「未だ正体が知れぬ相手(細菌・異物など)に対し仮の名づけ(見立て上のタグ貼り、名詞化)を行い、その見立て上のネーミングに応じて自らのシグナル伝達分子、あるいは自由誘導因子(オートインデューサー)などの分泌をコントロールするシステムのことだ(関連参照 ⇒ グラム陽性細菌のクオラムセンシング研究の最前線、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jslab/21/2/21_2_95/_pdf )。



このクオラムセンシングで、ヒトの体内にある細胞と、あるいはそこに棲む細菌類と他の内外細菌ら異分子・異端・外来種(最広義の内外環境に潜む)との間で、基本的には寛容な共鳴・共振・交流・交換・結合が、つまり<ミクロ(微量)な余剰>部分の交換が絶えず行われており、そのプロセスで自己細胞の側でのバイオフィルム(ヌメリらの構造体)形成や、あるいは真逆に有害病原性・有毒性などの侵入許容範囲の制定機序が生成されたりしていることになる。

従って、近年では病原体の感染も従来考えられていたほどストレートなものではなく、より複雑で多面的な「クオラムセンシング」(2nd.オーダー・サイバネティクス機構=ノントリビアルサイバネティクス)と「免疫系」(1st.オーダー・サイバネティクス機構)の絡み合いの帰結であることが分かりつつある(単純に、“病原菌感染=病状発現”になるとは限らぬということ!)。

また、些かの空想を交えつつ敷衍すると、このことは本格的なグローバル時代における「国家アイデンティティ」の議論を連想させる。それは、<これからも民主主義は主権を確保するための「知」の体系(その保全システム)であり続けられるか?>という問題に関わる『ドイツの哲学者マルクス ・ガブリエル氏と國分功一郎東工大教授の対談』(↓◆)の中に出てくる「国家の役割の有意性」にも大きなヒントになると思われるからだ。

つまり、それは「AI・BD-Web高度情報化」を前提とする本格的グローバル時代に対応すべく「新たな国家の役割」を具体化できる民主主義の形に転換するのが必然ということだ。そこで重要となるのは国民国家を超えたグローバル・シチズンシップ(多次元的な倫理観が段階的・拡大的にに求められるようになること)であるが、それは、今や<アベ様の民族派系“偽装極右”こと“国庫&利権私物主義”一派(ネポティズムお仲間一派)による強権かつ犯罪的な“異常倫理観”強制の典型>と化した日本政府、あるいは独善的『民族派“国家資本主義”』を強行するハンガリー・オルバーン政権らの如き<超閉鎖主義>の対極にある<開放的な連帯意識>の可能性である。

◆哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談/20180620朝日、https://www.asahi.com/articles/ASL6L42BML6LUCLV007.html 

このため、今や“民主主義と両立しない国民国家”(特に民族主義にこだわる)が維持困難なのは明らかだが、それにも拘わらず一定の倫理・道徳的な基礎(多次元的な倫理観/グローバル化の世界トレンドの流れに沿って“国家→国家連携→地域共同体→・・・→地球共同体”の段階的ボーダレス化を経験するため一地域内の道徳はやがて無効となり、更により広域的な視野の倫理・道徳へと多次元化するのが必定である)を持つ国家フレームは必要になる(それ故、正統保守こそが本命でありアベ様の日本を支える日本会議らの民族派極右or極左らが出る幕はないことになる!w)>という論点が、愈々、本格化する「AI・BD‐Web情報」時代に必須となる「コンシリエンス“知”/consilience=人文・科学両知の融合」の創造と深く関わることになると思われるからだ。因みに、コンシリエンスはウィリアム・ヒューウェルの造語だがE.O.ウイルソン、アレックス・メス−ディ、ツヴェタン・トドロフ、ヒューバート・ドレイファス、チャールズテイラーらも同じ考え方を主張する。つまり、彼らは、「それによる啓蒙主義の再定義が可能であり、人類はそれを目指すべきだ」と考えている(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20161107)。

これからの時代は「コンシリエンス“知”」による啓蒙主義の再定義が必須であり、そこで重要になるクリティカル・パスが、“事実上、そして戦略的にノントリビアル・マシンの方向へやや傾斜しつつ(or 1st.オーダーを含めた生体トータルが2nd.オーダー・サイバネティクスに包摂されつつ?)進化してきた”ヒト(人間の個体と意識)が日々に創造する「余剰etwas”」(意志を含む)になるのではないか?また、これは一部で期待されているコンピュータによる意識創造、ノントリビアル・エコノミクス(“AI・BD‐Web情報”時代に相応しい新たな経済学へのパラダイム転換)などの問題にも関わってくることが予想される。但しtoxandoriaは、マッド・サイエンス的な意味でのシンギュラリティ信仰は決定的な誤り!と、見る立場である。

ともかくも、本格的なグローバルシチズンのための「多次元的な倫理観」と共に絶対に忘れてはならないのは、(1−1)で述べた<高度情報化時代にこそ明確に自覚すべき三つの世界構造>の問題であり、それは「(1)マッハ感覚論的素材性のエネルゲイア、(2)巨大WebネッットDB汎“知”が刻々と創造するデュナミス、(3)ルソー「一般意志」(普遍観念)が表すエンテレケイア」という三つの世界が鼎立する構造である。

従って、本格化する高度情報化時代に立ち向かう我われが意識すべきは、これら(1)、(2)、(3)の鼎立構造に対して十分なバランス感覚が維持できるよう、それに相応しい多次元的な倫理観も構築し、それを日々に更新する必要があることになる。因みに、(1−1)で書いたとおりだが(2)は「可能性」(潜勢態/デュナミス)でもあるので、それを活かすか殺すか?は飽くまでも人間しだいなのだ。ゆめゆめ、(2=閉鎖的抽象性)が(1=リアルの生命連鎖)と(3=開放的抽象性)を圧倒し、一方的にそれらを包摂して屈服を強いることは絶対に許すべきではない。そして、この方向性について最も先進的な取り組みを展開しているのがEU(欧州連合)であるのは周知のとおりだ(関連参照↓◆)。

◆20180503toxandoriaの日記/刮目すべき欧州(EU)GDPREU一般データ保護規則)の先進的規定、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503


2 データ(マッハ感覚論的素材性としての)と情報知の「断絶」がもたらすAI・BD‐Webリスクの正体とは?

2−1 N.ルーマン“社会システム論”が暗示するAI・BD‐Webのリスク

SNS等のネットワーク・メディアが本格化するより少し前の時代に生きたドイツの社会学者、N.ルーマン(Niklas Luhmann/1927- 1998)は異端の社会学者と呼ばれている。それは、従来の社会学が「社会は人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為の総体」と見るのに対し、ルーマンは「人間の実在性ならぬ抽象化したコミュニケーションの連鎖構造を社会の構成要素」と見たからだ。

そして、大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)によれば、ルーマンが社会(社会学)を理解する必須の要素として「抽象化したコミュニケーションの連鎖構造」を採用した背景には、ルーマンが1st.オーダー(トリビアル)・サイバネティクス)の活動モデル(エルゴン)を重視し、そこから更に自らの思考を深めたということがあるようだ。いわば、ルーマントリビアルサイバネティクス(1st.オーダー・サイバネティクス)の理解の延長として「社会は、抽象構造化したコミュニケーションの連鎖的接続で産出されるという“閉じた生命観”」を社会のダイナミズムに適用し「オートポイエーシス・システムと同じく社会も“閉じていること”が、その正体である」と論じた訳だ。

オートポイエーシス (auto‐poiesis/自己産出的‐創造) は、1970年代初頭にチリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラにより、「生物の生きた有機構成」とは何か?という本質的な問いに答えるため提唱された、当時の最先端の生命システム論で、それは「ホメオスタシス(外気温の変化に抗しつつ一定範囲で体温を保つが如き活動)や散逸構造(喩えれば川の流れの中での揺らぎから渦が出現するが如く無秩序な生体環境の中で立ち現れる秩序)」ら<外部環境との相互影響>を徹底して排除した考え方である。

つまり、オートポイエーシスは、ホメオスタシス散逸構造とは真逆に「どこまでも“認知”に因り神経系等へインプットされ、そこで初めて発生し定着したものであり、それはその後の時間と共に流れる因果的“実在”レベルでの環境(エトノス環境)との相互作用から導出されることを徹底的に拒否し、あくまでも“認知→神経内インプット→定着”という構造化プロセスだけを持続的“自己創造”>と見る、“極めて閉鎖的な機械的システム”を「生命の本質」とする考え方だ。その証左は例えばハエの捕捉で舌を伸ばす行動を神経内プロセス構造化したカエルはハエでない小動体が飛来しても舌を伸ばすこと等に見られる。

因みに、マイクロバイオーム等の研究の深化(進化)で、この1st.オーダー(トリビアル)・サイバネティクス的な生命の“自己創造”機序(N.ルーマンの特異な社会学が大きな影響を受けたとされる、このオートポイエーシス論)について、それが今や生命の本質の全てではないことが明らかとなりつつあるということは、(1−2)で既に述べたとおりである。それどころか、2nd.オーダー(ノントリビアル)・サイバネティクスこそが生命活動の全体をコントロールしている可能性が高い!

ところで、この様な意味でN.ルーマン社会学の特異性は理解できる訳だが、少し視点を変えて見ると、実は、それが今や我われの目前に立ち上がりつつある巨大な「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」の特徴をズバリ予見していたのではないか?とさえ思われてくる。それは、ルーマンの社会システムにおけるシステムと構造が以下(a、b)のように定義されているからだ。

 a 社会システム=その時々のコミュニケーション・プロセス
 b 社会構造=そのプロセスの反復で結晶化する、コミュニケーション統制の持続パターン

そして、bが次第に機能分化することで社会が複雑化する方向へ進化し、遂にはその抽象的社会形態が巨大化することになる。従って、これは従来の社会理論パラダイムと決定的に異なることになる訳だ。

しかも、「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」は、[それが<リアル因果=時間と共に流れるマッハ感覚論的素材性がリアルに共鳴・交流する現実世界>から切断されているという意味で、つまり断片的かつ閉鎖的な情報知の集まりである(行政文書か、私文書か、正規DB(データベース)か、非正規DBか、ツイッターSNSか、ブログ記事か、メールか、掲示板か、学術論文か、雑誌・図書・新聞等etc・・・という内容の如何を問わず)]という意味で、極めて抽象構造的で、かつ非文脈的である。

我われはルーマンによって、リアル社会が<(ィ)「伝統社会学が想定する人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為(開放的・持続的・因果的な活動)の総体」と(ロ)「閉鎖的コミュニケーション・システムが固定構造化した抽象的な社会形態」(アンシュタルト化(Anstaltの原義は精神病棟施設などの意味だが、国家・教会・司法組織、教育・医療機関、会社組織などの団体が不可視の強制・監視権力化した状態を指す/M.ウエーバー)の恐れがある!)>という、そもそも二つの成分からできていると理解すべきではなかったのか?ということを教えられたことになる。

2−2 逆説的に有意義な示唆を与える、東 浩紀「ルソー、一般意志2.0」の提起

2−2−1 東 浩紀のルソー『一般意志2.0』なる楽観的<AI・BD‐Webユートピア政治論>

(2−1)で見たとおり、異端と呼ばれることが多かった社会学者N.ルーマンの「社会システム論」が、恰も量子物理学の世界の如く、実は、人間社会が以下のように全く異なる二つのベクトルの機能的側面(開放的、閉鎖的)を併せ持つ(が重なって存在している)という重要な理解を与えてくれた。

 (ィ)人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為(開放的な未来志向型の持続的・因果的な活動の総体)・・・これは、伝統社会学が想定してきた社会の定義にほぼ相当する。
 (ㇿ)閉鎖的な情報コミュニケーション・プロセスが固定構造化した、ルーマン抽象構造的な社会形態(放置するとアンシュタルト(不可視の強制・監視権力)へ急速に内向する恐れがある)

ところで、東 浩紀は著書『一般意志2.0』(講談社)で、『J.J.ルソーは全体意志と一般意志の違い(差異)について“数理的”説明を行っている』という興味深い説(ルソー『一般意志』についての新しい解釈)を唱えている。が、このことを理解するため我われは先ずルソーが「一般意志」と「全体意志」に全く異なる意味を与えていたことを復習しなければならない。

それは、<「全体意志」は参加者(国民)すべての意志(意見/特殊意志)が完全に足し合わさったものの総体で、「一般意志」は個々人の“意志(意見)の差異”を統合的に集約したものである>というのが、この二つの言葉についての普通の理解であり、そのことが「ルソー社会契約論における市民社会の正当性の原理の前提」となっている。しかし、前者は現実的に実現不可能なことであり、また後者についても、現実的にはほぼ不可能である。だから、結局それは理念(観念)的なもの(仮設的真理)だということになる。しかも、この点こそが今も民主主義の意味に曖昧さを与える大きな原因となっている。

ところが、東 浩紀によれば(東がルソー『社会契約論』の原著に当たり詳細に検証したところ)、実はルソーは、近代数学の多くの概念が出揃うより2世紀以上も前の18世紀半ば頃であったにも拘わらず<「一般意志」=特殊意志に関わる、±のベクトル相殺を加味した数学的「差異のベクトル総和」である/…somme des differences>と主張していたようだ(正確に言えば、東がそう主張している!/委細は省略)。東は。“数理的”説明を行っていたとされるルソーの一般意志に『一般意志2.0』の名を与えたうえ、更に次のように述べている。

・・・だから、一般意志は政府の意志ではないし個人の意思の総和でもない。一般意志は数学的な存在である。もしそうなら、私たちはここから、民主主義のあり方を根本的に考え直すことができる。つまりく21世紀の情報技術を前提として一般の人々が思い浮かべるのはおそら電子政府や電子(ネット)投票等の実現なのだろうが、それも違う。それは、このように数学的にルソー『一般意志』を読むと、むしろ一般意志は政府の外側にあるべきだ!と理解できるからだ。・・・

上に続き、数学的にルソーを読み<「一般意志」の新たな可能性>を発見した東 浩紀は、更に、次のようなことも述べている(以下、要約+補記)。

・・・従来の理解と異なりルソーの「一般意志」が純粋に数学的な存在であったということを前提とすれば、加えて「人工知能、ビックデータ(AI-BD)」らの技術を十分に活かした「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」がいよいよ実現する時代においてアーレントハーバーマスらの<理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーション社会と公共圏の構築>が、今や殆ど不可能となりつつあるからには、全く、異次元の社会アーキテクチャ設計へ挑戦するべきではないか?それが、<「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース技術」で市民の無意識(特殊意志の差異のベクトル総和)の積極的吸収で巨大DB集積化を実現すること、つまりトーキング・キュア(Talking cure/隠(さ)れた巨大な欲望の塊りを徹底的に抉り出し語り尽くす精神分析療法)と呼ばれるフロイト精神分析を援用して巨大なDB集積を実現することで人間の知能を遥かに超えた電脳汎“知”世界の構築と、それによる一般意志・知識・情報・データ・社会資源の“配備=集立”(ゲシュテル/Gestell/近代技術の本質を表したハイデッガーの用語/集約→意思決定→適正再配置の社会的循環構造)を全面的に実現する>ということだ。・・・(両著書の結論(東=楽観的ユートピア政治論、大黒=倫理の役割の再考)は全く異なるが、電脳汎“知”によるゲシュテルの可能性については、大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)もほぼ同様のことを述べている/toxandoria、補足)

そして、東 浩紀『一般意志2.0』は、次のようなユートピア世界の実現で終わる(要約)。

・・・従って、ルソーの一般意志は、広く考えられているのとは異なり「討議を介した意識的な合意ではなく、むしろ情念溢れる集合的な無意識を意味している。そもそもルソーは、理性の力を殆ど信じておらず、彼はむしろ「野生の人」の本能に信頼を置いていた。本書の解釈の独自性は、その理解をそのまま「社会契約論」に持ち込んだだけだ。来るべき国家においては、議会は政治の中心にならず、それは楕円の二つの焦点の片方のようなものだ。「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」(その殆ど“万能の神と同然”化した←toxandoria、補足)が立地土壌(もう一つの楕円の中心)となる未来の国家では、動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供することになる。前者には国境があり後者には国境がない。前者が公的領域を形づくり、後者が私的領域を形づくる。そのような未来世界は、国家と市場、動物的な生と人間的な生、功利主義とカント主義、リバタリアニズムコミュニタリアニズムの二重構造で制御(殆ど議論や討議がなしで←toxandoria、補足)されることになるだろう。が、それが夜警国家へ傾くか、福祉国家へ傾くかは未だわからない。・・・

2−2−2 『一般意志2.0』(楽観的AI・BD‐Webユートピア政治論)の逆説的な意義

・・・これは逆説的な理解となるが、『一般意志2.0』(東 浩紀の楽観的ユートピア政治論)は、Google‐Webネットワーク型<電脳汎“知”データベース時代>における「“ネオ優生学”発生のリスク」と異次元の高度情報化が実現した時の「新たな倫理の必要性」という、二つの重要な課題を、我われへ挑発的に突きつけている。・・・

そもそも、「間主観性無効論(一般意志2.0/東 浩紀ら)への反論として無視できないものとしては、西垣 通、西川アサキら情報科学・AI研究者の「基礎情報論」(井出英策“理論”を有効化させる重要な方向性、と考えられる)、または川人光男ら脳情報科学者による決定的な反論がある。

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この「基礎情報論」は、西垣 通著『ネット社会の正義とは何か』(角川選書)で詳しく紹介されているが、そのエッセンスとなる部分を参考として[20170104toxandoriaの日記/西垣 通の情報基礎論、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104]から下に転載(部分的に補足し)しておく。

・・・東 浩紀・著『一般意志2.0』と同じく「Web‐DBの集合知」を活かすアイデアだが、西垣のそれは、その集合知を再びリアル対話で現実の因果へ関与させ、つまりコミュニケーションの作動で新たな文脈を創造するダイナミズムを冷静に捉えている。この西垣 通著『ネット社会の正義とは何か』における西垣の議論で最も注目すべきは下の二点である。

(1)そもそも、従来の自然言語話し言葉と文字や記号として書かれる書き言葉)もデジタル(変換)言語(DBレベルで言えば、正規DBと非正規DB)も同じ「機械語」であるという認識上のコペルニクス的転回が先ず肝要だ!← 因みに、東 浩紀『一般意志2.0』論の主柱と位置付けられる<Google‐Webネットワーク型<電脳汎“知”データベース>では、それがトーキング・キュアの視点でフロイト精神分析を援用しつつ全ての国民の無意識を含めた感情世界が総浚いで巨大DB化することが想定されているが、そこではこの西垣が指摘する『従来の自然言語話し言葉、および文字や記号として書かれる書き言葉)もデジタル(変換)言語も同じ“機械語”であるという認識上の転換/もっと言えば、a「あくまでもリアル世界の一環であるデータ(マッハ感覚論的素材性)」とb「機械言語上の情報知(抽象的体系性)」の「断絶」という問題意識(1−1)』が決定的に欠落している!(toxandoria、補足)

(2)「AIの知(仮に、近未来においてAI意識が創出される?としても)」と「人間の知(文脈的・エトノス環境的意識)」の違いを理解するには、先ず西欧中世の「決疑論」と近代啓蒙主義における「観念的な間主観性」意識の発達&共有化(これが政教分離原則、議会制民主主義、現代憲法、現代の司法・裁判制度、あるいは近代以降のジャーナリズムの成立((その批判“精察力”理解の深化))などに繋がった)の問題についての理解が重要! ⇒ この視点が基礎情報学で言うネオ・フィードバックシステム(=2nd.オーダー・サイバネティクス

まず(1)の問題であるが、人間が古来馴染んできた自然言語であってもそれが書物に記されると、途端にその意味内容は潜在化し(既述のとおり、マッハ感覚論的素材性の性質が失われるということ!)、途端に、それは機械情報化する。すなわち、その意味ではデジタル(変換)言語も自然言語も同じである(そこにある差異は書物等とコンピュータという、書き言葉、話し言葉などの“情報”を収容するデバイス&ツールの違いだけ!)。だからこそ我々は“書物・本・文書・言明などを(自分の意思、常識、あるいは権威ある一定の倫理・哲学的解釈、学説、科学合理的知見、司法判断らに照らしつつ)文脈的に読み解くor理解・共感するor批判する”などの表現を使っている訳だ。

また、この「決疑論」を一定の言説(緒学説・司法判断・常識的解釈等)に関わる文脈解釈の歴史として観察すると興味深いことが見えてくる。それは「混沌の時代→政教(祭政)一致権力→双方(教皇権・皇帝(王)権)権力並立→ローマ法・教会法・決疑論が鼎立の時代(〜16世紀頃)→近代啓蒙主義政教分離・現代憲法成立・・・」という「宗教・政治・司法」の三つ巴の絡み合い(“権威⇔権力”闘争)が、<歴史文献・学術資料・行政文書等の文脈的理解を巡る解釈論争史のプロセス>となって見えてくることだ。

おそらく、このようなことと関連すると思われるが、西垣 通は、西川アサキ(同じ情報基礎論の研究者)が<人間社会のAIシュミレーション(システムはトリビアル閉鎖オーダー)で、仮に全ての個人を統治に関する完全開放(権力を監視する司法の威信が激劣化の環境)へ投げ入れてみると状況が一気に不安定化し「行政独裁⇔アナーキー無政府状態)」の間を激しく彷徨する恐るべきループに嵌った社会モデルを観察した>と報告している。

・・・ここで、部分転載おわり・・・

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<「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」がいよいよ実現する時代においてアーレントハーバーマスらの<理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーション社会と公共圏の構築>が、今や殆ど不可能となりつつある>という前提そのものに大きな違和感を覚えるが、特に昨今の日本政治をめぐる社会意識の劣化傾向(国民の政治参加意識の退化と幼稚化、司法・検察・警察・NHK・主要メディアらの堕落・無力化・忖度&翼賛機関化などに因る)を見せつけられると、このAIシュミレーションの結果は、まさに現下の日本に当たらずとも遠からずの感がする(苦w)。

しかも、「一般意志2.0」(ルソーの一般意志は特殊意志に関わる±のベクトル相殺を加味した数学的な差異のベクトル総和であるとする)なる非常に斬新な切り込みであるにも拘わらず、やがて「国家と市場、動物的な生と人間的な生、功利主義とカント主義、リバタリアニズムコミュニタリアニズムの二重構造」のバランスが自ずから取れるような時代になるだろう?というのでは、余りにも楽天的に過ぎるのではないか?それは、おそらく「一般意志2.0」を論ずる東 浩紀の視点に、(1)「電脳汎“知”データベース時代における“ネオ優生学”ファッショ発生のリスク」、(2)「異次元の高度情報化が実現しても必ず新たな倫理が必須となる」という、人間社会についての最も基本的な二つの観点が欠落しているからではないか?と思われる。

ところで、東 浩紀「ルソー一般意志2.0」と大黒岳彦世界システム論(情報社会の哲学)」とでは、同じ「AI-BDセマンティックWeb汎“知”世界」(未だ開発途上とされるが、AIで自動的にウェブページの一定の意味を解釈しつつ検索できる技術)という、同じネットワーク技術が創造する高度ヴァーチャル世界を語っているにもかかわらず、両者には決定的な違いがある。

それは、東 浩紀のヴァーチャル世界(フロイトの無意識世界との共鳴を想定!)がニューサイエンスの「地球生命体」や「全体意識(ホロン)」的な(極論すればマッドorカルト・サイエンス的な)方向へミスリードされる懸念を感じさせるが、大黒岳彦世界システム論」においては、あくまでもその近未来のAI・BD‐Web「世界システム」と「人間の意志(意識)」との間は非連続的な(宿命的に断絶している)プロセスであることを受容したうえでの<人間としてのメタモルフォーゼ(変容・創造の可能性)>であるということだ。

それ故にこそ、大黒岳彦の場合には、その非連続的な両者(マッハ感覚論的素材性としてのデータと情報知/委細、関連参照 ⇒第2章)の間には多元的な「倫理」の役割の可能性が十分に残されていることになる!(同じく、委細は要参照 ⇒大黒岳彦著『情報社会の哲学』(勁草書房)のp116〜、およびp236(92))

3 技術開発に伴う近未来のメディア「展相」(Potenz/力能の発展の諸段階)を見据えた新しい「倫理」の必要性

3−1 AI・BD‐Webネットワーク型「電脳汎“知”」時代における“ネオ優生学”ファッショ発生リスクの高まり

(矢張りカギとなるのはマッハ感覚論的素材性)

そもそも、ルソーの「市民宗教」(関連参照 ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307)は、より多くの人々の<情感的統合>のための何らかの旗印、いわば自己安定のためのトークン巡回アルゴリズムの一種と理解すべきであるだろうが、当記事で反面教師的に取り上げた東 浩紀『一般意志2.0』は、ルソーの市民宗教については、一切、何も触れていない。

しかし、既述のとおり「マッハ感覚的素材性」が市民意識を感覚レベル(ないしは情感/厳密に見れば感覚はあく迄も感覚器の作用面であり、情感はそこを介しインプットされ、内面で発生し、濃縮され、循環し、滞留する“無意識も含むリアル感情のマグマ”)で統合する重要なファクターと考えられるので、ルソーの「市民宗教」についてもそのような意味でリアルな<マッハ感覚論的素材性>的なもの、つまり生命誕生とヒトの意識(意志と感情)の発生そのものへの関わりすら窺われる、特に重要な役割の分担が想定されている可能性がある。

トークンとはプラグマティズム哲学の創始者の一人であるパースによれば、それはこの世界における「個性的な個々の実在」、つまりリアル因果(生命&物理現象が同期する現実の流れ)の連鎖(しばしば、これは抽象論理と混同される!)のことであり、個々の人間の意志(意識)もその一つの現れと理解できる(委細、⇒ 「パース流プラグマティズム」の着眼点(Type-token distinction):「タイプ(抽象的な普遍・論理に因る表象)Vsトークン(個性的な個々の実在/因果連鎖のリアル)」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503

また、ルソーの「一般意志」は、<東 浩紀の理解の如き特殊意志(言わばトークン)の数学的「差異のベクトル総和」>ではありえず、それは永久の課題である民主主義(人間が平等の共有価値観の下で生きるための合意システム)の持続のため、技術革新に伴う「AIデジタル・ナルシス/超類型化AI社会リスク」が制御可能となるよう、A.ミシェル「情感の現象学」(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)などへの理解を深めつつ絶えず新たな「倫理の視座」(時に、AI・BD−Webネットワーク関係の技術発展に伴う展相の倫理学の視座)を発見することではないかと思われる。 

12
なお、「超類型化AI社会リスク(AIデジタル・ナルシス=抽象的AIデジタル・ワールドの超独善化)」は『おそろしいビックデータ』(朝日新聞出版)の著者・山本龍彦氏の造語である。それには、恐るべき近未来の地獄絵、つまり「フィルター・バブル(『閉じこもるインターネット』の著者 イーライ・パリサーの造語)&「デイリー・ミー」(The Daily Me/キャス・サンスティーンの造語)など、愈々、本格化する超AIビッグデータ社会化が、日本国憲法の保障する“個人としての尊重”(第13条)と“最低限度の生活の保護”(第25条)が完全破壊されるリスクの到来を警告する造語である。

それは「デジタル専制国家」の出現リスクとほぼ同義であり、「AI+BD(ビックデータ)」の本質が、例えば下のような点●にあるため、AIが暴走する可能性だけに留まらず、それを専ら自らの権力強化と維持のために、そしてクローニー(お仲間)資本主義的な利益のためだけに悪用する政治権力(例えば“安倍政権”の如く日本会議支配下で戦前アナクロニズムへの回帰を謀る国体カルト政権)が、更に強靭(or狂人)化した専制支配力を手にするというリスクが高まることを意味する。

●フィルター・バブル(見たくない情報を遮断するフィルター機能が、まるで私をバブル(泡)の中に囲い込む如く見たい情報しか見えなくする)、デイリー・ミー(ネット上で日々に私の全人格的な性向(出生、生活環境、嗜好、趣味、関心、過去の行動パターンなど)に合わせてカスタマイズされ送られてくる情報)などに因ってAIシンギュラリティ信仰が際限なく人々をセグメント(分断)化するパワーを得るため、バーチャル・スラム化など、AI・BDプロファイリングによる個人『信用力』の一方的な破壊で新たな差別発生が懸念されるhttps://www.cvfinance.com/contents/support/report.html?act=d&kind=1&id=333)。

●AIはBD(ビッグデータ)を餌として急速に、かつ無限に生長するため、AIの判断能力とスピードに人が追いつけなくなる

プログラマーがAIディープラーニング(自動学習)のアルゴリスムを理解できなくなるレベルに入るとAI暴走の懸念が高まる(Ex.テロ対策を逆手に取る予測的警察活動(Predictive Policing)https://www.nij.gov/topics/law-enforcement/strategies/predictive-policing/Pages/welcome.aspxなど)

●AIのビッグデータ(BD)分析には、本質的な意味で可謬性(原理的に必ず間違いが起こり得ること)の問題が付きまとう。例えば「相関関係もどき(うわべだけ、みせかけの相関)の出現」、「みせかけの有意性データの出現」など。

(歴史的な“優生学”誕生への道筋/倫理・道徳的には中立でなかった統計学(“統計法則”確立)の歴史)

統計学(つまり“統計法則”)が確立するまでのプロセスをふり返ると、我われは、むしろそれが優生学思想を助長するリスクと紙一重の歴史であったことに、先ず驚かされる。そこで“統計法則”が確立するまでのデータ化の歴史のふり返りで重要なのは、それを推し進めた主体は誰で、その目的とデータ化の対象は何であったか?ということになる。

ところで、(2−2−2)で既に見たとおりであるが、先ず我われは西垣 通が、その「基礎情報学」で<自然言語話し言葉と文字や記号として書かれる書き言葉)もコンピュータ上のデジタル(変換)言語も同じ「機械語」(行政文書・書籍等デバイス上の)である(つまり、それは決してマッハ感覚論的素材性ではない!)という、根本的な認識上の転換の必要性>を指摘していたことを再び想起すべきである。

例えば、それは国勢調査(census)なる言葉が古代ローマ帝国時代のケーンスス(census/税額の根拠となる人口調査)であったことからも理解できるが、近代統計学の始まりと見るべきルーツは17世紀後半のイングランドにおけるF.ベーコン(“経験‐帰納主義”者)を祖とする、数値化と図表化を重んじる「政治算術」学派にあるとされている。そして、ほぼ同じ頃のドイツにも「国勢学派」と呼ばれる社会統計学が存在したが、こちらはデータ(数値)化よりも、文化や精神性の記述を、より重視したため“統計法則”史の上では存在感が薄い。

いずれにせよ、これら両派に共通するのが<各統計を求め、それを推進した主体は絶対主義国家の君主>ということであり、その統計の目的は<君主の所有物である国家の財産目録を作ること>にあり、その対象は国家(厳密に言えば君主の所有物たる国家を構成する、君主の所有物たる国民と国土)であった。やがて絶対主義に代わり欧州各地に市民社会が成立すると統計の主体・対象・目的に変化が現れる。

つまり、「主体=国家の主権者となった特権的ブルジョワ市民/対象=人口数だけでなく公衆衛生・医療統計等、いわば出生・死亡・犯罪・自殺ら“個人の意志を伴う道徳現象”そのもの/目的=ケトレーが言う“平均人”(統計的平均を具現化するブルジョワの理想像)のためのホメオスタシス(理想的平衡状態)の創出・維持」への変化であり、それはダーウイン「進化論」やスペンサー「社会進化論」等の影響も受ける。そして、最終的にその“統計法則”の手法はベルギーの数学者・統計学者、アドルフ・ケトレーの「社会物理学」として結実する。

ケトレーはガウスの「誤差の確率分布」を初めて社会集団の分布へ読み込むことに成功したが(つまりケトレーは確率論的統計を社会統計へ導入した最初の人)、やがてケトレーは単なる出生や死亡という社会を舞台とする自然現象に飽き足らなくなり犯罪や自殺などの「道徳統計」についての有意な法則を次々と発見する。言い換えると、かつて政治算術的な統計の時代には“個人の代数和”と素朴に見られていた社会であったが、「ケトレーの社会物理学」によって、<実は確率論的な統計学でのみ正しく理解しできる独自の抽象的法則に支配されたものが社会である>という、全く新しい社会の姿が発見されたことになる。

やがて、ダーウインの甥にあたる19世紀イギリスの統計学者・遺伝学者F.ゴールトンの「生物測定の統計学(biometrics)」から“平均(凡庸さ)への回帰と収斂”を回避するためとして、その社会物理学の合理性を歓迎する広範な社会の空気を背景に<人為的な「種」の改良(人種改良と社会改良)を良しとする“優生学”思想(eugenics)>が立ち上がった。無論、第二次世界大戦後の「世界人権宣言」(1948、国連採択)で「人種・国籍・宗教を問わず凡ゆる人々が結婚と家庭を持つ権利を持っている」ことが定められ、優生学が遍く批判の対象となったことは周知のとおりである。

しかし、グローバル社会の混迷度が深まる世界状況と恰も機を同じくするかの如く急速に進化の速度を上げつつあるAI・BD‐Webネットワーク「電脳汎“知”」(新たな21世紀型の“独自の法則(確率論的な統計法則)に支配される確固たる抽象構造世界”)の出現によって、今や、再び政治的横暴化の意味で“優生学”(eugenics)の足音が聞こえ始めたと言えるだろう。例えば、ウソ吐き安倍政権下での「“過労死”ら恐るべき労働環境劣化の現実」あるいは「殆ど予測不能なAIナルシスと権力側の癒着リスク」等を無視した「高プロ働き方改革法」の成立強行などはその典型と見るべきである。

つまり、液状化で揺らぐ資本主義を口実とする政治権力の横暴化がAI・BD‐Webネット型の新種の“優生学”(統計法則の悪用の意味で言えば、その本質は19世紀と全く同じ!)をもたらしつつある訳だが、それは先に述べたフィルター・バブル、デイリー・ミーなどの如き単純な「AIシンギュラリティ信仰」に限るものではなく(というか、本質は同じなのだが!苦w)、例えば安倍政権下における一連の弱者苛めやヘイト現象などの激化傾向、あるいは米国トランプ政権の過激な移民規制なども、ケトレーの時代と同じく「統計的・抽象的合理性」信仰によるリアル現実の無視という悪しきポピュリズムの空気の拡大が背景になっていることも押さえる必要がある。

また、これまで反面教師的なテーマとして取り上げてきた<東 浩紀「ルソー一般意志2.0」の“楽観的”な問題提起>も、AI・BD‐Webネットワーク「電脳汎“知”」(ヒトの意識の淵源とも見るべきエトノス環境と断絶し超抽象化した世界)への無防備さという意味でこの“優生学”の問題へも関連してくるのではないか。それは、確率・統計論的に再解釈されたルソー『一般意志2.0』は、その“統計法則”確立の歴史と西垣 通「基礎情報学」が指摘する<『機械語』‐『アナログ語』の断絶>の問題とも重なる<マッハ感覚論的素材性>への無関心という、独特の無防備さによって市場原理主義、つまり<AI・BD‐Web時代のネオ優生学思想>へ容易く回収される恐れが大きいのではないかと思われるからである。

3−2 高度情報システムの<暴力的な包摂と排除>への傾斜を乗り越えるための倫理学のあるべき視座

それは、<更なる技術発展に伴う情報メディアの展相(Potentz/関連技術の進歩に伴う力能の発展の諸段階)とグローバル市場原理の更なる深化、およびその相乗・相互影響の次元>を見据えた「倫理」の再発見が必須だということである。その意味では、益々、グローバル高度情報化しつつある現代社会では、従来はとかく同一されがちであった道徳(国家など相対的に狭い範囲での規律)と倫理は明確に区別されなければならないことになる。

具体的に言えば、それは<各国家内で慣習化・無自覚化した道徳を超えて生まれる新たな“善の未到達”状態こそが、より良いグローバルのフェーズへと進む現代世界の普遍の真理である、と見なす<「絶えざる善の欠損状態/Absence of good」への持続対応の必要性の再認識>ということだ。因みに、それは資本主義の出発点と見るべきマンデヴィル、A.スミスら18世紀“道徳哲学”の重要テーマでもあった。

ところで、(2−1)で触れたN.ルーマンは、同じような意味で、あるシステムの外部からの観察に基づく道徳(ある社会や国家などのシステム内のルール)への反省が倫理(それは新たな展相へ移行した新しいシステムのための一次元上のルール)であると論じていたが、興味深いのはルーマンに大きな影響を与えたとされるA.ゲーレン(ドイツの社会学者・哲学者)の存在だ。

ゲーレン(一時ナチスに入党していたとされるがハイデッガー、C・シュミットらの事例もあるので、その功罪はさておく)は、著書『技術時代の心』(1957)の中で産業社会の特性を<(1)社会の抽象化、と(2)人間の原始化>の並存に見定めていたが、それは<AI・BD‐Webネットワーク世界(電子・量子構造的に自立した抽象世界)>と、<その影響によるネオ“優生学”ファッショ発生リスクの高まり>を見事に予告していたことになる(出典:大黒岳彦『情報社会の哲学』‐勁草書房‐)。そして、ルーマンもこの考え方を共有している。

ルーマン「社会の抽象化」とは、社会が高度に専門化(必然的に抽象構造化)することで一般人がその全体像を理解できないブラックBOX化することを意味するが、そもそもAI・BD‐Web世界が出現する以前の産業社会でも専門化を遂げた法律、経済、医療らが各領域ごとの道徳を持っていたので、そこでも社会統合の原理である道徳ルールが溶解する傾向にあった。しかし、AI・BD‐Webネットワーク時代に入ったからには、その程度が比較にならぬほど苛烈化することを意味する。

つまり、個々人の道徳・倫理は人々の心の内側へ押し込められ不分明化し、やがて専門知識の縮小とも相まって個人の内面は空白化する。その結果、社会の専門的な高度抽象構造へ、益々、意識的判断の多くを委ねることとなるため人々の内面では専門“知”の縮小と反比例して不分明で道徳・倫理が不在の空白)が急速にシェア拡大することになり、その空白を埋めるのが<非常に主観的で恣意的なものと化した情念のマグマ>である。このようにして一種の抜け殻(カラッポ)となった心の状態をゲーレンは「人間の原始化」と呼ぶ。おそらく、それはG.アガンペン(伊の哲学者)が言う「孤人」(無用の演算素子として抽象構造システム外へ放擲された“剥き出しの人間”)に相当する。

そして、その「人間の原始化」(心がカラッポの“孤人”)へ容易く侵入するのが、ヘイト攻撃、あるいは異分子・異端者・異人種・弱者らへの敵対心と排除の心理であり、かつ新たな優生学への誘惑ということだ。これと同じことをN.ルーマンも「情報社会における排除の意味」として語っている。だから、理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーションと公共圏構築を無効と見なすマッド・サイエンス的な思考(高度情報システムの暴力的な包摂と排除)へ抗い、それを克服するためにも、人間が生きることの意味についての熟慮などの哲学的視点を十分取り入れた歴史観と絶えざる自然観(エトノス)の深化に基づく「倫理」の多次元的なあり方の探求こそが、新たな情報社会の「展相」への第一条件であることを、今こそ肝に銘じる時である。(本文/完)

(補足)マッド・サイエンス的な人間論の事例/驚愕すべき、その倫理観の軽さ!

■【マッドサイエンティスト倫理学?/鄭 雄一著『東大教授が挑む AIに「善悪の判断」を教える方法 (扶桑社)』】「アベ国体論カルト」を忖度する『JPN先端AI・BD情報科学』?w ・・・鄭 雄一氏は東大・大学院工学系研究科教授。
(情報源:https://www.evernote.com/shard/s440/sh/6c063f92-3db9-40b9-9efa-c0042834b141/0c9a21eb3abad820)

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情報倫理ブーム(アマゾン検索で数百点にもおよぶ)らしいが?お決まりは、サルでもできる?演習問題が付くことだ。そこには明らかに比較的若い国民層を上から目線で一定方向へ洗脳する意志が潜むと思われる。「一定方向」とは<この4月から安倍政権が「教科」へ格上げさせた小中学校「道徳」、および教育現場での「著作権」教育の必要性を指摘する声に応えるためとする後期中等教育科目「情報」の設置、および高等教育課程に「情報倫理」を明確に位置付けること、そしてそれを多数派一般国民に認めさせることである。

・・・以下は、https://www.evernote.com/shard/s440/sh/aafccaeb-6ed3-4e62-93b4-74ebafa2c11c/c9f5345ddc1408727771c083688a52c4より部分転載・・・

『道徳・倫理』は三つの「定義の柱」の複合体で、それは恰も自然環境の如き我われの周囲の「第二の自然」である。つまり、それに対し存在理由を問わないのは我われが自然に対し存在理由を問わないのと同意である。そして、これは生命ある人間が社会の主人公である限り、「情報倫理」についても同じことだと思われる。また、道徳・倫理はある程度まで“普遍的”な“法則”としての性格を持つが、その“普遍性”は自然界を統べる物理法則とは異なる。

(1)法に先立ち共同体統合の機能を果たす、内面的な観念上の社会的メカニズムである。
(2)同時に、それは無根拠(自明性)を基礎とする所与的事実性である
(3)同時に、それは内面化された規範であるにも拘らず個人の恣意的運用を超えて行為を拘束する、ある種の超越性を持つ 

思想史的に見れば「道徳の法則」が持つこの“普遍的で超越的な性格”は自然界の物理法則と区別して「妥当性(Gelten)」と呼ばれる。恰もそれはプラグマティズムにおける「限定合理性」の謂いに近く、いわばパースが言う<タイプ(普遍観念)とトークン(個々の因果的実在)の間で生きる我われ生命ある存在(生命の実存)>の「道理性」(合理性ならぬ!)ということである。

従って、我われは、人間にとり最も根源的な問題である「我われはなぜ生き続けなければならないのか」、「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜ嘘を吐いてはいけないのか?」(日本国民と安倍総理が分からない、最大の難問!w)などヒトの生命の根源に関わる問題を道徳上の疑問として問うようなこと、つまり、ここで取り上げた<倫理ノウハウ本?>の如く超便利な道徳アルゴリズム活用の演習問題を解くことで、道徳・倫理についての疑問が平易にスッキリ解ける!などの言説を主張することはしない。

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2018603朝日
■【日本では<道徳の教科化>より<政治家の倫理・道徳の確立>が最優先の課題/英紙ガーデアンが報じた<日本の「法の正義」の失墜>とはアベ政権が自らの不道徳(てんこ盛りのウソ)を政治的詭弁でムリクリ道徳化(政治権力への忖度を強制)することと同じでく、その教育(特に道徳教育)現場への悪影響は計り知れぬ!:道徳を理由に人権侵害の懸念 木村草太、2018603朝日https://www.evernote.com/shard/s440/sh/448e2f73-ab08-4715-b473-c6d7c961559f/1f544e512af0cbfe12eb55e81484816b


BBC『日本の秘められた恥(首相に近い人物)』は、オリジナル、邦訳スーパー付ともに該当動画は消されている!(著作権で?)
SVT:スウェーデンTV
■【日本での放送も期待!/ボディーブローとなり世界へ拡散する安倍ネオファッショ政権の恥!】「日本の秘められた恥」伊藤詩織氏の約1時間・ドキュメンタリーをBBCが6.28夜に放送http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44638987

(完)

Claude Monet‐The Walk. Lady with a Parasol.1875
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