toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(2/2)

新コロナの警告/ファシズム2.0に抗い持続を保障する潜性イノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(2/2)

・・・それは「地球環境の保全、および平凡な一般国民(99%派)のリアルな『日常』こそ倫理に基づくデュー プロセスの土台であることの再確認が必須!」との警告でもある!・・・

 <注>ファシズム2.0・・・20世紀型ファシズム(20世紀初頭に現れたナチス・ドイツムッソリーニのイタリアの亜流ネオ・ファシズム(またはネオナチ)と“ほぼ同義”だが、ここでは例えば安倍政権がそうであるように「新自由主義と独裁の癒着」を明確化させるため「ファシズム2.0」と名付けた。

<注>エトノスについて

f:id:toxandoria:20200529065020j:plain・・・世界大百科事典第2版(平凡社)の説明によれば、そもそものエトノス(ethnos)はギリシア語で民族を意味する。民俗学の用語としては、ロシア系の民俗学者S.M.シロコゴロフがはじめて本格的に論じ,ドイツの民俗学者ミュールマン(W.E.Mühlmann/1904‐ )などによって、この概念の重要性が明らかにされた。それは、同一の文化的伝統を共有するとともに〈われわれ何々族、何々人〉という共属意識をもつ最大の独立した単位集団を指す。

・・・従って,「一つのエトノスは場合によっては,バンドでも,氏族でも,部族でも,あるいはカーストでもありうる。」ということになるが、ここではその後の自然科学、歴史、地球環境、民族・人類学等に関わる研究と人間社会の全般に係わる意識上の変化等を反映させつつ、更に批判実在論(Critical Realism)、新実在論(新実存主義)などの新たな視点を加味してエトノスの概念を再定義しておくことにする。

・・・そこで、次のように定義することが可能となるだろう。すなわち、ethnosは古代ギリシア語に由来しており、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団のことを意味することから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が変われば正反対に反転し得ることになるので、そもそも絶対的で画一的な価値評価を伴う言葉ではなかったということになる。

・・・おそらく、それは休むことなき一回生の連続である「生命」現象そのものと同じく、永遠に揺らぎつつも(対象と背景環境が絶えず交替し得るものでもあるため)各アイデンティティーの持続性を必死で繋ぎとめるべきものであると言えるのではなかろうか。

・・・従って、エトノスとは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”(培地)となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界、量子物理学世界の理解など)を常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を最も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカルの風土』を意味する。>ということになる。

 (前置)ポスト「新コロナパンデミック」を見据え、まず前回記事(1/2)の結論から導かれる三つの必然の方向性を以下に掲げておく

・・・ポスト「新コロナパンデミック」を見据え焦点化すべき必須の方向性は下の三点についての覚醒・・・

(1)一般多数(99%)派「市民層」のため、ゼロサム「赤の女王」の暴走(恐慌再来)への足枷たる<マネージャー(金融マネージャー)資本主義>の制御が必須である。

(2)一回性に生きる凡人(“リアル&潜在”両エネルゲイア産生の主役)の持続する『日常』が資本主義の培地である。

(3)「人間の壁」(“AI等機械高度イノヴェーションVs労働生産性”に因る格差拡大)を克服するカギは「分配の公正(リアリズム倫理)&潜性イノヴェ―ション」にある。

・・・

<注>ゼロサム「赤の女王」・・・「赤の女王」は、ホッブスリヴァイアサンを「自然・政治・経済・社会・文化」の全般にわたり作用する不可避の共通原理と見なす考え方(『自由の命運 上、下: 国家、社会、そして狭い回廊』(早川書房)の著者、ダロン・アセモグルと ジェイムズ ・A. ロビンソンによる)。それを放置すればゼロサム化するのが必然なので、これに薄皮一枚で必死に抗いつつ生き続ける全生命の一環たるヒト(の社会)でも、必然的に永続的な薄皮一枚の「この意味での努力」の持続が厳しく求めらている(委細後述)。

・・・

ハイマン・ミンスキー(米ポストケインジアン経済学者の一人、シュンペーターの影響を受けている/現在、特に日米では経済学&財界主流から疎外されている!)は マネージャー(金融マネージャー)資本主義は資本主義の退化(ヘッジ→投機→ポンツイ(ネズミ講)金融化)なので、将来,破壊的な恐慌が生じる可能性も指摘している(関連↓★)。

★服部茂幸・論文「2008年の金融危機におけるマネー&マネージャー資本主義の崩壊と再生」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/peq/52/3/52_KJ00010198905/_pdf/-char/ja https://www.evernote.com/shard/s440/sh/4119453e-3059-4432-9d5d-284abf67c401/3d929c60939ae2ec210cf5473ad05295

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【よみがえる宇沢弘文/新コロナパンデミックへの対応の差異で日米同盟(金融・軍事)に亀裂?!】https://twitter.com/tadanoossan2/status/1246202573922562049 によれば、新コロナパンデミックによる不況とリーマンとの違いは、目下、規制緩和中ながらもボルカ―ルールを未だFRBが握り米議会の監視も効くことである。片や、我がアベ様化!したGPIF年金運用↓は危うい!Cf.↓▲ 

【新コロナパンデミックに因るリーマン化(金融災害の長期化でGPIF年金運用の赤字が長期&恒常化)すると危うい!】GPIF年金運用の赤字、過去最大に 1~3月期、新型コロナ株安響く403朝日新聞https://www.asahi.com/articles/ASN436S48N43UTFL004.html

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▲またもブラックロック(世界トップ・シャドーバンク)か?FRBの透明性確保がカギ:ジリアン・テット403日経/FC、https://www.nikkei.com/article/DGKKZO57560620S0A400C2TCR000/

・・・

リーマン以降、現在に至るまでのアメリカ経済の「回復」は、「上掲(1)~(3)」(当シリーズ記事(1/2)の結論を無視しつつ、もっぱらレント経済(委細後述)へ注力した<マネー&金融マネージャー資本主義>の再生にすぎない。しかも、いまや再び、アメリカのみならず全世界がポスト・コロナパンデミックがもたらした深刻な構造不況に襲われている。なお、当「金融マネージャー資本主義」の論点については[(エピローグ)『倫理』なる人文知の極致の有意性の再建が必須‐[2]新時代の倫理の前提1「“赤の女王”の足枷」の問題]でも、再び、ふれることになる。

つまり、米国のそれは同じ経済危機からの回復であっ ても,その形がニューディール期とは大きく異なっている。2008年の危機以前では,世界経済が金融ケインズ主義によって成長を続けていた。金融ケインズ主義は現在のアメリカで可能な成長モデルとしては、新たな可能性が模索する方向を別とすれば、現実的には殆ど唯一のものであろう。しかし、それにもかかわらずグローバル市場原理主義新自由主義)は、実に皮肉なことだが「2008リーマン危機」で金融ケインズ主義の時代を終わらせた。

それが実体経済の回復が遅れ、中間層が破壊され(主にGreat‐Dedecouplingによって/委細後述)、格差が拡大し続けている理由である。すなわち,再び、「金融マネー&マネージャー資本主義」(金融レント傾斜主義)は行き詰まってしまった。だから、新コロナパンデミックはこのことを気づかせるエトノス環境からの警告とも見える。

それ故、(1)ゼロサム「赤の女王」の暴走(恐慌再来)への足枷として有効な<「マネージャー(金融マネージャー)資本主義」の制御>が必須であること、(2)一回性に生きる凡人(“リアル&潜在”両エネルゲイア産生の主役)の持続する『日常』こそが資本主義の培地であること、(3)「人間の壁」(“AI等機械高度イノヴェーションVs労働生産性”に因る格差拡大)を克服するのは「分配の公正&潜性イノヴェ―ション」であること、の三点についての覚醒が急務である。

関連/◆ヒト(<諸個体生命)の一回性(動的平衡/関連後述)に係わる理解が重要!<いま起きつつあるのは「永続性の原理」(委細後述)の一環!の視点で、“遍く人々と地球エトノス環境の保全に資する大きな合理主義”>の意義の警告、という新コロナパンデミックの本質の見極めによって<ヒトの日常(潜性イノヴェーション>救済に全注力すべき! https://twitter.com/tadanoossan2/status/1245840741768687621 https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759 

(Cover Image)

  f:id:toxandoria:20200525200325j:plainClaude Monet – Cathedrale de Rouen1894  Washington、National Gallery of Art   

『私(セザンヌ)があなたに翻訳してみせようとしているものは、もっと神秘的であり、存在の根そのもの、感覚の感知しがたい源泉(自然・伝統・文化エトノス/補、toxandoria)と絡みあっているのです。』という、セザンヌの友人であったガスケの言葉(ガスケ『セザンヌ』‐岩波文庫‐)は、そのままモネにも当てはまるといえよう。

 f:id:toxandoria:20200510070419j:plainPaul Cezanne, Still Life with Apples on a Sideboard, 1900–1906, Dallas Museum of Ar

 
Claude Debussy : Reverie. Claude Monet : Paintings.


First Arabesque - Debussy

ただ、セザンヌとモネでは夫々の美的表現「技巧」のアプローチが異なっていた、ということである。すなわち、セザンヌは、自らに固有な気質・情感の実存と共に、物質の本質に対する強い探求心によって自然に対し科学的な視覚で肉薄する努力を積み重ねており、それがセザンヌ絵画の重厚なリアリティの秘密(情感と自然、二つの実在の融合としての実存)となっている、と言えるかもしれない。

一方、モネにとってモチーフと物質的な本質への探究は、もはや、あまり重要ではなくなっており、モネの関心はもっぱら「視覚的に思考するということ」であった。言い換えると、それは「そこにある光と時間の印象(美的印象)を捉えて表現する」ことである。

 だから、特に、30作品にもおよぶ連作『ルーアン大聖堂』では刻々と流れる時間に伴いながら多様に変化し続ける“光と色彩の印象”だけが表現されている。しかし、実はその“光と色彩と時間の流れの印象”は、外界の気象など自然エトノス環境との間で建造物(ルーアン大聖堂)自身が目まぐるしく取り交わす“交流”の現われと見ることもできる。

 f:id:toxandoria:20200526070444j:plain

委細は後述するが「外界の思考」という哲学的でユニークな考え方がある。これは、新実存主義を提起する新進気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルの言葉であり、それは内外のエトノス自然・社会環境との深い関係性を維持する意識のことを意味する。そして、これは「龍安寺・石庭」が我われ(の内心に拡がる広大な感情の海)に永遠の静寂なる感動を与える秘密を解明するヒントをも与えてくれている。

いずれにせよ、それぞれアプローチの手法は異なってはいても、モネとセザンヌは「外界の思考」の美学を実践した芸術家であるといって間違いではなさそうだ。見方を変えると、「色彩を強調したモネの一瞬一瞬の違いの表現」は“感動を伴う感性”の表現であり、その「変化しながらも変わらないものについてのセザンヌの表現」は<形象認知的な“象徴性”の表現>といえるかもしれない。

 

因みに、近年の知覚心理学の研究で「フラッシュラグ効果」が確認されている。それは、コンピュータ画面上で横の方向へ移動する光点が画面の中央に到達した瞬間に、その中央の光点の直下で別の光点を一瞬フラッシュさせると、移動する光点の方がフラッシュした光点より先の方へずれて見える、という現象である(画像は、https://tocana.jp/2017/09/post_14480_entry.htmlより)。https://www.evernote.com/shard/s440/sh/10c3c4f6-7fdf-4145-9153-e7fc9a9c4656/4dfb4bf3fcc5c40fb5bbfed149390474

このことから分かるのは「我われの知覚が、必ずしも物理的な意味で客観性がある今の一瞬に対応していない」というリアルである。つまり、我われの現実感覚は物理的に見ればきわめて曖昧なものであり、あまり当てにはならないということだ。

f:id:toxandoria:20200528055456p:plain・・・画像はウイキ。

このことから、自然世界と人間社会のリアルで大切なのは「言明性などの事実を記録した公文書類などドキュメント」よりも、「歴史や記録はどうでもで、いま現在の責任ある意思こそが重要だ!」というアベコベの論理を振りかざす権力者らが出現しているようだが(特に今の日本と米国で!)、皮肉にも、この異様な自信に満ちた権力者の言明は可笑しなほどアベコベなのだ(w)。それは「我われの現実感覚が物理的に見ればきわめて曖昧なもの」であればこそ、真正のドキュメントによる関係性と信頼(信用)を前提とする正常なコミュニケーションの持続こそが重要であることは自明の理であるからだ。従って、この真逆を主張するのは、例えば「JPNルイ16世」(ゼロサムファシスト)こと安倍晋三首相の如き異常者かペテン師、あるいはマイファーストの暴君トランプだけであろう(しかも、ルイ14世だ~!との検察OBの対アベ批判を安倍首相自身がルイ16世と取り違えた?w)。

(プロローグ)“トランプ病”とはいえども、民主主義の国アメリカ!のココロとは?

・・・米国「政治経済」の根底には、過半超の国民が辛うじて共有する「逆鱗」、南北戦争の歴史経験に由来する伝統のデュープロセス 〔 適正手続=薄氷の倫理観の具体化/due process of law〕がある!・・・

【米国には過半超が辛うじてながら強固に共有する「逆鱗」が存在する!一般国民への収入・家賃補償等はテキトーでも、「てんこ盛りの自らの犯罪」を阻止する法案だけは強行採決でスピード成立を謀るアベさまの国・日本とまったく対照的な、デュープロセスの視点からすれば、この“新コロナ失職関連”の家賃問題(居住権保障)も何れトランプの尻にストレート飛火かも?   →「食物が先で家賃は二の次」の米国(NY等)で拡がる家賃スト コロナ禍で失職  大家も警戒、共倒れ危険504朝日 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1259940679230218240

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・・・米国デュー・プロセスの背景・・・

・・・ デュープロセスは何人も法の定める適正な手続きによらなければ、生命・自由または財産を奪われないとする原則であり、それは合衆国憲法の修正条項に規定されている。(なお形だけではあるが日本国憲法第31条もその趣旨を取り入れている)・・・

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・・・遠くは、英マグナ・カルタ(39条)に由来する手続き規定の意味であったが、特に1880年代以降の米国では「南部に集中した南欧や東欧からの移民・低賃金労働者、および関連して発生した犯罪者の増加をめぐる論争(現トランプ政権下の移民論争にも重なる!)」などから、それは「実体的正義」(犯罪者を捕まえるなどの)に適うべきとする「保守(経済保守)」主義の立場を補強する一方で、その後のニューディール政策に代表される、そもそもの資本主義経済の弱点を埋め合わせようとする「社会権を巡る諸立法」の推進を妨げた。

・・・そのため、ポスト「1929ウオール街大暴落」で大恐慌の中心地となった米国では1937年に合衆国最高裁判所が「判例」解釈を変更し、単なる手続規定と見なされていた「実体的正義」に倫理的な意味が加味され、爾後は公権力による経済規制をも認めるようになった。現在は、「社会権」規定をもたぬ合衆国憲法を掲げる米国において人権保障の最後の拠り所と理解され非常に重視されている

・・・因みに、米国民主主義の“虎の尾”(過半超の米国民が辛うじて、しかし強固に共有する逆鱗/これは、トランプ支持が4割台で歩留まりし米国民の分断が固定化されていることの原因の一つとも考えられる)が意味するのは、もしその事態となれば米国史上で最大の政治危機(思想Vsイデオロギーの闘争であった南北戦争の火種が再燃する恐れ/関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 )となることに加え、米国民主主義のバックボーンとも言えるプラグマティズム法思想の伝統から、必然的に「米国伝統の薄氷を踏む憲法上の争い」に嵌ることを意味する。

・・・また、それが辛うじて維持されてきた司法積極主義(特に、リベラル傾斜のウオーレン・コートいらい強く意識化されてきた)の伝統ということでもある。従って、トランプ政権下のアメリカとはいえども、少なくともAI・ビッグデータ利用等についての規制に関するかぎり、オバマ政権で検討を重ねてきた、マイノリティ保護をはじめとする個人の基本権を尊重するという憲法上の観点からの活発な議論が停滞することは許されないことであろう。因みに、コロナ禍の深刻なショックから米国で発火した概ね30歳以下~10代の若い年代層によるZジェネレーションhttps://squareup.com/jp/ja/townsquare/what-is-generation-zの政治批判活動が米国~世界へ向け拡大中であることを特に併せて注視すべきである(アベウソ一強支配の日本だけが例外?w)

・・・例えば、米連邦最高裁は6月15日に、LGBTなど性的少数者に対する職業差別を認めないとする画期的な初判断を示している。1964年にできた公民権法は男女間の差別を禁じているが、これで、その対象が広がったことになる20200616朝日、https://www.asahi.com/articles/ASN6J0G2CN6HUHBI037.html)。

<補足>【トランプの恣意的な工作人事が失敗!/むしろ、米最高裁ではリベラルなウオーレン・コートの伝統が強化された!?@ TrinityNYC、https://twitter.com/TrinityNYC/status/1272847567265714176この最高裁判決の支持にはトランプが指名したゴーサッチ判事が支持に回り、6ー3という圧倒的多数でゴーサッチ判事自身が判決文を書いた。トランプ政権は先週、医療現場でのLGBTQへの差別助長を促す方針を固めたばかりだった。

・・・そして、近年は「ウイスコンシン州最高裁のルーミス判決」(AI自動処理によってのみ重要な決定を下されない権利についての判決)に類する判決が、裁判所による判例法として承認される事例が多くなりつつある(関連参照/下記▼)。[@松井茂記アメリ憲法入門』―有斐閣―、および下記★]

▼再犯を予知するソフトウェアは人種差別的?http://www.sekaiwoyakusu.com/entry/machineracism 

★「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・アベの課題、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180503/p1

・・・

・・・以上の論点を補強するため、プラグマティズム法思想の伝統の核心となる「デューイ『プラグマティズム道具論』の中でも特に重要と思われる<凡人の保障された言明の希望(可能性)>について述べておく。因みに、ジョン・デューイ(John Dewey、18591952)は、チャールズ・サンダース・パースイリアム・ジェームズと並び プラグマティズムを代表する思想家であるが、米国の機能主義心理学にも貢献している(画像はウイキより)。

・・・特に建国(独立)後のアメリカでは、南北戦争」の経験(強制イデオロギー化した啓蒙思想をめぐる同じ国民同士での殺戮戦という悲惨な経験)から生まれた<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視する/デューイ>というプラグマティズム哲学トランプ大統領なる<分断王>の登場で混迷する今のアメリカでこそ、その本格的な再評価が期待されているともいえる。無論、これはトランプ大統領の政治生命を左右することにもなり得るということだ

・・・“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視するための尺度となるのが<凡人の保障された言明の希望(可能性)>である。一見、これは難解に見えるが、言い換えればそれは、「以下」のようなことだ。

「そもそも永遠に未完である民主主義での決定は、“最大多数派であるごく普通の人々(凡人)の理解の共有を前提として実行され続けるべき”であり、そこに全ての人々がパーフェクトに納得できる、100%完全な合理性を求めるのは不可能だ。従って多数決の決定ではそれをさしあたりの《解》と見て、必要なら、爾後も更に修正を施して行く必要がある。そのために必要となるのが、決定までのプロセスとその決定に参加した数多の人々(文字通りの一般の凡人、専門知識人、メディア人、政治家ら)の凡ゆる発言(言明)に関わる記録や文書(つまり非常に広義の凡ゆるドキュメント類)の作成・保管が非常に重要であり、それさえ完備していれば、多方面からの知識や情報を加味しつつ、その決定内容を十分に説明的に解釈しながら、絶えず修正し続けることが」可能になる。つまり、このことによって民主主義体制そのものが生き続けることができることになる。」

<注>ここで言う「凡人」は所謂バカのことではない。99%派の普通の人々のことである。因みに、どのようなエリート集団であったとしても、その集団構成を統計学的に概観すれば、それが厳密に99%になるかどうかはともかく、およそ80~90%は必ず凡人(一般の普通の人々)となるようだ。しかも、これはヒト社会に限らず、虫や昆虫などの動物一般でも同様である(だろう?)ことが推測されるようだ(w)。

・・・おそらく、このような<凡人の保障された言明の希望(可能性)>の理解から最も遠くにいる政治権力者の代表は誰か?との問いに答えるとすれば、それは米トランプ大統領、およびJPNルイ16世(両者は共にゼロサムファシスト我が日本国の安倍晋三・首相)と言うべきではないだろうか?w (なお、当件の更なる委細については下記★を参照乞う。/また、当論点は非常に重要なので、後の章でも再び記述することになる)

★民主主義の根本たる啓蒙の“普遍”観念に関わる重要な格率を提示したデューイ『プラグマティズム道具論』(凡人の保障された言明の希望(可能性))

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/3e01e86f-ef51-4492-ae58-3a8510c0033b/048c1e9d707b59ed572f9c6a1488440

 ・・・トランプ・ファッショ2.0ゼロサムファシスト!)といえども!米国デュー・プロセスの風景アラカルト・・・

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<補足>[アベ⇄検察]裏取り引き成功で?ファッショ2.0ゼロサムの赤の女王)の相方、アベ(JPNルイ16世)だけが安泰?苦w 

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1270406999948193792

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1269177695402745856

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1269177695402745856

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1269831171199791104


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・・・?未だ「軍出動ナシ」の断言に非ず!空気読みの政治発言! →トランプ大統領 “軍の派遣必要ない” 黒人男性死亡の抗議デモ /軍出動は場合による。必要になると思わない、と述べデモ対応では州兵が当たっており、現時点で連邦軍派遣必要ないとの見通しを示した。<注>その後、ヘンな私兵?&武装連邦職員らを急派して、反トランプの一般市民を恫喝し始めたようだが!604 NHKhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1268594118046838784

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https://twitter.com/gloomynews/status/1268343567149199360

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JPNルイ16世(アベ/ゼロサムファシスト)に負けずトランプも大バカ!】米軍投入は未だ?トランプが根拠とする反乱法(1807)はそもそもインディアン来襲での防御が目的!この穴クロ差別意識も問題だが、もし国民へ連邦軍が銃を向ければ南北戦争~現代の米国史を全否定の超リスク!→トラが国民に銃を向ければアメリカは終わる:小谷哲夫604N.W.

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1268825510496198657

・・・因みに、米国の司法はプラグマティズム法思想の伝統から必然的に「薄氷を踏む憲法上の争い」が常在化しており、特に「最高裁判所」は国の政策や社会的に重要な争点について合衆国憲法に照らして積極的な裁定者となる傾向があるので、民主党政権時代に止まらずトランプ(共和党)政権下のアメリカとはいえども、少なくとも個人の基本権を尊重するという憲法上の観点からの活発な議論が停滞することは許されない。

・・・従って、「米ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドさんが白人警官に押さえつけられ窒息し死亡した事件(殺人?)/20200225」が、トランプ大統領の必死の“防戦”(むしろ“先制攻撃”?)戦術にもかかわらず、やがて、その<トランプ式の過剰な対デモ“防戦or扇動?”戦術>が「合衆国憲法・修正条項第一条」に抵触する深刻な国家的事件へと相転換するのも時間の問題と思われる。

・・・トランプと運命共同体を覚悟していた共和党自身も、漸く、巧妙なトランプの戦略で最高裁判事が保守(共和党)派多数の形で「優勢」化したとはいえ、11月の大統領選挙の絡みで再び国民の顔を神経質に窺わざるを得ない状況へ追い込まれるのではないかと思われる

 ・・・

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https://twitter.com/yuiyuiyui1114/status/1267721803838849025

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1267618884959367169

◆事情は全く違うが、ファシズム2.0という只一点の共通項で、米日「それぞれ異様な権力による強権支配」!の意味で共通する異常構造が視覚化されてきた。残念なのは、日本のボンヤリ―ヌ?に対し米国が圧倒的な修復力を感じさせることだ!https://twitter.com/tadanoossan2/status/1268067268400779265

https://twitter.com/TomoMachi/status/1268662460933746688

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・・・アベ・ファッショ2.0ゼロサムファシスト!)の国・日本/「名バカりデュープロセスの風景」アラカルト・・・

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1268067268400779265

◆新コロナ危機の国民の命よりアベ様が緊急事態だ!/“不要不急”検察庁法が安倍・黒川両氏に“必要至急”の訳:河井前法務相が買収で秘書らに詳細を指示のメールある?森友を潰した!?“官邸の守護神”黒川氏を検事総長に据える?511Mr.相沢HBO https://twitter.com/tadanoossan2/status/1259912480425275395

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【関連】【検察側も鼎の軽重?のラストチャンス!】>辞職を提出した人に将来の指導で訓告する?森大臣に迫った!@山崎拓氏 ←「黒⇔白」自在権力者、アベ狂人に何時まで支配させるポッカーン日本人!→黒川氏ら4人の常習賭博容疑、弁護士4人が東京地検に告発状を郵送525読売https://twitter.com/tadanoossan2/status/1264989809304498176 

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◆@週文春 604発売/「アベ血税乱費!電通ウハウハ」とか?ところで東京新聞を除きNHKら全メディア:TV・新聞が総スルーの見ざる言わざる聞かざる!はナゼ?誰か教えて!苦w→持続化給付金問題 “幽霊法人”が経産省最高幹部の部署から1300億円超を受注603文春オンラインhttps://bunshun.jp/articles/-/38190

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1268151515312566273

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 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1268151515312566273

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https://twitter.com/junkoba1153/status/1268722681366503424

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 https://twitter.com/cooo55/status/1268863843360333827

f:id:toxandoria:20200611142846p:plainhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1270949490560602113

4-1 オーストリアン(オーストリア経済学派)の祖カール・メンガー

・・・“時代を先取りした『人間の壁-喩えれば、人と機械の間のバカの壁』”の発見 ・・・

・・・それは、99%派市民層の主観的リアリズム(実存の意識)が創造する「『日常』の潜性イノヴェーション」(“緑のカナリア”)への予感であった!?鳥のオペラのプリマドンナ、美しい声のカナリア(緑のカナリア)のピピネラの物語は「潜性イノヴェーション」の在り処の象徴にも見える?! https://www.iwanami.co.jp/book/b269250.html・・・

 f:id:toxandoria:20200528060612g:plain【◆それにしても、ヒタスラ沈黙し静観するバカリの日本法学界(法曹界に非ず日本の大学アカデミズムもアベ忖度か!?】

・・・付け加えておけば、アベが政治利用する(新)自由主義のルーツ、カール.メンガー(ハプスブルグ最後の皇帝ヨーゼフ1世の皇太子(謎の死を遂げたルドルフ)の家庭教師でもあった)も反「アンシャン・レジーム」だった!(JPNルイ14世こと?アベ様(自称はルイ16世?w)と異なり、メンガーの教えを理解できたルドルフ皇太子はハプスブルグ・アンシャンレジームを否定していた!) 因みに、アンシャン・レジームとは、例えばアベ一派、日本会議らの如く只飯喰らってヒマ持て余しカルト化するバカリの世襲議院らの同好会、つまりアベ様的な妄想『英霊界式貴族趣味』の世襲・既得権集団)!w <注>そもそもAncien regimeは、フランス革命以前のブルボン朝(特に16~18世紀の絶対王政期フランス)の世襲・既得権化した古い社会・政治体制をさす。(@Tweet:水のイマージュ) →【元検事総長ら意見書全文】首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿、17世紀J.ロック「統治二論」は「法が終わるところ暴政が始まる」と警告!515朝日(画像はウイキ)https://twitter.com/tadanoossan2/status/1261393559359418369

 → 参考資料/「アベは犯罪を犯罪とも思わぬほどの破廉恥ヤロー!」を、その批判に付け加えるべきだ!苦w →検察OB意見書が引用したジョン・ロックの訳者は安倍首相の大学時代の教授! しかも「無知で無恥」と安倍首相を徹底批判518リテラ https://lite-ra.com/2020/05/post-5428.html

 カール・メンガーが活躍した時代のオーストリアはハプスブルグの本拠ではあったが、相対的な謂いで先を進むドイツと違い明らかに農業国であった。つまり、オーストリアン(オーストリア限界効用理論派)の始祖、カール・メンガー(Carl Menger/1840 - 1921)の出発点は農業経済論的な発想であり、そもそもそれは今で言うエトノス生態系orエコロジー論と親近性があるものではなかったのかと思われる(画像はウイキより)。

それは、本格的なAI‐Web時代になった現代であるからこそ、近未来で有意な「ヒトのため持続し得る資本主義」という視野の中で漸くその輪郭が見え始めてきた、否、というよりも、漸く、今のプロセスでこそ気付かれつつある「『日常』における潜性イノヴェーション」の問題ではないかと思われる。

言い換えると、それはオーストリアンの始祖である、このウイーン大学のカール・メンガーの残照ともいえるものであり、それは欧州における広義の農業経済の伝統の遥かな先にメンガーが見ていた「日常(生活)における潜性デュナミス生産性」良い意味での幻想が紡ぎ続ける信用のネットワークということではなかったのだろうか。

メンガージェヴォンズ(W. S. Jevons/1835 - 1882/英国の経済学者、論理学者)、ワルラス(M. E. L.Walras/1834 - 1910/スイス(仏生誕)の経済学者)らと共に「限界効用理論と近代経済学」の創始者の一人に挙げられる。因みに、限界効用理論とは、マルクスの労働価値説と異なり、財価はヒトの効用で決まると見なす限界効用『逓減』の考え方である。

しかし、メンガーは数学・統計学に長けていたものの古典派経済学の「価格の決まり方(その決定の理論、アルゴリズム)」と「実際の市場(市民の日常がベースとなる)での価格の決まり方(リアルな値動き)」との不一致ということに気づいていたとされる(コレは後で述べる『人間の壁2』労働生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、およびそのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)への気付きともいえよう)

そして、そもそもメンガーは絶対(原理主義)的な使い方という意味での経済学の<数学>的定式化(一定の抽象論理でリアル経済のトータルを括ること)に懐疑的であり、かつ均衡点の分析よりも均衡に至るリアル過程をむしろ重視していたので、同じ近代経済学の祖であるとしてもメンガーの限界効用論へのアプローチがジェヴォンズとは根本的に異なっていたと見るべきだろう。

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1266460075712905216

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1266460075712905216

f:id:toxandoria:20200528142020p:plain例えば、京大・望月新一教授が証明したとされる「数学の超難問ABC予想、検証に7年半、新理論「宇宙際タイヒミュラー理論」を10年以上かけ構築 (数学の相対性理論/経済投資効果も巨大!?)403朝日https://www.asahi.com/articles/photo/AS20200401003891.html」は、この問題と関連がありそうで大変興味深いのだが、<数学>的な業績を短絡的にリアル経済効果とストレートに結び付けるメディア一般と日本政府の“新自由主義”に呑み込まれたスタンス(↓)は可笑しいのでは?というか、彼らは望月新一教授の新理論どころか“数学”そのもののレゾンデートルが分かっていないのではないか?(wごとではないがw!/望月氏の画像はhttp://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~motizuki/より)

<補足>数学のみならず自然科学および人文《知》の根本的な役割は、決して“新結合エネルゲイア(普通の意味で顕在化した経済イノヴェーション)、いわば<金の生る木>などではなく、それらが「ヒトと全く対等な現実(リアリズム)との関係性の一環」でありつつ地球エトノス環境の保全とヒトが遍くより幸せになることに資するべき「潜性イノヴェーション」なる<外界の思考>の世界でもある、ということだ。また、これこそ「マクダウエルのリアリズム倫理学」が主張する核心でもある(委細後述)。

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 → [関連情報/数学はカネの生る木(企業の道具)だったのか???]報告書、「数理資本主義の時代」のご紹介2019年9月4日/経済産業省 商務情報政策局 情報技術利用促進課・守谷 学、http://www.infsup.jp/utnas/190904moriya.pdf

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/b8e88370-dd4d-4aa5-aacb-eac37abca00c/67d502e5758a5015aacfc46fed9f11e4

Teichmuller.jpeg

<参考>タイヒミュラー理論/タイヒミュラー空間について、(タイヒミュラーの画像はウイキより)https://www.evernote.com/shard/s440/sh/b03e392d-e5f6-4cd8-8062-fa1fe2662bff/be0ce4936e414125d767a78719dd5

Paul Julius Oswald Teichmuller (German/1913-1943) was a German mathematisian who made contributions to complex analysis He introduced quasiconformal mappings

and  Differential Geometricmethods into the study of Riemann surfaces. Teichmuller spaces are named after him./宇宙際タイヒミュラー論(望月IUT理論)の源流は、O.Teichmüller「タイヒミュラー空間」理論にある!タイヒミュラー:ナチ党信奉者で突撃隊へ入隊し30歳で早世(戦死)したドイツの天才数学者mathoverflow.net/questions/1147 pic.twitter.com/64dmYg3x00

・・・

むしろ、メンガーの経済思想の中では同じ限界効用「逓減」ではあっても<機械生産(今流に言えばAI‐Web、IOT化など)の導入による“労働節約型”高度生産性と、(経済的レント/economic rent)の追求”に因る不均衡な「価格」価値の発生>(『 価値ある価格の経済(ローカルで生きる人々の日常を最重視する経済)』という「逓減・均衡」過程による大きな格差の発生/結果的に価格に転嫁される資本的支出と、一般の消費的支出との差異に因るレント型、機械化による市場競争型などの格差)の問題に関心が向いていたのではないか(それが予期的なものであったにせよ)と考えられる。

因みに、レント(Rent)は、次善の機会と隔絶した、不可逆的な超過利潤を意味するが、これは経済発展にとり必要不可欠であると同時に格差をもたらす要因ともなる。古典経済理論の完全競争市場においてはレントが存在しないと見なされ、今流に言えば、それはGreat Decouplingの問題となる。

例えば、それは「スキル偏向技術進歩(AI‐Web、IOT化など高度技術イノヴェーション)に因る“見かけ上の雇用一人当たりの生産性向上(GDP総額増加)」と「実質的な一家計当りの所得減少」との間の<大乖離>という形で出現している/関連→https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938)。

また、直近ではBrexitと並行して明確になった「アイルランドのレプラコーン経済」と呼ばれる「大格差」の発生がある。これは、まさに「新自由主義(グローバル市場原理)+科学(AI・金融工学等)」の賜物であり、気付きが遅れたと!自戒するクルーグマンがトランプ企業減税(過激ネオリベラリズム政策)でも同じ問題が発生する懸念を指摘している。そして、同構図は今や日本においても他人事ではなくなりつつある(関連https://himaginary.hatenablog.com/entry/20171111/leprechaun_economics

◆【ペテン師アベが仕掛けたアベコベの罠】新コロナパンデミックは、『価値なき価格の暴走』から『 価値ある価格の経済(ローカルのヒトの日常を最重視する経済)』への転換が必須!を我々へ警告しているのではないか?→古典百名山:「実体が主体(一種の“外界の思考”のジャンル)」という独創  ヘーゲル精神現象学大澤真幸が読む502朝日https://twitter.com/tadanoossan2/status/1256553681396174850

・・・

これは明らかに「人間の壁」と呼ばれる大格差発生の問題であり、それは『(ヒトにとり、その儘では意味がない)価値なき価格の暴走』が生じていることを意味する。そして、それこそここ十数年来において中間層が没落してきた主な原因となっている。AI機械に因る「人間の壁」とは、先ず、そもそもはAI機械から創出された価値のままではあくまで可能性に止まる高度生産性だということを意味する(人間の壁1)。

更に、それが不公正なレント的な分配(ここでは、主に“市場競争の激化”に因る必然的な機械化の加速で過剰利潤が発生していることを意味する)の形となっているため、多数派層の個々の人々のリアルな『日常』の充実に資するマネー(いわば生命個体におけるエネルギー通貨の如きもの)として役立っていないことを意味しており、おそらく殆ど無意識であるにせよ、それは必然的に多数派のヒトに対し大きな不満や不安感を与え続けると考えられる(人間の壁2)。

<注>「人間の壁1」について・・・生命体のヒトにとって、AIの高度機械生産性は、それが抽象化である限りあくまでも可能性の次元に留まることになるので、それは「AI抽象化デュナミス潜勢態(潜在生産性)」と表現することができる。別に言えば、準汎用または汎用AIロボが実現すると思われる近未来においては、愈々、「機械生産性(デュナミス潜在生産性)vsヒトの生産性(リアル生産性)」という非常に大きな壁(基本的なレベルでの大格差)が発生することを意味する。そして、結局は「人間の壁1」の公正な分配の工夫を政治が怠れば、益々、格差拡大が昂進するため、やがて深刻な「人間の壁2労働生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、およびそのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)をもたらすのは必然と考えられる。(関連参照 → https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514)。

ところで、著書『純粋経済学要論』で一般均衡理論(限界革命)の父と見なされてきたワルラスについても、従来の一般的評価とは異なり、「ワルラスも“限定合理主義”的で、どちらかと言えば“分配の公正 (社会的正義)、 生産力増大(社会的利益)を同時に実現する”という「公正経済学」的な発想の持ちであった」ことが次第に理解されつつあるようだ。例えば、鈴木則稔・筑波学院大学教授の下記論文▼によれば、レオン・ワルラスを自由原理主義の祖の一人と考えるのは明らかに短絡的であるようだ。

▼「ワルラスの経済学観と科学への視点」−英国モラルサイエンスとセイの間で−/鈴木則稔・筑波学院大学教授、https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2013/04-suzuki.pdf

それによれば、シュンペーターが高く評価した人物でもあるワルラスは、経済分析に得意な数学的手法を活かし一般均衡理論を最初に定式化したのは確かであるが、個々人の力では及ばない大きな動きという意味での自然現象として経済を観察し分析しようというスタイルであり、その意味で経済学を自然科学(というか、言い換えれば“自然・文化エトノス環境論”)のジャンルと見立てていたことになるだろう。

そのうえで、ワルラスは人間的要素の介在のどの部分までをそこに含めるのか、どこから先を「道徳科学」など別の科学に委ねるのか、その線引きという微妙な問題に取り組んだのであった。従って、ワルラス理論経済学の最大の目的は自由競争が適用されるべき範囲を画定することであった。だから、「ワルラスを自由原理主義のルーツの一人と考えるのは誤りである。そもそも、ワルラスは効用価値説の立場でありながら、むしろ『公正資本主義』的な発想の持ち主であった」とも言えることになる。

が、オーストリアンの祖、メンガーが創始したと考えるべき「平凡な一般の人々(民衆)の主観的リアリズムが創造する「『日常』の潜在イノヴェーション」への接近(気付き)」という問題意識の流れは、その後のプロセスで紆余曲折があるものの(特にハイエクでは反動(リバタリアニズム)へ一気に反転する!@T.トドロフ/関連参照→https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759 )が、更にその大きなオーストリアンの流れはミーゼス、ハイエクシュンペーターへと続いて行く。

f:id:toxandoria:20200717165822j:plainなお、「資本、労働力、生産性(生産活動)」の三つの要素を完全に利用した時に達成される成長率、いわば仮想された“飽くまでもリアルなエネルゲイア(委細、後述)”が「潜在成長率」である。しかし、ここで仮定する「潜性イノヴェーション」はそれと次元が全く異なる「イノヴェーション(生産性)の可能性(新機軸の培地)の概念」であり、象徴的に言えばそれは定量計測が不可能なというか、定量計算を超えた、いわばヒトを含む凡ゆる生命活動と地球自然環境トータルが紡ぐ、更に換言すればそれら共存関係から生まれ続ける、無限の「未生の可能性の海」である。なお当概念の更なる理解のヒントとなり得る資料として、経済学者・宇沢弘文氏が著した下の良書★があるので、ご関心の向きは是非ともご参照されることをお勧めしておく。 ★宇沢弘文著『経済学の考え方』(岩波新書

因みに、江戸期以降の日本にも農業経済の思想、つまり農政経済論の伝統が存在したが(↓★)、例えばに二宮尊徳の先進的な「文化資本主義」の理念(報徳仕法/太平洋戦争期以前における日本思想の源流)は、特に僥倖の勝利(まぐれ勝ち!)に過ぎなかった日露戦争」以降には「国軍の父」とも称される山縣有朋らを中心とする人脈によって、軍事国家主義を支える偏った精神主義の方向へ著しく捻じ曲げられてしまった(↓●)

具体的にいえば、二宮尊徳の「仕法」と呼ばれた農業経営の実践(日本オリジナルの文化資本主義的で、かつエトノス自然環境諭的で、リベラル共和主義的な農業経営論に従った)は山縣有朋らの軍事国家政策(国策)の下で禁止となったばかりか、結果的に、それは一般的にも真逆の「富国強兵国家」の精神原理としてだけ見られるようになり、まさに<印象操作>的に悪用されてしまった。

★ 日本農政思想の系譜:理事研究員・清水徹朗/農林金融2019・8、https://www.nochuri.co.jp/report/pdf/n1908re2.pdf

京都学園大学経済学部教授・川田耕『道徳と主体』https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/39/2/39_97/_pdf https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170713/p1 

4-2 ミーゼス、ハイエクシュンペーターに通底するのは、メンガーに始まる“農業経済論・地域環境論”的な空気

・・・そもそもミーゼス、ハイエクシュンペーターオーストリアンの精神的な基層としてメンガーの農業経済論的な気質を共有するが、それは「ドイツ歴史学派とオーストリアンの『近親的相剋』」の流れと言い換えることができる。・・・

根井雅弘『資本主義はいかに衰退するか』(NHKブックス)によれば、ミーゼス(L.H.E. von Mises/1881- 1973)、ハイエク(F. A.von Hayek/1899 - 1992)、シュンペーター(J. A.Schumpeter/1883ー1950)の三人は落日のハプスブルグ帝国のウイーン大学で学んだことのほかに、資本主義の可能性について、ある精神的な基層(気質のようなもの)を共有していたと思われる。<注>そのように根井雅弘が強く主張している訳ではなく、当書の読後にtoxandoriaが感知したことである。

すなわち、彼らが「18世紀末~19世紀、ドイツ・ロマン派にもつながる空気、いわば崇高でアカデミックな抽象美への単なる憧れ(崇敬)と対照的な主観的・直感的な気質(感覚的な感情を主成分とする、ある種の統合的で個性的な意識)」を共有していたと思われることだ。但し、厳密に見ると、ドイツ経済思想の本流から逸脱しているとされ、ドイツ歴史主義経済学派から嘲笑を含む意味でオーストリアン(オ―ストリア学派)と呼ばれてきたという経緯があるので、この辺りは、更なる、より深い検証が必要ではないだろうか?

ともかくも、歴史学派とオーストリアンは共にドイツ・ロマン派から何らかの影響を受けているのは確かである(つまり、それは『ロマン主義、地域自然主義』的であり、かつカント的な普遍的抽象性への“過剰”な傾斜を批判する、という意識?)。

ただ、この「近親的相剋」の経験からすれば、歴史学派が個性的な人間文化とその進歩・発展の歴史をより重視(一定の強固な概念的普遍性、いわば概念飽和(Concept Saturation)の問題をより重視)するのに対し、オーストリアンには現代的に言えばより自然に接近した「エトノス環境論」的なもの(換言すれば、限定合理主義的なもの)、伝統用語で言えば「農業経済」のような空気が圧倒的に漂っていると思われる。

f:id:toxandoria:20200529022149p:plainここで、[・・・伝統用語で言えば「農業経済」のような空気が圧倒的に漂っている・・・]と書いたのは、繰り返すが、特に21世紀の現代経済へも大きな影響(リバタリアニズム新自由主義というフレームとして)を与えるハイエクが、オ-ストリアン伝統の「エトノス環境論」の空気から、まるで「ルビンの盃」(画像)のように地と図の関係が逆転(一気に反転)し、市場原理主義なる「趙抽象的な観念/余分なフリンジを一切排除する超“設計主義”」に嵌っているからだ。

<参考>ドイツ歴史学派とオーストリアンの「近親的相剋」についての概観(抜粋)/全文はコチラ →ドイツ歴史学派 (The German Historical School)、https://cruel.org/econthought/schools/historic.html

・・・ドイツ歴史学派は、19 世紀終わりにカール・メンガーオーストリア学派との長い 「方法論争」(Methodenstreit)を開始するまでは、自分たちが学派だという認識すらなかったかもしれない。しかし、自分たちのやっている経済学が、リカードやミルの古典派アングロサクソン世界でやられているものとはまるでちがうことは、ずいぶん前から認識していた。かれらの経済学は、名前からもわかるとおり、「歴史的」で、だから経験的、帰納的な理由づけに大きく依存していた。 ルーツはヘーゲル哲学であり、リストやミュラーロマン主義・国粋(というか過剰に地域/補記、toxandoria)主義的な「観念論」への批判にある。英仏海峡を越えた仲間意識は、古典派とではなく、イギリス歴史学派とのものだった。

・・・歴史学派の初期の手法原理は、ヴィルヘルム・ロッシャー(Wilhelm. G. Roscher/1817 - 1894/ドイツの経済学者で、経済学における旧歴史学派の始祖)によって決められた。ヘーゲルに従って、ロッシャーは普遍的な理論体系という考え方を否定した――経済的なふるまい、ひいては経済の「法則」はその歴史的、社会的、政治的な文脈に依存しているのだ、と論じて。

・・・つまり、経済的な手法はどうしても学問領域をまたがるものとなる。経済活動は、経済学者としての目だけでなく、歴史家と社会学者の目をもって見る必要がある。だから最初の仕事は、その社会における経済組織と社会組織との関連についての発想を得るために、歴史を細かく検分してやることだ、ということになる。結果として初期の歴史学派の仕事―特にロッシャーの初期の弟子たちの仕事は、歴史を通じた経済組織の段階論に集中している。

4-3 ハイエクフリードマン】新

自由主義の二つの盲点/市場原理主義リバタリアニズムに因る)なる概念飽和(Concept Saturation)の囚人たち

・・・『効用価値説』をめぐる概念上の混乱、そして「概念飽和」の問題・・・

ツベタン・トドロフ(Tzvetan Todorov/1939 - 2017/ブルガリア出身/仏の思想家、哲学者、文芸批評家)の著書『民主主義の内なる敵』が最も強調するのは「新自由主義市場原理主義)の盲点」ということだが、それは「(1)ロック、ホッブスら革命(啓蒙)思想家からハイエクミルトン・フリードマン新自由主義者が受け継いだ抽象的・普遍的価値観の重要性」と、「(2)同じく彼らが啓蒙思想家から受け継いだ“ヒトを物質的 or 合理的な利益を求める欲望のみで動かされるエゴイスト”と見立てる『効用価値説』(完全合理主義のジャンル/但し、そう見立てない限定合理的な効用価値説もあり得る)に立脚すること」の二つに、過剰に嵌り込んでいるということだ。

(2)の『効用価値説』は、いわゆる近代経済学(『労働価値説』に立つ“古典派経済学とマルクス経済学”から区別した呼び方)の特徴であり、現代につながるこの『効用価値説』の流れの中に新自由主義市場原理主義)も入る。また、産業革命の成熟期と歩調を合わせるかのように、19世紀末の西欧でオーストリアメンガー、英国のジェボンズ、スイスのワルラス新古典派経済学(効用価値説)の理論が登場する。

一方、アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall/1842 - 1924/ケンブリッジ学派を形成した経済学者)は効用価値説と労働価値説を統合した。しかし、マーシャルはヘーゲルやドイツ歴史学派の影響を受けている。だから、マーシャルは新古典派と激しく対立していたドイツ歴史学派に近かった。

従って、上の<参考>でふれたドイツ歴史学派とオーストリアンの「近親的相剋」の関係へも視野が届いていることになり、マーシャルは、ジェボンズの純粋な効用価値説の合理主義よりもむしろワルラスの“一定の人間的要素の介在を必須と見る”ような視座、あるいはメンガーの農業経済論的な視座(というか『人間の壁』への気付き)に接近した新古典派経済学というべきかもしれない。

つまり、同じ効用価値説とはいっても、既に見てきたとおりのことから、より厳密に見れば「メンガー(出発点は農業経済論的な発想)、ジェボンズ(完全合理主義の“正統”効用価値説)、ワルラス(限定合理主義的な効用価値説)という具合で、そもそも三者には『効用価値説』それ自体の理解について可成り大きなニュアンスの違いがあったと見るべきだろう。

4-4 「批判実在論(Critical Realism)」の眼差しと「概念飽和(Conceptual Saturation)」の問題

f:id:toxandoria:20200529024359p:plainところで、このように「一定の規定概念」に関わる可成り大きなニュアンスの違いは何故に生ずるのか?この点を深く追求したのが、『社会科学の方法-実在論的アプローチ-』(ナカニシヤ出版)の著者アンドリュー・セイヤー(Andrew Sayer/1949- ) が同書のテーマ「批判実在論(Critical Realism)」を説明するために重視する「概念飽和」の問題意識である。

アンドリュー・セイヤーは、英国ランカスター大学社会学部教授で、専門は社会理論および政治経済学である。社会科学に関する哲学的諸問題に一貫して関心を寄せ研究をし

てきたが、その研究は社会の実質的な諸問題、特に政治経済と不平等の問題の研究と常に結合している。上の著書は、欧米で30年にわたり版を重ね続ける名著で待望の初訳である(当パラグラフは@ナカニシヤ出版の案内文)。

・・・

[これは概念飽和ならぬ概念硬化アベJPNルイ16世「内閣」は、相変わらず“黒は白だ!”のアベコベ閣議決定を乱発している!  →「黒川マージャンは、適切処理済みなので再調査必要なし」の答弁書閣議決定 605朝日]

f:id:toxandoria:20200607051203p:plain

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1268792512224714752

・・・

「概念飽和」を理解する手掛かりとして、卑近な事例となるが「安倍政権がゴリ推しした件(くだん)の検察庁法改正に関連して“自由民主党国会対策委員長(第57代)森山裕氏の発言、「検察官は準司法官と言う立場もあるので公務員法との分離は不可能だ!」という根本的な間違い、というか心得違いの問題を取り上げてみる。 →(関連)@金子勝さん/【三権分立と法の支配の否定】検察庁法改正に反対する松尾邦弘・元検事総長ら検察OBが法務省に意見書を提出。ルイ14世の「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿とさせるような姿勢だと指弾し、ジョン・ロックの「法が終わるところ、暴政が始まる」を引用する。https://twitter.com/masaru_kaneko/status/1261383887403573249 https://twitter.com/masaru_kaneko/status/1263223416007438336

◆【訓告は行政処分にすら当たらない!】森法相も、安倍総理も「検察(官)は国民の権利保持のための仕事(懲罰権と表裏の関係)に奉仕する重要な役割がある」のを理解出来ない<概念破綻>のバカでは?同病相哀れむ訓告でのお茶濁しは国民への侮辱だ!(あるいは、ひたすらバカの振りに徹している?w)https://twitter.com/tadanoossan2/status/1263499595679596546

 ・・・そもそもジョン・ロック「法が終わるところ、暴政が始まる」(法の支配の原則)とモンテスキュー三権分立」の立場から、司法の一角を担う検察官には国民の権利保持のための仕事(検察の懲罰権と表裏の関係にある)に奉仕するという重要な役割が(も)存在する。

・・・従って、「法の支配および三権分立」の原則からすれば、「安倍政権がゴリ推す件(くだん)の検察庁法改正が導くべき言説は、普通の意味では<検察官は準司法官と言う立場でもあるので公務員法との分離は可能だ!つまり、むしろそれは分離すべきである!>となる筈であり、森山裕氏の準司法官についての理解はこの当たり前の理解とアベコベとなっている。よりハッキリいえば、これは異常解釈である(あるいは、安倍首相と同じで全く基本知識に欠けているのかもしれない!それとも、やはり悪質な作為か?)。

・・・そして、この「森山裕氏の異常発言」を許した原因は、そもそも「法の支配および三権分立」なる夫々の「規定概念としての概念飽和の定義内容を作為で変えるべきではない法律用語だ」ということにある。

・・・

ところで、先に挙げた用語「批判実在論(Critical Realism)」の創始者は現代イギリスの哲学者ロイ・バスカー(Roy Bhaskar 1944−2014)である。梶原葉月氏社会学者、立教大学社会福祉研究所研究員、ジャーナリスト/↓★)によれば、英国の哲学者ロイ・バスカーが提唱した社会科学論のベースとなる新しい認識論である「批判実在論」は、中世~啓蒙期に革命的な視座を提供した事実同定型の「実証主義」、1950年代以降に米国で台頭した“社会の多様性”が前提の「(言語)解釈主義」に次ぐ、「“経験観察(客観現象)分析(各現象内構造)”の3領域の説明的な統合理解(認知)こそが実在の在処(正体)だ!と見る新しい認識論の立場」である。

★梶原葉月オフィシャル・ブログ:批判的実在論https://hazuki.ddtune.com/%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96/

・・・

社会科学は予測可能性で評価されるものではなく、その説明力で評価されるべきであると主張し、ロイ・バスカーは、新しい認識論である「批判実在論(Critical Realism)」に基づき「説明的社会科学」(explanatory social science)を提唱している。

この広角な視座は、「人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス/consilience)/▼」への接近を連想させるものでもあり、本格的AIの時代に入りつつあると喧伝される昨今であるからこそ、ヒトとAIの根本的な差異の問題はもとより、改めてヒトの正体を正しく理解し直すためにも、更に、例えば批判実在論とコンシリエンスの融合のような試みから如何なる新たな認識論が可能となるかを検討すべき時代に入りつつあるのかもしれない。

▼抑制的なAI活用を視野に文化進化論・進化経済学らによる新しい知の総合、コンシリエンスの視点で21世紀の多元的『啓蒙主議ルネサンス』を目指すべき、https://toxandoria.hatenablog.com/entries/2016/11/07

4-5「概念飽和(Conceptual  Saturation)」と「概念規定(Conceptual Provision)」の関係、という視点の重要性

ところで「概念飽和」的な考え方は普通に我われが、殆ど無意識に理解していることでもある。例えば、物や色などを表す言葉の意味(概念・イメージ表象)、または抽象的な言葉の定義(概念・表象)などが、ある程度は一定の範囲に止まる「概念規定(Conceptual Provision)」がなければ、我われの日常的なコミュニケーションが取れなくなるはずだ。

従って、そのような場合に一定の範囲で言葉上の概念の領域が留まることは、それ自体が概念飽和であり、そのような意味での概念飽和は、至極あたりまえのことであるといえる。それどころか、この意味での概念飽和(つまり概念規定)がなくて、もし一定の範囲の意味が共有できない(その意味での概念飽和がない)とすれば、日常会話でのコミュニケーションは無論のこと、特に法律や科学技術など専門分野の用語では致命的な問題に繋がることになるだろう。

一方、ものごとの寛容な理解や、多様性を大切にしたり、あるいはイノヴェーション・新発見・芸術的創造性や豊かな想像力の発揮などのためには、その意味での概念飽和(これは概念規定と言うべきだが)に余りにも過剰に固着すると、それらに関する新しい可能性や能力発揮の機会を逃したり、又はヒトにとって最も重要な人間性を破壊したり人道上の犯罪を犯したりする如き悪行さえ、人間社会で当然視されることにもなりかねない。

だから、個々の「概念飽和」(厳密に言えば、概念飽和または概念規定)をコミュニケーション媒介として日常的に利用せざるを得ない人間社会では、多様な概念がそれ自体としては絶対に独立的に超然と存在(君臨)することはできず(数理的なそれは別として抽象概念そのものさえもが)、我われは必ず「エトノス自然・文化環境」と数多の「ヒトの生命の一回性」との多面的で生命論的な関係性での共鳴と干渉の場のなかで相互に生かされ、生きている存在なのだという理解を前提にして(選言論(説)のテーマとなる視点/↓★)、絶えず謙虚に目前の<リアル(実存)>を理解する努力を持続させる必要があることになる。

★選言論(説)とは?・・・「選言説」(intentionalism)は、知覚・感覚ひいては感情こそがヒトの日常言語における固有名等の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る、言語哲学の立場である。「選言説」は、一般的には概念説(表象説、概念相対主義/relativism)と対置されるが、ジョン・マクダウエル(John Henry McDowell/1942- /南アフリカ出身の哲学者、ピッツバーグ大学教授)の「リアリズム倫理学」では、これが「ヒトの意識=第二の自然」と定義する根拠とされており、それを第一義の自然(従来からの自然)と等置する考え方のベースとなっている。https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125305

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  これはゼロサムファシスト!つまり、“概念硬化”野郎!

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つまり、「ヒトとしての傲慢な心性を遍く捨て去り、そのような謙虚な態度を前提条件」としさえすれば、たとえそれが専門用語の概念規定の謂いでの「概念飽和」であるとしても、又はたとえそれが啓蒙思想の普遍観念(高度に抽象的で歴史的に確立された)であるとしても、その規定的な意味の変更をアカデミズム(学界)や周囲の社会一般の人々との間で、等しく十分に文脈的で民主的で説明的なコミュニケーション(マクダウエル“リアリズム倫理学”↑★のフェーズでの対話)を介する微調整で変容させることは可能であることになる。従って、それが安倍政権下の如く、一強化した政治権力の下の詐術的・隠蔽的な手法で一方的、対国民“調教”的に行われることは論外である(関連/↑画像)。

4-6 概念飽和というより「概念硬化症」と化した、ハイエク市場原理主義(@リバタリアニズム

ハイエクはカール・メンガーの流れを汲んでおり、かつシュンペーターに大きな影響を与えたオーストリアンの一人でもあるミーゼス(厳密にいえばネオ・オーストリアンの創始者)の弟子として、その影響を受けた人物である。このため、ハイエクは「ファシズム独裁を左翼に分類した自由主義派の経済学者」と見なされいたミーゼスの思想を、基本的にその「誤解」のまま受け継いだといえる。

そもそも、ハイエクは「法哲学・政治哲学フィールドでのマンデヴ ィル(↓▲)の研究に始まり、ヒューム(感覚論哲学)とアダム・スミスの研究を経て自らに流れ込んだ自由主義を「反合理主義的、あるいは進化論的」自由主義と名付けており、それが「正しい」自然主義の伝統、すなわち英国コモンロー(慣習・判例法)の伝統を受け継ぐものだと説明している(↓★)。

▲マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴン(内需等に係る新しい生産性の培地)の発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

★[論文]ハ イエクとヒ ューム、スミス/社会秩序の形成過程をめぐって:太子堂正称(東洋大学)/経済学史学会年報、第43号 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/43/43/43_43_52/_pdf/-char/en

つまり、 ハイエクはデビッド・ヒューム (David Hume)の経験論の基盤たる感覚哲学(観念連合(観念連想))を頂点とする 道徳哲学の流れ(スコットランド啓蒙主義)、あるいはクヌート・ヴィクセル(Johan Gustaf Knut Wicksell/1851-1926/オーストリアンの祖、カール・メンガーの影響もあったと見るべき“限定合理的な限界効用学派であるスウェーデン学派”の祖)らの影響を受けており、初めのころのハイエクは、幅の広い、非設計主義的で道徳哲学的な視野が感じられる。

一方、後述するがミーゼスの特徴はメンガーに始まるオーストリアンの「方法的個人主義」(感性・地域エトノス論的主観主義)に基づく主張にあると考えられるので、その影響を受けたハイエクの思想の根本には、やはりメンガー、ミーゼスらと同質で、単なる<超>設計主義である市場原理主義を超えるとの意味で十分に普遍性があるものになる筈だったと思われる。無論、ハイエク自身およびそれを高く評価する向きは普遍性があることを今でも固く信じている。

ところが、ハイエクはその自らの研究史の長いプロセス(モンペルラン協会設立~カタラクシー(Catalaxy/自生的秩序)を経て、究極的にはリバタリアニズム(完全自由原理)に因る「市場」万能主義、いわば完全な「流石のアダム・スミスも想定していなかった市場原理主義」の世界に回収された

別に見れば、せっかくオーストリアンのエトノス論的な視座に触れたにも関わらず、ハイエクは自然エトノス(自然計算↓)の世界と「市場経済」(カタラクシー/委細後述)を同一視する決定的な誤謬に嵌ったのでは?と考えられる。因みに、同じオーストリアの影響を受けたスウェーデン学派前期(後期はストックホルム学派)の流れから、安定的な国際経済を前提とする、ある意味で“実験的”な福祉国家体制を実現したスウェーデンと正反対へ進んだことになる(委細、省略)。

想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか? それは「アナログ/自然計算(“暗黙知”ワールド?)」と「デジタル/AIディープラーニング(“形式知”抽出マシンワールド?)」の溝の深さによる?(仮説)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

換言すれば、ハイエクは「完全抽象概念の硬化症(概念飽和の1タイプ)であるリバタリアニズムを基底観念とする完全抽象設計主義(『効用価値説』の混乱(完全合理であるべきか?or限定合理であるべきか?の問題を考えること、それ自体の放棄)に、またはジレンマの逃げ口とも見える絶対コレしかない主義の囚人化?)であるグローバル市場原理主義」に、見事に回収されることとなった。

そこへ至る経緯と、その「市場原理主義なる概念飽和ならぬ概念硬化症」にハイエクが回収されるまでのプロセス描写については下記▼(当シリーズ記事(二回)の1/2)を参照乞う。

▼新コロナの警告/ファシズム2.0に抗いつつ持続できる新たなイノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(1/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759

ミルトン・フリードマン - Wikipedia

4-7 ミルトン・フリードマン概念硬化症

・・・ミルトン・フリードマン『効用価値』の経済学が生命論(ヒトの『日常』)を無視して「整序枠組み(Filing System)」なる「“抽象”概念硬化」の発想で統一理論の完成を期待したのは誤りではないか?・・・(添付画像はウィキ)

ミルトン・フリードマンMilton Friedman/1912-2006/米国の経済学者:新古典派経済学マネタリズム市場原理主義、金融資本主義の立場でケインズの総需要管理政策を批判した。ノーベル経学賞受賞)は、ハイエクの勧誘による「モンペルラン協会(委細↓★)」への加入で「ハイエク本人と同協会の“完全な市場原理主義化・リバタリアニズム化”」に大きな影響を与えた。なおフリードマンユダヤハンガリー移民の子であった。

★新コロナの警告/ファシズム2.0に抗いつつ持続できる新たなイノヴェーションはエトノス&生命の一回性を「共有する自由」で繋ぐ『日常』にある(1/2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2020/03/25/042759

そもそも、ミルトン・フリードマンシカゴ学派の第一世代(道徳哲学がベース)の経済学者であるフランク・ナイト(Frank H. Knight/1885‐1972の弟子であり、フリードマンは同じ数理経済学者の宇沢弘文フリードマンとは異質な数理経済論(不均衡動学理論)に因る“社会的共通資本”論などヒューマンな経済理論を大系づけた)とはシカゴ大学で同僚関係であった。

Audible版『Frank Knight and the Chicago School 』 | Dr. Arthur ...因みに、道徳哲学に裏付けられた自由主義を主張したフランク・ナイトは、マーシャル(一定の人間的要素の介在を必須と見る人間的な限界効用理論)を継承するシカゴ学派の第1世代と呼ばれる経済学者であるからこそ、自由競争(市場原理主義)に全幅の信頼を置くフリードマンとは違い政府による政策的な介入をある程度は是認する立場を取っており、ミルトン・フリードマンとは一線を画していた。なお、周知のとおり、シカゴ大学で同僚だった宇沢弘文フリードマンを厳しく批判している(フランク・ナイトの画像は↓★より)

★本が聴けるアプリAudible(オーディブル)、

https://www.audible.co.jp/pd/Frank-Knight-and-the-Chicago-School-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF/1481542575

ところで、既出のアンドリュー・セイヤー著『社会科学の方法-実在論的アプローチ-』によれば、フリードマンは「直感の人」とされることが多いようだが、それは只の直感ではなく、数学的才能に恵まれたミルトン・フリードマンの「市場原理主義」論は、市場経済が物質における重力の法則と類似の法則に支配されていることを前提としている。

因みに、過剰な経済成長(ミルトン・フリードマンらの市場原理主義に基づく右肩上がりのGDP準拠方式)は、生命活動と同じく「熱力学第二法則」に抵抗する活動(エネルゲイア)であるべき!なので、 そもそも論的に見れば、辛うじて「同法則」、いわば「ゼロサムの赤の女王」に抗っているかに見える「生命活動のあり方」から大きく外れることになる。従って、GDP原理主義過剰なレント経済(人間の壁1,2)をも善しとする永遠の右肩上がりGDP準拠方式)によるロストウ発展段階説(ロストウ理論、http://note.masm.jp/%a5%ed%a5%b9%a5%c8%a5%a6%cd%fd%cf%c0/)の延長としての経済活動の永遠飛行はエントロピー論的にも不合理である

だから地球エトノス環境を上限とする定常経済社会を未来に向けた最重要ターゲット(エンテレケイア)と見るべきで、そこから逆照射すれば必然のイメージとして『展相(Potenz)経済学』の廻廊(発想が異なる発展プロセス)が新たに構想できるはずだ(関連参照↓◆)。

f:id:toxandoria:20200529170035p:plain◆「定常経済」へ向かうステップとして「“シュッツの日常性”重視」(委細後述)と「自然と生命のあり方」を見倣う<オープンソース循環型経済>への期待 https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180806/p1

<注>添付画像(↑)は、生命現象(自然界における個々の生命維持現象の内外の大きな繋がり)をモデルとしつつ、ケイト・ラワースが「クズネッツ曲線の誤り」の発見から着想した「自然界の繁栄を支えるネットワーク」のイメージ(https://www.weforum.org/agenda/2017/04/the-new-economic-model-that-could-end-inequality-doughnut/より)。

・・・

また、アンドリュー・セイヤーによれば、フリードマンに特徴的な<「抽象概念基底的な意味」での“抽象”概念飽和>を示す典型的な表現はミルトン・フリードマン自身が好んで使った「整序枠組み」(ファイリング・システム/Filing System)という用語である。いわば、ファイリング・システムの如く「分類・論理・体系」的に整然と配列され続ける経済理論体系のイメージだ。

従って、ミルトン・フリードマンにおいては「リアル経済に関わる客観・実在・因果的合理性/多数派の人々、自然環境などのリアル実存と遍く対応する『現場』の論理」(あらゆる人間の実在とエトノス環境のための大きな合理主義)と「抽象概念的な主観・論理的合理性」(特定の人間の欲望に因る局在的で小さな合理主義)の混同が見られるということになる。

ツヴェタン・トドロフが指摘する<市場原理主義リバタリアニズムに因る)なる、この種の偏狭な『市場』の理解に距離を置いたのがシュンペーターであった。つまりミルトン・フリードマンの「マネタリズム(金融資本主義)と市場原理主義」もハイエクと同じく『市場』なる一定の抽象的な領域に固着した、概念硬化の意味での概念飽和(Concept Saturation)>だということになる。

特に、ミルトン・フリードマン経済学の場合は、その重力物理学(修正重力理論/数学)の概念を援用した市場原理に関わる抽象的で物理数学論的な表現ロジックが、あまりにも過剰にその客観性・科学性に拘るあまり「経済学が真に凡ゆる人々の厚生の充実のための科学利用へと更に深化する機会を奪ってしまったのではないか?」と考えられる。 

<参考>ジェフ・マドリック『世界を破綻させた経済学者たち:許されざる七つの大罪』(早川書房)一見エレガントな理論が、実はとんでもない破局の元凶だった。/ニューヨーク・タイムズの名物コラムニストが、フリードマンからアセモグルまでのスター経済学者を筆刀両断評論家・佐高信の造語)、今後の対処策を示す痛快作。

・・・

ロイ・バスカー、アンドリュー・セイヤーらの「批判実在論」における「概念飽和」という考え方の半分は、我われが普通に、しかも殆ど無意識に理解していることである。それは、ある言葉に伴う概念(意味)が一定の範囲内に留まることがなければ、人間社会でのコミュニケ―ションが殆ど不可能となるからだ。例えば、「ご飯論法の達人?」として揶揄される、JPNルイ16世ゼロサムファシスト)こと安倍晋三・首相に起因する現下「日本の大混乱」を想起してみればよい。w

一方、ハイエクミルトン・フリードマンリバタリアニズム(完全自由主義)の立場から生まれる非常に厄介な、時と場合によっては非常に有害な概念飽和(というよりも概念硬化)が、アカデミズムや社会通念の中で権威化されてきたものにも必ず存在することも我われは知ったはずだ

つまり、ものごとを寛容に理解したり、内外の環境変化に適応し永続的に信用を繋ぎ留めたり、多様性へ適切に対応したり、あるいはイノヴェーション・新発見・芸術的創造性や斬新な想像力の発揮などのためには、概念規定または概念硬化の意味での概念飽和に拘り過ぎるのは有害だということである。

ハイエクミルトン・フリードマンらのリバタリアニズム市場原理主義の如く、そのあまりにも専門的で権威的な「概念飽和(概念硬化)」に固着し過ぎると、新たな可能性の発見や能力発揮の機会を逃したり、またはヒトにとって最も重要な人間性を破壊したりする人道上の罪を犯す悪辣な行為さえもが、人間社会で当然視されることになりかねない。

ともかくも、個々の生命の“一回性”と“永続性原理”の橋渡しと見るべき生命・生態論およびリアルな人間社会の日常性と深く関わる人文・社会科学フィールドでは、自然科学(数学・物性物理学あるいは量子物理学ら)の如き意味で究極の統一理論の完成を期待することは、それ自体が誤りではないか。なお、このような論点については、新進気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルも「新実存主義」の立場で主張している。

だから、これはフリードマンの師であったフランク・ナイト(道徳哲学が原点!)の立場と重なるが、絶えず、より広範な視座を提供し続ける哲学・倫理の視座こそが最も重要であり、その哲学・倫理を頼りに「整序枠組み」(ミルトン・フリードマンが好んだ用語)へのアプローチを、絶えず広角の視座で大系づけし直し続けることが重要だということではないか?

無論、このような態度は人文・社会系でも重要であるはずだが、自然科学系でも、特に生態環境の中で生きざるを得ないヒトを視野に入れた生命論・生態論を土台とする視点(いわば、その意味での科学哲学の視座)が究極的には必須となるはずだ。換言すれば、それこそがヒト自身を認知理論的に理解するための多様性に満ちた開放系ワールド(潜性イノヴェーションが偏在する世界)へのエントランスの確保ということになるだろう。

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さもなければ「科学の過剰サービス化(カール・マルクス/デヴィット・ハーヴェイの解釈に因る/Cf. デヴィット・ハーヴェイ著『経済的理性の狂気』-作品社-)が主張する通りになるだろう。つまり、完全「設計主義」的な”新自由主義リバタリアニズム)に呑み込まれた新古典派経済学の如く、科学・科学技術が完全に人間(ヒト)離れした市場原理主義に吸引される恐れがあるということだ。 

4-8 ミーゼスの資本主義への希望の底流

・・・それはオーストリアン伝統の「方法的個人主義」(感性・地域エトノス論的主観主義)・・・

ミーゼスは、オーストリアン(オーストリア経済学派)の始祖とみるべきカール・メンガーの流れを汲み、ウイーン大学(法学を学ぶ傍らメンガー経済学の影響を受ける)で学んだあとアメリカ(ニューヨーク)へ移住した。また、事実上、ミーゼスはネオ・オーストリアン(米国におけるオーストリアン)の創設者と見るべき人物でもあり、主にニューヨーク大学で活躍したが、ハイエクはその弟子の一人にあたり、ハイエクはミーゼスから大きな影響を受けている。

根井雅弘『資本主義はいかに衰退するか』によれば、新自由主義イデオローグ、すなわち「市場原理」主義なる「完璧に抽象的な観念/余分なフリンジを一切排除する超“設計主義”ともいえるリバタリアニズム(完全自由主義)に基づく」に転向した後のハイエクと共に、特に日本では“保守・反動の烙印”を押されてきた(このハイエクのイデオローグが新保守主義と結び付いたことに因る)。

・・・市場原理主義とは全く異質な、ミーゼスの「市場を重視する自由主義論」・・・

しかし、ミーゼスの「(人間のために)市場を重視する自由主義論」がシュンペーターへ大きな影響を与えたという事実を含め、日本では一般的にミーゼスがあまり理解されてこなかったようだ。因みに、このミーゼスの「市場を重視する自由主義論」は、ハイエクミルトン・フリードマンらの市場原理主義とは直接的には無関係であり、むしろ、それはメンガーに始まるオーストリアン伝統の「方法的個人主義」(感性・地域エトノス論的主観主義)に基づく主張である

また、この点はハイエクとも共有する部分になる訳だが、たしかにミーゼスは「市場を重視する自由主義論」が経済(学)として現実化し得るのは自由社会においてだけであり、ファシズムあるいは、一党独裁社会主義共産主義の下でそれは絶対に不可能だという固い信念をもっていた。しかし、ミーゼスの「人間のために市場を重視する自由主義論」については、“オーストリアンの感性・地域エトノス論的主観主義”(農業経済論の感覚から、(レント)や過剰投資(投機)への警戒の視点が潜む)に基づくことを想起すれば後にふれることになるシュンペーターと共に、ミーゼスの経済イデオローグが単なる超設計・抽象主義の“市場原理主義を超えており”、それは十分に普遍性のあることが理解できるはずだ。

ミーゼスの代表的な著書『人間行為学/ヒューマン・アクション』1949、ユダヤ系であったミーゼスが米国へ亡命した直後に完成した/人間行為学の基礎的地平から、市場、通貨、景気などの経済的命題を捉え直し、社会主義国家、福祉国家による過剰な市場干渉の誤りを解明し、自由主義思想のメルクマールとなったミーゼスの代表作)は、市場・通貨など経済的命題を再把握して社会主義国家、および完全な福祉国家による市場干渉の誤りを解明してお、その意味ではハイエク新自由主義に大きな影響を与えた。しかしながら、只ひたすらの安定(安寧)から発展(エネルゲイアたる付加価値創造)は生まれず、所詮、市場は不安定なものであるが故にこそ発展を遂げざるを得ないものだ、というのはある意味で正鵠を得ていると思われる

ヒューマン・アクション | ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス, 村田 稔雄 ...

・・・ミーゼス『ヒューマンアクション(人間行為論)』の核心とシュンペーターへの影響・・・

しかし、そこで思考が止まればハイエクが究極的にリバタリアニズムなる完全な超設計主義(これしかない!というレベルの概念飽和(というよりも概念硬化というべきかも!)に取り込まれた、つまりミイラ取りがミイラになる構図)に固着してしまったハイエクとさして変わりがないことになる。ところが、シュンペーターと同じく、実際にミーゼスの慧眼の核心は、そこではなく『日常』(シュンペーターで言えば静態に相当する部分)の意義の解明という点にあったといえる

つまり、ミーゼス『ヒューマンアクション(人間行為論)』で最も重要なことは、それが“不確実な未来に対処しつつ、今を生きるリアルな生命のための経済論”であったということに他ならない(均等循環経済論)。このような考え方(ミーゼスの均等循環経済なる思考実験)が、後述する「シュンペーターの動態論」を先取り的に準備した(シュンペーターに影響を与えた)ことも記憶すべきである。

だからこそ『資本主義はいかに衰退するか』の著者根井雅弘は、ミーゼスが、オーストリアンの方法論的個人主義にならった代表的な著書『ヒューマンアクション(人間行為論)』のなかで、“人間の行為とは選択することであり、不確実な未来に対処することだ”と書いたのは当然のことだったと述べている

それは、「ドイツ歴史学派の「先験主義」(アプリオリ、すなわち感覚的・経験的な理解に先立つ先験的・自明的(既定概念的な)な認識を重視する立場/=いわば一定の強固な普遍的概念)」を、極力、受け入れ難かったオーストリアンの方法論的個人主義の立場からすれば、ミーゼスにとりそれは当然のことと考えられるからだ因みに、このミーゼスの立場をすらハイエクは先験的(概念基底的)だと見て批判している(@根井雅弘『資本主義はいかに衰退するか』)。

 

4-9 資本主義の未来を左右するシュンペーター

・・・その「イノヴェーション」の新たな可能性、それは「潜性イノヴェーション」の問題・・・

オーストリア・ハンガリー帝国モラヴィア(後のチェコ)生まれの経済学者であるシュンペーター(Joseph Alois Schumpeter/1883 - 1950)も、れっきとしたオーストリアンと呼ぶべきであるが、オーストリアンの中で誰よりも早く、ワルラス一般均衡理論が「純粋経済学」の確立に貢献したことを高く評価していた

しかし『資本主義はいかに衰退するか』の根井雅弘によれば、それを高く評価していたものの、シュンペーターは、生産(product service)、生産物(products)、価格と生産費(price and production-cost)が同時に成立する方程式の均衡解を求める、つまり時間の要素を捨象した『静学』)であるワルラス一般均衡理論(一般的に理解されている意味でのワルラス)だけでは、リアル「時間」を通じて変化する資本主義の『動態』(リアル動学としての経済)に切り込むことは不可能だと考えた

また同書によると、そもそもフランソワ・ケネー『経済表』(重農主義、農業経済)、マルクス「単純再生産」およびメンガー、ミーゼスら伝統オーストリアンの世界を取り込みつつ、経済「発展」の根本を解明しようとしていたこともあり、更に肝心の「経済発展」への観察が可能な現象についての契機が欠落していることに気付き、シュンペーターワルラスと異なる観点から『静態』を構想したとされる

(1)シュンペーターの『静態』

シュンペーターの『静態』の意義は先ず「静学」理論で決まる全ての経済数量を『日常』の時間の流れからいったん切り離し(より正確に言えば、仮に切り離し)、それが年々、歳々に同じく繰り返され続けるという意味での「静態」を構想(思考実験)したことにある。だから、ヒトを含む生命個体または各企業等に関わるミクロなリアル時間は仮に捨象されている。そして、その「静態」を破壊(革新)し、リアル時間での「動態」を始動するのが、企業家のイノヴェーション(革新、新結合)の遂行である。

このことについて、根井雅弘は「シュンペーターが描いた「動態」イノヴェーションでの英雄的な企業家像に心酔し舞い上がる経済人は多いのだが、「動態」の前に、先ず「静態」の基礎がなければ、そもそも「動態」での「発展理論」を体系的に指示することができないから、その基礎には、シュンペーターオーストリアンから学んだ理論の一部が使われていることに注目したい。」と述べている。

だから、モデル概念(思考実験)とはいっても「静態」(恰も、ワンショット日常の言い換えとも見える)が全くの抽象概念であると理解するのは間違いだと思われる。それは、医学における「人体解剖の意義」を考えれば分かる。というか、そもそも資本主義の理論が成立するよりも遥か前から、資本主義的な経済活動はヒトの歴史と共に存在してきたわけだからでもある。

例えば、死体となった解剖の対象は紛れもなく「静態」(死体の一部分)であるが、だからといってそれが単なる思考実験の抽象概念ではない。それどころか、確固として、その死の直前まで生命個体の一部であったものであり、その多角的(ミクロ・マクロの)な検証から、その死体(静態化した個体)の生前における生命活動の有り様がリアルに実証できる。しかも、それに止まらず、場合によっては、その静態から今後のヒトの生命活動一般に関わる新たな発見や新たな知見(可能性、ヒント)までもが得られるはずだ。

シュンペーターの「動態」における「最終需要財」と、「静態」(≒『日常』)における「生産」には深い関りがある。この様に入れ子的に“ミクロ⇔マクロ”で循環する考え方は、シュンペーターに限らず例えばミーゼスの均等循環経済など、メンガー以降のオーストリアンが特徴とする迂回生産論(ヒト・道具・機械らの生産手段を媒介させた消費財の生産波及効果を強調する立場)に加えて、彼らが共有する基調となっている。

つまり、『日常』の片側で(生命個体内の『日常』ではミクロな生命活動に支えられることによって)人々は生産財ストック(需要側から見れば消費財)の生産活動に携わっているというリアルな現実を見据えているからこそ、シュンペーターの「静態」モデルには重要な思考実験の意義があることになる。

すなわち、シュンペーターの静態と動態の関係についての、この循環構造という理解の仕方は、資本主義(生産・市場経済)の出発点であるシュンペーターの「静態」が、只の「抽象的・観念的」なものではなく生身の人間(個々の生命体)が生活する「日常」を第一義的に重視しつつ想定したものであると理解すべきであろう

それ故、「静態」における生産要素は「労働」(生命個体であるヒト)と「土地」(エトノス自然環境)の所有(分有)者である「労働者」と「地主」しか存在しないとされ(18世紀ケネーの重農主義に近い考え方)、企業家(経営者)、資本家(金融業)、投資家(投資)は「動態」において初めて現れることになる。

だから、モデル概念ではあってもシュンペーターの「静態」(ワンショット日常の言い換えとも見える)が全くの抽象概念であると理解するのは間違いであるようだ。

例えば、人間を含む個々の生命(その定義については、ひとまずマクロ・ミクロの別を問わぬ夫々が接触する諸環境との間の関係性としておく)では、動・植物の別を問わず「エネルギー通貨であるATP(アデノシン酸三燐酸)」(委細/下記★参照)を介した、生命活動(個体の成長を持続させるための新陳代謝/metabolism)が活発に行われており、同時にそこには外部経済(当事者以外に±の影響がおよぶエコロジーエントロピーなど)の問題が必ず併存する。

★細胞内におけるオルガネラ(organelle/ミトコンドリアら微小器官)のATPに関わる機能分担“再配置”の如く動物と植物ではATP(アデノシン酸三燐酸/IUPAC命名法ではアデノシン5-三リン酸)の役割分担は異なる。・・・しかし、必ず個々の生命体の内部での『エネルギー通貨』(生命活動のためのエネルゲイアの役目は共通しており、先ず、そのATPがひたすらリアル(日常の生命活動)を維持する仕事に専念しているように見える。

<参考>個体生命(真核生物)内における「エネルギー通貨(ATP)」の基本的な働きhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

1 ATP(高エネルギーリン酸結合/酸無水物による酸無水結合)には2つの高エネルギーリン酸結合があるが、生体内のエネルギーとしては末端の1つが主に利用されている。ATPATPaseという酵素加水分解されADP(アデノシン二リン酸)とリン酸になり、この時にATP1モル(グラム分子)当り7.3kcalの高エネルギーが放出される。 http://y-arisa.sakura.ne.jp/link/yamadaka/animal-cell/gene/ATP-1.htm 

2 ATPに蓄えられたエネルギーが放出され、生物の緒活動、例えば蛋白質等の合成、輸送、運動、発光、発電、発熱、発音などに利用される。一度ATPがADPとリン酸に分解・消費されると直ちに呼吸代謝系(光合成、呼吸・食物/+酵素(触媒))からエネルギー供給を受け、逆反応でATPが生成される。そのためATPは生体内での通貨に喩えられ、余分が生ずるとクレアチンリン酸などで貯金される。但し、この貯金(エネルギー物質)の割合は非常に小さいので、絶えず食糧(酸素、糖質、脂肪など)の形で外部からエネルギー源が供給される。http://y-arisa.sakura.ne.jp/link/yamadaka/animal-cell/gene/ATP-1.htm

3 ATP合成酵素については未知の領域が多く、無論、ATPアーゼ(アデノシン三リン酸分解酵素)」を人工的に作ることはできないが、特に複雑極まりないF型ATPアーゼ(分子量50万以上)はほぼ全生物に共通してATP合成に用いられる普遍的な酵素であることが知られており、そこには進化の痕跡が垣間見られない。https://numon.pdbj.org/mom/72

・・・

因みに、ケネー(Francois Quesnay/1694 -1774)に始まる「重農主義」(通商・交易(市場経済)の利潤ストックを重視する重商主義の対語)は、日本語で無理に「重農主義」と訳さず、そもそもの用語である「physeos kratesis(physiocracy/ギリシア語由来で、自然の秩序により統治する経済の意味)」で表記した方が、より正しくその意味が理解できるのではないか?それを現代的に表現すれば「エトノス自然環境を重視する経済学」(内外の“潜性イノヴェーション”の世界をも視野に入れた経済学)ということに他ならないからだ。

(2シュンペーターの『動態』

当記事の最大の関心事である「潜性イノヴェーション」とはあまり関係のないことかもしれないが、ここでシュンペーターの『動態』についても簡単に触れておく。それは、ケインズと同じくシュンペーターも、資本主義の本質を追求する目的で、絶えず「社会主義計算論争」(↓▼)を参照しつつ『静態』と『動態』の両側面への目配りをしていたと思われるからだ。

社会主義計算論争とは?https://cruel.org/econthought/essays/paretian/socialcalc.html

・・・

シュンペーターは、誰よりも素早く新しい可能性を優れた眼で発見した者が「企業家」となり資金的な援助を「銀行家」から受けながらイノヴェーション(新結合)を実現することで「静態」の世界は破壊されそこで「動態」の世界が出現すると述べる。また、そもそも『静態』には企業家がいなかったのだが、イノヴェーションするまさにその瞬間に銀行家とともに企業家がリアル経済である『動態』のステージに出現し、その役割を終えればステージから企業家は消えるとも説明している。

つまり、シュンペーターの「企業家」を何時でも存在する<経済主体>と理解するのは誤りで、その「企業家」は機能面から理解すべきだということになる。そして、更に一歩踏み込んで考えると、実は、その「動態」の舞台における<経済主体>は『日常』で生活する多くの人々、つまりそこでの圧倒的な多数派である、ごく平凡な一般の人々こそが「動態」の<経済主体>だということになる。

そして、ごく平凡な多数派の人々こそが「潜性イノヴェーション/エルゴン(死勢態・潜性態)=プレ・デュナミス(プレ可動潜性態・プレ可動潜在性)」の大きな宝庫ではないかと考えられる

まず、ごく平凡な多数派の人々が「動態」における発展的な推進力エンジンの意味での<主体>であることを理解しなければならない。それは、彼らこそが『日常』なる「静態」(ここは静態モデルではなく現勢態の側面を意味する)において基礎代謝的な消費(エネルゲイア消費活動=自然エトノス環境との代謝交換+etwas潜性イノヴェーションの開発・蓄積・拡充・再生産など)を繰り返して生き続ける<経済主体>であるということだ

従って、『潜性イノヴェーション』を理解するためのキーワードとなるのが、エルゴン(ergon/死静態・潜性態・潜在性)、デュナミス(可動潜性態・可動潜在性/dynamis)、エネルゲイア(現勢態・可動態/energeia)、およびエンテレケイア(未生態/entelecheia)ということになるだろう(いずれも、そもそもはアリストテレスの用語)

可動潜性態(デュナミス)は現勢態(エネルゲイア/energeia)に先行的に対応(いわばプレ・エネルゲイアの謂いで)する。エルゴン(ergon/死静態・潜性態・潜在性)は、ヒトの内心(および社会関係あるいは自然との関り)の中で普段は休眠状態(死静態)にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的性質をもつ情念・表象または何らかの複雑な関係性を意味するのに対し、それがリアル活性化すると「±」両者(又は中間的な性質)の何れかを表現する表象的・言語的なヒトの意識活動となる

つまり、ヒトの『日常』(日々のリアル生命活動であるエネルゲイア=現勢態・可動態)は、「エルゴン(死生態/潜性イノヴェーション)⇒デュナミス(プレ・エネルゲイア)⇒エネルゲイア(現勢態・可動体)⇒エンテレケイア(未生態)」のプロセスに支えられていることになる。

しかし、潜性イノヴェーションとほぼ同義のエルゴン(死生態)と異なり、デュナミス(プレ・エネルゲイア)は、例えば機械力やAIロボ等がもたらす高度生産性(高付加価値)の謂いであるが、これらはリアル・マネー又は同等価値として分配されぬ限り多数派の人々のエネルゲイア現勢態・可動体)としては無効(只の可能性として1%派の占有対象)であり続ける。

換言すれば、(+)デュナミスが何らかの機械処理ないしは消費活動等で言語(意識)的に、あるいは経済活動的に表現され、それが形式化され(例えば契約などの形で)リアル化するとそれが新たに創造される経済価値(付加価値)のデュナミス(潜在性・潜性態)というリアル可能性の創造物となり、その貨幣化による分配と蓄積がヒト・企業・国家に必須の富の形成力(エネルゲイア/現勢態・可動態)となる

なお、歴史的に見ておくと、19世紀のプロイセン時代ドイツの言語学者であるW.フンボルトは、普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念or表象のことを表す特別の用語としてエルゴンを使った。

それがリアルに活性化すると、±両者の何れかを表現する言語的な意識活動となる。近年の生(命)化学、量子物理学ら先端科学研究フィールドにおける生命エネルギー論では、たとえばATP(アデノシン酸三燐酸)あるいは生体中の微小管(microtubule)などヒトの意識とプレ生命エネルギーたるエルゴンの(おそらく量子論的な?)関係性が注目されつつある(Ex.@R.ペンローズ、Cf.↓★)。

★コンシリエンス的“想像力”に因るリアリズムの復権と自覚が必須!/ バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/09/01/165255

ところで、シュンペーターは「動態」におけるイノヴェーション(新結合)として五つを挙げている(@根井雅弘『資本主義はいかに衰退するか』)。

(1)新しい財貨や新しい品質の財貨の生産

(2)新しい生産方法の導入

(3)新しい販路の開拓

(4)原料や半製品の新しい供給源の獲得

(5)新しい組織の実現

ここで分かるのは「シュンペーターのイノヴェーションが只の機械化や広義の技術革新」だけに止まるものではないということだ。しかも、これら五つの項目のすべては、その前提として「潜性イノヴェーション」、いわばヒトの『日常』(日々のリアル生命活動)の中に存在する「エルゴン⇒デュナミス(プレ・エネルゲイア)⇒エネルゲイア(現勢態)」の内の前段二つのプロセスを前提にしてこそ成立するということだ。

これが「『日常』は潜性イノヴェーションの宝庫」ということの意味である。更にいえば、そうであるからこそ、『日常』において「歴史性、および内外の自然環境(ミクロ~マクロに拡がる)との関係性」を意識できる、圧倒的な多数派層の平凡な人々が、“潜性・現勢”両イノヴェーション(潜性イノヴェーションとリアルイノヴェーション)の<主人公>だと見るべきだ!ということになる。

従って、シュンペーターの「動態」における一過性の<経済主体>である「企業家」(比喩的に理解すれば、これは漫然と『日常』で暮らすサラリーマン経営者は経営者に非ず!ということ)と、『日常』(静態・動態の両者から成る)のれっきとした経済主体である「圧倒的な多数派層の平凡な人々」が、「人間の壁」の分配問題の解決に取組みつつ、共に手を携えて協力できる関係を創ることが肝要である。

5『日常』は「潜性イノヴェーション」のエントランス/『日常』における潜性イノヴェーションの在り処を探る

・・・シュンペーターおよびカール・メンガーオーストリアンが直感していた「『日常』の潜生イノヴェーション」(“緑のカナリア”)への予感、の在り処を探る・・・

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<注>美しい声のカナリア(緑のカナリア)のピピネラの画像は、当記事 [4 シュンペーターは「『日常』潜性イノヴェーション」を感知するオーストリアンの終着点、未生への希望“緑のカナリア”の共有!] の再録。鳥のオペラのプリマドンナ、美しい声のカナリア(緑のカナリア)のピピネラは、「潜性イノヴェーション」の在り処の象徴にも見える?! https://www.iwanami.co.jp/book/b269250.html

いま、20世紀前半に米国で活躍した現象学的社会学」(日常を生きる普通の人々の視点から日常生活世界の自明性を問うことで社会的現実の有り様を考察する)の始祖、A.・シュッツ(Alfred Schutz/1899 - 1959/ウイーン出身)の「他者への想像力に基づく日常生活世界の意味(日常性の社会学)」が注目されている(ヘルムート・ワーグナー著、佐藤嘉一 監訳『アルフレッド・シュッツ』‐明石書店‐/アルフレッド・シュッツ、トーマス ルックマン(シュッツ没後に加筆・編集)共著、『生活世界の構造‐ちくま学芸文庫‐)。

Alfred Schütz - Wikipediaその理由は、この「A.シュッツによる日常性(生活)を凝視する視点(生命現象にも似た複雑な関係性のネットワークを慎重に観察する)」が、近未来の「定常経済」社会のため(『日常』重視の経済社会を実現するため)の「全く新しい生産性の定義」を提供する可能性があると思われるからだ

つまり、それはサプライサイド生産性論の呪縛(論理の飛躍/参照↓▼)からの解放と、既成の科学技術型イノヴェーション生産性論を乗り越える新たな生産性の定義を提供することになるのではないか、という意味である。

▼「サプライサイドの論理の飛躍」について

・・・一国で1年間につくり出されるすべてのモノやサービスの価値(付加価値)がGDP国内総生産)だが、その<成長率>は決して働き手(労働力人口)の増加率だけで決まる(変動する)訳ではない。サプライサイド論の限界、つまり「サプライサイド特有の論理の飛躍が生じている原因」は此処にあると思われる。

・・・特に、重要視すべきはイノベーション+etwasの問題ということになる+etwasとは、当記事で注視するA・シュッツの『日常性』の現象学が抉る潜性イヴェーションの可能性と、それがもたらす“幸せの感情を伴う豊かさ”!の役割ということである。別に言えば、それは「 “幸せの感情を伴う豊かさ”の土壌が潜性イノヴェーションであり、その潜性イノヴェーションは「広大な感情の海の上に浮かんでいる」という関係であると考えられる。https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180806/p1

・・・

f:id:toxandoria:20200531153919p:plainところで、いまガダマー『地平の融合』(常に意味の全体論を重視し続ける非常に広角な視座の哲学)の立場(関連参照↓★)とも共鳴すると考えられる「20世紀前半に米国で活躍したアルフレッド・シュッツの「他者への想像力に基づく日常生活世界の意味」(相互主観性の中核)に関わる考察が注目されている。おそらくその背景には、愈々、これから本格化するAI化社会への“ある種の不安と危機感、そして何らかの期待感のようなもの”があるからではないかと思われる。

★[AI時代の哲学的解釈学]ガダマー(Hans-Georg Gadamer/1900 - 2002)『地平の融合』によるAI原理主義批判/「見えないこと」を見る基本的視座、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

 ・・・

また、それは「分析哲学上の一つの立場である日常言語派が、AI‐Web社会化トレンドでユーザー生成コンテンツへ過剰に依存するネット・メディアと共鳴しながら、再び、優勢となってきている」ため、ガダマー『地平の融合』(意味の全体論)的な価値を持つ社会的に“見えないこと(自然および人間社会の中で暗黙知(アナログ知)の要素が占める部分)”の重要な意味が忘れ去られるのではないか?という、一種の危機意識が高まっているからでもあると思われる。

しかし、自然および現実の人間社会では暗黙知(アナログ知)の要素が、実は相変わらず相当の部分を占有していると考えられるようにもなってきているため、もっぱらAIデジタル知(形式知)だけに頼り切る方向へ社会構造を深化させることの現実的なリスクが再認識されており、その意味でもアルフレッド・シュッツの“日常生活“を巡る議論が重要だということになる。

そこで、シュッツ“日常生活の現象学的社会学“における「サインとシンボルの役割の違い」に関わる説明を、下記論文★より抽出転載しておく。如何に多様で豊かな空間(相互主観性の拡がり)が直接的には目に“見えないこと”として、つまり我々の内外の環境世界にリアルなものとして“存在”しているか、が理解できるはずだ。しかも、これこそが普通には“みえないこと”の部分(あまり強くは意識されていない部分)の重要な意味であり、そこから「AIならぬヒトこそがやるべき仕事」の可能性が無限に広がる新世界についての展望が描けるはずだ。

★「シュッツの“日常生活におけるサインとシンボルの役割の違い”についての説明」‐出典:p.5~6/白石哲郎『アルフレッド・シュッツの記号概念─シュッツ社会学における他者理解論の射程─(佛大社会学、第43号(2018))https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BS/0043/BS00430L001.pdf

・・・シュッツにとって日常生活世界は、「人びと の間で行為する十分に目覚めた成人」を主体とする世界、外的な 行為環境および他者の存続についての自明な認識、いわばそれらの存在が、これからも安定してそこにあり続けることへの漠然とした確信である「存在論的安心」にもとづく自然的態度によって支えられた世界、自己と他者が「社会共同体:シュッツの記号概念における仲間」として動機づけあ い、そうすることを通じて共通のコミュニケー ション環境を成立させている間主観的な世界を指している。また、シュッツによれば、日常生活の現実から他の諸現実への移行、およびそれら「固有の認知様式と、明らかにされるべき固有の問題群及び地平群をもつ限定された意味領域」の間での移行は日常生活の現実内で関わる他者や諸々の出来事に対する 自然的態度が放棄される「特定のショック」を経験したときに生じるという。「夢の世界」への飛躍としての入眠、幕があがり「演劇の世界」へ移行する際に感じる内的な変化、S. A. キルケゴールが「瞬間」と呼んだ「宗教的領域」へ移行する際の様々な宗教的経験、「科学的思考の世界」への移行に際して、生活者としての情緒的な態度を停止し、科学者としての「私心のない観照の態度」に徹しようと決心することなど、日常生活をいとなむなかで経験する種々の ショックのたびに、人びとは諸現実の境界を突破して、みずからの「現実性のアクセント」を別の限定的意味領域へと置きなおすのである日常生活世界の只中において、その他の有意味的な世界への飛躍が経験されるということは、「シンボル」の場合,間接呈示する項のみが至高の現実に属しているということを示唆してい る(「サイン」の場合,間接呈示する項と間接呈示される項いずれもが至高の現実の一要素をなしている)。それゆえ、絵画、ファンタジー小説、子供の玩具、共同的な礼拝、科学的理論として客体化されている「シンボル」は、「特定のショック」そのものの「物質的基盤ないし誘因」としての役割を果たしている。・・・

・・・

つまり、別に言うならばシュッツの「見えないこと」の発見はサプライサイド生産性論の呪縛からの解放と、既成の科学技術型「イノヴェーション論」を乗り越える新たな生産性の定義を提供することになるのではないか、という意味でもある

ところで、シュンペーターの「動態」でふれたことの再録となるが、『潜性イノヴェーション』を理解するキーワードは、エルゴン(ergon/死静態・潜性態)、デュナミス(可動潜性態・可動潜在性/dynamis)、エネルゲイア(現勢態/energeia)、およびエンテレケイア(entelecheia)であった。

可動潜性態(デュナミス)は現勢態(エネルゲイア/energeia)に先行的に対応(いわばプレ・エネルゲイアの謂いで)するものであるエルゴン(ergon/死静態・潜性態)は、ヒトの内心(および社会関係あるいは自然との関り)の中で普段は休眠状態にある「±」または「善・悪」など、そもそも両義的な性質をもつ情念・表象または何かの関係性のことを意味するのに対し、それがリアル活性化すると両者の何れかを表現する表象的・言語的なヒトの意識活動潜性イノヴェーションの契機)となる。つまり、ヒトの『日常』(日々のリアル生命活動)は「エルゴン⇒デュナミス(プレ・エネルゲイア)⇒エネルゲイア(現勢態)⇒エンテレケイア(entelecheia)」のプロセスに支えられている訳だ。

だから、(+)のエルゴンが何らかの機械処理ないしは消費活動等で言語(意識)的に、更には経済的に表現され、それが形式化され(例えば契約などの形で)「現実」化するとそれが新たに創造される経済価値(付加価値)のデュナミス(潜在性・潜性態)というリアル可能性の創造物となり、その貨幣化による分配と蓄積がヒト・企業・国家に必須の富の形成力(エネルゲイア/現勢態)となる、ということが理解できる

因みに、この「±」のエルゴン(ergon/死静態)の意義、いわば『日常』における潜性イノヴェーションの宝庫としての重要性に逸早く気づいたのが17世紀のマンデヴィルであり、そのことを強調するためマンデヴィルは『蜂の寓話』(逆接的な啓蒙の書)を著わしたとも考えられる(この論点についての論考は下記↓★にあるので参照乞う)。このためか、初期のハイエクもマンデヴィルに注目していたようだが、結局、その研究は潜性イノヴェーションに関わる深化へは向かわなかったと考えられる

マンデヴィル『蜂の寓話』は透明甲殻リバイアタン・安倍晋三ら出現への警告!『日常』とホッブスに潜むエルゴン(内需等に係る新しい生産性の培地)の発見がアベ「サクラ怪獣」駆除のカギ https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/11/30/184331

・・・

・・・「表象的・言語的なヒトの意識活動(潜性イノヴェーションの契機)」という切り口で探索が可能な「潜性イノヴェーションの在り処」(サンプリング)・・・

・・・ただし、この「潜性イノヴェーションの在り処」が決して「デュナミス(可動潜在)&エネルゲイア現勢態・可動態)の両生産性」そのものではないことにくれぐれも留意!・・・

【 もし、欲を出し過ぎてそのような理解をすれば、その途端に「静態→動態なる遷移プロセス上での均衡論」という「普通の意味での経済世界における±効用論」の呪縛に囚われ「潜性イノヴェーションの在り処」は、忽ちに意識し難い世界へ転送され、消滅するだろう。

・・・動的平衡論のメタファーで言えば、それは「生命論的な水準の基礎代謝(その意味での『静態』)と多様なエトノス文化・自然環境(に関わる必要がある)という二つのリアリズムこそが、より豊かで持続可能な経済(リアル『動態』の持続)の前提条件であり、しかもそのリアリズムは絶えず動態に対し僅かに不可逆的に先行し続けなければならない命の論理の統制下にあるからだ。・・・関連で、下記★1,2参照乞う・・・

★1 福岡伸一教授と共に、「動的平衡」の視点から「不安定な社会」を見る、http://www.future-society22.org/blog/75a3b5a5458

★2 元本保証された多様性の創出としての古澤満『不均衡進化(Disparity Evolution) 』/不均衡進化論(発生生物学者・古澤満氏)は遺伝子レベルで観察されるネオ・ラマルキズム(ネオ・ラマルク進化論)? https://www.evernote.com/shard/s440/sh/e8be82a6-ca1f-412e-8f6c-f8f0497b6d14/444d32d63dff181da92876df8ac11d

(潜性イノヴェーションの契機1)

・・・M.アンリ『感情の海』と脳の「報酬系」機能に潜む秘密・・・

<注>ここで、「潜性イノヴェーションの契機1、2」と二つに区分して示しておいたが、理解しやすくする目的で便宜的に分けたものなので、そのこと自体にあまり大きな意味はない。強いていえば「潜性イノヴェーションの契機1」は感情と意識(脳)との関りを切り口としており、「潜性イノヴェーションの契機2」は美意識の問題を切り口として潜性態の在り処のサンプルを探索したものである(広義では契機1も美意識の問題と深く関わる)。

(1)M.アンリ『感情の海』に潜む秘密

実質的現象学 M.アンリ(著) - 法政大学出版局 | 版元ドットコムM.アンリ『実質的現象学』(叢書ウニベルシタス/法政大学出版会)によれば、M.アンリ(Michel Henry/1922 - 2002)は、次のような原点となる視座から論考を深めて行ったと思われる。

 <自分一人が、あるいは自らを含む一定数の人々が、仮に、いま突然に此処で命絶えることがあるとしても、自らの周辺を含み此の世界に生きるその他大勢の人々は、何事もなかったかのように、今までどおりの日々を生き続けてゆくだろう。しかし、このように絶えず流れ去る世界の中で、個々人の「絶対的主観性」を保障する<現象学的実在性(真理)>とは何であるのか?>

そして、同じ現象学と呼ばれるものであっても、M.アンリは、<現象学(委細/参照↓★)における「形相(エイドス)、質料(ヒュレー)」の作用因(アリストテレスによる)=抽象的認知>と、<自ら(M.アンリ)の現象学における「絶対的主観性」に内在する作用因=実存的認知(‐意識)>を全く異なるものとして峻別した。

フッサール現象学の概要(および、その現代的意義):旧「toxandoriaの日記」https://toxandoria.hatenablog.com/entries/2017/09/01

・・・

従って、M.アンリの<実質的・志向的現象学/普通の意識では見えず、かつ理解不能な個々人の内奥にある真理の中核たる意識作用(コギタチオ)の探求プロセス>におけるエイドス(形相)とヒュレー(質量)の両者に相当する概念は、フッサール現象学とは異なり、外部世界の現象学的な形相的「与件/現出」以外の実在とも共鳴し得る多様な志向性(様々なベクトルを帯びた意識)を獲得することになった。

言い換えれば、M.アンリの現象学では、作用因としてヒュレー(質量)が最も重視されていることになる。もっと分かり易く言ってしまえば、M.アンリは、個々人の絶対的主観性の意識作用(コギタチオ)の実在性として視覚と結びつき易い形相(エイドス)よりも触覚・痛覚らとの親和性を十分に想像させる質料(ヒュレー)を採用していることになる。

そして、M.アンリは絶対的主観性の実在性(その中核に内在する真理)の現象学的な「与件(現れ)」として「感情」の表出を措定する。その絶対的主観性の核心(自己性の湧出源)となる「与件」の背後、個々の絶対的主観性の中核には、その与件(現れ)を含む広大な「感情の海」(超越論的情感性/affectivite)が存在すると見るのがM・アンリの特徴である。

つまり、「視覚」以外の知覚(内感の窓口としての触覚なども含む)を重視しているという点が、「視覚」という個々の形相的な与件(現れ)と結びつき易いエイドス(形相たる意識内容(コギタートゥム/cogitatum))を重視するフッサール現象学(やや設計主義的な理性の現象学)と、片や触覚を重視するM.アンリの現象学(“感情の海”の拡がりを想定する情感性の現象学)の根本的な差異であると思われる。

なお、[神谷英二:情感性と記憶―アンリ現象学による試論(1)/福岡県立大学人間社会学部紀要2005,vol.14,No.1,21―36 http://u0u1.net/GN7E]によれば、<情感性(affectivite)とは何か?の問い>に、M.アンリ以前のヨーロッパ哲学は必ずしも十分な答えを提示してきたとは言えないようだ。

(2)「M.アンリ『情感の現象学』」と「デューイ・プラグマティズム『共有的な自由(自由の共有)』」の間にかかる、新たなヒューマニズムへの希望の架け橋

ところで、M.アンリ「現象学」の稀有な特質と言えるのは、それが『情感の現象学』から独特の一瞬一瞬の出会い(一回性)を重視する共同体論(個の自由原理ではなく、『第3章-モンペルラン協会の理念の変質』の論点における、デューイのプラグマティズムの共有的な自由(自由の共有)意識を連想させる!)へと発展することである

米国ではプラグマティズムの伝統に因る「共有的な自由」(自由の共有)と、啓蒙思想由来の「個の自由」の二つが区別されてきたということだ。そして、「個の自由」を重視する流れはハイエクミルトン・フリードマンらによって曲解され「市場原理主義の二大開祖のリバタリアニズム」(完全自由主義)へ帰結した(関連/↓★)。

アメリカのリベラリズムの発展 山本春義:大阪経済大学(哲学)、https://www.evernote.com/shard/s440/sh/743844a9-683f-46ec-8197-709224e27988/ec88f7ac7a5e8d607194ea499d43e8a4

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他方、「共有的な自由」(自由の共有)の重視はデューイ(John Dewey/1859‐1952)のプラグマティズムで絶対に忘れるべきでない「一人ひとりの保障された言明可能性」という考え方に由来する(@ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』-みすす書房-)。デューイはチャールズ・サンダーズ・パース、ウイリアム・ジェームズとならびプラグマティズムを代表する思想家であり、20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者(良い意味でのポピュリズム主義者)であった(関連で(プロローグ)も参照乞う)。

ところでこのデューイの「一人ひとりの保障された言明可能性」は「凡人(日常を大切にする普通の人々)の正しさ」(その根底は、デューイ・プラグマティズムの限定合理的な世界認識にあると考えられる!)を保証する問題とも呼ばれるが、それは<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”を最大限に重視し、それを持続的に繋ぎ留めるよう努力し続けるということであり、逆に言えば民主主義』はヒトが存在し得る限りでの未完の営為だ!という理解による、換言すれば民主主義国家では『聖人・君子ならぬ国民層の大多数を占める“凡人”の正しさの保証手段をシッカリ政治・行政的に確保して(つまり、多様な言明の記録・保全を法的に確立して)社会的信用を維持すること』を最大限に重視すべきだ>ということだ。 JPNルイ16世(こと安倍総理大臣/ゼロサムのファァシスト)は、この真逆を謀ってきた!

因みに、繰り返しとなるが潜性イノヴェーションとリアル経済のイノヴェーション(シュンペーター新結合)は直接的には無関係なことだ。それは、これら二つの異次元のイノヴェーションに関しては、個々別々での両者の関係性についてのリアル論理的な説明が殆ど不可能であるからだ。

一方、既に見たとおり暗黙知的な潜性イノヴェーションが市民生活の『日常』の殆どを占める構成要素であることは論を待たないだからこそ、潜性イノヴェーションはヒトを含めた生命および環境と広範に、かつ深く繋がっていることが窺われるまた、この点こそが、「『日常』は(両)イノヴェーションの培地である」ことの証ともなっている

・・・脳の「報酬系」機能に潜む秘密・・・

f:id:toxandoria:20200601104858p:plain脳の報酬系(脳全体に分布するが、特に重要な役割を担っているのが中脳の腹側被蓋野ドーパミン神経)とは、動物の適応能力向上を目的として進化したメカニズムである。そして、これは殆どの動物種の生存が、有益な刺激(いわば外界の実在)である主に視覚的(アリストテレスがいうエイドス(形相)的)との接触を最大にし、かつ有害な刺激との接触を最小にすることに起因する。これら報酬を認知することで、その動物の連合(連想)的な学習機能が作られ、適切なアプローチと正常な行動が誘発され、肯定的感情が促進されるため、生存および生殖の可能性を高める役割を果たしてきた、と考えられる(画像は、https://www.terumozaidan.or.jp/labo/class/s2_13/03.html より)

ところで、よく考えてみれば分かることだが、ヒトを含む動物種の生存は必ずしも外界の有益な刺激(報酬系の刺激)だけに反応しているものではなく、それはおそらく殆ど無意識であることが多いと思われるが、内面的な報酬系の刺激となり得る記憶や感覚・感情経験的な記憶・知識・概念(あるいは、それらが複雑に交差するネットワークそのものの記憶)の膨大な蓄積にも反応しているはずだ

そして、それは触覚系の経験で蓄積された体感的な記憶であり、強いていえばエイドス(形相)に対するヒュレー(質量的)な記憶の蓄積と理解してもよいのではなかろうか

報酬系を具体的にみれば、それは誘因行動を引きおこす刺激の総称である。例えば、空腹の人にとって食べ物は報酬だが、満腹な人にとって食べ物は報酬ではなく、むしろ不快感を与えるだろう。また、ある種の美人や美女の魅惑的な顔は報酬となる(が、人それぞれ好みは様々だがw・・・)

つまり、報酬かどうかは脳の状態に依存しており、主観的な快体験となるか否かで決まる。動物の場合はその物質に引き寄せられるような行動をとっているかどうかを測定する

以下に、川畑秀明著『脳は美をどう感じるか』(ちくま新書)を手掛かりに『感情の海』と脳の「報酬系」機能に関連すると思われるクローズアップの光景を[潜性イノヴェーションの契機1の事例]として取り上げておく

 ・・・[潜性イノヴェーションの契機1の事例]/龍安寺・石庭」に潜むフラクタル構造・・・

Bonner Markus Gabriel (30): Deutschlands jüngster Professor ...・・・潜性イノヴェーションの在り処を考えるためのヒント/新実存主義(@マルクス・ガブリエル)の眼で見ればヒトの知覚・認識は「外界の思考」内外のエトノス自然・社会環境との深い関係性を維持する意識)である!/ガブリエルの画像は、https://www.express.de/bonn/bonner-markus-gabriel--30--deutschlands-juengster-professor-18112958 より・・・

・・・一例を挙げておくと、例えば龍安寺・石庭」の岩の位置から等距離にある位置を中心軸として解析すると、推薦「観賞場所(寺院方丈内/縁側内側の中央あたり)」から遠景へ、向かって分岐が繰り返されるフラクタル構造(つまり、グルーピングとゲシュタルトの法則の実現:これが龍安寺『石庭』が我われ鑑賞者へ永遠の静寂なる感動をもたらす秘密!)となっている!/電子情報通信学会誌会誌2003年10月 /By Gert J. van TONDER、ほか・・・

https://www.researchgate.net/publication/220013361_Visual_structure_of_a_Japanese_Zen_garden

https://www.ieice.org/jpn_r/index.html

https://www.ieice.org/jpn/books/kaishikiji/200310/200310-1.html

・・・新進気鋭の哲学者であるマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel/1984 - /ドイツの哲学者、ボン大学教授)の新著『新実在論‐“心”という語で表せるたったひとつのものなど存在しない‐』(岩波新書)の序章を書いたジョスラン・マクリュール(Joceran Maclure/ラヴァル大学教授/1973- )によれば、かつてガブリエルは、数々の形而上学の重要問題について、大胆な見解を唱えており、たとえば以前の著書では「存在論や認識論の分野で自然科学に似た要素還元論的な構成主義が乱用されるいま、ガブリエルは“新たな存在論”が求められている」と論じたが、この新しい著書でガブリエルが言う「新たな存在論は、我われの現実(日常的な)をかたちづくる対象領域―すなわち「意味の場」、つまり『日常』の多元性・多次元性を中心に据えた実在論のことである。

・・・が、その多元性・多次元性の意味を単にリニア―な繋がり、あるいは単純な入子構造的な構成と見立てるとすれば、おそらくそれは誤りであ

・・・そうではなくて、たとえば龍安寺「石庭」↓に潜むフラクタル構造(@Gert J. van TONDER↑)の如く数理的・抽象的な世界との不可避の接点でもあり得るしマクロ・ミクロ世界との物理・化学的な、あるいは自然環境論・生命論的なつながりや共鳴のようなこともあり得るだろう。ましてや、ヒトの場合はそれに社会的な関係性や個々人の内面との対話のような実に多様なファクターが絡み合い、共鳴し続けることになるしかも、「それらの複雑な関係性の世界」は「リアル経済的な謂いでの現勢態(エネルゲイア/energeia)」とは全く無関係であるかに見えるし、たしかに両者は個々の事象面におけるリアル・エネルゲイアの意味では全く無関係である。

・・・しかしながら実際にはこの「前者」の複雑極まりない多元性・多次元性の世界こそ、現勢態(エネルゲイア/energeia)に先行的に対応(いわばプレ・エネルゲイアの謂いで)する潜性態(デュナミス)すなわち「潜性イノヴェーション」の豊饒な培地(潜性イノヴェーションの契機1)と、仮に名付けておくべきものなのである。

龍安寺「石庭」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA

Computational Analysis of Ryoanji Garden. By Gert J. van TONDER, Nonmember, Yoshimichi EJIMA, Member (Graduate School of Human and Environmental Studies, Kyoto University, Kyoto-shi, 606-8501 Japan),and Michael J. LYONS, Nonmember (Media Information Science Laboratories, ATR, Kyoto-fu, 619-0288 Japan).・・・

(関連情報1)

評者: 福岡伸一 / 朝⽇新聞掲載:2013年06月02日/ラマチャンドランのピークシフト仮説ミラーニューロン、連想・・・ cf.川畑英明著『脳は美をどう感じるか』(ちくま新書

脳のなかの天使著者:V.S.ラマチャンドラン(インド出身のアメリカの神経科医、心理学・神経科学者)出版社:角川書店 https://book.asahi.com/article/11630859

◆脳のなかの天使 [著]V・S・ラマチャンドラン

ルリボシカミキリの青を、私は限りなく美しいと感じるが、ルリボシカミキリ自身は、仲間の背中の模様を、私が感じるように感じてはいない。おそらく彼らにはそれは青色ですらない(虫は色彩をもたない)。美とは一体何だろうか。この思考実験からわかるように、美は客観的な存在ではなく、私たちの心の作用としてある。美術家の森村泰昌は、芸術の本質は「まねぶ」ことにあるといった。まねすることは学ぶこと

意外なことに、脳科学の進展は、芸術家の直感と極めて近いところに焦点を結びつつある。本書は、ベストセラー『脳のなかの幽霊』の著者が、美の起源とヒトの脳の特性を縦横無尽に論じた最新作。読まずにはいられない。

美を感じることは、生物学的に根拠がある。生存に必要なことを自然界から抽出する操作として。青に美を感じるのは、海や大気の色だから。ダイヤモンドの輝きが美しいのは、水の反射を想起させるから。

その抽出方法を、著者は美の原理を順に挙げ論じていく。ひとつは単離複雑なものから輪郭、色、形状、動きなど少数の要素を取り出してみせることもうひとつはピークシフト仮単離されたものがもつベクトルをさらに強めること。ラスコーの壁画はなぜ忘れがたいほど美しいのか。バイソンは輪郭線だけで表現され(単離)、小さな頭と大きな背の盛り上がりが見事に誇張されている(ピークシフト)から。ピカソの絵が破調に見えて、なおそこに美があるのも、それが天才による極端な単離とピークシフトだから。

ではなぜヒトは自然からことさら美を抽出する必要があったのか。進化の光を当てると見えてくる。ここからが本書の核心部分。それはある光景を思い浮かべるとき、実際にそれを見ているのと同じ体験が可能だからバーチャルリアリティーによってリハーサルできることがリアリティーと直面したときの準備を与え得るから。

著者はここに、近年の脳科学の最大の発見、ミラーニューロンを結びつける。この神経細胞特定の動作をしているとき活性化されるだけでなく、その動作を他の個体が行っているときも同じように活性化する。いわば「まねぶ」の回路この回路を脳の他のしくみと連携させたおかげで、ヒトは遺伝子の束縛から脱し、サルと袂(たもと)を分かって短期間のうちに文化と文明を築き得た。 

[山下篤子訳、角川書店・1995円/V.S.Ramachandran神経科学者。カリフォルニア大学サンディエゴ校の脳認知センター教授及び所長。ソーク研究所兼任教授。共著に『脳のなかの幽霊』、著書に『脳のなかの幽霊、ふたたび』など。]

・・・「脳」の究極の謎に挑む/ミラーニューロン [レビュアー]鈴木裕也(ライター)

ラマチャンドランは、詩人・ランボーや音楽家・リストなど、芸術家には共感覚の持ち主が多いことから、考察をさらに深めていく。それが、人間を人間たらしめている言語や芸術と、脳の仕組みや働きとの関係につながっていくのだ。

その鍵を握るのがミラーニューロンだという。サルにもあるこのニューロンがなぜヒトで高度に発達したのか。その推論の過程こそ、まさに本書の読みどころ。まるでミステリー小説を読むかのような「謎解きの快楽」の連続である。

本書で提示される考察は、どんなに確からしく感じられようとも、あくまで推論である。文中には「かもしれない」「可能性がある」「ひょっとすると」などの語が頻繁に現れるが、もどかしさは微塵も感じられない。もっとも、これ以上先の「真実」は知らなくてもいい「神の領域」なのかもしれない。https://www.bookbang.jp/review/article/30038

福岡伸一著「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」|ますこ めぐみ|note

(関連情報2)「福岡伸一動的平衡論」なる、「デュナミス&エネルゲイア」が共存し得る生命論 https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=205 ( 画像は、https://note.com/masuko_megumi/n/n457129905a33より)


第5回 京都大学 − 稲盛財団合同京都賞シンポジウム「生命とは何か?それは動的平衡」福岡 伸一 2018年7月22日

 (潜性イノヴェーションの契機2)

(1)「バーラインの覚醒ポテンシャル」と「中庸の重要性」の発見

・・・美術作品や自然景観などから受け取る「見かけの上で比較的わかりやすい具象ないしは抽象的なイメージ」よりも、やや見かけの上でわかり難い(あるいは、かなり分かり難い)、別に言えばより抽象度が深い「バーラインの覚醒ポテンシャル↓★」と呼ばれる感性的なゾーン(見る人の快感を最大へと導く覚醒の度合いを客観的に測る実験から得られた概念)が存在する

・・・心理学者バーラインは、「単純さ、複雑さ、新しさ、馴染み深さ」などの感じ方について、それらとの親近性の上昇に伴う覚醒水準(快感、つまり心地よさを感ずる程度)が逆U字カーブを描くという実験の結果を導き出しておりそれによると中程度の緊張状態(つまり、中庸な程度)のものが一番好まれる(最高値を示す)ことが知られている(以上は、三浦佳代著『知覚と感性の心理学』‐岩波書店‐ https://www.iwanami.co.jp/book/b259450.html より)

★覚醒ポテンシャル(カナダ出身の社会・実験心理学者、バーラインの覚醒水準モデル:Daniel Ellis Berlyne/1924‐1976)https://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Berlyne

・・・

脳は美をどう感じるか アートの脳科学の通販/川畑 秀明 ちくま新書 ...

・・・美術における、新たな美的価値の発見/抽象性“指標”のサンプリング(参照:川畑秀明『脳は美をどう感じるか』‐ちくま新書・・・

・・・「バーラインの覚醒ポテンシャル」の具体例・・・

モンドリアン/ピークシフト・プロセスへ向かう意識の流れの発見

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モンドリアンの直線と色彩(生得的解発機構に基づく感情(生理学的本能)における高度な報酬系またはピークシフト・プロセスへ向かう意識の流れの発見Susanne Deicher/Mondrian: 1872-1944: Structures in Space (Basic Art Series 2.0)Köln : Benedikt Taschen2015 

・・・

ピークシフト、対称性など自然界に存在する要素と脳は敏感な反応関係を日常的に生起し続けている。しかし、われわれヒトはこの素朴な反応関係で満足することは少なく、例えば「肖像画の構図」上の目の位置について研究した米国の知覚心理学者クリストファー・タイラーによれば、多くの画家は顔の中心と肖像画の中心を合わせるケースは少なく、殆どが少しずらされており、どちらかの目の一つが絵の中央に描かれていることが分かった。自然界に存在する対称性の要素が美的快感を与えることはよく知られているが、やがて同じ対称性の構図に飽きを覚えることも事実である(以上、川畑秀明『脳は美をどう感じるか』より引用転載

また、ヒトの顔が全く左右対称でないこともよく知られている。アンドロイドならぬヒトの顔が左右対称でないことには様々な理由が考えられるが、おそらく「生命体としてのヒトの存在が内外のミクロ・マクロにおよぶ多次元の自然エトノス環境のなかで活かされている」というリアルと関係があるのではないか?

 それは、多次元内で多様にかつ非常に複雑に結び付いた生命体であればこそ、ヒトの全要素がマシンの如く整然と対称性を保持する、しかもそれが還元論的に、かつ「整序」(Filing System)的(重力物理学にも強かった数理経済学者、ミルトン・フリードマンが好んだ言葉!)に構成されていることはあり得ず、必ずどこかで生ずる僅かのずれや歪を環境内トータルで修正し続ける必要があると思われるからだ

 

だから、顔の左右の造作に些かのずれがあるのは、むしろ、そのこと自体が“脳の報酬系”への刺激となって生じる「健康、健全さ」(ひいては生命の活性化)の表れともいえそうだ。また、生命体における、これ等の生体構成要素に関わる多少のずれの存在(結果的にそれが多様性をもたらすことに繋がる)は、それ自身が絶えず「潜性イノヴェーション」の契機となっている可能性が高い。

・・・また、驚くべきことに約100年前のオランダの画家ピエト・モンドリアン(1872-1944)の抽象絵画では、その「特に強調された直線と色彩の表現」(白・黒と三原色、縦線、水平線が特に重視された)が両眼視差・運動視差などに関わる科学的な知識に基づきピークシフト効果を最大化させる工夫に取り組んだ痕跡が、近年の知覚心理学の知見を応用したモンドリン絵画の研究で明らかとなりつつある絵画における、このように有意なピークシフト効果の発見も、それが「潜性イノヴェーション」の契機となる可能性を暗示している

ポラック/[中庸の重要性の発見]黄金比(誰でもが美を感じる比率とされる)と脳(島皮質)の関連

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・・・島皮質(insular cortex)は、大脳皮質の一領域である。島皮質は脳の外側面の奥、側頭葉頭頂葉下部を分ける外側溝の中に位置している。島皮質は身体状態に関連する(身体感覚に関わる)情報を「高次認知と情動の処理」に統合する役割を持つと位置付けられる。例えば、黄金比などを誰でもが等しく美しいと感じるのは、おそらく島皮質の身体感覚(直感、気分、体性感覚、能動的感情など、いわばヒトの感情の海の世界)に関わる作用と考えられるが、大脳皮質のなかでも特にこの島皮質は「潜性イノヴェーション」の契機となる可能性が高いと考えられる(画像はウイキより)。 

・・・ギリシャ・ローマ時代古典の彫刻(ヘソを中心とする上下で黄金比が成立しており、その他の細部にも同比が隠れている)を美術の知識がない普通の人々に見せた調査(fMRI)では、黄金比が保たれた画像を見る時の方が、そうでない画像を見る時よりも「島皮質」の活動が高まることがわかった。おそらく、それは美術の知識がない普通の人々も等しく美しいという心地よさを感じているためと思われる(@イタリアの脳神経科学者ディ=ディオらの調査)。なお、黄金比の他にも青銅比、白銀比白金比、第二黄金比および先に取り上げた対称性など、様々な知覚心理学的な効果を示す法則性が自然には潜んでいる。/@川畑秀明『脳の認知‐Japanese Journal of Cognitive Neuroscienc』https://www.jstage.jst.go.jp/article/ninchishinkeikagaku/13/1/13_84/_pdf/-char/ja

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Pollock (Basic Art Series 2.0) Hardcover – April 3, 2020 by Leonhard Emmerling Koln : Benedikt Taschen2020 

・・・一方、20世紀アメリカのの抽象画家ジャクソン・ポロック(1912-1956のドリップペインティングhttps://kumiko-jp.com/archives/53556640.html)には、近年のコンピューター技術と脳科学を駆使した研究(fMRI/脳機能診断http://cbfm.mtpro.jp/journal2/contents/assets/016030152.pdf)で、その一見ランダムで偶然の賜物であるような画面の美的効果にはフラクタルの要素が入り込んでいることが明らかとなっている。なお、千住博の連作『ウォーターフォール(滝)』https://www.senju-museum.jp/special/index.html ドリップペインティングを駆使している(画像は軽井沢・千住博美術館より)。

・・フラクタルは既に「(潜性イノヴェーションの契機1)-龍安寺『石庭』」でも取り上げているがEEG(脳波)研究https://www.jstage.jst.go.jp/article/biophys1961/31/6/31_6_38/_pdfによって、複雑さの程度を表すフラクタル指数(リアス式海岸などの自然(景観)フラクタルでは、その複雑さの次元に応じて概ね 1 < D < 1.3に分布する)の評価から中程度の複雑さを表すフラクタル構造とアルファ波(リラックスや安静と関係する)の相関が高いことが分かってきた。

・・・そして驚くべきことに、近年のコンピューター技術と脳科学を駆使した研究で、ポロックの作品にも中程度のフラクタル構造が潜むことが確認されたたとえ、それが無意識であったにせよ、ポロック芸術には「中程度のフラクタル構造で鑑賞者にリラックスしてもらう」という戦略があったことになる

Image with no description因みに、腸壁の画像診断によるガン化の評価でも、このフラクタル指数が診断材料の一つとされており、フラクタル指数>1.50」ではガン化の可能性が高くなる

・・・ところで、実はこの「中庸の重要性」(“複雑さのなかの秩序”の価値観とも呼ばれている/それは、“無関心”ではなく“多くの人々が多様性を受け入れるという態度に裏付けられた中庸には、おそらく最も多くの『潜性イノヴェーションの契機』が内在している”とも考えられるからだ!)民主主主義の根幹に関わる非常に大事な問題を想起させる。それは、既に上で述べた<米国プラグマティズム(@デューイ)の伝統に根付く米国における二つのリベラリズムの問題(米国には、二つの異なるタイプの自由がある)」ということ>に関わる。

(2)ゲーミフィケーションと拡張現実(AR)の問題

SRイメージ・・・画像は、https://www.elecom.co.jp/pickup/column/vr_column/00003/ より

・・・ゲーミフィケーション(gamification)は、一般的に「ゲームの考え方やゲームデザインメカニクス(根幹部分に関わる諸々の仕組み)などのゲームの要素を、ゲーム以外の様々な社会的な活動やサービス、あるいは企業経営などに援用し有効にそれを利用するもの」と定義できる。Cf. https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20181117014/

・・・また、使い方の工夫しだいでは「拡張現実」の一種がゲーミフィケーションだと見立てることもできるだろうが、ただそれだけのことでは済まないだろう。一方、「拡張現実」(AR)、例えば「リアル風景にバーチャルの視覚情報(VR/Vertual Reality)を重ね合わせて(又は付加して)表示するようなことであり目の前のリアル世界を“仮想的に拡張する”技術である。

・・・更に、「ゲーミフィケーョンと拡張現実(AR)」の両者を効果的に工夫して重ね合わせると「恰もそれが現実的な体験(経験)であるかの如く意識させられる、全く新しい現実感覚、すなわちよりリアルに生の一回性が実感させられるような拡張現実(AR)を出現させる」ことが可能となる。別に言えばVRと違い、ARはあくまで「現実世界が主体である」ということになる。

・・・少し脱線すると、リアリティは必ずしも「正しい意味での実在」とは限らぬこともあり得るから、ややこしくなる。例えば、「今やJPNルイ16世ゼロサムファシスト)を自称するまで偉大化?したアベさまへ、相変わらず多数派が忖度し続けているため(関連↓)、今の日本はvirtualならぬnominal reality(名目的な現実/名バカかりの現実)となっている!」という具合で、現実には、実に驚くべき事例もあり得るからだ。ここから理解できるのは、Virtual Reality=実在はしないが実質的に機能する意味での現実」ということである。

【名目現実/Nominal Reality日本!w】しかし、各社分を併せればアベ支持4割弱(35~40%?)で、「個別政策“厳”批判⇔固定アベ支持」の不可解トレンドは不変!? →共同: 内閣支持率2年ぶり40%割れ(39.4%) 黒川処分「甘い」79% 601日刊ゲンダイ #政権批判は誹謗中傷ではない https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/273932

・・・

・・・因みに、MR「Mixed Reality/複合現実」、SR「Substitutional Reality/代替現実」を含めた4種のAI‐Reality技術「広義のVR技術」(VR・AR・MR・SR)についての委細は、下記★が詳しいので参照乞う。

VR・AR・MR・SRの違いとは?それぞれの活用方法を紹介、https://www.elecom.co.jp/pickup/column/vr_column/00003/

・・・ともかくも、具体的に見るとスマホのゲームアプリを使った「アニメ聖地巡礼」などのコンテンツツーリズムが「ゲーミフィケーョンと拡張現実(AR)」分かり易い組み合わせの事例である(https://animetourism88.com/ja/88AnimeSpot)。これは、スマホの位置情報を使って画面内に現実世界の風景と仮想現実のキャラクターをいっしょに映し、恰もその場(現実)にゲームのキャラクター(つまり、参加者自身のエージェント)がいるかのような体験ができるものである。

しかし、このゲーム感覚でのゲーミフィケーョンVRの体験はコンピュータが「独占する場(世界)ではなく、それよりも遥かに遠い昔から我われはそれを経験している。

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・・・1枚目は天井桟敷」、2・3、枚目は「状況劇場」のポスター・・・

・・・それは広く考えれば映画なども其のジャンルに入れるべきであろうが、我われが、リアル時間を生身の俳優らと対峙しつつ共有し、リアルステージと対面することになる演劇がそれであるなかでも、かつて寺山修司が主宰した演劇実験室「天井桟敷、あるいは唐十郎状況劇場」等の事例を注目し、再評価すべきである。

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・・・これらは、ただの前衛活動であったと見過ごしてはならずこれらのステージには、必ず「一回性のリアル体験的な想像の世界」への入口である、いわゆる兎穴」(ラビットホール)が仕掛けられていた。従って、このような意味での演劇的な拡張現実(AR)空間も「潜性イノヴェーションの契機」として 重要である(ディズニー、不思議の国のアリス『兎穴』の画像は、https://magic-c.jp/?pid=31950051y より

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1273143459948437514

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(3)潜性イノヴェーションが本格AI時代における「企業価値」創造の「真の主役」であるのが新コロナ禍で漸く理解され始めた!

<注>準汎用AI、汎用AIの区分について・・・当記事では一般的なAIのカテゴリー「弱いAI、強いAI」を、それぞれ「準汎用AI、汎用AI」へ読み替えて使用する。尤も、何らかの意識モドキを持ち自らプログラミングできる、いわゆる万能型の「汎用AI」が、いつ実現するかは未定である。一方、例えば以下で取り上げるFA(Factory Automation)は高性能の準汎用AIであるが、その「FAの普及」と「失業の増加」との関係性には±の両面があり、その評価は未決である。いずれにせよ、FA型のAI利用がより高度化しつつ普及する過程では、それに失業と格差の問題が伴うことは覚悟すべきであろう。それだけに、当記事でも既にふれてきたことだが、今後はますます「倫理的かつ政治的な決断」によって、その「新しいAI資本主義経済」がもたらす「AI機械生産性(高度デュナミス潜在生産性/可動態)」を「生あるヒト(99 %派)の日常に役立つリアルマネーでの公正分配/現勢態(エネルゲイア)」の形で読み替えが可能となる制度を実現することが必須となる(参照/下記、参考資料)。

強いAIと弱いAIとは | 定義と種類、汎用型と特化型AIの違いを解説、https://ledge.ai/strong-ai/ 

 AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができる https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003

・・・

<未解決の「対労働力マイナス影響(グレートデカップリング等の大格差拡大)/人間の壁2」の問題をひとまず脇へ置くとすれば、時価総額10.9兆円(専門機関試算による)の約62%(6.73兆円)が 「無形資産」由来(特許・ソフト等)であること(↓★/616日経)が注目される。無論、「リアル成長性評価」と「潜性イノヴェーション」とは異次元(シュンペーター『動学』等の経済理論的には無関係)ではあるが、後者「潜性イノヴェーション」の視点こそが前者「成長性評価」の培地であるという驚くべきリアルは、既に当記事で見てきたとおりである(但し厳密に言えば、既述のとおりシュンペーター自身はこれら両者の関係性に気づいていた節がある)。

★「無形の力」映すキーエンス東証1部/FA用各種センサ等(広義AI活用)の製造・販売メーカー/トヨタ・SBGに次ぐ、株時価総額第3位)616日経https://www.nikkei.com/article/DGKKZO60363720V10C20A6TCR000/

従って、ポスト新コロナ禍で最も肝要なのは、 先ず<斬新な政治的決断>によって“分配の公正”を制度化(ベーシック・インカム導入等による “人間の壁2/AI機械化によるルンペン・プロレタリアート(無産市民層)増大”対策の具体化)すると共に、「新職業の創造と潜性イノヴェーション」(無形資産周辺+α、および多数派層の≪日常生活≫充実”)を最重視するという、 新コロナ禍以前とは全く異なる新しい価値観を「政治の責任」で社会的に定着させることである。

別に言えば、コレも繰り返しになるが多数派層の人々(99%派)のための生命論的(orカール・メンガーを始祖とするオーストリアン伝統の農業経済論的)な経済(資本主義論)であろうとする限り、これら両者は深く関わっているということだ。それは、ごく平凡な多数派の人々こそが「潜性イノヴェーション/エルゴン(死勢態・潜性態)=プレ・デュナミス(プレ可動潜性態・プレ可動潜在性)」の無限の宝庫では?と考えられるからであった。端的に言えば、それはミルトン・フリードマンハイエクらの「抽象的で冷徹な市場原理主義」とは異なり「血が通う生身のヒトあっての経済であり、資本主義だ!」ということになる。

一方、ドイツでは、そのような意味で「ポスト新コロナ禍で最も肝要なこと」が、つまり愈々<本格的なAI時代に相応しく斬新な政治的決断>への果敢な取り組みが開始されると見られている。メルケル首相の後継とも目されるオーラフ・ショルツ財務大臣(兼・副首相/SPD党首代行)が、愈々、「投資不足」と「低賃金“非正規”モノポリー(ルンペンプロレタリアート)」という、非常に悩ましい二大問題への取り組みを開始するのではないか、とされているからだ(↓▼616日経)。

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1272947913082064896

◆ ポスト・新コロナ禍を視野に入れたショルツ財務相メルケル後継?)が、愈々「投資不足、低賃金“非正規”モノポリー(ルンペンプロレタリアート)」の二大問題へ踏み込むか!?(続、2~へ) →独、財政規律緩和の真相616日経 https://twitter.com/tadanoossan2/status/1272947913082064896

それは、もしポスト・新コロナ禍でも一向に何もせず手をこまねくばかりであれ(傍観すれ)ば、ドイツの「投資不足と低賃金“非正規”モノポリー(ルンペンプロレタリアート)」の二大問題が、現下におけるドイツ自身の深刻な景気後退に一層の輪をかけると共に、それは更なる悪影響を伴ってEU全体へと拡がり、より一層深刻な経済的大被害を全世界へも遍く及ぼすことになると判断したからである。

その背景には規律(オルド)を重視する「オㇽド自由主義(Ordoliberalismus)」の経済学者たちが若い世代へ道を譲ったということがあるようだ。

因みに、オㇽド自由主義はドイツで生まれた社会思想だが、端的に言えばそれはケインズ主義に反対するドイツ源流の新自由主義市場原理主義)である。一方、若い世代の経済学者たちは主に米国への留学経験者が多い。そのため、英米流の新自由主義(+マネタリズム)と共に過酷な格差(勤労者のルンペンプロレタリアート化)問題への反省から復権しつつある米国ニューケインジアン(価格と賃金の硬直性の背景に市場以外のファクター(おそらく潜性イノヴェーションの視点も?)を見る立場)も学んでいるはずだ。

このため、同記事によれば、ドイツ政界の重鎮たち(例えば、シュルツ氏のほか、シュルツ氏の主任エコノミストであるヤコブ・フォン・ヴァイツゼッカ―氏、シュミット財務副大臣、ヨルグ・クーキース副大臣ら)と若い世代の経済学者たちとの間では、目下、盛んに議論と意見交換が電子ツールなどを介して行われ続けており、ここから全く新しい方向性が芽生える可能性が見込まれている関連で、以下の<参考>リベラル共和への・・・二ューケインジアン的な公共選択の理論、も参照乞う

更に、いまのドイツで注目すべきは「直近のある調査によればドイツ以外のEU加盟諸国の“多額の債務の一部を負うことに賛成するドイツ一般国民の割合が73%”に達している」、とされることだ。この点は今までの傾向と正反対となっている。無論、当傾向が持続するか否かは今後の問題であろうし、又この特に驚くべきトレンドが観測されたのも新コロナパンデミックが何らかの影響を与えた結果とも考えられる。

f:id:toxandoria:20200617160112p:plainただ、敢えて直感的な物言いをすれば「例えば米国トランプの如き一人勝ち政策が最後には必ず“赤の女王”(ファシズムorリバタリアンパターナリズム(父権的温情主義))へ道を譲ること」の再確認ができたか、又は何かを契機に「99%派の日常に潜む潜性イノヴェーションの大きな可能性」に関わる倫理的な覚醒(他の債務国に住む多数派層からも、その意味では目には見えない大きな恩恵を受けているという)があったのではないかと思われる。https://twitter.com/tadanoossan2/status/1273095681306173451

方や、このドイツに比べれば相変わらず「フクシマも新コロナウイルスもアンダーコントロールできる!」と豪語し堂々とウソを吐き続ける安倍晋三が君臨する日本の国民は「“赤の女王”と潜性イノヴェーションの意義」にも殆ど気付かず徒労の日常を無駄に過ごさせられており、あまりにも無残である!なお、ここでふれた“赤の女王”とAI時代に必須の新しい倫理に関わる視点については、以下の章で詳しく書くことになる。

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<参考>理想のリベラル共和へのプロセスとして重視すべき二ューケインジアン的な公共選択の理論

・・・「公共選択の理論」は「政治家・官僚ら凡ゆる非市場的要素(従って、潜性イノヴェーションらのファクターをも次元を考慮しつつ入れて然るべき!/補、toxandoria)を経済合理的な行動アクターと見立てミクロ経済学的な視点で分析する、包括的な政治経済学(political economy)の一領域/https://www.jstage.jst.go.jp/article/pcs1981/1981/1/1981_1_74/_pdfと理解できる。そして、理論上では複数の公共選択の選択肢が常にあり得るとしても、「法(憲法)の支配の原則」に服すべき民主主義の現実的な局面で失敗は原則的に許されない。特に、それが一国のトップである首相や大統領らの場合は尚更である。

・・・とはいえ、現実的には人間ゆえの誤りや失敗が必ずあり得るので、例えば米国の民主主義には限定合理主義的なプラグマティズムの法理(法哲学)に拠る<デューイの「凡人の保障された言明の希望(可能性)」>が工夫されており、そのため公共選択(法に則る行政的な権力の行使、例えば公職(国会議員、地方公共団体の議会の議員、首長)なども含む)の決定までのプロセス(選挙)、および個々の政策決定に参加した数多の人々(文字通りの一般の凡人、専門知識人、メディア人、政治家ら)の凡ゆる発言(言明)および行動に関わる記録や文書(つまり非常に広義の凡ゆるドキュメント類)の作成・保管が非常に厳しく定められている(関連参照⇒(プロローグ)・・・米国デュー・プロセスの背景・・・)。

・・・しかし、現代において、このような民主主義の根本原則から最も遠い位置に立つ一国トップの代表と見るべき人物は、日本の安倍晋三首相と米国のトランプ大統領であろう。そして、両者に共通するのは“ひどく病的な虚言癖、つまり嘘と詭弁を日常茶飯の方便”とする、極端な自己中心主義まで概念飽和(硬直)的に歪み切った「新自由主義(小さな政府)とファッショ一強主義が癒着する奇怪な精神構造」ということであり、しかもそれが殆ど無意識レベルへ到達しているので、二人はれっきとしたファシズム2.0の非常にリスキーな最高権力者である。

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1273646368230268929

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1273646368230268929

・・・例えば、目下、安倍晋三首相については「河井前法相夫妻の逮捕(618)」で自民党本部(最終ターゲットは安倍晋三・首相?)への強制捜査が不可避の段階へと入りつつある。それは、<国会議員の公金支出(税金悪用)の不正!で行政訴訟での、「客観=民衆訴訟」となり広島高検の申し立で政府・自民本部の捜索が不可避!>という、「前代未聞の公職選挙法違反」なる歴史的大事件(奇しくも、安倍首相にとっては負の“名誉”であるレガシー)と化してしまったからだ(https://twitter.com/tadanoossan2/status/1272929961318379520

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200618/k10012474891000.html?utm_int=news_contents_news-main_001 )。後は、真の危機感に裏付けられた主要メディア・ジャーナリズムの奮起(第四権力の復権意識の有無)と、一般国民層の現在の覚醒状態が何時まで続くか?との問題(それを忘れ去れば元の木阿弥と化す!)になっている。

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1274000423049969664

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https://twitter.com/nobuogohara/status/1273843902919802880

https://twitter.com/nobuogohara/status/1273869804990939138

・・・一方、米国では直近に出版される予定のボルトン大統領補佐官回顧録「トランプ政治では“ウクライナ疑惑”の流儀が常習化していた」こと、あるいは「中国・習主席に対し、自らの大統領再選への協力を要請したり、くだんのウイグル族弾圧への理解を示したりしていた」(いわばトランプの極端な自己チューゆえのあからさまな二~三枚舌!つまり、低劣な嘘吐きがトランプの正体である!)ことなどが暴露されている(https://www.asahi.com/articles/ASN6L2PH3N6LUHBI009.html)。

・・・既に(プロローグ)でもふれたとおり、<米連邦最高裁が6月15日に、LGBTなど性的マイノリティーに対する「職業」差別を認めないとする画期的な初判断を示した>ことで、1964年にできた公民権法が男女間の差別を禁じていたことが緩和され、その対象が逆に広がったことになっっている。

f:id:toxandoria:20200619171104p:plainhttps://twitter.com/SotaKimura/status/1272893546455064576

・・・そして、更に興味深いのは、今回の最高裁の審理では「トランプが自らの息がかかった人物(判事)として最高裁へ送り込んだゴーサッチ判事がトランプの意に反し穏健なリベラル側の判断へ回り、結局、6-3の大差で米最高裁が此の判断を下したである。しかも、その判決に当たる「最高裁の多数意見」は、トランプ大統領から指名を受けたゴーサッチ判事が書いている!このため、一時は保守派(リバタリアニズム/完全・過激自由主義新自由主義)へ大きく傾いたかに見えていた最高裁判断の今後は、再び、米国伝統のリベラル(穏健リベラル)なウオーレン・コートの(最高歳司法判断がリベラル共和の理想を思考する、つまりEarl Warren が首席裁判官に就任していた時代の最高裁を理想とする↓★)伝統が再強化された!か?に見え始めた。なお、ウオーレン・コートは1953年~のものであり、何回か途切れる時期もあったが、巨視的にみれば、結局は現代アメリカで連綿として生き続けている。つまり、それがリベラル共和(正確にいえば、穏健リベラル共和)を志向し続けるアメリカの伝統ということである

★(“自由と平等”で、平等をより重視する穏健リベラルの)ウォーレン・コートを回顧し続けるアメリカ社会:釜田泰介(同志社大学法学部教授・大学院アメリカ研究科長)、http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/30/30kantougen.kamata.html

[補記]合衆国憲法修正第13条「奴隷制廃止および制限のある例外(犯罪を犯した者)」の問題について

・・・これは「北部:自由労働 vs南部:奴隷労働」という自由のあり方を巡る対立に端を発した(無論、これだけが原因ではないが)「南北戦争」を淵源とするが、ある意味で現代の「Black Lives Matter」にも繋がる米国民主主義のアキレス腱とも見える。しかし、只の弱点ということで見過ごすべきではなく、特に1970年代以降の「新自由主義に感染した公共選択」の時代においては、刑務所経営の民営化など職業の商品化の問題、社会福祉政策など基本的人権社会権ほか)、新しい倫理観(マクダウエル・リアリズム倫理)の問題などとの関係で、いわゆる「法の下の平等」の均衡点を何処に取り、かつ如何にしてそれを安定化させるべきかという、実に多様で複雑に絡み合った難問と化している。しかし、上で見たとおり米国デュー・プロセスの流れは、再び、穏健リベラルの方向へ回帰しつつあるかにも見えるのでより良い方向へ深化することを期待したい。また、日本国民もこの問題について高見の見物の態度は許されぬことである。それは、日本国憲法基本的人権の側面から、日本政府の政策を介して我われ日本国民にも必ず何らかの影響をもたらすと考えられるからだ(関連↓●1、2)

●1 安倍首相、在任中の「憲法改正国民投票に意欲=橋下氏のネット番組出演 620時事、http://a.msn.com/01/ja-jp/BB15KD4m?ocid=st2

●2 安倍支持率が「河合夫婦の逮捕」で、却って、“急上昇中(特に若者の痴呆化?)!?” +9ポイント (27%→36%へ)@620毎日・・・日本国民一般の“総合知能”が急速“劣化”中?(w)https://mainichi.jp/articles/20200620/k00/00m/010/116000c

●3  合衆国憲法修正第13条「奴隷制廃止(+)例外:犯罪を犯した(し易い差別対象)者」の問題は決して“他国”ゴトに非ず!∵トランプ・ファッショ2.0(反アンティファ+ネオリベ)は主に「労働商品化」の点で<アベ改憲の強固な意志>と同質!!https://twitter.com/tadanoossan2/status/1274443557881831424

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★参考資料/論文:衆国憲法修正第13条の奴隷制の廃止が意味するもの─ 第38回連邦議会における審議を素材として ─小池洋平(信州大学)ソシオサイエンス Vol. 21 2015年3月

https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=16536&file_id=162&file_no=1


https://twitter.com/cassette_kan/status/809423852048564224

・・・

・・・ところで、ワルラス以降の経済学の主な流れを概観すると次のとおりとなる。ワルラス一般均衡理論は、ローザンヌ大学時代の弟子であるヴィㇽフレート・パレートを中心とするグループ(ローザンヌ学派)によって継承され、よく知られるようになった。後にワシリー・レオンチェフによって実際の経済に適用する道が開かれた。しかし、ジョン・メイナード・ケインズワルラス一般均衡理論で想定される経済が現実の市場と大きく乖離していることを強く批判し、ワルラス流の価格決定モデルは非現実的であると主張した。この批判は、ワルラス自身の方法論からいえば、それは問題が違うということになる(しかし、[4-1:・・・メンガー・・・]の個所でふれたとおり、ワルラス自身は限定合理的な考えであり、むしろトータル経済学としては公正資本主義を目指していたことが理解されつつある)。

・・・他方、「新しい古典派」(1970年代に生まれたマクロ経済学の学派、いわゆる新自由主義とは無関係であり、広義では新古典派に入る/代表的な経済学者にはケインズを葬った人物とされるロバート・ルーカスがいる)の理論家たちはケインズを異端と見なし、ワルラス一般均衡理論を再評価する立場であった(上のワルラスの“本心”を理解できれば、これは誤解であったのが分かるのだが・・・苦w)。そして、ケインジアンマクロ経済学に対抗して精緻なミクロ的基礎づけ (microfoundation) の重要性を強調している。

・・・また、ケインジアンの経済分析にミクロ的基礎を与えることに努力してきたニュー・ケインジアンは、部分的にはこの新しい古典派に対応しつつ発展してきたともいえる。二ューケインジアンは、ミルトンフリードマンマネタリズム新自由主義と結び付く)とロバート・ルーカスらの合理的期待仮説(高度な数理的経済理論/同様な数理経済学者である宇沢弘文は、これを“市場機構の果たす役割に対する宗教的帰依感をもつもの=謂わば、見えざる神の手への期待を市場原理主義より遥かに高度な数理論で語る宗教の如きもの、いわば完全合理主義経済とでも呼ぶべき市場経済の宗教化”と見て厳しく批判している!https://online.sbcr.jp/2015/11/004144.html)に対抗するため新古典派経済学の枠組みで価格や賃金の硬直性を解き放ちながら、再び、ケインズ流の裁量的な財政・金融政策の有効性を示す目的でグレゴリー・マンキュー、デビッド・ローマーによって始められた経済学派である。

・・・つまり、端的に言えば「二ューケインジアンは、あの“新しい古典派”にも匹敵するミクロな!の意味で厳密で精緻な経済分析のなかに、[4-9 資本主義の未来を左右するシュンペーター]の個所でふれたシュンペーターのイノヴェーション、および潜性イノヴェーション(の重要な意義、つまりオーストリアンの底流に潜む限定合理主義こそがベスト?!)への気付きの眼を併せ持っているのではないか?」と考えられる。そして、それが、今や市場原理主義疲労困憊した米国の政治経済と社会の中で、上で見たとおりの米国伝統のリベラル(穏健リベラル)なウオーレン・コート復権の動向と深く共鳴しつつあるのではないか、と思われる。それこそが表題に掲げた「理想のリベラル共和へのプロセスとして重視すべき二ューケインジアン的な公共選択の理論」の意味である

 
(エピローグ)人文知の極致『倫理』の有意性「再建」が必須/それは先験的“倫理”からリアリズム“倫理”なる『外界の思考』への転換ということ

 ・・・垣間見えたAI‐ディープラーニングの限界、だからこそ新しい“倫理学”の可能性への期待が高まる・・・

[1]拡張現実(Augumented Reality)をめぐる新たな視点の展開

・・・人間の壁(AI高付加価値)を越える「配分の正義」の実現は如何にすれば可能だろうか?それには潜性イノヴェーションのラビットホール(兎穴)を通過できる「拡張現実」(AR)的な「一回性の体験的な想像力」がヒントとなる。・・・

如何にすれば人間の壁(1,2)のリアル(エネルゲイア)化は可能なのか?安定したグローバル・ネットワーク(Global AI-Web/Network)でその代替が可能だ!という、ある意味で誰にでも分かり易い理想を持ち続けるのは、それはそれとして重要であると思われるが、何よりも先ず人々がリアルの『日常』生活を安心して持続できるという<ヒトにとって最低限の必要条件を満たす生命の論理>を最優先させなければ、あらゆる意味で本末転倒となる

そこで、「人間の壁」(“AI等機械高度イノヴェーションVs労働生産性”に因る格差拡大/人間の壁1)を克服するカギは「配分の正義」であることになる。1970年代以降の新自由主義(@ハイエクフリードマン)による「配分の不正義」の時代には、この意味での格差は更にスキル偏向技術進歩、いわば技術イノベーションに因る“雇用一人当たり生産性向上(GDP総額増加)と一家計当り所得減少”の大<乖離>の問題「グレート・デカップリング/人間の壁1の拡大」(関連↓★)が発生したため深刻化するばかりとなっててきた。

★米国のグレートデカップリング・トレンド、ほかについてhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938

・・・

実は、それが特に中間層の没落につながる主な原因となっていた人間の壁1の拡大が定着化したことに因る!)訳だ。加えて、更に本格的AI時代となった現在では、ヒトが単純なAI化サービスに対する不信感や、そもそもの「配分の不正義」(次善の機会と隔絶した不可逆的な超過利潤(レント)の放置に因るGreat‐Decouplingの発生など)がもたらす大きな不安を、換言すれば得体が知れぬ新たな生命上のリスクをそこに感覚的に感じ取るという問題人間の壁2」が深刻化してきた(委細は、第4章‐<注>を参照乞う)。そして、既に述べたことだが、これは当記事の主要テーマである「潜性イノヴェーション」「自然・文化エトノス環境」の問題にも深く関わっている

 そのようなことから、「国家」の<信用>を着実に支え続けるのは、先ず、基本的には(1)古典的イノヴェーションによるエネルゲイア(ビジネス&金融活動がもたらし、すぐに貨幣に換算し分配が可能となる付加価値)の創造(シュンペーター『動態』におけるイノヴェーション(新結合))と、その「公正な分配」である。しかし、考えてみれば一定期間におけるマネー量トータルの大きさだけでは不十分である。

それだけではなく、加えて(2)「その一回性の生命体であるヒトを含め、それに続く未生たちが、更に持続的に、未来へ向かって生き続けることが可能となる十分な量のマネーが永続的に供給できる仕組み」を保証するものは何か?ということになるそこで浮上するのが「潜性イノヴェーション」の問題である。

そして、この「潜性イノヴェーション」で必須となるのが、我われ一回性の生命体の胎盤ないしは培養基盤の役目を担っていることが明らかな「自然・文化エトノス環境」に関わる<想像力の問題>である。

しかも、本格的な「AIグローバル・ウエブネットワーク(Global AI-Web/Network)」の時代へ入りつつあるからこそ喫緊に考えるべき課題は「拡張現実(Augumented Reality)」的な「一回性の想像力(脳内思考)」活性化の問題である。但し、注意すべきはそれが、ハイエクないしはミルトン・フリードマン流儀の新自由主義リバタリアニズム)的なグローバリズム論、あるいはAIシンギュラリティ論の如き薔薇色の世界を喧伝するユートピアの喧伝ではないということだ。

また、拡張現実(Augumented Reality)の考え方をAI-Webの世界だけへ閉じ込めてしまえば、それはミルトン・フリードマン or ハイエク新自由主義者が「市場原理なる超観念的な設計主義の罠」に嵌った「概念硬化」と同轍となる。

一方で、マルクス・ガブリエルの「新実存主義」が主張するとおり、ヒトの想像力は無限であり、その意味で人間社会の持続性を保障することになる!そして、それは歴史・文化、芸術、文学、音楽etc.らのベースとなる凡ゆる暗黙知はリアル自然世界への拡がりであることをも意味する。

それは、その“外界の思考”へと拡がりつつ地球上の生命・自然トータルと常に共鳴し続ける新実存主義的なアナログ・ワールド、つまり生命論的なリアル因果の延長である拡張現実(具体的に言えば文化・文学・芸術活動など)の世界は無限であるということだ。なお、この論点は更に「文化資本文化資本義経済学)」の問題へ繋がるが、ここでは割愛する(関連参照↓▲)。

f:id:toxandoria:20170713060155j:image:w250文化資本とは、例えば池上英子『江戸期プロトモダニティhttp://u0u0.net/EyAB』の如き伝統・文化から生まれるスピリットを地域の伝統産業などの中に取り込みつつ内在化させて、そこから新たな外在性(偏執的なマネタリズム市場原理を超えた付加価値創造(or潜性イノヴェーション)的な視点の発見など)を生み出す、まさに「“リベラル共和主義”の時代に相応しく、ノモス・エトノスも十分視野に入れた持続的で漸進的な経済活動の原動力となり得るもの」である。https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20170713/p1

<補足>「AI‐DL導入」で特に留意すべきこと/「人がやるべき仕事の発見」に照らして

これは「人がやるべき仕事の発見と創生/“AIで消滅の危機に瀕する?とされるヒトの仕事の復権”に関わる方向性」という、非常に重要な課題と深くクロスすると思われるが、ここでは特に留意すべき点の記述に止めておく。 

 <「ディープ・ラーニングの判定結果による顧客への提案と個々の顧客がそれに十分満足するか否か」の問題>には<軽く見過ごすべきでない重要な問題点>が潜んでいる。当然のことだが、ヒトがつくるものやヒトのサービスに個々の顧客が十分満足することが続けばリアル経済の価値が高まり、ヒトの生産性が伸びることになる訳だが、これはヒトの意識作用の一環である抽象化がヒトの脳内(そして生命個体内)の活動であるため、それが刻々と変容する凡ゆる地球上の「リアルな自然・社会のエルゴンおよびエネルゲイア」(潜性・顕性の両活動エネルギー)と共時的に繋がっていることに因ると思われる。
言い換えれば、それは製造・販売・サービスを提供する側と顧客側とがビジネス現場で、そのような意味では大きな暗黙知支配下にある「リアル経済」の新たな可能性(潜性イノヴェーション世界)を常在的に共有していることに因ると考えられる。
 一方で、ビッグデータ解析の結果である「AI機械計算またはディープ・ラーニングの予測値」(解析フィルター仕掛けの圧縮化、つまり中立的と想定されるビッグ母集団の解析に因る機械的な抽象化に因る予測値はリアルな自然や社会と同期的(マッハ感覚論的素材性的)には繋がっていない。
 
それは、いわば高度デジタル抽象的な形式知の世界とリアル経済の間には、見逃すべきでない絶対的な「人間の壁2(断絶/労働生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、およびそのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)があるためである。そのため人的に省力化されたビジネス現場では、実に皮肉なことであるが、高度な専門知とは全く無関係な人的サービスを顧客側から求められるケースも発生している。無論、これは現下の「新コロナパンデミック」対応のテレワークとは全く次元が異なることである。
  
[2]新時代の倫理の前提1“赤の女王”の足枷」の問題

・・・当記事の冒頭でも取り上げたが新時代の“倫理”と深く関わることになる「“赤の女王”の足枷」の問題にふれておく・・・

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<注>「赤の女王」とはルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場する人物であり、彼女が作中で発した「その場にとどまるためには全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」という台詞から、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならないことの比喩として用いられている。

・・・

これは、アメリカの進化生物学者リー・ヴァン・ヴェーレン(Leigh M. Van Valen/1935 -2010)が1973年に提唱した、「全生命(自然環境)系を根源的に支配すると見るべき、(a)敵対的な関係にある「種」の間での進化論的軍拡競争と(上位層)、(b)生殖におけるダーウイン進化論的な有性生殖の利点を巡る競争(下位層)なる、二つの異次元の進化現象についての統合的な説明」(永続性の原理↓▼)の象徴である。

この「a、b」二つの異次元相の激烈な競争の結果として、もし唯一の生き残りが生じたとすると、それは必ずゼロサムAll-or-nothingで利害の総和がゼロになること)となり、生物種そのものが、ひいては生命そのものが自然界(地球上)から消滅することもあり得る(よりミクロな、あるいはよりマクロな生命・環境系も視野に入れれば、必ずしもそうとは言い切れぬかもしれないが)。

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『自由の命運 上、下:国家。社会、そして狭い回廊
』(早川書房)の著者、ダロン・アセモグルと ジェイムズ ・A.
ロビンソンは、このような考え方を「政治経済」社会の分析(政治・経済を一強支配しようとする権力(構造)、専横のリヴァイアサンの分析)にあてはめ自由の命運を論じているが、結局、我われ人類が“自らの生命を永続させる”ためには、自然界を含めた広大な視野で『足枷のリヴァイアサン(赤の女王)』組織化した民主主義社会による赤の女王の制御システム(足枷))の再構築にエンドレスの覚悟で取り組むより他の道はありえない現実を実証的に論じている

そこで、特にここで押さえておくべきことは、「マネー&金融マネージャー資本主義」の暴走と、これまで重視しつつ取り上げてきた人間の壁1,2の問題である。それは、今まさに「準汎用AI」が本格化しようとする時代であるからこそ、これら二つの問題が重畳し、それが<新たな超リスクの病巣(AIと金融工学を駆使するシャドー・バンクらによる、マネー&金融マネージャー資本主義の独占支配構造)>と化して、より一層「格差問題」を深刻化させる恐れがあるからだ。その危機感の表れは奇しくも当記事・冒頭の(前置)で取り上げた、[以下]の部分(@20200403日経)である。

【 ▲またもブラックロック(世界トップ・シャドーバンク)か?FRBの透明性確保がカギ:ジリアン・テット403日経/FC、・・・リーマン以降、現在に至るまでのアメリカ経済の「回復」は、・・・もっぱらレント経済へ注力した「マネー&金融マネージャー資本主義」の再生にすぎない。しかも、いまや又アメリカのみならず全世界がポスト・コロナパンデミックがもたらす深刻な構造不況に襲われている。(再び、99%国民層の餌食(ルンペン・プロレタリアート化を狙って!/補、toxandoria・・・https://www.nikkei.com/article/DGKKZO57560620S0A400C2TCR000

20170713055137

そもそも、エトノス内におけるエントロピー解放手段としての暴力装置(暴政、戦争、財政危機など)を内蔵せざるを得ない国家(統治パターナリズム)の基盤である「法」の根源が、C.シュミット、ハイデガー、H・アレントらの如くノモスnomos/古代ギリシャのノモス法そのもの、あるいは其処に住む住民が平等に与えられる“ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前”のことだと見る位置に立てば、H・アレントの「社会」の先に、政治・経済が協働して当たるべき真の役割(アレントの難解さをフーコーの視座で再構成したもの/@稲葉振一郎『政治の理論‐リベラルな共和主義のために‐』(中公選書))が見えてくる。

それこそが、そこから浮上する「リベラル共和主義」(リベラリズムと共和主義の十分な均衡による貧困問題などの根本的解決)という新たな方向性だ。そこでは<「現代の民主主義国家における統治権力(パターナリズム)と個々の労働者の間を仲介する「労働組合の役割」をノモス法の原点と照らして本格的に見直す>ことが最も重要な課題である。

つまり、一般の国民・市民層の『日常生活の営み』という日常経済のリアリズム(潜性イノヴェーション)の活性化に関わる政治活動に、常時、取り組むことが最も重要な労働組合の役割であり、特に<無産化したルンペン・プロレタリアートの有産化>への取り組みが急務である。

 別にいえば、資本主義社会において本来あるまじき只の既得権「保守機関」へ変質した日本の名立たる大企業(群)と労働組合など、例えば日本「原子村」または(株)電通らの「メディア&ジャーナリズム監視・統括」企業、および連合を筆頭とする「 労働組合」(これらのことごとくは、今や只の「レント(過剰利潤)の死守機関」化、いわばマネー&金融マネージャー資本主義>の尖兵たる「赤の女王」走のための旗振り役と化した!)を、一般社員(一般市民層)の日常生活とビジネスの活性(政治意識)化”を支え得る有意な組織へと、そのあり方を見直す)」のが重要だということである(同上『政治の理論』。

・・・(参考)政治的地位or金融工学式“労働節約型技術”等に悪乗りの連合らと同轍で特権レント構造に胡坐をかきアンシャンレジーム化したメディア界の仕切り屋らしい傲慢なへ理屈! 電通副社長「経産省ルールに則った、通常業務より低い利益」 持続化給付金の再委託で会見608ThePAGE https://twitter.com/tadanoossan2/status/1270100675104366592

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1270100675104366592

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https://twitter.com/nikkan_gendai/status/1269873043716935680

・・・

労働組合」は、本格的にリベラル共和主義を志向する時代にこそ、貧困の根本的な解決のために必須の“産業民主主義(国民のための産業組織論)のベース・キャンプ”となるべきだ。そこへ、もう一つ加えるべきは(内外の市民層が主役となるアソシエーションの問題(@日下部 史郎『新自由主義に抗して―スーザン・ジョージ世界市民運動―』(SSBパブリケーションズ))である。 

因みに、自然(自然環境)系における「in vitro (実験環境内)とin vivo(実験環境外) の区別」は研究分野によって多少異なっている。それは、「どのレベルを生きている環境系と見るかの違い」ということに因る。そのため、「生命環境そのものについての理解」は相対的になる。だから、ヒトが認識している自然についても、(1)地球環境の内外で分ける(即ち、“内=自然(生命系)、外=非自然(非生命系)”)とする考え方と、(2)地球環境~全宇宙までを含めてオール自然と見なす考え方、の二通りが成り立つそして、例えば「AIシンギュラリティ」論は明らかに(2)の立場である

(補足)▼「永続性の原理」について

自然界の一部たる人間社会もある意味で広義の「永続性の原理」(持続的な対称性バイアス、つまり同調圧力のジャンル(自然界でも作用する物理・化学的な相転移・熱伝導・濃度希釈など広義の“忖度・同調”への傾斜圧力)の誘惑を可能な限り断ち切り、または遅らせつつ最大限に定常性を維持するため暗黙知に照らしたリスク分散/その全体を保証する原理が、おそらくハーネス調教に似る自然計算のプロセス(関連/Cf.↓★))で補完されている可能性が高い

★想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか? それは「アナログ/自然計算(“暗黙知”ワールド?)」と「デジタル/AIディープラーニング(“形式知”抽出マシンワールド?)」の溝の深さによる?(仮説)、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/2019/09/02/125003

ただ、「民主主義は未完の営為であるとの謙虚さ」(これが倫理観の大地!)を前提にすれば、厳密には「永続性の原理」にもローカル自然環境や広義の伝統文化または歴史発展的な意味でのヴァリエーションがある。そして、その典型が現代の民主主義の維持を目的とするヴォルテール合理的精神による権力批判の実践ということに刺激を受け、モンテスキューが着想した<「三権分立」に「メディア(第4権力)」が加わる権力分散(四つの権力)の形>である。そして、これが現代民主主義の「法の支配の原則(法と秩序)」の中核である。

「第4権力」の意識が殆ど希薄化した(あるいは疾うに捨て去った!)日本メディアの謎?(苦w)、

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1230623511305080833

・・・(関連)いっそ日本メディアの殆どはジャーナリズムの看板を下ろしビジネス路線に徹した方が無害かも神社?!w

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1267596757967372290

・・・(関連)>これ程の無責任さは戦後の内閣では例を見ない。メディアはその酷さを国民に伝える義務がある。 ←同感だが、日本メディアには「ソレが自分の仕事との自覚」が全く無いのでは?or その類の汚れ仕事は週刊文春らのビジネスと割り切ってる?

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https://twitter.com/mt3678mt/status/1268370419687415808

◆両者に質の差はあるが今の「日アベ・米トランプ」はファッショ2.0で同義! ポスト<新コロナパンデミック、「日米の一強ファッショ権力」凋落>の重要な課題は「赤の女王」↓★暴走の国際協調による抑制! →トランプ氏大敗か 米失業率、選挙時2桁も525時事 https://www.jiji.com/jc/article?k=2020052500111&g=int

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・・・

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1267355974718779392
そして、この民主主義のあり方こそが「剥出しの、換言すれば善・悪を超越した苛烈なゼロサムの生存競争」に曝される生物・動物一般との「良い意味での違い」(信頼に基づく人間社会)を保証してきたといえる

しかし、そこには「人間社会」故の逆説ともいえる、自身がまさに「赤の女王」の化身であるという恐るべき現実が一切視野に入らぬ(又は、それを敢えて無視しようとする)ゼロサムファシズムが出現する可能性が必ず潜んでいる

従って、「赤の女王」の暴走を抑止するための足枷が、つまり「全ての国民による“倫理”観の共有ということ、および権力を縛るための法の支配の“四つの権力の形”」が民主主義には必須条件であることが理解できる

[3]新時代の倫理の前提2/マクダウエル「リアリズム倫理」の核心と見るべき選言説

・・・マクダウエル倫理学の核心=近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシア的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだとの主張・・・

https://www.philosophy.pitt.edu/person/john-mcdowell

<注>ジョン・マクダウエル/John McDowell(1942‐ )・・・ピッツバーグ大学教授. オックスフォード大学講師を経て 1986年より現職/研究分野は多岐にわたりプラトンアリストテレスに代表される古代ギリシア哲学、倫理学言語哲学、 認識論、心の哲学ヴィトゲンシュタイン研究などで大きな影響力のある論考を発表している。.カント、ヘーゲル研究でも知られるが、日米および欧州などで跋扈するマイファースト・自己責任論・多様性否定主義あるいは表層的なAI万能論が囃される昨今(関連参照↓ブログ記事★)であるからこそ、そのユニークな「リアリズム倫理」(道徳的実在論/自然と対比的に、それを第二の本性(自然)と位置付ける)が注目されている。つまり、ジョン・マクダウエルは、かつてヒト(人類)が理解していた筈の【根源的かつコンシリエンス的な“想像力”(人文・科学知の融和・和解的統合)に因るリアリズム/コンシリエンス・リアリズムとでも呼ぶべきか?】の自覚(復権)こそが、愈々、必須になると警鐘を鳴らしていることになる(委細、後述)。

★AIの正体を知れば哲学が分かる!上っ面のAI崇拝は豚に真珠/AI批判「知」の “活用”で「ヒトがやるべき仕事」の発見と「壁《AI Vs ヒト》」の切り崩しができるhttps://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

一般に我われは人間の心について、普通<それはコギトエルゴスム(cogito、ergo sum/我思う、故に我あり)のデカルトが考えたような物理的世界には何ものをも負わない実体とされるか(マクダウエルの言う『威丈高なプラトニズム』/恰もハイエクミルトン・フリードマンが嵌ったリバタリアニズム(抽象合理一神教とでも言う他に言いようがないほど異常に強度の概念硬化がもたらした完全自由主義)が連想されて興味深い!)、逆に物性物理的な性質に還元されて説明されるか(同じくマクダウエルが言う『露骨な自然主義』/“観念Vs自然”なる二元論の対概念としての自然の意味であり、その立場からすれば、例えばマルクス・ガブリエルの新実在論(外界の思考)なども絶対に認められないことになるだろう!)という二者択一に常に迫られるというジレンマに陥っていることになる。

 マクダウエルは、このような「威丈高なプラトニズム」と「露骨な自然主義」とが実は共犯関係にある(普通、我われはそれにより騙されている)ので、今やAI‐コンピュータがほぼ万能視されるような時代になったからこそ、そのような近代的二項対立に陥る以前の古代ギリシャ的(プラトンと和解・融和したという意味でのアリストテレス的)な世界観を範に採るべきだと主張しているこれが、マクダウエル・リアリズム倫理学の核心!/出典:現代独仏圏の哲学的人間学とジョン・マクダウエルアリストテレス自然主義岩手大学、音喜多信博/KAKENhttps://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-17K02156/

マクダウエルが言う「今こそ我われが範に採るべき“近代的二項対立に陥る以前のアリストテレス的な世界観”」ということを言い換えれば、それは「ガダマーがディルタイ生の哲学のなかに再発見したとされる“古代ギリシア・ローマにまで遡る「現代人がすっかり忘れ去ったリベラル・アーツ的な観念”であり、それこそがヒト故の豊かな想像力の源泉」(その流れの二大潮流がプラトンアリストテレスの和解・融和ということ/そして、これは見方次第のことながら、アリストテレス主義(徳の倫理学/二コマコス倫理学)がプラトン主義を批判的に受け止めつつも深く理解し、同様にプラトン主義(敬虔(謙虚さ)の倫理学)もアリストテレスの徳の倫理学を批判的に受け止め深く理解していたと考えられること)であったのではないか?と思われる。(Cf.https://kimihikohiraoka.hatenablog.com/entry/20120422/p1 、https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514 )

・・・マクダウエル『リアリズム倫理学』の核心はヒトの意識を“第二の自然”と見なし、それを“第一の自然”(地球環境)と同等に位置づける点にある・・・

たまたまの邂逅であるが、<20190827朝日「文化・文芸」欄の『スマホ・AI、言語を変える/コンピューターは想像が苦手?』という記事>は興味深い内容であった。

それは、我われが<スマホ・AIによって言語の質そのものが根本から変わりつつある話し言葉が書き言葉の中に入ってきた?!ヒトの意識と異質なコンピューターは文脈的・文法的な意味は分からないが、それは人間同士の言語の使い方とは全く異なるコミュニケーションの形を創造しつつある?)時代に入ったというユニークな指摘に加えて、コンピューターはヒトの最もヒトらしい特徴と見るべき「想像」 imaginationが苦手である!?(従って、益々、これからの時代において我われヒトの会話と文章、つまりその意識から想像力が失われて“我われが動物化”する宿命にあるのでは?)という、当ブログ記事のテーマでもある「ヒト故の想像力のユニークさ(特に、そのあらゆる意味での“潜性イノヴェーション”の宝庫でもあり得るという意味での重要性)を本格AI化の時代に入りつつある今こそ再認識すべきだ!という問題意識」と重なる論点を提供しているからだ

  【補足1】人間の壁2』と「選言説」について

f:id:toxandoria:20190905112403j:plain・・・「選言説」(intentionalism)は、知覚・感覚ひいては感情こそがヒトの日常言語における固有名などの一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る、言語哲学の立場であり、一般的には概念説(表象説、概念相対主義/relativism)と対置されるが、マクダウエルでは、これが「ヒトの意識=第二の自然と定義し、それを第一義の自然と等置する考え方」のベースとなっている。

「マクダウエルの選言説に因る意味論」でも、その第二の自然たるヒトの意識はそもそも胎盤的な謂いの環境である第一義の自然の影響を当然のこと受けている(諸感覚を経由して)はずなので、たとえ固有名詞であっても初めから固有の価値を持つとは考えられない‐ということになる。

『人間の壁2』労働生産性VsAI等“機械高度生産性”に因る超格差の拡大トレンド、およびそのことに因る人々の不満や不安心理の拡大)は、準汎用AIの高度機械生産性の角度から見れば『人間の壁1』の問題そのもの(AI抽象化デュナミス潜勢態(生命体のヒトにとっては、抽象化である限り、それはあくまでも可能性の次元に留まる/大黒岳彦)に重なる(委細参照 ⇒ (1)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938 , (2)https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/05/19/040514

つまり、『人間の壁2』(結局、“感じる”ヒトは高度デジタル抽象的なビジネス・サービスだけでは十分に満足できないという)の問題は、<知覚・感覚ひいては感情>こそがヒトの日常言語における固有名の一義的な「意義」と概念の形成に先行すると見る「選言説」と関りが深いことになるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/42/1/42_1_1_29/_pdf/-char/en)。

<参考>マクダウエル自身は概念説(表象説)と選言説の結びつきについて明確な論述を施していないが、われわれは、ひとまず両者の関係を次のように整理することができる

概念説と選言説はそれぞれ対立する立場との間に論争を巻き起こしつつ、現代の知覚の哲学における中心的な関心領域の一部を形成している。

概念説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの信念は合理的な制約(フレーム)を獲得する」という論点であり、他方の「選言説」が確保しようとするのは、「知覚経験においてわれわれの心に提示されるのは実在の在り方そのものである(いわば、マルクス・ガブリエルの外界の思考に近い?)」という論点である

したがって、これら二つの見方は、相伴うことで「経験は信念に対して実在からの外的な合理的制約を与える」という論点を構成すると考えることができる。換言すれば、選言説と概念説の両者はそれぞれ、「実在から経験へ」および「経験から信念へ」という二つの道筋を整備し、それらを正当化の序列のなかに正しく位置づけるために相補的に機能すると捉えられる(出典:知覚経験の選言説と概念説/小口峰樹(東京大学総合文化研究科科学史科学哲学/現・玉川大学脳科学研究所、特任助教)。https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/members/pdf/知覚経験の選言説と概念説.pdf

因みに、ケンブリッジ分析学派(ヴィトゲンシュタイン学派)は“非選言説”の立場を採る。また、「選言説」はマクダウエル「リアリズム倫理学(ヒトの意識=第二の自然と見て、それを第一義の自然と等置する)」のベースと見るべき問題でもある。更に、ここで言う「意義」はフレーゲ言語学での「実在の直接的な意味、意義(概念)、表象」の区分を意味する。

【補足2】「概念説Vs選言説」の緊張関係がヒントとなる「AI時代の民主主義の新たな可能性」について

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パース(Charles Sanders Peirce/1839 – 1914/米国の哲学者、論理学者、数学者、科学者/プラグマティズムの創始)が提唱したタイプ(脳内で自由に変容する可能性がある概念そのもの/つまり、概念説に接近する)とトークン(その概念と対峙する関係にある、確固たる実在としての因果の連鎖に縛られる特定・個別の対象/選言説に接近する)の区別(Type-token distinction)という考え方がある。 

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デイヴィドソン(Donald Herbert Davidson/1917- 2003/米国の哲学者/最も著名な論文は『行為、理由、原因(1963)』)によれば、現実的には、個々人の心理面におけるこの両者(タイプとトークン)の対応関係は一筋縄では行かない

そこで、例えばある固有名詞(特定タイプの言語表象)ら多様な言語表象の組み合わせに因る一定の言明(言語表現/厳密に言えば、それによる或る人の心的理由の説明)は、必ずしも因果論的ないしは論理的に首尾一貫性を確保するとは限らないことになる。いわば、個々人の内心それ自身は常に多様性に満ちていることになる。(画像は、https://www.s9.com/Biography/davidson-donald-herbert/ より)

別に言えば、如何に客観合理性を謳うとしても、安定的に、それが中立性・公平性を担保するのは非常に困難であることが理解できるはずだ。ましてや、何か絶対的に梃子でも動かぬソリッドな固定観念か何かが自己の中核的で、個性的な生命力の正体だと理解することはできないといえる。逆に言えば、個々の個性的な、しかも一回性は個々の信頼に基づく関係性にのみあることになる。

この「一回性は個々の信頼に基づく関係性にのみある」という点にこそ、マクダウエルが「選言説」で上の二つの視座、「概念説と選言説」を融和・和解させ、それによって「真のリアリズム」を取り戻すことが、愈々、必須だと主張する理由がある

そして、必然的にこれは<脳内外の諸環境の干渉の影響下にある「感情」こそがヒトの日常言語における固有名などの一義的な意義と概念の形成に先行する>と見る立場につながる。しかも、この論点は現実的に現下の国際政治の局面(世界の民主主義と世界経済の行く末を占う)にも絡んでいることが理解できる。

それは、米トランプ政権の「自国第一主義」の異様な暴走、あるいは我がJPNルイ16世(ゼロサムファシストこと安倍晋三・首相)の底知れぬほどの無責任政治からさえ何か学ぶべきことがある筈だという気付きであり、より肝心なのはその覚醒の内外における共有を急ぐことである。

直近の事例に関連付ければ、例えば今後も世界の民主主義が存続するため必須と見るべき基本的条件は何か?ということである。そして、それは疾うに行き詰まったかに見える世界の民主主義が、再び、その限界をブレークスルーするための良き契機ともなり得る「啓蒙思想の“普遍”観念に関わる重要な格率とも見えるデューイ・プラグマティズムの原点」である<凡人の保障された言明の希望(可能性)>の問題意識を真に全世界で共有できるようにするため、ポスト新コロナパンデミックの日本が世界に先駆けて取り組めるよう努めるべきである。

それは、8年にもおよぶ「あまりにも異常な安倍政権下の忖度&記録改竄政治」の欠陥に関わる政治病理的な分析が、このデューイの格率と相まって十分に有意な反面教師の役割を果たし得ると思われるるからである。

無論、それは此の反面教師が自己チュー・トランプの治療のためにも些かは役立つだろうと思われるだけに止まらず、何よりも「パース哲学、マクダウエルのリアリズム倫理、同じく“選言論Vs概念論”の緊張関係(論争)、デューイの凡人の保障された言明の希望(可能性)、AI時代の民主主義の新たな可能性」が深く共鳴しつつ世界の民主主義の再生と深化のためにも十分に役立つと考えられるからである。

また、「選言論」との関連で想起すべきは(これは“赤の女王”の足枷の問題の説明でもふれたことだが)、一般的には一つしかあり得ないと思われる自然の理解についても、実は<(1)地球環境の内外で分ける(即ち、“内=自然(生命系)、外=非自然(非生命系)”)とする考え方と、(2)地球環境~全宇宙までを含めてオール自然と見なす考え方>の二通りが成り立つことが理解できる。そして、例えば「AIシンギュラリティ」論は明らかに(2)の立場である。

そこで、ここでは「AI時代の民主主義の新たな可能性」のフレームを明確化させるため、「我われヒトの潜性イノヴェーション”(ヒトの意識、外界の思考があればこその?)が、実は(1)の自然系でしか成立し得ないのでは?と思われる点について少し述べておく。

それは、もし仮にAIシンギュラリティに適応でき得るヒトの“潜性イノヴェーション”((1)地球型自然の意味での外界の思考)が成立可能だとすれば、それは現在のヒト(人類)とは全く異次元の生命体(果たしてそれが生命体と呼び得るかどうかも?だが)というべきかもしれない、と思われることである。

それは、例えば非常に長時間の宇宙滞在が実現した暁には、究極の目的である別の星での生活のため宇宙空間で食料を全くゼロから作り出すことが不可欠の課題となり、何らかの方法で科学的に合成された食料を食すことが普通となった時代のヒトは、果たして我われと同じヒトと定義できるのか?そのような視点から見ると、マクダウエル『リアリズム倫理学』のベースともされる「選言説」についての理解がより深まるのではないか、と思われるからだ!」

[3]ハイエク哲学の限界をブレークスルーするマルクス・ガブリエル『新実在論』、“外界の思考”の視座

 

・・・以下は、当シリーズ記事(1/2)より部分転載・・・

ハイエクは著書『隷属への道』(1944)で<「ファシズム政権や社会主義者が主張する分配的正義は人間の意図せざる行為の結果として市場において自生する自生的秩序(Catalaxy)が実現する交換的正義には敵わない。なぜなら、仮に金持ちから余剰なカネを奪い取り、それを社会的な弱者層へ平等に分配する(分配的正義を実現する)ことが可能であるとしても、それは一強・強権独裁化したファシズム国家でしかあり得ないことになるからだ。>という「趣旨のこと」を主張する。

また、そのためハイエクは「長い歴史的な時間をかけ自生的に形成された言語・慣習・伝統および市場の知識を遥かに超えた大いなる力が、つまり人間の力を超えた意図せざる結果として自生的な秩序が市場のなかで生まれる」ことを最重視すべきだとも主張する。

たしかに、このような視点は重要であり、それは現代「知」の先端と見るべき「エトノス(ヒト・自然・文化環境)論、新実存主義(@マルクス・ガブリエル/↓▲)、批判実存論(Critical Realism)」などの先取りかと見紛うばかりである。

「マルクス・ガブリエル 新実存主義」の画像検索結果

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel/1984 - /ドイツの哲学者、ボン大学教授)の新実存主義/序論:穏健な(“普通の”のニュアンス/補、toxandoria)自然主義と、還元論への人間主義的 抵抗(廣瀬 覚訳、2020.1.21/岩波文庫

・・・以下は、当著書の序章「ジョスラン・マクリュール(Joceran Maclure/ラヴァル大学教授/1973- )のガブリエル・新実存主義についての紹介文」より部分転載。・・・

ガブリエルは、数々の形而上学の重要問題について、大胆な見解を唱えている。たとえば、以前の著作では、存在論や認識論で構成主義(自然科学に似た要素還元論的な)が乱用されるいま、新たな実在論が求められていると論じた。

我われの現実(日常的な)をかたちづくる対象領域―すなわち「意味の場」(つまり『日常』/補、toxandoria)―の多元性(マッハ感覚論的素材性(‐実在性)/補、toxandoria/関連参照↓★)を中心に据えた実在論である。

★マッハ感覚論的素材性(実在性)について:再び、マッハ現象学とマッハ感覚論的素材論(性)についての考察が必須、https://toxandoria.hatenablog.com/entry/20180701/p1

★同上関連/西田哲学の形成に影響を及ぼした現代物理学の影響についての思想史的考察:矢崎彰(早稲田大学大学院博士課程)http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1994_21_hikaku_10_yazaki.pdf

日本哲学という意味の場—ガブリエルと日本哲学/浅沼光樹:西田幾多郎マルクス・ガブリエル、特に「場所」以後の西田と『なぜ世界は存在しないのか』におけるガブリエルの基本思想の類似を指摘する!https://www.evernote.com/shard/s440/sh/10ae5d94-4fb6-444c-be2a-6f296cc224f0/1c472734a1d9d1ebdc7a6b98d0d387c6

・・・

心の哲学の研究者も、神経科学者や認知科学者も、ガブリエルとコメンテーターの個々の議論に疑問を抱き、そこにある不備をとがめようと思う人は少なくないはずである。そして、それこそが健全というものだ。それでこそ、新実存主義はより強固なものに育っていける。

だが、アカデミズムの有力な一角で、また文化の広範な領域で、還元論自然主義(特に、一部のAI系研究者やフィンテック系の投資コンサルタントらに見られる素朴な!の謂いでの/補、toxandoria)が幅を利かせる現状に不安を抱く者にとって、ガブリエルらの見方が抵抗の時の到来を告げるものであることは確かなのだ。

私(ジョスラン・マクリュール)の目に映る「心は頭のなかだけにあるのではないと考えるガブリエル」とは、抜き難い心の文化的・社会的側面に注意を促す哲学的人類学者というものだ。

・・・ここで、引用転載おわり・・・

この哲学的人類学者のイメージが、ある程度まで後述する≪ハイエクのカタラクシーに特徴的な考え方≫に重なる点のあることが興味深い。

ただ、ハイエクの場合、それはガブリエルの所謂「ヒトの意識(心)の“絶えざる多様性と開放性”の創出の作用」(更に付言すれば、デューイのプラグマティズムの共有的な自由(自由の共有)意識、つまり“凡人の言明の保障の意義”なる暗黙知の重要な役割についての理解)という水準まで深まることはない。

それどころか、折角のその貴重なエントランス部分への気付きが、結局は、もう一つのハイエクの関心事であり、ハイエク自身の大きな拘りでもあった自由市場原理主義(個の完全自由に基づく市場原理を崇拝するリバタリアニズム(その完全自由主義なる超設計主義(自己撞着)があらゆる埒外の余人の自由を厳しく規制するリバタリアニズム2.0)、つまりリバタリアニズムという経済計画論(完全な個の自由の絶対保全)による新しいタイプのリバタリアニズム国家(開放系の多様性を排除し市場原理の埒外の一切の価値観を否定する方向)に回収されている、と思われる。

片やミルトン・フリードマン については、シカゴ大学時代に同期で同僚でもあった宇沢弘文の証言によるとフリードマン自身が金融投機のカラ売りで一儲けすることに熱中するタイプのリバタリアニスト( The Complete Libertarianist)であったようだ。だから、ミルトン・フリードマンはガブリエル哲学的な意味での実存主義的な理解とは程遠い世界のヒトであったようだ。

ただ、ミルトン・フリードマンの名誉のために補足しておけば、既述のとおり<「重要論文F35」の読み直しから、実は<フリードマンが「諸経済理論F・システム大系を哲学的視点でネットワーク化し、真の経済理論が完成する迄のさし当りの道具としての市場原理である/道具主義プラグマティズム)の市場原理」>と考えていた節がある。>という説もある。天才とされる経済学者フリードマンも、ハイエクに負けず劣らずの大いに迷える人間であったのかもしれない。

f:id:toxandoria:20200605114023p:plainhttps://twitter.com/tuneleconnaispa/status/1268192144428154881

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https://twitter.com/mipom11/status/1268446915462434817

とすれば、ハイエクフリードマン新自由主義の聖人たちの正体と欠点を或る程度は知りながらも、それを巧みに政治利用して私腹を肥やし只管お仲間らの権力強化にうつつをぬかして我が世の春を謳歌する輩(例えば現代日本安倍晋三ファシズム2.0政権の領袖)や竹中平蔵ら)の如き、余りにも野蛮で狡猾で強欲な政治家や盗人同然の御用学者は、この<市場原理主義の二大聖人>に対しても大いに無礼なのではなかろうか?w

[4]危機の時代に誰が誰を犠牲にするか知ったいま、私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・レジーム)には戻れない。(寄稿)京都大学人文科学研究所:藤原辰史・準教授/2020426朝日https://twitter.com/tadanoossan2/status/1255028914612695040  https://ameblo.jp/lovemedo36/entry-12593245917.html 

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https://twitter.com/tadanoossan2/status/1255029249573978112

◆全国民を小バカにした<アベ粉飾劇場>のチョー強引「“黒川の場”幕引き」の一幕!605朝日

f:id:toxandoria:20200605153603p:plainhttps://twitter.com/tadanoossan2/status/1268792512224714752

◆【告発の行方?】告発:代理人@刑訴239‐1、告訴:告権者@同法230で同等効力!法務省アベ忖度&対国民主権蔑視の虚偽“国会”発言!法的正義不在ニッポン!→ >告発は刑訴法の規定で代理を認めない:法務省・川原刑事局長/桜を見る会めぐる首相告発を1.31不受理・東京地検・・・首相主催の「桜を見る会」をめぐり、憲法学者らが1月に安倍晋三首相を背任の疑いで告発した問題で、東京地検が告発を不受理にしていたことが分かった。26日の衆院法務委員会で共産党藤野保史氏が明らかにした。不受理の通知は1月31日で、「代理人による告発を受理できない」などの理由だったという。 ←コレは、法務省・川原刑事局長の真っ赤なウソ!https://www.asahi.com/articles/ASN5W44RNN5VUTIL04K.htmlf:id:toxandoria:20200528051659j:plain首相動画】自宅マンションから安倍総理インスタ投稿!ルイ16世かと炎上 ...

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・・・以下、「2020426朝日/藤原辰史・寄稿記事」の部分転載・・・

歴史に学ばず、現場を知らず、統率力なき言葉】

   ワクチンと薬だけでは、パンデミックを耐えられない。言葉がなければ、激流の中で自分を保てない。言葉と思考が勁(つよ)ければ、視界が定まり、周囲を見わたせる。どこが安全か、どこで人が助けを求めているか。流れとは歴史である。流れを読めば、救命ボートも出せる。歴史から目を逸(そ)らし、希望的観測に曇らされた言葉は、激流の渦にあっという間に消えていく。

   宮殿で犬と遊ぶ「(JPN)ルイ16世の思考はずっと経済成長や教育勅語精神主義に重心を置いていたため、危機の時代に使いものにならない。IMFに日本の5・2%のマイナス成長の予測を突きつけられ、先が見通せず右往左往している。それとは逆に、ルイとその取り巻きが「役に立たない」と軽視し、「経済成長に貢献せよ」と圧力をかけてきた人文学の言葉や想像力が、人びとの思考の糧になっていることを最近強く感じる。

   歴史の知はいま、長期戦に備えよ、と私たちに伝えている1918年から20年まで足掛け3年2回の「ぶり返し」を経て、少なくとも4千万人の命を奪ったスペイン風邪のときも、当初は通常のインフルエンザだと皆が楽観していた。人びとの視界が曇ったのは、第1次世界大戦での勝利という疫病対策より重視される出来事があったためだ。軍紀に逆らえぬ兵士は次々に未知の疫病にかかり、ウイルスを各地に運び、多くの者が死に至った。

   長期戦は、多くの政治家や経済人が今なお勘違いしているように、感染拡大がおさまった時点で終わりではない。パンデミックでいっそう生命の危機にさらされている社会的弱者は、災厄の終息後も生活の闘いが続く

・・・途中、略・・・

  研究者や作家だけではない。教育勅語と戦陣訓を叩き込まれて南洋の戦場に行き、生還後、人間より怖いものはないと私に教えた元海軍兵の祖父、感染者の出た大学に脅迫状を送りつけるような現象は関東大震災のときにデマから始まった朝鮮人虐殺を想起する、と伝えてくれた近所のラーメン屋のおかみさん、コロナ禍がもたらしうる食料危機についての英文記事を農繁期にもかかわらず送ってくれる農家の友人。そんな重心の低い知こそが、私たちの苦悶を言語化し、行動の理由を説明する手助けとなる。

   これまで私たちは政治家や経済人から「人文学の貢献は何か見えにくい」と何度も叱られ、予算も削られ、何度も書類を直させられ、エビデンスを提出させられそのために貴重な研究時間を削ってきた。企業のような緊張感や統率力が足りないと説教も受けた。

   だが、いま、以上の全ての資質に欠け事態を混乱させているのは、あなたたちだ。長い時間でものを考えないから重要なエビデンスを見落とし、現場を知らないから緊張感に欠け、言葉が軽いから人を統率できない。アドリブの利かない痩せ細った知性と感性では、濁流に立てない。コロナ後に弱者が生きやすい「文明」を構想することが困難だ。

   危機の時代に誰が誰を犠牲にするか知ったいま、私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・レジーム)には戻れない

 

(後置)『人間の壁』を脱出する条件は「リアリズム倫理」(農業知)への覚醒

・・・「ディープラーニング~準汎用AI」時代こそ警戒すべき、『人間の壁』から『バベルの塔』構築への暴走・・・ 

・・・その<暴走>の先駆けが、GAFA型「差別(選別)化による大格差」の発生・・・ 

(1)GAFA型差別(選別)化の根源にある『人間の壁』

近未来において「汎用or準汎用AIロボ‐Web]のIOT環境(https://mono-wireless.com/jp/tech/Internet_of_Things.html)が完成した暁には、グローバル金融を完璧に組み敷きAIロボを所有・支配する数パーセントの人間が9割超の<AI‐IOTが理解できない!という意味で彼らより“AI形式≪知≫的”に劣る人間を一方的に支配するデストピアが出現するのでは?との悲観的な議論も、愈々、喧しくなりつつある。

一方、日本においては、まるでそのAI‐IOT周辺での哲学・倫理の不在を嘲笑うかの如き体たらくであり、実に不埒なJPNルイ16世ゼロサムファシストアンシャンレジームへの回帰)を騙るマイファースト・ネポティズム(ウソ吐きお仲間)権力派が、つまり<“ドラエもん”なんでもポケットAI‐IOT派>が相変わらず優勢である。しかも、そのネポティズム派の元締めを自負してきた安倍政権は、先端AI‐IOTのみならず「数学」や人文知の政治・経済利用まで繰り出してJPNバベルの塔』の建設に勤しむ日々を送っている。

例えば、京大・望月新一教授が証明したとされる<「数学の超難問ABC予想、検証に7年半、新理論「宇宙際タイヒミュラー理論」>など、最先端の数学理論等の政治利用まで狙っており、肝心の『人間の壁』(新自由主義に呑み込まれたAI形式《知》に因る成長原理主義がもたらす本源的な格差拡大の問題)は放置したままで「数理資本主義」による日本再生などを吹聴している(画像は『4章-1』から再録)。

また、関連基礎研究と技術力の劣化、果てはAI‐IOT関係者ら中の「下位パラメータ(一定チューニングが可能な部品アルゴリズム)」系技術者(いわば首切り自在の“みなし”職人層)の伝統的な地位の低さという悪条件をまるで好餌とするかの如く、安倍政権を筆頭に<“政治利用”AIお神籤派(所謂、AI式“ドラエもん”なんでもポケット派)が相変わらず幅を利かせている。それは、非自由原理主義的な産業構造の改革に無頓着な政権および日本財界トップ(経団連経済同友会はては御用組合幹部ら)の本音が、潜性イノヴェーションには全く無知のままの古典的「成長至上主義」であるからだ。

しかも、同時にそれは“福祉・厚生を敵視する新自由主義に因る、積極的な格差(人間の壁1・2)の”拡大策でもあるため、準汎用AI時代に必須の真っ当な「転相マクロ経済政策構想」のイメージ(Ex.https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938)も描けず、専らネポティズムアナクロ産業を基軸とする既得の権益構造にしがみつくバカりで、実に残念ながら、日本は「真に先進的なAI‐IOT産業が基軸の先進国グループ」から着実に脱落しつつある。

おそらく、安倍首相ら「視野狭窄マイファースト派」からすれば、公僕ならぬ今や自らの手駒or傀儡と化した<高級官僚らと中央官僚組織は「AIディープラーニングにおける「一定のハイパー(指令型上位アルゴリズム)」下でしか全く身動きが採れない「下位パラメータ(一定チューニングが可能な部品アルゴリズム)」と化している様に見えるのかも知れない。w

しかし、このようにある意味で素朴な「AI‐IOTを巡る日本の後進的な社会・経済環境」を尻目に、グローバル世界は,AI『人間の壁』に因る格差拡大との闘いに関わる「新たな転相の局面」へと向かいつつあるようだ(無論、アナクロな米国トランプ現象の如き揺り戻しに襲われつつあるのも確かではあるが、そのような意味での大きな潮流は変わらぬだろう、と思われる) 

<注>AI『人間の壁』に因る格差拡大との闘いに関わる「新たな転相の局面」とは?・・・それは、今や世界が<『“AI‐Web機械経済”がベースであるデジタル社会構造を無条件に是認する立場』Vs『クワイン、ガダマー、マクダウエルらアナログの“意味の全体論”を重視する立場/当記事でふれてきた!』>の激しい論争の場と化しつつあるということ。別に言えば、それは「世界が文化・経済・自然科学トータルのあり方(新たな倫理観念の創造)を巡る、本格的な知的闘争(あるいは啓蒙ルネサンス)の時代に入りつつあることを意味する。

既に、『人間の壁』の問題については当記事の中で再三ふれてきたが、上で見るような意味での新しい倫理、「リアイズム倫理」(@マクダウエル、@マルクス・ガブリエル)を理解するための大前提となることでもあるので、若干の補足も加えつつ、以下にその概要を改めて取りまとめておく。また、この新しい「リアリズム倫理」を簡潔に表現した言葉としては、マルクス・ガブリエルの「外界の思考」(『5章‐(2)』)が」特に重要と思われる

まさにそれこそが農業経済史を専門とされる京都大学人文科学研究所の藤原辰史・準教授が言う【歴史に学ばず、現場を知らず、統率力なき言葉】(JPNルイ16世ゼロサムファシスト)に対する厳しい批判!)の「現場」と共鳴するからだ。しかも、それは当記事の基調に据えた「カール・メンガーからミーゼス経由でシュンペーターへと流れるオーストリアンの伝統、エトノス生態系orエコロジー」とほぼ重なっており、その培地でこそ「メンガーが既に見ていた「日常(生活)における潜性デュナミス生産性」が未生の芽を吹く(無限にエネルゲイア化する)のである

・・・

『人間の壁1』

・・・そもそもは、準汎用AIロボが本格化する(と思われる)近未来に実現すると予測される<機械生産性(デュナミス潜在生産性)vsヒトの生産性(リアル生産性)>の大きな壁(大格差)の発生を意味する。無論、機械生産性と労働生産性の格差に限定すれば、それは既に産業革命以降に起こってきたことである。

・・・つまり、機械の生産力がヒトの生産力を遥かに凌駕するのは、そもそも第一次産業革命(蒸気機関 の発明)以来のことなのでそれはIT(AI)革命の専売特許ではないが、そのAI機械の高度生産性が従来型の機械生産性を遥かに大きく桁違いに上回ることになるということだ。

・・・従って、何らかのマクロ政策的な(例えばベーシックインカム(BI)のような)意味での相転換で、前者の高度機械生産性を後者(ヒトの生活に直接的に役立つリアル・マネー、エネルゲイア)へ適切に転送(再分配化)する工夫を怠れば、益々、貧富の格差は拡がる事態となり、遂には資本主義そのものが終焉する可能性すらある(Great Decouplingの病死/委細参照 ⇒https://toxandoria.hatenadiary.jp/entry/2019/03/05/153938)。

『人間の壁2』

・・・これは、<「リアル経済」(ヒトの生活に直接的に役立つリアル・マネー)の可能性(伝統経済が定義する生産性の意味)が地球の自然・文化エトノス環境に対し開かれているの(開放系であること)に対し、ビッグデータに基づく「AI機械計算またはディープラーニングの予測値」が閉じている(電子的作動であるため、それは衣食住のリアル世界に生きるヒトとは異次元の形式知ワールドであるが、その意味でマイペースの閉鎖的な抽象体系である)こと>、という意味での大きな断絶が存在することを意味する。(委細参照⇒第三章『想定上の完全AIアンドロイドはなぜ胡散臭いのか?・・・』(仮説))

・・・誤解される可能性を恐れずに思い切り短くすれば、結局、それは「AI形式知ワールド/その終着駅がシンギュラリティ妄想?!」Vs「ヒト暗黙知ワールド」の“絶対的な断絶”ということである。しかも、これは言うまでもないことだが、『人間の壁1』がもたらす高度生産性の内側に( )書きの如くにそれは内包され続けていることになる。故に、だからこそ「外界の思考/リアリズム倫理」が必須!ということになる。

(補遺)ハイエクフリードマン新自由主義の「聖人」達(日本では竹中平蔵ら?w)の思惑とは異なり持続すべき資本主義の培地は<エトノス「感情の海」=外界

の思考>を揺蕩う「99%派“凡人”の日常」にある

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 https://twitter.com/masaru_kaneko/status/1269076937013514240

http://twitter.com/tadanoossan2/status/12714012858732818944f:id:toxandoria:20200612202622p:plain

http://twitter.com/tadanoossan2/status/12714012858732818944

・・・それは日常に潜む「凡人の保障された言明の希望(可能性)@デューイ/“凡ゆる言明記録の保全こそが必須”という格率と表裏の関係にある!そが、米国デュー・プロセスのベースにあるプラグマティズム法思想(ヒューリスティクス、いわば限定合理主義)の伝統の核心であり、同時にそれは、ポスト「トランプ&アベ(JPNルイ16世ファッショ2.0:ゼロサムファシストたち)」の世界における啓蒙思想ルネサンスの契機ともなり得ると考えられるからだ。・・・

 

・・・モネの連作『ルーアン大聖堂』なる作品なかに“外界の思考”を見据えていたフランスの政治家ジョルジュ・クレマンソーの慧眼・・・

 

Clemenceau, Georges Benjamin : Cおよそ100年以上も前に、<エトノス「感情の海」=外界の思考、視界の多様性>の視覚化をモネの連作『ルーアン大聖堂』なる作品なかに見据えていたフランスの政治家ジョルジュ・クレマンソーは、自ら主宰する『ラ・ジュスティス』紙 1895 年 5月 20 日号の第一面に 「大聖堂の革命」なる賛辞を掲載し、そのモネの「外界の思考」(周辺の自然エトノス環境と交感・共鳴し、そして刻々と流れる時間に伴いながら多様に変化し続ける大聖堂の“光と色彩の印象”)を見事に文章化している(画像は、https://www.armedconflicts.com/Clemenceau-Georges-Benjamin-t31156 より)。

因みに、左派から保守派へ転向した政治家で、ジャーナリストでもあったジョルジュ・クレマンソー(Georges B. Clemenceau/1841 - 1929)は、優れた文章家でもあり印象派芸術家たちの中でも特にモネの最も信頼に足る友人でもあった。以下は、下記★の部分転載である。

★原典史料翻訳/ジョルジュ・クレマンソー「大聖堂の革命」(『ラ・ジュスティス』、1895 年5月20日号より)岡坂桜子:Aspects of Problems in Western Art History, vol.10, 2012 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009577594

・・・

・・・前、略・・・印象主義者たちの登場を以て、ついに光の至上性が確立される。光は炸裂し、存在するものを浸食し、 征服者然として幅を利かせて世界を支配している。それは、印象主義の栄光への踏み台であり、彼らが勝利するための手段であるのだ。  今日の眼が昨日の眼とは異なる世界を捉えるということを、もはや誰が理解しないと言うのだろうか。長きにわたる努力の末に、眼は、はじめは薄暗く、そしていまとなっては光り輝く自然を発見した。それだけで はない。我々の視覚能力の究極の進化によって、見る〔という行為〕が洗練されたとき、どれほどの喜びが 待ち構えているのか、知る由もない。  ひなげし畑を前に 3 枚の画布を並べるモネが、太陽の動きに応じてパレットを取り替えるのを目にしたとき、 私は、不動の主体〔モネ〕が光の流動性を強く際立たせるだけ一層、その描写が光を正確に捉えたもので あるという印象を受けた。  これは、見る、感じる、表現する〔という行為に関する〕新たな方法が開始された革命であったのだ。3 本の楡の若木で縁取られたひなげし畑は、事物の表現方法においてのみならず、その知覚の方法においても時代を画したのである。・・・途中、略・・・

・・・途中、略・・・20 の光の状態を巧みに選び取っている20 枚の画布(この時点では30作品の中の20点まで完成していた/補。toxanoria)は、完璧な展開の中で、整列し、分類され、補完し合っている。偉大な太陽の目撃者たるこのモニュメントは、空に向かってその圧倒的なマッスの上昇感を突きつ け、太陽と対峙している。〔大聖堂という〕マッスの深部、突出部、明瞭な襞、あるいは鋭い稜線部分にお いて、無限の空間から押し寄せる陽光の巨大な流れは砕け散り、光のプリズムとなって石に衝突し、あるい は灰暗く和らいだ波と化している。この〔陽光と石造建築の〕出会いから生み出されるのは、生命のある一日、 すなわち、黒、灰色、白、青、深紅〔と姿を変える〕日々である。これらすべての色彩が輝きの中で燃え、 デュランティの言葉を借りれば、「7 つのプリズム光が、無色の輝きすなわち光へと融合する光の統一体に還元されてゆく」。  ありのままの姿で壁に掛けられた 20 枚の画布は、我々にとって、見事な 20 通りの新事実であるが、各々 の画布が結びついてできる密接な関連性は、鑑賞者から瞬く間に逃れてしまうことを、私は危惧している。各々の役割に応じて並べられた画布は、芸術と現象の完璧なる等価性を出現させている。まさに、奇跡である。 20 枚が、今日のように大きな 4 つの壁に並べられているのを、ただし光の状態の順に並んでいるのを想像してほしい。灰色のグループから始まる大きな黒のマッスは、絶えず明るくなり続け、白のグループは、ぼやけ た明るさからはっきりとしたまばゆさへと移行し、それが続いて虹色のグループにおいて完成を見る。そしてそのまばゆい光は、青のグループの静寂の中で和らぎ、崇高な紺碧の靄の中へと消えてゆくのである。  さて、視線を大きくぐるりと巡らせることによって、あなたがたは朦朧としながら、この驚くべき知覚体験をされることだろう。灰色の大聖堂は、金色を帯びた緋色もしくは紺碧となる。きらめく柱廊を備える白い大聖堂は、緑、赤、青の光彩で溢れている。虹色の大聖堂は、回転するプリズムを通して眺めているようである。青い大聖堂は、赤色でもあり、不意に永続的なヴィジョンを与えてくれることだろう。これらは、太 陽の大きなサイクルの中にあって常に変わらぬ大聖堂の、もはや 20とは言わず、百、千、一万通りの姿で ある。これがまさに、生命そのものということになろう。最も強烈な現実の中で我々に与えられ得る感覚のよ うなものなのだ。芸術の究極の完全性は、これまで達成されてこなかった。 * * * これが、私がモネの大聖堂に見出したものであり、デュラン=リュエルが 20 枚を並べ、連作全体の調和の 中で感じ取らせ理解させようと目指したところである。カタログが伝えるところによれば、とある素人がこの 連作の中から、特に魅了された 1 点を購入し、また別の素人も別の 1 点を購入しているということだ。一体なぜだろう! 漠然とでも構わないから、これら20 の大聖堂が並べられている意味を理解し、株券を一束買うように、「私がそれ一式を購入しよう」と申し出る億万長者は現れないのだろうか。だからロトシルトのやることに嫌悪感を覚えるのだ。・・・以下、略・・・(完)

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