toxandoria:旧「toxandoriaの日記」

W,Ⅴ.O.クワインによれば、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る知識や信念の総体は周縁部(フリンジ)でのみ経験と接する人工の構築物ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされ、この描像の下で理論(又はイデオローグ)と合致しない観察結果が得られたとき生ずるのは何らかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分であり、そこには多くの選択の余地(つまり無限の可能性が絶えず拓ける状態)がある。中山康雄著『科学哲学』(人文書院)

■啓蒙思想初期に周知!のタナトスはヒトの共有エルゴンi.e.その悪の情念の天敵はアナログモーダル(健全なヒトの意識)!先行把握の身体知で新しい「社会構成」への展相が急務(4/5)

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Alfred Sisley 「サン=マルタン運河の眺め/View of the Canal Saint-Martin」1870 50 x 65 cm Musée d'Orsay, Paris, France /https://www.wikiart.org/en/alfred-sisley/view-of-the-canal-saint-martin-1870 

啓蒙思想初期に周知!のタナトスはヒトの共有エルゴンi.e.その悪の情念の天敵はアナログモーダル(健全なヒトの意識)!先行把握の身体知で新しい「社会構成」への展相が急務(4/5)

4 [アナログモーダルからの俯瞰]AI‐DL社会化を補完するアナログモーダル認知、…

・・・i.e. オミクス「社会構成意識」への展相(Potenz)のための環境条件の整理・・・

・・・アナログモーダル認知の時代に相応しく、旧来の「社会構成意識」からオミクス「社会構成意識」への展相(Potenz)のため必須となる条件を探るため以下では資料↓■に従いつつ[(1)科学論と社会学における「構成主義」の違い、(2)ルーマン作動実在論の限界、(3)アナログモーダル認知:フーコー「真理論」の画期、フーコー「真理と裁判形態の問題」]について各「課題」のポイントを整理する・・・

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■松村一志『エビデンス社会学-証言の消滅と真理の現在-』(青土社https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784791774326

(1)[アナログモーダルからの俯瞰1]科学論と社会学における「構成主義」の違い

・・・科学論の「構成主義」(Constructivism)とは?・・・

社会学における場合と異なり、科学論において採られる「社会構成主義」(人が議論して存在すると考えるから物事は存在するという考え方)の研究手法(換言すれば、そこで一定の概念をミクロ→マクロへ構想すること)の特色は“具体的な実験環境に関わるフィールドワークについて観察と考察”が行われる点にある

また、社会学においては社会構成主義(Social Constructivism)と社会構築主義(Social Constructionism)は明確に区分されず議論されることが多い。つまり、そこでは共に「人間の対話と議論における最小パーツ(社会の最小構成部品)と見るべき言説(言語)の交流(交換)の結果として物事(リアル社会現象/事実、実態、意味らの謂い)が存在する。それらは言語的に構成または構築されている、言い換えれば、そこでは「“部品言語”還元主義」的に(社会的リアルの最小単位を言語(部品言語)と見なすこと)にしている。

一方、科学論では同じこと(ポスト『ヴィトゲンシュタイン言語論的展開』の一般言語を理解するという意味でのリアル認識を「構築主義」と原則的には呼ばない。科学論で「構築主義」(Constructionism)と呼ぶ場合は、『“言語以前の実在=一般言語である“部品言語”以前の実在”へ更に遡及しつつ還元するという意味での言語解釈』でリアル実在を組み立てるという意味で、そう(Constructionism)と呼ぶことになる。

換言すれば、[科学論で「構成主義( Constructivism)」と言う場合は「一般から(→)自然(分子、原子、素粒子ら物質的実在という、言語以前の更なる根源的な実在)」へ、更に還元するというニュアンスで「それ」を理解していることになる

また、科学論の「構成主義」(Constructivism/『“言語以前の自然科学的な実在”が視野に入る言語解釈』]における“言語以前の実在”とは“言語”を構築する単位となる更にミクロな部品“言語”、又は更なる“言語”の部品たる実在、その究極の核心はマックス・テグマーク『数学的な宇宙』が言うところの数学、 又は『数理経済学者・宇沢弘文が言う“数学の本来性”、或いはメイヤスー“一次的性質としての数学” i.e.絶対的エビデンスたる数学』と理解できるかもしれない。Cf. https://note.com/toxandoria2/n/n4ea0f2eba0e6

同じく、上の「構成主義」(Constructivism/『“言語以前の実在”へ還元する意味での言語解釈』における[・・・還元する意味での言語解釈』]の部分は、[・・・絶えざる“内外世界(空間)との相互交流&還元”作用という意味で“多元的”な言語解釈、すなわちそれは「“オミクス生命論”の意味で内外環境世界たる外部環境との間で無限に入れ子的、共鳴的に持続・作動する相互作用とも見える生命交流圏と物性交流圏 or 抽象界たる数学圏を繋ぐ最広義のコミュニケ―ション解釈](Cf.↓★)と理解できるかもしれない

★「オミクス生命論」の核心となる[情報分子トランスオミクス(多階層オミクス情報研究)/東京大学・黒田真也:大学院理学系研究科教授、https://bit.ly/3I3seDH]」は、古澤満『不均衡変異モデル(Disparity Evolutionの根幹となるモデル)』のリアルなカギであり、同時にその「DNA次元における内外諸環境(マクロ・ミクロ)の双方交流の影響を重視する」という古澤仮説(不均衡進化理論https://bit.ly/3bxA9hqと共鳴する非常に重要な研究である。https://note.com/toxandoria2/n/n4ea0f2eba0e6

更に、この[“オミクス生命論”的な意味で内外の環境世界たる外部環境との間で無限に入れ子的に持続する相互作用とも見える最広義のコミュニケ―ション解釈]は、結び目理論で無限に拡がっているという、しかもその一部が我われの三次元空間における極小曲面としてリアルに観察(科学実験を含む)される「なんらかのエネルギーが最小または極小となる“物性物理、または数理論的な状態」として表現し得る、あの変分原理をも連想させるのが興味深い(Cf. …ditto↑… https://note.com/toxandoria2/n/n4ea0f2eba0e6)。

つまり、このことは「我々の存在を条件づける空間そのものが多次元の入子構造(あるいは結び目(結び目理論))による結びつきの構造であることを暗示しているようだ。因みに、この科学論の[構成主義/Constructivism]における、宇沢弘文“数学の本来性”、Q.メイヤスー“一次的性質としての数学”、マックス・テグマークの“凡ゆるリアル存在の根源としての数学”と極小曲面(変分原理)の問題は、下のブログ記事★でも取り上げている。

同じく、上の[社会学における社会構成主義(Social Constructivism)、又は社会構築主義(Social Constructionism)]と、[科学論の構成主義(Constructivism)]は、同じく下記ブログ記事★でもふれており、それは“心の哲学”者、Ⅾ.ディヴィドソンの用語である[「理由の空間」(前者に対応)と「原因の空間」(後者に対応)」に、それぞれ対応していると考えられる

★1 「リアル意識(感性・知性)Vs 実在(自然)」での地球誕生ら「メイヤスーの祖先以前性」の覚醒と、「リアリズム倫理」即ち“理由の空間”の展相(ポテンツ)の二点を喚起するのが“原因の空間”たる数学!∴ コンシリエンスこそが必須!https://note.com/toxandoria2/n/n4ea0f2eba0e6

★2  科学と倫理の距離は近い!/大格差、人間の壁がDX肥大症化!「リーン高度生産性Vs伝統労働力」はAI構造災に非ず重力・変分原理ら科学「知」に関わる根本的な誤謬 or 作為(Pseudo)の人災!https://note.com/toxandoria2/n/n7f729d5bf46c

(2)[アナログモーダルからの俯瞰2]ルーマン作動実在論の限界、それは「アナログモーダル理論が必須!」への予兆

・・・ニクラス・ルーマンの「科学システム論」は、当書(↑■)の著者によれば、“真理の内発的”進化過程の一歩)に位置付けられる。・・・

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ニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann/1927-1998/ドイツの社会学者/ルーマンの画像↑は、https://wiki.acervolima.com/niklas-luhmann/より)は、1984年に『社会システム理論』(Soziale Systeme=社会の諸システム)を発表した。そこでオートポイエーシス論を導入したルーマンは、その「只の機械主義(アロポイエーシス/allopoiesis/異種産出)を脱した疑似生命論でもあるオートポイエーシス(autopoiesis/自己創出論)」によって、旧来の“科学システム理論”の水準をも脱し、それなりに「真理/虚偽」の二値を客観的に扱う「視座」の特権を得た。

しかし、一方でニクラス・ルーマンの「真理の科学化」(社会システムの作動実在論)は、未だに社会学の内発的な社会的「機能分化論」に止まっており、そのままでは真に「ヒトのアナログモーダル意識のために有意な身体化された認知」(現代のオミクス生命論の水準)へは到達していなかった

(3)[アナログモーダルからの俯瞰3]アナログモーダル認知

・・・アナログモーダル認知1/オミクス生命論への道程1:フーコー「真理知」なる画期・・・

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同じく当書(↑■)の著者によれば、フーコーMichel Foucault/1926 – 1984/フランスの哲学者、思想史家/フーコーの画像↑は、ウイキより)の「真理論」は、ほぼ同時代のニクラス・ルーマンの社会的「作動実在論」の限界を乗り越えているという意味で、近代社会における「真理の科学化」(それによる非科学的真理の駆逐)の過程をより深く読み解き、更に科学の客観的な視座のための特権性を強化していた。・・・

しかも、[フーコーの「真理の科学化」=単なる社会的「作動実在論」の強化]と理解すれば短絡である。それは、フーコーの緻密で、かつ新しい[社会学的想像力/『言表(言語表現)、言説(言表グループ)、アルシーブ』]には、古典的知識社会学モデルを根底から解体し、真に生命論的な「真理の科学化」を打ち立てる意図があるからだ。

[参考]フーコーのアルシーブとは?・・・Cf.[QT/アルシーヴは、言葉から連想されるような、一般的な意味での知的成果品の収蔵庫や図書館(i.e.一般的な意味でのアーカイブ)のようなものではなく、同時代のすべての言語行為を成り立たせる、より広く内外の環境に開いた枠組のようなものとして設定されており、エピステーメーのように一定の知識の定義として明示されている訳ではない。広く暗示されているだけである。:ブログ・知の快楽https://bit.ly/3mpbv4G

・・・

例えば、フーコーは「狂気」を歴史化(歴史的に客観視)したので「狂気の不在」を説くと思われ易いが、このような理解は短絡であろうそれは、フーコーの問題意識が「狂気の虚構性」ではなく、「狂気の現実性(実在)」にこそあるからだより厳密に言えば、狂気の内容そのものは虚構であるとしても“狂気が憑依した狂人はリアル実在である”と見るべきかも?)。

ともかくも、換言すれば心霊、カルト、ホメオパシーらとはまったく異なり、リアル生命の一側面が「狂気」(例えば、政治的“せん妄”とも見える“プーチン戦争の出現”の類い(安倍晋三“現象”、トランプ“現象”ら不可解なポストトウルース派の出現も然り?!)などは狂気の恐るべきリアルインカーネーション)に他ならないから(i.e.このような客観的“理解”のフレームがフーコーのアルシーブ!?)であることになるだろう

つまり、D.ディヴィドソンの「理由の空間」(https://bit.ly/3MtotZN)にありながらも、たとえば「狂気、ポストトウルース派」など“ある種”の不可解な対象は社会理論(社会学、科学論ら)またはアカデミズムの領域に組み込まれ、正当な批判の光に照らされてこそ初めて現実性を獲得し、有意でリアルな健全化への道筋も見えてくるものだということになる

だから、未だ社会的(社会論的)に「構成」(or構築)されていないからといって、それが「存在しない」訳ではない。又、このことは、フーコーが「反-反実在論≒メイヤスー、M.ガブリエルらの新実在論」へ、(もっと言えば、フーコーこそ現代的な意味で身体化されたアナログモーダル認知(ヒューマンなリアル・オミクス生命論の視座)へ最接近していることを示しているともいえるだろう。

・・・アナログモーダル認知2/オミクス生命論への道程2:「真理と裁判形態」の問題・・・

・・・注目すべきはフーコーの[1973年の講演「真理と裁判形態」]http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/thesis2/d1/D1007630.pdfで、それによれば「真理の科学化」(この場合は、『真理/虚偽』を決定する手続きの意味)には「内発する歴史(真理の内発する歴史)」と「外発的な歴史(真理の外発的な歴史)」という二つの流れがある。そして、この二つは「ルーマンの真理論」(前者、つまり一定のシステム内における作動実在論)と「フーコーの真理論」(後者、つまり真にオミクス生命論的な『真理』の科学化)にそれぞれ、より強く対応すると考えられる。・・・

既に見たとおり、ルーマンの作動実在論(科学システム論)には一定の限界があるそれは、ルーマンの科学システム論(真理と虚偽の判別システム)が、その判別の手続きの場を「科学システム」の内部に限定し、その外部(一見では非合理なものごとに満ち溢れた世界)を無視したことに因る他方、フーコーは、ルーマンと同じく「反-反実在論」(新実在論)の立場ながらも「真理のゲーム」と名付けた「真理の科学化」(人間的な総合“証言”)への遥かに柔軟なビジョンを打ち出した

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そのフーコーの方法の真骨頂と見るべきは、既述の[1973年の講演「真理と裁判形態」]で発表されたものであり、それは「社会学的想像力/言表(言語表現)、言説(言表グループ)、アルシーブ(既述のとおり、より広く内外の環境に開いた枠組のような、暗示された知の領域)」なる言説分析のプロセスである。そして、これは、「20C初頭以前の科学」が「法廷」という「真理のゲーム」から、その手続きを取り入れていたものであった上掲書の著者・松村一志氏によれば、スティーヴン・シェイピン(Steven Shapin/1943‐/英国出身、米国で活躍する科学史家・科学社会学者・科学論者であり科学知識の歴史社会学をリードする人物/シェイピンの画像↑は、ウイキより/https://en.wikipedia.org/wiki/Steven_Shapinも同様の主張をしている

[補足]松村一志氏が、著書『エビデンス社会学―証言の消滅と真理の現在―』(青土社)の中で言う「裁判のレトリックの消滅」について

・・・これは、凡よそ19C末~20C初め頃から、それまで<公式な科学言語>の中で使われていた「裁判のレトリック表現」が消滅し始めたことを指す

・・・そして、いわば「数学の本来性、i.e. 現在で言えば、Q.メイヤスーの“事物を説明する数学の一次的性質”」こそは公式な科学言語の保証人の役目を担い得るということが、その頃から次第に遍く理解されるようになっていたことを、その理由の一つと考えても良さそうである。なお、“数学の本来性”は数理経済学者・宇沢弘文の言葉であるhttps://bit.ly/390Lo0Q

・・・別に言えば、それは19C末~20C初め頃から数学、および数学周辺の確率論、統計学、測定・計量学(測定術)など、すなわち「真理の科学化ヴァージョン2」の環境条件が科学それ自体の進化と相まって深化してきたことにも関係があると考えられる

・・・現下の「リアル裁判のエビデンス全消滅!の超リスク」(↓◆)の問題は、この「19C末~20C初め頃から、公式な科学言語の中で使われていた「裁判のレトリック表現」が消滅し始めたこと」とは無関係なことである。

◆【エビデンス消滅の危機!】IT弱者の置き去り問題に止めず、リアリズム倫理&ヒューマンな証言が必須!の時代にリアル裁判の「証拠et証言」全消滅!の超リスクを見逃すな!刑事では更に深刻!→IT化、変わる民事裁判 ウェブ会議で審理・紙使わず効率化 今日、法案成立518朝日、https://www.asahi.com/articles/DA3S15297171.html https://twitter.com/tadanoossan2/status/1534681602386952192

・・・しかし、今度は此の「IT化、変わる民事裁判 ウェブ会議で審理・紙使わず効率化」ということで肝心の裁判制度そのものが自らにとって肝心要である「裁判のレトリック」までを失いかねぬ超リスクを背負うことになるだろうそればかりか、その超リスクを全ての日本国民が背負わされるはずである。余談ながら「自然計算(数学)≠AI‐DLアルゴリズム」であることも明確に自覚すべきである換言すれば、それは裁判と国民が諸共に<愚かな合理性=AI‐DLアルゴリズム>にソックリ飲み込まれるのに等しいのだ!

・・・更に言えば、それはAI内部にディープラーニングブラックボックスが、i.e.「予測不可の説明不能性」が内生化(寄生)し続けるという恐るべき事態であることを意味する

[参考情報]デジ裁判の先取りかは知らぬが全国民を危機に曝した原発事故の全てを想定外で抽象化!の冷酷判決恰もヒトの概念流動性↓♨を無視してデジタル寄生虫化>へ変態中のAI‐DLアルゴリズムの不条理同然!   →原発事故で国を免責 、想定外に逃げ込む理不尽618朝日社説
https://twitter.com/tadanoossan2/status/1537956077274537984

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♨ ■啓蒙思想初期に周知!のタナトスはヒトの共有エルゴン i.e.その悪の情念の天敵はアナログモーダル!先行把握の身体知で新しい「社会構成」への展相が急務/<注>アナログモーダル=生あるヒトの概念流動性https://note.com/toxandoria2/n/ndf2a223ea56c

https://twitter.com/tadanoossan2/status/1537956077274537984

関連/アナログモーダル情念の海に漂う概念の流動性PSS理論↑♨)と「同等」かそれ以上に重視すべき皮膚の役割!特に#プーチンネオコン・ #トランプ ・ #安倍晋三 ・ #日本会議 ら先制攻撃(常在主戦)論派は必読!       →モンティ・ライマン著『皮膚、人間のすべてを語る 万能の臓器と巡る10章』‐みすず書房‐618朝日

関連/【QT】「自分」が皮膚の内側に隠れていると思ったら大間違い。皮膚こそ、自分そのものであり、つねに私たちを語っている。とくに、アイデンティティとの関連では皮膚の色に格別の関心が置かれがちだが、皮膚はもっとずっと多彩なやり方で私たち自身を形作っている。…

5[アナログモーダルからの俯瞰4]「真の科学時代」に適合する『新たなエビデンス』を求めて

5-1 オミクス生命論に因る「真の科学時代」に適したエビデンスの条件とは?

ところで、同著書エビデンス社会学-証言の消滅と真理の現在-』(青土社)のなかで松村一志氏は以下のように見立てる(同書、p173より部分転載)。

(1)17世紀の段階では、「科学的証拠」は必ずしも特権的な地位(現代科学の意味での)を獲得しておらず、むしろ「法廷証拠」を模倣していた。つまり、この時代の科学的証拠と法的証拠の間には連続性があった。

(2)19世紀には、「科学的証拠」が洗練されていき、やがて「法的証拠」と「科学的証拠」との差異が強調されるようになる。その結果、

(3)「科学的証拠」と「法的証拠」の関係が逆転し、[「法的証拠」が「科学的証拠」に従属]する立場に変わってくる。つまり、[「科学」は「法廷」との結びつきの切り離しを通じて、自らを特別な「真理のゲーム」として構成してきた]と、仮説的に考えることができる。・・・ここで転載終わり・・・

<参考>いわゆる指紋が世界中の人それぞれで異なることが知られるようになったのは1880年の英ヘンリー・ フォールズ(Henry Faulds/1843年6月1日 - 1930年3月19日)は、イギリスの医師、指紋研究者)の学会発表が契機とされる。→「指紋認証の歴史」https://bit.ly/3NwjA3s 

因みに、DNA型鑑定が初めて犯罪事件の捜査に使われたのは1986年にイギリス・ナーバラ地方で起きた強姦殺人事件であるとされる(@ウイキ/https://bit.ly/3s14sT9

・・・

ともかくも、以上の「フーコー“真理の科学化”」から理解できるのは、同じ「真理を探究するゲーム」でありながら、フーコーのそれはルーマンの「作動実在論」の水準を遥かに超えていたと言えることだ。つまり、ルーマンのそれが、「いわゆる只の機械主義(アロポイエーシス/allopoiesis/異種産出)を脱し、たとえそれが疑似生命論(社会構成主義のジャンル)の意味でオートポイエーシス(autopoiesis/自己創出)の“科学システム論”であった」としても、未だルーマンは「“オミクス論”的なアナログモーダルの意義が理解できなかった」という意味である。

言い換えれば「フーコー“真理の科学化”」は、当時において理解できた人文・社会科学の領域にまたがる「生命の多様なコミュニケーション」の諸相を幅広く取り込むという意味で、「ルーマン“真理の科学化”/作動実在論(≒オートポイエーシス)」の“生(生命論)に関わる視座/”を遥かに超えていたことになるCf.↓★。それどころか、それは現代科学知の最先端である「多体問題/互いに相互作用する3体以上からなる系を扱う量子物理・天体物理フィールドの問題https://bit.ly/3OXXmZs )にすら殆ど接近していた可能性がある

★[生権力と死の思想/金森 修・東京大学教育学部教授(哲学)]フーコーの支配の概念、生政治(生権力)とは?・・・この場合、人間を単なる身体として捉えるのではなく、多数の人間を生命(地球上の全生命の一環たる/補、toxandoria)に固有のプロセスの全体、つまり誕生・死・生産・病気などのプロセス(マクロ(古典物理的)・ミクロ(量子力学的)の生の多様なプロセス/補、toxandoria)を備えた大きな塊として捉える。https://bit.ly/3F8OpYD

5-2 [アナログモーダルからの新たな期待]ガダマー『地平の融合』によるAI‐DLアルゴリズム原理主義批判

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・・・ヒトのアナログモーダル意識で、未だ見えない「一歩先」を見続けるための基本的視座/ガダマー( Hans-Georg Gadamer/1900-2002/ドイツの哲学者、解釈学と名づけられた『言語テクストの歴史性に立脚した独自の哲学的アプローチ』で知られる)の画像↑はhttps://www.facebook.com/Hans-Georg-Gadamer-54716731333/ より・・・

(1)ガダマー『地平の融合』の概要

・・・「AI‐DLアルゴリズム原理主義」批判のアナログモーダル意識を保証するガダマー哲学・・・

いま明らかなのは、もし「AI‐DLアルゴリズム原理主義」社会化がもたらす『人間の壁』(本来的にヒトを包摂するリアル生命環境と断絶したAI‐DL高度機械“抽象”生産性がもたらす大格差の定着化)が基本的に何も手を打たず放置され続ければ、やがて、その<GAFA型「差別(選別)化による恐るべき大格差」>が更に深刻化する一方になる!ということだ。

そして、より厳密に見ればその内容は≪人間の壁1≫と≪人間の壁2≫から成るが、≪人間の壁1≫の中に≪人間の壁2≫が内包されている関係(別に言えば、両者は共依存関係/奇しくもコレはディープラーニング内で内生化している共依存関係と入れ子構造的に共鳴している!/更に言えば、惜しくもオミクス生命論、i.e.自然環境への深い気付きさえあれば構造的カップリングへの展相もあり得る!)にあることが理解できる。

換言すれば、この現象はディープラーニングにおけるブラックボックス問題(統計理論上の内生“共依存”による)と呼ばれるものである。つまり、これは伝統的に「AI知識表象/人工知能」研究の中核と見られてきた『物理的シンボルシステム(非感性的シンボルシステム仮説/ PSSH )』による「特徴量」抽出方式の限界!?とも見える(Cf.↓◆/関連“要参照” →第1章‐注目すべき、ローレンスW.バルサルーのアナログモーダル・シンボル理論)。

ディープラーニング(深層学習)のブラックボックス問題と課題/NTT先端技術(株)、https://www.intellilink.co.jp/column/ai/2019/041100.aspx

・・・

ところで、≪人間の壁1≫は、「ヒト本来(労働力)のリアル生産性」と「AI‐DL機械経済化なるデュナミス(潜在的)機械高度生産性」との間で必然的に生じる大格差のこと(適切な分配政策がなければ、両者間の格差解消は不可能!)である。

一方、≪人間の壁2≫は、先ず「準汎用AIの高度機械生産性」の角度から見れば『人間の壁1』の問題そのもの(AI抽象化デュナミス潜勢態、i.e.生命体のヒトにとっては、あくまでも抽象化!)である

しかし、同時に其処では「アナログモーダル感性・感情で日常を生きるヒトは高度デジタル抽象的なビジネス・サービス環境だけでは十分に“感性・感情的”に満足できない(ヒトは何のために生きるのか?)という問題が必ず付随することになる。

つまり、それは<知覚・感覚ひいては感情>こそがヒトの日常言語における固有名(人名・地名ら固有名詞)の一義的な「意義」と概念の形成にさえ先行していると見る、言語哲学で言う「選言説」(https://bit.ly/3zolTSa)の人間観・文化観そのものとの関りが深いと考えられる。

このため、もし此の≪人間の壁≫の問題を「社会政策・経済政策・教育政策」的な意味で放置すれば、事態は更に現況より深刻化すると考えられ、ひいてはその<AI‐DL機械経済化に起因するGAFA型「差別(選別)化による大格差」>が皮肉にも自らの生みの親である「資本主義社会」どころか人間社会(民主主義ベースの現代市民社会)そのものの崩壊をもたらすことが考えられる。

しかし、今となってはランゲ・モデルの証明(社会主義経済計算論争の決着https://bit.ly/3MsIP5sを引き合いに出すまでもなく、我われ人類が市場経済に頼らざるを得ないのであれば、愈々、これからがAI‐DL機械経済化による「デュナミス(潜在的)高度生産性」の時代を生き抜くため知恵を絞り、その<AIのデュナミス生産性>をリアル化(血肉化)してヒトの幸せのため活用できるようになる社会・経済・科学技術などのあり方の方向性について、<哲学的解釈学『真理と方法』の確立で“解釈学”自身の≪見えない部分≫に風穴を開け、ヒトのアナログモーダル知に衝撃的な新風を吹き込んだ>と見るべき「ガダマー哲学における“意味の全体論”」の「知」を真剣に生かすべき時ではないかと思われる。

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そこで、今こそ必須と思われるのがガダマー哲学における『地平の融合』の意義の再確認ということだ。とはいえ、特に日本ではガダマー哲学そのものが未だあまり一般的に理解されているとは言えないようだ。しかし、(全くの個人的な見解だが)ガダマー哲学はAI‐DLアルゴリズム原理主義が持て囃される今の時代であるからこそ、より重要な意味が再確認されつつあるのではないか?とも思われる。・・・以下は、丸山高司著『ガダマー/地平の融合』(講談社ほかを参照しつつ関連するポイントを纏めたものである。

(1)第一フェーズ:ガダマー哲学の揺籃期/哲学的解釈学の成立

ハイデガーから強い影響を受けつつも独自の「哲学的解釈学」を創造し今も現代思想に大きな影響を与えるドイツの哲学者、ハンス・ゲオルク・ガダマー(Hans-Georg Gadamer/1900 - 2002)マールブルク(ドイツの閑静な学都)で誕生した。やがて、ガダマーは父親の仕事の都合でブレスラウ(現在はポーランド東部のブロツラフ)ヘ移り、1918年にブレスラウ大学へ入学した(同年、革命でプロイセンドイツ帝国が崩壊)。

ブロツラフ(ポーランド→ドイツ→ポーランドと変遷)が現代ポーランドの都市の中でも特に寛容な文化の伝統を持つことは知られているが、ガダマーはその寛容な揺籃期の土壌で若い時を過ごした経験があればこそ「“現代”を批判的に診断し、そもそも≪人間とは何か?≫を根底から考え、先験的に、つまり経験を重視しつつも理性に因る普遍性が持続できる冷静なスタンス(静観主義)で、科学技術(および“短絡的”な経済合理主義(Ex.新自由主義)ら)の未来をも視野に入れ現代の危機を克服しようとした」と言えるだろう。

そして、このような特色を持つガダマー哲学が示した『地平の融合』(委細、後述)の視座は、今や≪量子論的世界像&AI‐DLアルゴリズム原理主義”≫の一色で染まったか?にさえ見えつつある現代においても、絶えず近未来への大きな方向性を示し続けることになると思われる。

ところで、やがてブレスラウ大学からガダマーはマールブルク大学へ転入し、そこで学生時代と私講師時代を含め約20年(1919-1939)を過ごすことになる。そのマールブルクフッサール現象学に助手として触れていたハイデガーから決定的に大きな影響を受けたガダマーはハイデガー学派の一人となった。

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カール・レーヴィット

同じハイデガー学派の一人であったカール・レーヴィットハイデガーの筆頭の門下とされる人物/Karl Löwith/1897-1973/ドイツの哲学者、20世紀を代表する哲学史家/画像↑は、https://bit.ly/3H584d4より)は1934年にイタリアへ亡命後(1933年、ヒトラー首相が登場)、更にヒトラーの支配を忌避して1935年に来日し、1941年まで東北大学に在籍したが、やがて日本も安住の地で亡くなりアメリカへ亡命した。しかし、戦後になってからレーヴィットは、1952年にガダマーの呼びかけでハイデルベルクで教授に就任するためドイツへ帰国している。

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ニコライ・ハルトマン

ガダマーはマールブルク大学で当時の主流であった新カント学派のニコライ・ハルトマン(Nicolai Hartmann/1882-1950/後にフッサールに影響を受け新カント派を脱するが、美的対象から表象観念を照射する方法で美の構造を解明した近代美学論が名高い/画像↑は、https://bit.ly/3Q9LJ26より)にも触れているしかし、ガダマーにとり初めて知った頃のハルトマン哲学は“抽象的な只の頭脳遊戯”にしか見えなかった

[注記]ニコライ・ハルトマン『美学(1953)/Ästhetik』
・・・世界構造を「無機物・有機物・心的存在・精神的存在(相互主観性?)」の諸相と理解し、それらが知覚を介する「現象」として直接的に看取される作用構造(ギブソンアフォーダンス理論を連想させる?)から「前景」としての感覚的・実在的」な形象と、「後景」としての非実在的・理念的なものとしての観念的表象、という二層構造を導き出すハルトマンの美的構造を解明する手法(思考方法)は、第1章で既述のジルベール シモンドン「個体の哲学」>および、<「“形式知”(デジタル)たるAIディープラーニング(DL)特徴量」Vs「暗黙知(ヒト/アナログモーダルのジャンル)」の決定的な断絶の問題>との何らかの関りを連想させ、非常に興味深い

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三木 清

因みに、日本で新カント学派の全盛期に触れ、その後ドイツへ留学していた三木 清(1897- 1945/西田左派を含めた京都学派の哲学者/京都帝国大学の時代は西田幾多郎に師事/三木の画像↑はウイキより)がマールブルクハイデガーニコライ・ハルトマンの授業に出席しているが、この時期に三木もガダマーと同じくハイデガー学派に転向したとされる。この時代についての三木とガダマーの回想は一致しているが、彼らに共通するのが「人間存在の歴史性」であった。言い換えれば、それは「生の存在論、ヒトの存在のあり方/哲学的人間学(Philosophische Anthropologie)」とほぼ同義(ガダマーにとっては、これが地平の融合への布石となる)である。

第二次世界大戦後、1946年にライプチヒ大学の学長(東ドイツ)に選出されたガダマーは、そこで優れた“行政手腕とバランス感覚”を発揮したとされるが、翌、1947年にはフランクフルト大学へ移り2年間の在籍となる。そして、たまたまその間にハーバーマスアドルノらの「フランクフルト学派」ができているやがて、ヤスパースの後任としてハイデルベルクに着任したガダマーは諸環境が安定したため、講演・論文などの学術活動に集中し、やがて約10年に及び研究成果を纏めるための沈黙期に入った。そして、1960年に主著『真理と方法』が出版される

(2)第二フェーズ: ガダマー哲学の成立/哲学的解釈学『真理と方法』

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『真理と方法』(Gesammelte Werke:1985–1995 (10 Bände).Band 1. Hermeneutik 1: Wahrheit und Methode: Grundzüge einer philosophischen Hermeneutik)は、1960年に発表されたガダマーの主著であるが、丸山高司『ガダマー/地平の融合』(講談社)の“あとがき”によれば、その第二部の抄訳であるO.ペゲラー編、瀬島 豊・訳『解釈学の根本問題』(晃洋書房)が1977年に出版されたことで、漸く、ガダマー「地平の融合」説が日本の思想界でも広く知られることとなったようだ。

そもそも、思想運動としての解釈学という言葉そのものの由来は古代ギリシャまで遡るが、それには凡そ以下三つの意味、i.e. [(1)言葉で表現すること、(2)同じく遍く異分野の人々の理解のために説明・解釈すること、(3)そして、翻訳・通訳すること]があるが、要するに『意味の不明な言葉や事柄を、より広く理解できる言葉で表現(翻訳)し直し、それを他者へ伝えること』である。そして、その意味での解釈学は“表現の解釈を通してもとの体験を理解”する古典解釈学および文献学、神学、法学らの各分野でそれぞれに発展してきた

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シュライエルマッハー

やがて、19世紀前半にシュライエルマッハー(F. D. E.Schleiermacher/1768 - 1834/ドイツの神学・哲学・文献学者、自由主義神学の先駆者、一般解釈学の開祖/画像↑はウイキより)が新しく「一般解釈学」の構想(理解ないし解釈の作用そのものを普遍化し体系的に理論化するという考え方)を打ち出したことで、漸く解釈学は独立した学問の場としての地位を得る。

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ディルタイ

そして、それを哲学の1ジャンルへ変貌させたのがディルタイ(W. C. L. Dilthey/1833 - 1911/ドイツの精神史家、哲学・美学者、心理学者ディルタイの画像↑はウイキより)とハイデガーであり、その意味でガダマーの仕事はこの二人にその多くを負っている(なお、ディルタイ心理学を精神病理学の世界で継承したのがカール・ヤスパース)。

(3)ディルタイハイデガーを肯定的に克服したガダマー

ここで結論を言ってしまえば、<ヒトの哲学的・存在論的な精神科学の理解においては[自然科学の説明的・構成的方法/いま風に言えば形式知・デジタル知(コレは ベンサムの“量的功利主義”と共鳴する)]ではなく、[分析・記述的な方法(いまで言えば暗黙知・アナログモーダル知で表現する方法(コレは J.S.ミルの“質的功利主義”と共鳴する)]を、より重視するという意味で、ガダマーとディルタイが「生の哲学」を共有するということだ

つまり、それは人間存在の生命論、歴史性、哲学的人間学(Philosophische Anthropologie)の重視という意味でもあるので、その点では、既述の三木 清にも繋がることになる。更に、この論点は現代のマクダウエルの「リアリズム倫理学」にも重なると考えられる(関連参照 →バシュラール「形式的想像力・物質環境的想像力」と深く共鳴するマクダウエル「リアリズム倫理学」の核心(第二の自然)、https://bit.ly/3MzDp8O)。

一方で、シュライエルマッハーのそれが過剰に主観を重視する解釈学であることから、同じ生の哲学を継承しつつも、ガダマーはシュライエルマッハーの解釈学を正統に引き継ぐディルタイを「ロマン主義の“神秘的”解釈学」と名付け批判していた。

しかし、ハイデガーの解釈学を学んだガダマーは、そのハイデガーの「学」としての解釈方法よりも更に精密な論理で批判する手法を創造し、その自らの「適用」(Übernehmen)なる概念でハイデガー解釈学をも肯定的に乗り超えることになる

因みに、ディルタイによる『主観』偏重のロマン主義的な解釈」の特徴は、客観的な「学 」を謳いつつも、その解釈の結果が「文献等への自己移入による追体験で自己の主観と文献に潜む諸主観との間の“神秘的”(理解不能)な“内生的”で妙なる交わりのジャンル」から生まれると考えている点にある

奇しくもここからは、目下、益々、期待が高まりつつあるかに見える人工知能/AIディープラーニング(深層学習)]で、[「特徴量」を抽出するニューラルネットワーク計算の内容の論理的な検証が不能”(i.e.先に述べたばかりの、かの“妙”なる?ブラックボックスによる内生化の極み?)である!]という現実(AI‐DLアルゴリズムなる神秘主義!?/苦w)が連想させられる

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・・・[閉鎖的かつ内生的なAI‐DL‐Blackboxの透過的推論(全体的な説明)だけで結果を急ぐ(出す)のは危ういので、ローカルな部分と全体のバランス i.e.多様性多様な関係性に支持されたアナログモーダル世界の暗黙知)」の視点の確保(関与)こそがヒトに有意なPSSHになり得るそれには数学の活用とヒトの十分な関与による緻密な評価が役立つ事実が理解できた!]ということ? 
 → https://news.mit.edu/2022/machine-learning-explainability-0505

これは、生来の小心者ゆえの只の気のせいか? それとも何ゆえかは定かならずながら、いまや確実に日本社会にも漂い始めた、異様かつ絶対不可知な「アポカリプス」の如き妖しい空気の拡がりに対し、いささか過剰に反応しがちな、ヒトの「アナログモーダル」意識がもたらす、取り越し苦労のジャンルの杞憂なのだろうか?

[注記]J.S.ミル“質的功利主義”とベンサム“量的功利主義”の違い・・・“質的功利主義”(精神的快楽)は、“量的功利主義”(身体的快楽)よりも永続性・安定性・低費用性などの点で優れているので、J.S.ミル“質的功利主義”はベンサム“量的功利主義”よりも、ヒトのためのリアルな質(適度で中庸な快楽)を重視するという条件を付けることになるが、ヒトにとっては、より優れた価値の高い快楽であると考えられる(https://bit.ly/3O4MFCZ)。また、それ故に此の問題は、現下の<総AI‐DLアルゴリズム化(or AI‐DXリーン)>時代における、『人間の壁1,2/止まることを知らぬ?“格差”拡大』とも非常に深く係わる、と考えられる。

(4)ハイデガー解釈学の前提条件/ガダマーに与えた『存在と時間』の衝撃 

これは一つの見方にすぎないが、「マッハ感覚論的素材性(エトノス&感情の海を漂うエネルゲイア)がその切り口であると理解できる自己自身をふくむ現存在(Dasein/いま目前にある生のリアルとしての存在)を重視するガダマーは、[ハイデガーの「先入見」と「解釈学的状況」]に出会ったことにより、自ら(ガダマー自身)が、今まではただ内生的な「被解釈性」の内側を動いていたにすぎなかったということを深く思い知らされたはずである

それは、今まで「主体的かつ客観的に自分が解釈していると思い込んできたのだが、実は個体生命・自然環境・歴史らを含む内外(ミクロ・マクロ)の両環境を志向する視座から見れば、我われは、ある文脈について閉鎖的な解釈を常に受動的に強いられていたのだ」という厳然たる現実について、ハイデガーの内外に向けて開かれた「先入見」と「解釈学的状況」という思想(既述した『フーコーの“アルシーブによるリアリズム解釈”の問題意識』ともほぼ重なる!?)に出会ったことで、ガダマー自身が大きな衝撃を伴いつつ覚醒させられた!と考えられるからである

[補足]【ハイデガー哲学の核心】の問題については、下のブログ記事◆の[第1章- D.デイヴィッドソン「トークン同一説」/非法則的一元論)の再評価/<注>【ハイデガー哲学“慧眼”の核心】]の部分を参照乞う

◆「リアル意識(感性・知性)Vs 実在(自然)」での地球誕生ら「メイヤスーの祖先以前性」の覚醒と、「リアリズム倫理」即ち“理由の空間”の展相(ポテンツ)の二点を喚起するのが“原因の空間”たる数学!∴ コンシリエンスこそが必須!https://note.com/toxandoria2/n/n4ea0f2eba0e6